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沈むマンション〜沈みゆく高層マンションで、最後にドアを押さえたのは誰だったのか〜  作者: 妙原奇天


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第十四話 ドアが閉まる時(屋上)

 海斗がロープに体を預けた瞬間、風が変わった。東から入っていた層が、ひと息で北東へ向きを切り替える。回転翼の斜め下、風の刃が一段鋭くなり、屋上のドアは目に見えて押し戻された。鉄の縁が枠に擦れて、低い悲鳴みたいな音が出る。


「角、ずれる!」


 結衣の声が短く跳ね、彼女の左足が濡れたペイントの上で滑った。靴底が一瞬だけ空を踏み、重心が前に崩れる。ドアの角が三センチ、風に食われる。そこを狙っていたみたいに、風の爪が噛む。


「持つ!」


 紗耶が叫び、片膝をついた姿勢のまま、結衣の腰を抱えた。自分の首には父の手が回っている。二つの重さを、同じ場所で受ける。膝と足の側面でコンクリートを掴み、体の芯で角度を取る。紗耶の頬は真っ白で、目だけが強い。


 砂原は肩で枠を受け、背を丸めて押し返した。名簿は胸に貼りついたまま、紙の端が風でめくれる。鴫原は外で背中を当て、鉄の縁と自分の肩甲骨が擦れる位置を探す。彼の息は短いが、乱れない。震えは背中の裏側に押し込んだ。


「補助、入る!」


 熊谷が腰を落とし、ジャージの男の脇へ肩を差し込む。二人の肩の高さが合い、力の向きが揃う。腰から押す。足裏で受ける。戻す。言葉にしない段取りが、身体の癖で動く。


 灯はドアの縁を見て、判断を一つだけ外へ投げた。

「鍵、ここに置く!」


 透明容器が床の隙間へ滑り込む。鍵束が金属の角に噛み、ちいさな楔のように止まる。勝手には閉じさせないための工夫。目に見える安全は、場の背骨になる。だけど今の風は、背骨の上からも押してくる。


 ヘリがぐらりと傾いた。ロープが手の中で重くなり、甲板の縁が海斗の膝に近づく。パイロットの手が計器へ走り、救助員の腕がロープを押し戻す。時間が一秒、伸びた。伸びた一秒は、長い。そこへ、誰かの決心が滑り込む。


「代わる」


 誰かが低く言い、位置が入れ替わる気配がした。結衣の左手の指が角を押し続けたまま、右側へ別の手が伸びる。そこへ、別の肩が入る。砂原の肩が一瞬だけ抜け、別の背中が枠に当たる。鴫原の足元が細かく動く。熊谷の腰が半歩ずれ、ジャージの男の足幅が調整される。


 海斗には見えない。ヘリの腹の縁から覗いた視界は、風の層でぼやける。けれど、聞こえる。風の間に紛れ込み、はっきりとした音になる言葉がある。


「ありがとう」


 ひとつ。続けて、もうひとつ。


「ありがとう」


 屋上に残る者から、出ていく者へ。出ていく者から、屋上に残る者へ。どちらの向きでも成立する短い言葉だった。二つ分、確かに重なった。重なった音は、風にちぎれない。


 ロープが再び張る。救助員が海斗の胸のベルトを引き、甲板の床へ引き上げる。甲板の鉄板は薄く震えて、油の匂いが肺に刺さる。海斗は振り返った。視界の端で、ドアの角が戻る。四十八。結衣の手は赤い皮膚のまま震えない。外で受けている背中は鴫原だけではない。もうひとつの背が、枠へ深くめり込んでいる。誰かの肩だ。誰かの背だ。風と鉄と人の匂いで混ざり、輪郭は識別できない。


「閉める!」


 灯の声が短く刺さる。扉が枠へ戻る前、一瞬だけ風が牙を立てた。角を食い直しにくる。そこで、ふっと抵抗が軽くなった。外で受けていた背の圧が、わずかに引いた。引いたのではなく、滑ったのかもしれない。滑らせたのかもしれない。判断は瞬間に起きる。説明はあとだ。


「押す!」


 熊谷の声。ジャージの男の腰。砂原の肩。紗耶の膝。結衣の指。全員の筋肉が、同じ方向へ揃う。鉄が枠に収まり、音が内側に変わる。枠と扉の隙間が薄く消え、透明容器の楔が乾いた音を立てた。


 ヘリが上昇する。回転翼が空気を細かく砕き、屋上の水が一度だけ舞い上がった。黄色い円が小さくなり、柵の切れ目が線になる。人影が縮んでいく。灯の髪が頬に張りつき、結衣の指の皮膚が白く見える。熊谷の肩が下がり、紗耶の首に回る父の手がゆっくり動く。砂原は名簿を胸に当てたまま、顔を上げない。鴫原は背中の痛みを外へ出さない。犬のヨリは耳を伏せて、少女の胸に顎を乗せた。


