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沈むマンション〜沈みゆく高層マンションで、最後にドアを押さえたのは誰だったのか〜  作者: 妙原奇天


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第十五話 名簿にない名前(避難先)

 避難所は木造の体育館だった。湿った床板の匂いに、濡れた毛布の獣っぽい蒸気、カレーの缶詰を温める電気鍋の甘いにおいが混ざって、空気はいつまでも温く重かった。高窓は半開きで、外の風は塩を薄めたような味を連れてくる。床にはブルーシートが隙間なく敷かれ、テープで段差がならされていた。人の体温が面になって広がっている。そのへりに、保育器が一つ置かれている。樹脂の壁に小さな曇りが浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。中にいる海晴は、指を二度だけ曲げた。音は出さない。出さない代わりに、胸の上下でこの場所の時間が測れた。


 海斗は、保育器の横にしゃがみ込んだ。手を伸ばすと、透明な壁に自分の指先が映り、すこし遅れて曇る。指のはらをそっと離して、彼は膝の横に置いた透明容器の蓋に手をかけた。蓋は濡れて白く曇り、角が一本だけ細く欠けている。屋上で楔になったときについた傷だ。力を入れずに捻る。ぱち、と軽い音がして、蓋は素直に回った。


 中に、鍵はなかった。金属の触感を想像していた掌に、紙の軽さが落ちた。底には、折り目の多い紙切れが一枚。濡れて乾いたあとが輪の形で残っている。彼は取り上げ、四隅を指で押さえ、角度を整えてから目を落とした。


 最終版の名簿。太いマジックの線が水でにじみ、ところどころが毛細血管みたいに広がっている。最上段に「海晴」。二行目に「美桜」。三行目に「灯」。四行目に「陸」。その下に「子ども」「介護者」「体力の弱い者」——欄外に鉛筆の文字だけが細いままだった。濡れても滲まない芯で書かれた、短い行。


 屋上の保持者:選択により匿名


 読み上げる声は喉の裏で止まり、胸へ落ちた。匿名、という四文字は軽いのに、底が重い。屋上で角を押さえ続けた誰かの肩の温度が、紙の折り目に移っている気がした。紙の端には新しい折り目がひとつ増えている。さっきまで二つだった山が三つになり、薄い地図のように段差を作っている。誰かが、そこで決めた。名ではなく、折り目を残すことを。


 彼は紙を丁寧にたたみ、胸ポケットにしまった。布越しに折り目の硬さが触れる。名簿に載らない名前が、この世界を押さえ続けている。紙は胸にあるのに、重さは肩のほうへ移動していく。肩に、屋上の風がまだ残っている。


 「すみません、少しだけ——」


 白い腕章の女性が、小声で近づいた。腕章には「広報」とあり、胸には紙の名札。名はすべて苗字だけで、インクがにじんでいた。彼女の背後には、テレビ局の小さなカメラがひとつ。バッテリの残量を示す赤い点が弱々しく光る。記者は若い。マスクの内側で呼吸が速い。息が白くならない季節なのに、吐息が見える気がする。


 「——屋上で、最後に扉を閉めたのは、どなたでしたか」


 彼女の声は柔らかかった。柔らかいのに、刃の形をしている。問いは刃になる。その刃が必要な場もある。この場ではどうだろう。答えが正しさに変わる場所と、答えが誰かの肩に刺さって抜けなくなる場所はちがう。ここは後者だ。


 海斗は首を振った。短く。保育器の壁に、動きの小さな自分が揺れた。

 「ここに、残っている物語がある。書き方がわからないから、いまは聞いてほしいだけです」


 彼はそう言った。質問には答えていない。答えないことで、少しだけ守られるものがある。広報の女性は頷いた。頷いて、カメラへ目だけで合図を送る。若い記者は唇をかすかに噛み、マイクを下げた。カメラはすでに入っていない電波を探して、赤い点の明滅をゆっくりに切り替えた。


 避難所の充電テーブルには、コードがたくさん並んでいる。色の違う蛇が、一つのタコ足に絡んでいるみたいだった。結衣のスマホは、その端に置かれていた。画面は真っ暗だ。黒い鏡になった表面に、彼らの顔が小さく映り込んでいる。灯の目の白、熊谷の輪郭、紗耶の口角、砂原の眉間の皺、鴫原の細く落ちた肩。映っているのに、配信は停止したまま。見られていないけれど、「いる」が続いている。


