第九話 抱くか、運ぶか(11F→12F)
十一階の廊下は、夜の名残りをまだ手放していなかった。天井の白は灰に沈み、壁紙は湿り気で重く垂れている。窓は一枚きりで、そのビニールは角からはがれかけ、薄い風と臭いだけを通した。床に広がる水は浅い。けれど、靴底はいつもより深く沈む気がする。沈むたびに、今の重さがはっきりした。
灯は海晴を胸に抱え、腕の角度を細かく変えた。赤ん坊の体温は、濡れた空気の中でも確かだ。その熱は、抱く人の両手を奪う。奪われると、運べる荷が減る。それは仕方がない事実で、同時に列の速度を削る現実でもある。
「抱くは優先。抱くを邪魔しない段取りに切り替える」
灯は短く宣言し、残っている荷を配り直した。
「熊谷、保冷箱と水。海斗、ロープと工具。砂原、名簿と鍵の控え。鴫原さんは鍵束本体。陸は前方で段差の確認。紗耶さんはお父さんの呼吸カウントと視線の安定。結衣、保温のチェックと最後尾」
「了解」
返事は小さく、まとまっていた。小さくても揃えば進む。揃っていれば、迷いがあっても進める。
陸は先頭へ出て、テープを巻いた手で手すりを叩く。叩けば段の角が見える。見えるなら、足は迷わない。けれど、彼の手のひらはすでに破れていた。テープの下の皮膚が剥け、汗と消毒液でずっとしみている。彼は痛みをごまかさない。痛みをごまかす余裕が、ここにはないと知っているからだ。代わりに、痛みを段取りの中へ溶かす。
「手のひら、替えのテープ出す?」
海斗が訊く。
「あと一回分なら耐える。段差が変わったら貼り替える」
「変わらなくても貼り替えたい」
「じゃあ、変わったことにしよう」
短いやり取りが、列に乾いた笑いをひとつ落とした。笑いは足場になる。足場は一歩ぶんで十分だ。
紗耶の父は、椅子に座ったまま目を閉じている。呼気のたびに口元の色が薄くなって戻る。その往復を紗耶は見続ける。数を数え、指で拍を取る。四で吸って、六で吐く。自分の声を耳で聞き、自分の声で落ちつく。声は彼女のためにもある。
やがて彼女は、誰にも聞こえない低さで呟いた。
「私が父を置けば、他の人が助かるのか」
自問は毒でもあり、鎮痛でもある。考えることで痛みを鈍くして、同時に血を流す。血は見えないが、考えた分だけ確かに減る。
砂原は、その横顔だけを見て口を開いた。瞬きより短い間だけ目を伏せ、それから低く言う。
「名簿は、感情の罪悪感を移譲するための道具ではない。順番の紙だ。責任を置き換える紙じゃない」
「でも」
結衣が後ろから言う。声は柔らかいが、芯がある。
「罪悪感を持てるうちは、まだ人間だよ。順番で全部守れないから、罪悪感で残る線もある」
砂原は黙った。黙る時間は短い。短い中で、彼は名簿の角を指で押さえ直し、紙の位置を列の中心に寄せた。紙は列の軸だ。軸が歪めば、人の力で補う。
犬は静かだった。少女はスリングの中のヨリの耳を撫でる。指先は濡れているのに、撫で方は乾いている。落ち着いていて、正確だ。誰かの手は、誰かを慰めるために空く。空いた手は数では表せないが、列を支える。
「上がるよ」
灯が言う。海晴が小さく動いた。泣き声はない。胸の上下は規則的で、体の熱は安定している。灯は赤ん坊の頬に触れて確認し、腕の角度を少し変えた。
十一階から十二階への階段は、ところどころで段鼻の白が残っていた。残った部分は滑る。白いが、信じてはいけない白だ。陸が先に足を置き、角の位置と手すりの距離を当てる。海斗はその一段下でロープの弛みを取り、熊谷は保冷箱を腰で押し上げる。鴫原は鍵束を鳴らさずに握り、砂原は紙の端を濡らさないよう胸の前で掲げた。