 ドアはゆっくり、しかし確実に閉じていく。鉄が枠と仲直りするみたいな、小さな音を続けながら、寸分ずつ、内側へ帰ってくる。角は四十八を維持し、最後の二センチだけ、風が惜しむように粘る。それでも、閉まる。閉まるほうへ、全員の体が傾いている。


 海斗は甲板から体を乗り出し、声を出しかけてやめた。上からの声は、下で押さえる指を震わせる。震えた指が三センチの世界で角を落とす。落ちた角に風が噛む。そういう想像だけで、喉が焼けた。彼は拳を握り、甲板の縁を見た。見ても役に立たない。見ないと、もっと役に立たない。


 ヘリの中で陸がネタ帳を握りしめている。紙は濡れて波打ち、文字が滲んで踊っている。彼は親指を立て、何かを喋るふりをしてから口を閉じた。美桜は両手を胸で組み、爪で掌に印をつける。海晴は薄い箱の中で小さく指を曲げ、眠りに似た安定の中にいた。救助員の腕は忙しい。次の降下角を計算するジェスチャーが、空中で素早く組み合わさる。


 屋上で、灯が一度だけ深く息を吸い、吐いた。呼吸という言葉を使う間も惜しい動作だ。彼女は海晴の残った熱で声を支え、場の温度を落とし過ぎないように短い指示だけを出す。結衣は指を開いて握り、皮膚の色を戻す。白いままだと、次の突風で指の感覚が消える。熊谷はロープの輪を二度確認し、紗耶は父の耳元で小さく数を刻む。四で吸う、六で吐く。数は祈りじゃない。動作だ。動作は生き延びる側へ体を引っ張る。


「閉鎖、確認」


 砂原がようやく顔を上げ、扉の縁と枠の噛み合わせを見た。指で鉄の段差をなぞり、隙間の有無を確かめる。透明容器はまだ枠下で楔の役を果たしている。容器の角は白く擦れて、蓋は半分外れかけている。鍵は見える。見える場所にある限り、鍵は全員のものだ。


 その時、鴫原が少しだけ膝を曲げ、腰に手を当てた。背中の布が濡れ、色が濃くなっている。彼は笑うでもなく、しかめるでもなく、ただ肩を転がした。肩甲骨の下に、鉄の角の形が浅く刻まれている。灯が目で気づき、何も言わずに頷いた。頷きの意味は一つではない。ありがとうと、おかえりと、また頼む、が混ざった形だ。


 結衣はドアから手を離し、指の腹を自分のシャツで拭いた。血の色が戻ってくる。戻ってくるのを待つ間、彼女は遠い空を見ない。見たら、揺れる。揺れたら、次の判断が鈍る。彼女はそこにいる。いることだけで十分な役は、ここにある。


 紗耶は父の手を首に残したまま、目だけで灯を見る。灯は小さく頷く。頷き返し、紗耶は自分の膝の上に手を置いた。自分の重さをもう一度、膝で受ける。重さを受ける動作を確認する。次に必要になると、わかっている。


 少女はヨリの耳を撫でた。犬は一度だけ尻尾を動かし、すぐ止めた。吠えない。吠えないまま、耳だけ少し動かす。風の音が違う、と犬が知っている仕草だった。喘息の青年は紙コップを握り直し、糖尿の女性はチョコレートの欠片を舌で探して、唇を湿らせた。


 ヘリは高度を上げ、都市の上に小さな点になっていく。風の帯が薄くなる。音が遠ざかる。屋上に、また建物の心拍のような律動が戻る。壁紙の内側で空気が膨らんだり萎んだりし、足裏の薄い水が皮のように張りつく。世界の音は相変わらず怖い。でも、聞き方は少し変わった。


「確認。保持者——」


 砂原が名簿をめくる。紙は濡れて重い。端が柔らかくなっていて、めくるたびに空気を巻き込む。彼は最初の行から最後の欄外までを見て、ペン先を持ち上げた。持ち上げて、置いた。書かない。書いてはいけない、ではない。書けない。書けるはずなのに書けない時は、紙ではなく別の場所へ記録が残る。


 名簿の角に、小さな折り目が増えていた。さっき押し戻された瞬間、砂原が指で紙を折って癖をつけたのだ。折り目は二つ、並んでいる。数字ではない、名でもない、折り目だ。開けばただの線。閉じれば小さな山。誰が折ったかはわかる。何のために折ったかもわかる。何を記したかは、紙を見てもわからない。わからないから、消えない。


「誰が、押さえたの」


 結衣が言った。問いというより、自分の中で位置を確認するための声だった。


 灯は答えない。答えようとすれば、言い訳になる。言い訳に名前を巻き込むのは、ここでは間違いだ。代わりに彼女は、ドアの縁の鉄を指で撫でた。指先に冷たさが残る。冷たさは、誰のものでもない。


「ありがとう」


 灯が言った。風の中で、短い言葉はよく届く。誰に向けたものか、全員にわかった。わかったのに、誰の顔も彼女へ向かない。顔を向けると、誰かの名前になる。名前にすると、重さの向きが固定される。固定すると、次が動かなくなる。