 結衣はスマホを手に取り、片手で裏面のシールを撫でた。擦れている。何回も握ったからだ。彼女は一度だけ電源ボタンを押し、暗い画面を見た。そこに映るのは、ライトもフィルタもない顔だ。彼女はそれを確認し、また机に戻す。画面が下になるように置き、カメラだけは空間のほうに向けておく。映さないけれど、向けておく。向けておくだけで、手がどちら側にあるかを忘れずにすむ。


 灯は海晴の保育器の温度表示を見て、看護師に低く確認の声をかけた。声は落ち着いていて、節約されていた。無駄な言葉が入り込む隙をつくらない。その隙から、恐怖が入ってくることを彼女は知っている。保育器の横に、薄い毛布が一枚積まれていた。昼の避難所は汗ばんで暑いのに、そこだけ冷える。冷える場所は、生き延びる側の温度に合わせるのではなく、生き延びるために温度を作る。


 紗耶は父の手を自分の首へ戻し、ひと呼吸の長さを合わせ直した。「四で吸って、六で吐く」。彼女は言葉にしないで数を刻む。言葉にしないと、外には漏れない。外に漏れないリズムは、内側だけを揃える。父の掌はもう少し暖かくなっていた。紗耶はほっとして、すぐにその感情をしまい直した。しまう場所は、胸の一番奥。そこなら、次に取り出すときに形が変わらない。


 熊谷はロープの端を膝に置き、結び直した。避難所でロープを結び直す人間は目立つ。目立つのに、誰も注意しない。結んでいるのは、あの場所とここをつなぐ意識だからだ。彼は結び目の輪に指を通し、引き、解き、また作る。指先の感覚は、濡れた鉄の感触を思い出している。目は前を見ているのに、手は屋上にある。


 砂原は端に座り、名簿のコピーを膝に乗せていた。コピーでも、折り目は写る。紙の影に段差があるのだ。彼は指の爪で、新しい浅い折り目を作った。折る、という動作が数字の代わりになることを、屋上で知った。ここでは数字が機能しない場面がある。機能しない数字は、別の形にして残す。折り目が三つ。山が三つ。そこだけ紙が強い。


 鴫原は背を壁に預け、肩甲骨の下をそっと撫でた。青痣が手に触れる。痛みは、思っていたより小さい。屋上では大きく感じたはずなのに、ここでは小さい。痛みは周囲の音と温度で大きさを変える。彼は腕を回し、肩の角度が正しいところで止めた。「管理人」という肩書は避難所では意味を失う。けれど、角度を覚える癖は、肩書とは別に残る。


 夜になって、体育館の蛍光灯が一本ずつ消える。発電の割当が変わる時間だ。灯りは弱くなるのに、話し声は少し強くなる。暗くなると、人は自分の声の音量を間違える。間違える前に、灯は短く合図を出した。海晴の温度。保育器の位置。毛布の枚数。外の風の匂い。ここでの「段取り」は、呼吸の次に必要だ。


 深夜、海斗は一度だけ外に出た。体育館の外壁は濡れたままで、ライトに照らされると魚の皮に似て見えた。仮設のフェンスの向こうに、沈んだ街の輪郭が黒い紙の裂け目みたいに続いている。ヘリの音はしない。遠くで、海が大きく息をする音が四拍子のように繰り返されている。


 ポケットの中の名簿は、しっとりとした硬さで存在を主張する。取り出して、折り目の山を指でなぞる。匿名。選択により匿名。その言葉は、逃げではない。最後の瞬間に、名前より先に行為を選んだ結果だ。名札のつかない役職。役職のない役割。彼は紙を畳み直し、胸ポケットへ戻す。胸の布越しに、折り目が体温で少し柔らかくなる。