踊り場で、喘息の青年が呼吸を浅くした。灯は紙コップのスペーサーを当て、ゆっくり吸わせる。海斗が背中に手を添え、肋骨の下を押し上げる。青年の目に焦りがあった。焦りを押さえるのは励ましではない。具体だ。灯は言葉を短く切った。
「吸って。止めて。吐いて。もう一回」
青年は頷き、数回で波を越えた。越えたら、また同じ波が来る。それでも、越え方を覚えれば、次の波は少しだけ低くなる。
十二階の踊り場が近づくにつれて、音が変わった。風の低音に、別の音が混じる。遠くで回る翼の音。誰かが顔を上げ、双眼鏡を求めるように手を伸ばした。少女が自分の肩から紐を外し、双眼鏡を結衣へ渡す。
結衣が覗く。濁った空に、米粒みたいな影がひとつ、点滅とともに浮いている。遠い。けれど、来ないものを見ている目ではない。来るものを見ている目だ。
「見える」
彼女の声は小さいのに、踊り場の空気が一段軽くなった。軽くなると同時に、足が止まりかける。灯は止めない。止めないために、言葉を少し早めた。
「踊り場まで。そこから確認」
踊り場へ出ると、外の風が薄く強く入った。ビルの谷間で反響する音が、数秒ごとに厚みを増す。熊谷が窓際へ行き、外階段の注意書きにこびりついた泥を拭った。泥の下から、薄い文字が浮かぶ。
「ヘリポート使用上の注意。屋上ドア、原則開放厳禁。保持者を置け。風向きに注意」
読み上げ終えたとき、彼の声に被さるように、かすれた無線の音が聞こえた。どこかの部屋から残ったトランシーバーか、救助隊の拡声の漏れか。断片的な日本語が風の切れ目に飛んでくる。
「……燃料……天候……着陸一回……滞在数分……」
誰かが息を飲む音がした。数秒の静寂。その後、砂原が名簿の紙に視線を落とし、顔を上げる。顔色は変わっていないが、目の奥で数字が現実に変わる。
「乗れるのは四人か五人」
「四人にする」
灯が即答した。余裕を削るほうが、段取りは速い。速いほうが、次の機会をつなげる。
「一、海晴。二、美桜。三、陸。四、紗耶……」
言いかけて、灯は自分の声で止まった。止めた理由を、彼女はわかっている。自分で止めたのに、胸の奥が熱くなる。紗耶が首を横に振った。静かに、はっきり。
「私は残る。父を連れては、乗れない」
「もう一機を待つ保証はない」
砂原が言う。声は抑えられている。焦りを出さないためだ。
「わかってる。わかってるけど」
紗耶は父の肩に手を置き、呼吸に合わせて押した。押す力は弱くない。彼女の視線は揺れない。揺れないときの目は、強い。
「順番は、残る覚悟と一緒に決める」
海斗が言った。言いながら、透明の容器を胸の高さに掲げる。容器の中の鍵が黒く光る。鍵の在処は金属ではない。視線の中だ。誰の目からも外れない位置にある限り、裏切りの速度は遅くなる。
「陸」
灯が呼ぶ。陸はすぐ振り向いた。顔は疲れている。疲れているのに、笑う筋肉はまだ動く。
「先に行ける?」
「行けるけど、ぼくが先に乗って、どういう顔をすればいいか迷う」
「顔は下りてから決める。いまは乗る顔をして」
「乗る顔? じゃあ、最短距離の笑顔で」
結衣が思わず笑った。笑いは短く、すぐに仕事へ戻る。彼女は双眼鏡を砂原へ渡し、バッテリの位置を美桜の腹の上でずらした。海晴が小さく声を漏らし、灯が頬に唇を寄せて熱を確かめる。熱は十分。保温は効いている。
「順番」
砂原が名簿に書く。インクは薄いが、文字は滲まない。
「一、海晴。二、美桜。三、陸。四……」
ペン先が紙の上で止まった。止まった音が、踊り場の水に薄い波紋を作る。
「四は」