 鴫原が鍵束を拾い上げ、透明容器をそっと膝の上に置いた。楔の角が白く削れている。彼は容器の蓋をはめ、少し捻って閉める。捻る角度は、彼の手が覚えている。何度もやってきた、小さな管理の動作だ。


「次の一回を取りに行く」


 灯が言う。声は低く、落ち着いている。落ち着きは自分のものではない。腕の中の、もうここにはいない重さが、まだ声の形を支えている。彼女は、ドアから少し離れた位置に全員を集め、短い段取りだけを並べた。休む、ではなく、整える。整える、ではなく、続ける。


「角は結衣、補助は交代で。外の背は——」


 そこで灯は言葉を切った。名を呼ぶ代わりに、視線を二人へ滑らせる。視線を受けた二人は、それぞれ短く頷いた。頷き方が違う。違うのに、意味は同じだった。


 砂原は名簿の端に、濡れた指で新しい折り目をひとつ作った。三つ目の折り目は、紙を破らない程度の浅さで止める。指先の爪に、鉄の匂いが残っている。彼は見ないふりをして、それでも匂いを吸い込んだ。


 紗耶は父の手を外し、肩へ戻した。父の指が自分の髪に触れる。髪は濡れて重い。重い髪をひとまとめにしてゴムで束ねる。結び目は高く。首を自由にするためだ。次に必要になるのは、呼吸の角度だけではない。視線の角度もだ。


 結衣はシャツの裾で指を拭き、ドアの角をもう一度、三センチの世界で探した。風の爪が噛まない位置は、さっきと少し違う。違うたびに、探す。探す行為そのものが、ここでの「いる」に直結する。


 熊谷はロープの輪をひとつ解き、別の結び方に替えた。さっき滑りかけた人の体格に合わせるためだ。誰の体格かは言わない。言葉にすると、場の重心がそちらに偏る。偏ると、扉が敵になる。


 少女はヨリの耳を撫で、犬は静かに目を閉じた。犬の息は、風の音に揺れない。揺れない息が、場の中で小さく効く。喘息の青年は吸入器を手の中で回し、糖尿の女性はチョコレートの包み紙を折り畳んだ。折り畳まれた紙は、小さな舟の形になり、床の水の上で動かない。


 ヘリの音が遠くなり、都市の上の霞みへ消える。空の層は厚く、灰色の中に薄い白が一本だけ走っている。白い筋は近づかない。近づかないほうが、ここでは都合がいい。期待は足をもつれさせる。準備は足を揃える。


 灯は手短に全員の顔を見た。見ただけで十分な確認がある。折り目は紙の端に三つ。名簿は濡れて重い。鍵は容器の中で静かに鳴り、ドアは枠の中で静かに息をする。押せば敵。開ければ味方。味方にするために、もう一度、角度を合わせる。


「行こう」


 灯が言った。短い言葉が、風に乗って屋上の隅まで届く。届いたあとの静けさは、怖さではない。動く前の、正しい静けさだ。ドアの前に並び直す音が、小さく重なる。靴の底が水を割る。指が鉄を探す。肩が枠を覚える。膝が角度を作る。


 海斗の耳に、遠い風の帯の向こうから、その音が届いた。甲板の鉄の震えが足裏を通じて体に残っていても、屋上の動作の音ははっきりわかる。開けるための音。閉めるための音。残るための音。連れてくるための音。彼は目を閉じ、次の一回を取りに行く段取りを頭の中に並べ直した。やることは多い。やれることは少ない。少ないほうだけを確実にやる。


 屋上では、灯が最後の確認をしなかった。しないことで、場の音が乱れない。乱れなければ、風は牙を見せない。見せたとしても、噛ませない。噛ませないまま、扉はまた、人間の側に寄る。


 ドアが閉まった。閉まったという事実は、静けさの形で全員の体に落ちた。保持者の名は名簿に書かれない。書けるのに、書かれない。代わりに、紙の端に小さな折り目が増える。折り目は二つから三つになり、乾けば線になる。濡れている間は山だ。山は、風に負けない。負けない形が、紙の端に確かに残る。


「ありがとう」


 灯がもう一度だけ言った。今度は、誰かひとりの耳へではなく、ここにいる全部へ。ここにいないものも含めて。言葉は風と混ざり、薄くなって、それでも消えなかった。消えない薄さは、筋肉の上に長く残る。


 都市は海の下で音を隠す。屋上は孤島のまま、次の一回を待つ。待つという動詞はここでは受け身じゃない。待っている間に、角度を合わせる。角度が合っていれば、風が変わっても持ち直せる。持ち直せれば、ドアは敵にならない。敵にならなければ、誰かの「ありがとう」は、二つでも三つでも、重ならずに残る。そうやってこの数分が過ぎ、次の数分が来る。


 ドアは、静かに枠の中で息をした。鉄が冷たく、冷たいまま、こちら側にあった。

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