 翌日、避難所に自治体の職員が来た。配給の追加、医療の回診、心のケア。紙の束がいくつもあり、チェック欄が細かい。名前、年齢、住所、症状、家族構成。名簿の列がテーブルの上で増える。書かれる名前。書かれない名前。書けるが書かない名前。書いたが消す名前。海斗は自分の欄を埋め、海晴の欄に「保育器」と書いた。医療の人は頷き、紙をめくり、次の列へ行く。列は終わらない。終わらないけれど、進む。


 「戻れる方は、順次、マンションの確認に——」


 職員の声に、海斗は顔を上げた。戻る。戻れる。戻るという動詞は、危うい。戻る前と戻ったあとで、同じではいられない。彼は灯と目を合わせた。灯は頷く。頷きの意味は一つではない。「行って」と「見て」と「持って帰って」を含んでいる。海斗は胸を軽く叩き、名簿の存在を示した。


 数日後、彼はマンションへ戻った。水は引いていた。廊下は泥の線で区切られ、壁紙は膨らんだままだ。エントランスのガラスは、外水圧で歪んだ跡をまだ残している。破れなかった水槽の壁。内側に貼りついた泡の模様は、もうどこにもない。代わりに、苔の薄い緑が端に残っていた。匂いは鉄と、古い冷蔵庫。油の甘さは薄れ、腐敗の匂いは乾いて粉っぽくなっていた。


 階段を上がる。段鼻の白は剝がれ、砂を踏むと音が低く鳴る。踊り場の角は磨り減り、三センチの世界が今は二センチくらいに見える。二センチになっても、風は角を噛みに来る癖をやめない。海斗は無意識に角度をとる。体が先に思い出す。四十八。言葉にしなくても、肩と膝と手の位置がそこに寄る。


 屋上のドアには、外側から新しいボルトが打たれていた。光を受けて、頭が小さく光る。ボルトの銀色は新しく、枠の鉄は古い。新旧がひとつの面で隣り合っている。ドアの内側には、誰かの指の骨の跡はない。指紋は流れ、油は風に削られ、皮膚の記憶は残らない。残らないことが、少しだけ救いだった。残っていたら、誰かひとりになってしまう。ここは、誰かひとりで済ませられる場所ではない。


 床に、透明容器の角の擦り傷が残っていた。白く削れた小さな三角。屋上の水が引いて乾くまでのあいだ、ここに楔があった。その楔に、誰かの肩が寄りかかった。その肩の重さの形が、擦り傷の中に浅く残っている。彼はしゃがみ、指で傷の縁をなぞった。ざらり、と当たる。目を閉じなくても、そこにあるのがわかる。


 「ありがとう」


 声は小さく、金属にも風にも届かない。届かなくていい。ここでの言葉は、耳より先に肩へ届けばいい。彼はポケットから紙の名簿を取り出し、欄外の「匿名」を指でなぞった。鉛筆の芯がそこだけ光を吸って、少し黒く見える。折り目は三つ。彼は迷って、四つ目を折った。折り目は名前の代わりに残る記号だ。山の数が増えるたび、この紙は強くなる。紙が強くなると、胸の奥で何かが少しだけ安定する。


 階段を降りる途中、彼は踊り場で立ち止まった。壁に貼られた案内板は半分剝がれ、角にテープの跡が残っている。かつて「ドア開放中の逆流事故に注意」と書かれていた文字の端だけが、かろうじて読めた。注意の言葉は色が薄れているのに、意味は濃い。濃さは、体に残る。彼は自分の肩を確かめるように回し、痛みがないことに安堵した。痛みがなくても、角度は覚えている。覚えているから、次に迷わない。


 外に出ると、工事車両が並んでいた。電柱を直す人、瓦礫を片づける人、道路のへこみを埋める人。ヘルメットの色が混ざり、ベストの反射材が光る。誰の名前も大きな声では呼ばれない。呼ばれないまま、作業が進む。進む音は、海の音と重ならない。重ならない音が、街をここへ戻す。


 避難所へ戻ると、体育館の中は昼の匂いに変わっていた。カレーではなく、味噌汁。電気鍋の蓋から、湯気が白く立つ。海晴は保育器の中で眠っていた。眠っている顔は、昨日よりも「いる」に近い表情をしている。灯が横で記録用紙に数字を書き、看護師が頷く。熊谷はブルーシートの端を足で伸ばし、砂原は折り目を指で確かめ、紗耶は父の手を首に戻す。結衣はスマホを持ち上げ、一度だけ外カメラを自分たちのほうへ向け、また伏せて置いた。