灯が口を開きかけ、閉じる。誰の名も、いまは正しい。誰の名も、いまは間違いだ。間違いを少なくするのが段取りなら、正しいを選ぶのが優先順位だ。優先順位は、残る覚悟の上に乗る。
ジャージの男が手を上げた。手の甲に濁った水が光る。
「俺、残る。下に弟がいる。上がってくる可能性がゼロじゃないなら、ここで受けたい」
彼の声は静かだ。静かだから、列は乱れない。乱れないから、灯はうなずけた。
「四は、熊谷」
灯が言ったとき、熊谷は保冷箱に手を置いたまま、一歩も動かなかった。動かないのは、拒否ではない。手放せない重さがあるからだ。彼はゆっくりと顔を上げる。
「保冷箱は残す。水と最低限の食料はここへ。俺が乗れば、上でナビできる。ヘリからロープを下ろせるなら、上で人手になれる」
「熊谷で行こう」
砂原が書き入れる。ペン先が濡れた紙の上で小さく跳ねた。
「待って」
結衣が言う。声は小さいが、踊り場に届く。
「保持者は」
言った瞬間、風が扉の向こうで爪を立てた。鉄が薄く鳴り、枠が唸る。保持者。開け続けるために扉を人力で保つ役。名簿の端に小さく書かれた「未定」が、現実の重さを増した。
「保持者は、ここで決めない」
灯は首を振った。自分の声が震えないよう、呼吸を整える。
「最後の瞬間に、風と角度で決まる。宣言で決める役じゃない。決まったとき、その人の名前が、紙ではなく扉に書かれる」
結衣はうなずいた。うなずく動きは小さいのに、決意は大きい。彼女は床に置いていたスマホを壁際に押しやり、誰の靴にも踏まれない位置へ寄せる。戻ってくる場所があるものは、生き延びる可能性が上がる。機械にも、余白がいる。
外の音が近づいた。ヘリの点滅が、もう少し大きく見える。音の厚みが階段の空気を震わせ、窓のビニールが波打つ。灯は海晴を抱え直し、列を整えた。十二階への最後の数段は、濡れているが滑り以外の罠はない。罠がないなら、足は速くなる。速さは事故の味方だ。味方を敵にしないために、灯は声を落ち着ける。
「行く。十二階へ。海晴、美桜、陸、熊谷。紗耶さんは父と一緒にここ。砂原、名簿。鴫原さんは鍵束。海斗、前方牽引。結衣、保温と最後尾。ジャージの人、内側の支え」
列が動く。階段の角を越えるたび、海晴の体が灯の腕の中で少し跳ねる。跳ねる前に支える。支えるたび、灯の肩に熱が移る。熱は体から離れない。離れないうちに、一段。もう一段。
十二階の踊り場へ出た。ここは窓が広く、外の光が灰ごと流れ込む。濁流の泡が風にちぎられて飛び、下の階段の段鼻を舐めている。遠くで、ヘリが旋回する。点滅が一定の間隔で光る。音は近いが、着陸の気配はまだない。滞在時間は数分。着陸は一回。現実が、数字になった。
砂原が名簿の紙を広げ、ペンを滑らせる。紙は波打っているが、字は揺れない。海晴、美桜、陸、熊谷。四行の右に小さな丸。丸に意味はない。意味はないが、列の心臓に脈打つ。
紗耶は父の耳元で数え続ける。四で吸って、六で吐く。父の目は閉じたままだが、呼吸の形は整っている。彼女は自分の胸の中で別の数も数える。名簿にない数字。残る覚悟の数。覚悟は数えられない。数えようとするほど、ぼやける。ぼやけたまま持つのが、今の持ち方だ。
陸はテープの端を歯で切り、手のひらを巻き直した。指先の感覚が戻る。戻る感覚で、彼は一段、二段と未来を測る。未来は数字ではないが、段差にはなれる。
「海斗」
灯が呼ぶ。海斗は透明容器を掲げたまま、一歩前へ出る。
「ここからは、見える位置を上げる。奪うなら、今。奪わないなら、最後まで」
「奪わない」