 海斗は胸の紙を取り出し、灯の前で広げた。灯は目で読み、指先で折り目の山に触れた。その触れ方は、保育器の温度表示に触れるときと同じだった。折り目は「温度」だ。ここにいる全員の温度だ。名簿にない名前の温度が、紙の端に残った山で確かめられる。


 「——書かなくていい」


 灯が言った。書けるけど、書かなくていい。書かないことで、ここに残るものがある。名があるとき、人は名のほうを見る。名がないとき、人は行為のほうを見る。行為は風に負けない。名は風に飛ぶ。風が強い場所では、行為のほうが役に立つ。


 夜、体育館の明かりがまた一つ落ちた。海斗は保育器の横で毛布に背中を預け、薄く目を閉じた。まぶたの裏に、屋上の角が浮かぶ。四十八。三センチの世界。楔になった透明容器。背で受けた風。肩で受けた鉄。二つ分の「ありがとう」。その全ては、誰かひとりの名前には収まらない。収めないでいい。広がったまま、ここにある。


 彼は思う。——名簿の外側に書くべき物語が、まだ続いていると。紙に書けない行の余白に、折り目という形で残す物語。折り目は山だ。山は風に負けない。山の向こうに、人がいる。画面のないカメラがその人たちの顔の輪郭だけを映し、配信は停止したまま、「いる」だけが続いていく。


 翌朝、体育館の高窓の隙間から薄い光が落ちた。床板の節が、光の中で丸く見える。海晴が指を一度だけ曲げた。灯がその小さな動きを見逃さず、頷く。頷きは合図だ。合図がある場所では、数字が揺れても足は揺れない。


 海斗は胸ポケットから名簿を取り出し、折り目をもう一度、指でなぞった。三つの山が、きのうよりもはっきりしている。紙は柔らかくなり、強くなっていた。彼はそっと、四つ目の折り目に指を添えた。増やした山は、まだ浅い。浅いけれど、もう紙の一部だ。名簿の外側は、広い。広いままでいてほしい。広いまま、ここにいる全員の肩を受け入れられるように。


 体育館の隅で、誰かが短く咳をし、誰かが笑い、誰かが眠り直す。電気鍋の蓋が小さく鳴り、スリッパの音がブルーシートを柔らかく叩く。名の呼び声は少ない。動作の音が多い。動作の音が、この場所の呼吸になる。


 屋上のドアは遠い。遠いけれど、ここに繋がっている。ドアを開ける。閉める。押さえる。残る。連れてくる。そういう動詞だけが、紙の上でも、紙の外でも、同じ形で続いている。続きの書き方は、みんなが知っている。知っていることに気づいていないだけだ。折り目をつければ、思い出せる。折り目は、名を呼ばないで人を呼ぶ。


 海斗は立ち上がり、結衣のスマホをそっと持ち上げ、画面の上の埃を息で吹いた。黒い鏡に、彼自身の顔が映った。映った顔は、屋上にいたときよりも年をとって見える。年をとった顔でいい。顔は画面に残さなくていい。残すのは、折り目でいい。彼はスマホを元の場所に戻し、保育器の中の海晴を見た。小さな胸が上がり、下がる。リズムはここで刻まれている。配信は停止したまま、しかし「いる」が続いている。


 体育館の時計は止まっていない。秒針は軽く、分針は遅く、時針は重い。止まらずに進む。進んでいるという事実が、ここでは救いになる。救いは、誰かの名前ではなく、誰かの行為の集合として来る。名簿の外側に、それは書ける。書くための紙は、ここにある。折り目の山が、そこにある。


 海斗は胸の上からそっと手を当て、紙越しの山の位置を確かめた。三つ、そして浅い一つ。彼はゆっくり息を吐き、目を閉じて、また開いた。今日もやることは多い。やれることは少ない。少ないほうだけを、確実にやる。彼らは立ち上がり、動き始めた。体育館の空気が、わずかに流れを変える。名簿にない名前が、その流れを押さえ続ける。


《了》

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