砂原が先に言った。目は容器ではなく、灯の腕の中を見ている。海晴の小さな手が、タオルの端をつかんだ。
「準備」
鴫原が鍵束を握り、首を回す。扉の癖を思い出す仕草だ。外の風の爪は、焦れている。爪は内側の柔らかいものへ伸びる。伸びてくる前に、順番を形にする。
無線がもう一度、風の切れ目に声を置いた。
「……着陸……一回……北東……三分……」
「北東」
砂原が窓の外を見て、風向きを口の中で反芻した。南東の風が弱まり、回り込む気配がある。保持者の角度が変わる。変わるなら、内側の支えも変わる。変わること自体は問題ではない。変わる前に準備が始まっているなら、問題は小さい。
「決めた」
灯が言う。自分に向ける声だ。
「一便目は、海晴、美桜、陸、熊谷。ここで一度扉を閉めて、二便目が来ない前提で次の動線。残るのは、紗耶さん、砂原、結衣、鴫原さん、海斗、ジャージの人、喘息の青年、糖尿の女性、少女とヨリ」
「了解」
返事は重なり、踊り場の水に落ちた。波紋はすぐに消える。消えるうちに、扉が開く準備が整う。整ったという確信は誰も持っていない。持っていないが、進める。
灯は海晴を抱え直し、美桜に目で問う。美桜はうなずく。顔色は白いが、目は明るい。明るさは体力の証拠ではない。心の向きの証拠だ。向きがあれば、体はついてくる。ついてこないときもある。あるから、段取りがいる。
「紗耶」
灯が呼ぶ。紗耶は父の手を握ったまま顔を上げる。彼女の口元は震えていない。震えないから、言葉が出る。
「行って。戻ってきて」
「戻る保証はない」
「保証なんかいらない。約束で十分」
短い言葉が、踊り場の空気に突き刺さった。突き刺さって、抜けない。抜けないから、誰も軽口を挟まない。砂原が名簿の端に、小さな線を一本引いた。線は印ではない。線は、戻るための仮の道だ。
「行こう」
灯の合図で、十二階の内扉の前に列が並ぶ。海斗は透明容器を掲げ、鴫原が鍵を差し、砂原が角度を口にし、ジャージの男が肩を回す。結衣は扉の縁に指を添え、風の癖を指先で読む。読める情報は少ない。少なくても、読んでから動けば、無駄が減る。
「開ける。三秒。視認。閉める。風向きは北東。角度は四十五から五十の間」
扉が開いた。風が吠え、泡が飛び、世界が歪む。歪んだ世界の中で、角度がひとつ正しく作られる。コンクリートの黄色い円が、泡の下から半分顔を出す。ヘリの影はまだ遠い。遠いのに、確かにこちらへ向かっている。
「閉める」
鉄が戻り、息が戻る。灯は海晴の頬を指で撫で、呼吸の深さを確かめた。美桜は短い息を整え、陸は膝の角度を揃え、熊谷は保冷箱の持ち手を握り直した。紗耶は父の耳元で数える。四で吸って、六で吐く。結衣はタオルを押さえ、指先で熱を確かめる。
「抱くか、運ぶか」
砂原が小さく言った。自分に言うように。
「抱くは一番近い命。運ぶは列全体の命。片方だけ選べないなら、選ぶ順番を作るしかない」
灯は頷き、誰のものでもない言葉を受け取った。
「順番は、覚悟と一緒に決める。紙に書いて、扉で決める」
扉が二度目に開く。風の唸りが厚くなった。ヘリの点滅が一段大きく光る。北東から回り込み、ビルの谷間を縫うように近づいてくる。音に混じって、短い電子音が鳴る。着陸合図だ。灯は前へ。美桜が続き、陸がその背を押し、熊谷が保冷箱を肩に負う。
「行って」
紗耶が言った。声は静かで、強い。灯は振り返らない。振り返らないで、扉の先の光を見続ける。結衣が扉の縁で角度を保ち、ジャージの男が内側から肩を入れ、鴫原が外で風の癖を見た。砂原は名簿を胸に当て、海斗は透明容器を掲げたまま、列の真横に立つ。
ヘリが降りる。黄色い円の半分に脚が触れ、泡が飛ぶ。風が扉を噛み、角度が一瞬揺れる。結衣の指先が三センチの世界で押し圧を逃がし、ジャージの男の背が内側へと力を通す。砂原が数字を短く言う。四十八。維持。鴫原が外から角を回し、灯が一歩、また一歩と進む。
赤ん坊は泣かない。泣かないまま、灯の胸の中で小さく息をした。美桜は歯を噛み、陸は笑いの筋肉を固くして、熊谷は重さを背で受けた。扉の向こうで、世界は唸り、光は刃のように濡れている。刃は斬らない。角度が正しければ、ただ空気を切るだけだ。
灯は最初の線を越えた。黄色い円の内側。次に、美桜。陸。熊谷。入った四つの影が、風に揺れながらも位置を取る。救助員の腕が伸び、手が交わる。言葉は短い。滞在は数分。数分の中で、すべての手順が縮む。
「戻る」
灯の口がそう形づくった瞬間、扉が内側へ閉じた。結衣が指を離し、鴫原が外で一度だけ背を離し、鉄が枠に収まる。収まった音は大きくないのに、踊り場の床がわずかに震えた。
残った空気は重い。重さを分けるために、誰も喋らない。喋らないかわりに、位置を少しずつ変える。紗耶は父の手を握り続け、数を数え続ける。砂原は名簿に短い線を一本足し、結衣はスマホのない手でタオルを折る。海斗は透明容器を胸の前に保ち、ジャージの男は肩を回し直す。少女はヨリの耳を撫で、ヨリは静かに息をした。
扉の向こうで、風の音が上ずった。ヘリが浮き、旋回に移る。滞在は数分。数分は、もう終わる。終わっても、ここは終わらない。終わらないから、名簿の紙はまだ濡れたままで、破れていない。破れる前に、次の動線を作る必要がある。
「二便目の可能性は薄い。けれど、準備はする」
砂原が言う。声は冷たいが、冷たさは列のための温度だ。
「保持者の候補、再確認」
「私がやる」
結衣が言った。ジャージの男が顎を引き、鴫原が鍵束を握り直す。三人の名は、紙ではなく、扉の縁で呼ばれた。呼ばれるたびに、扉は少しだけ軽く見えた。軽く見えるだけで、軽くはならない。それでも見え方は、手の力に効く。
「抱くか、運ぶか」
海斗が小さく繰り返した。自分に向ける声だ。
「抱くがある限り、運ぶは減る。減ったぶんは、人が増やす」
紗耶が少しだけ笑った。笑う筋肉は、泣く筋肉の隣にある。どちらも使える限りは生きている証拠だ。彼女は父の耳に口を寄せ、数を数え続けた。四で吸って、六で吐く。吐くたびに、彼女の胸の中の何かが軽くなる。軽くなったぶんで、次の重さを持つ。
扉の向こうで、遠ざかる音が薄くなり、踊り場の水音がまた主役に戻った。逆流は下で次の段を削っている。削られる前に、ここで決めることがある。名簿の紙に、しわがひとつ増えた。増えたしわは、誰の額にも似ていない。似ていないのに、見覚えがある形だ。
灯は戻ってくる。戻ってこない可能性と同じだけの確率で、戻ってくる。戻ってきたら、次の順番をまた作る。戻らなかったら、扉の角度がひとつ決まる。決まるとき、紙の「未定」は消える。消えた名前は、扉に書かれる。
抱くか、運ぶか。選べない問いを、彼らは順番に変えた。順番にした瞬間、足は動ける。動いた足音が濡れた床を叩き、十二階の踊り場は、次の扉の前で身じろぎをやめた。風はまた、爪を立てた。彼らは耳でその音を聞き、指で角度を確かめ、目で名簿の文字を追った。文字は滲まない。滲まないあいだに、もう一度だけ、扉は開くかもしれない。開かないかもしれない。どちらでも、彼らは段差を数え続ける。数えられるうちは、数える。数えられなくなったとき、誰かの名前が、扉に置かれる。




