第十三話 一回だけのヘリ(屋上)
ドアが開いた。塩と油と鉄の匂いが一度に押し寄せ、灰色の空気が肺の奥を冷たく洗う。都市は海になり、屋上は孤島だった。耳の奥で風が低くうなり、床面の水が、薄い皮のように足裏へ貼りつく。黄色い円のペイントは泡に削られ、ところどころ色が抜けている。柵の切れ目は右奥。足場のパネルは二枚欠け、風がその穴を指さすみたいに吹き抜ける。
ヘリが近づいてくる。金属の腹に当たる風の層が厚くなり、回転翼が空気を細かく砕く音が、胸骨の裏側へ針のように刺さった。ロープが垂れる。重い結び目がコンクリートを叩き、濡れた音がした。滞在は一回。搭乗は一人ずつ。時間は数分。短い時間は、長い決断を要求する。
灯は海晴を抱いていた。薄いタオルを二重に巻き、胸の前で両腕を作る。風の刃が頬を切り、海晴の頬は小さな桃色を保ったまま震えない。泣き声はない。代わりに、唇のわずかな開閉で弱い呼気がわかる。灯は自分の心拍をそこで合わせた。乱さず、早めず、ただ寄り添う。
「あなたが先に」
灯が美桜の背を押す。美桜は首を横に振った。濡れた髪が頬に張りつく。
「この子が先」
灯は頷く。頷くと同時に、視線で全員へ合図を飛ばす。海斗が素早く前へ出て、ロープの端と安全ベルトを手に取った。手袋越しの繊維は硬く、指の腹で滑りを確かめる。結びの輪を作り、二つ目の補助ループを赤ん坊専用の足取りに変える。
「角、頼む」
灯の短い声。結衣が応え、ドアの角へ左手を置く。三センチの世界。風の爪が角を噛まない位置。腰を落とし、足の幅を決める。反対側ではジャージの男が内側の肩を作り、熊谷が腰で返す受けを作った。鴫原は外で背中をドアに当て、砂原は名簿を胸に押しつけ、数字ではない何かを見ている顔のまま、肩をドア枠へ寄せる。
「鍵は置け」
砂原が透明容器を指で弾き、低く言った。海斗は頷き、容器の蓋を半分外したまま、ドアの枠の下へ滑らせる。金属の鍵束が枠と床の隙間を埋め、小さな楔になった。勝手に閉じさせないための、目に見える工夫。見える工夫は、場の背骨になる。
「海晴、固定する」
海斗は手早かった。タオルの上からベルトを回し、胸の上で交差させ、背で留める。結び目の位置は右肩甲の上。滑りを防ぐための小さなノットを二つ、指の癖で重ねた。灯が両腕を差し入れて支え、結衣がロープのテンションを読み、熊谷が余ったたるみを拾う。美桜は泣いていない。泣く時間が残っていないのを知っている目だった。彼女はただ、両手の指を自分の太ももに押しつけて、皮膚の感覚で現実へ戻ってくる。
「行くよ」
灯の声に、救助員の手がロープを引く。ヘリの影が海晴の顔を曇らせ、赤ん坊は空へ持ち上がる。小さな指が一度だけ曲がり、灯の親指の爪を探すように触れて、それから離れた。タオルの端が風にめくられ、すぐに戻る。海晴は泣かない。泣かせない。風に、奪わせない。
ロープが上がり切り、救助員の手が合図を送る。二人目、美桜。灯は手を伸ばす。美桜は一瞬だけ首を横に振ってから、頷いて前へ出た。腰に回されたベルトが背中で鳴り、風がスカートを無遠慮に叩く。灯が背を押し、熊谷が足元のパネルの欠けをまたがせ、鴫原が外から風を受けて角度を守る。美桜の目が灯の目を見つける。ありがとうも、ごめんも、間に合わない。彼女は唇の内側を噛み、笑わない顔で上がった。
三人目——陸。陸は足を踏み出しかけて、振り返った。ジャージの胸ポケットから皺だらけの紙を一枚引き抜き、海斗へ突き出す。
「ネタ帳、貸し。上で回す。戻ってきたとき、返す」
「返せ」
「返す」
短い芝居のようなやり取りに、場の空気がほんのわずかゆるむ。その隙間を風が狙う。結衣の手が三センチの世界で角をずらし、ジャージの男の腰が押し、熊谷の肩が返す。陸はベルトを自分で回し、結びの位置を確かめる。彼の指の動きは素直で、速い。ロープが跳ね、陸が上へ持ち上がった。上がる途中で、彼は親指を立てて見せた。灯は無言で頷き、海斗は顔をしかめた。
四人目の席で、時間が歪む。ヘリの音は同じなのに、音の層が厚くなり、薄くなり、遠くなって近くなる。滞在の残りは数分。足場のパネルの欠けが、さっきよりも広く見える。風がその穴を笑うみたいに通り抜ける。
「私は残る」
紗耶が言った。父の手を自分の首に回したまま、はっきり言う。
「父と残る。ここで待つ」
「押さえるのは俺が」
熊谷が続けた。腰は低く、声は太い。受けのための体ができている。上でも手はいる。下でも手はいる。彼はその両方を知っている顔をしていた。
結衣は何も言わない。ただドアの角に手を添え、足の幅を半歩広げた。手の皮膚は赤いが、裂けてはいない。裂けるとしたら、最後でいい。最後の裂け目は、名前になる。
砂原は透明容器をもう一度指で弾いた。
「鍵は置け。ドアが勝手に閉じないように」
海斗は灯を見る。灯は短く微笑んだ。笑顔というより、背骨を起こす合図のような顔だ。
「あなたが行きなさい」
「最後まで見る」
海斗は首を振る。容器を胸の高さで掲げたまま、足を半歩引いた。残る者の背中を、外から目撃する役。自分の体がその役に合っていると、彼は思ってしまった。それが正しいのかどうかは、今はどうでもよかった。
「最後まで見る人は、外でも必要」
灯は言う。声は低いが、迷いがない。海晴を送り出した直後なのに、彼女の声は落ち着いていた。その落ち着きは、腕に残っている小さな熱が作る。熱は弱い。弱いのに、声を支える。灯は海斗の目をまっすぐに見た。
「行って。上で、『ここから連れてくるために』動いて」
紗耶が海斗の背中を押した。熊谷がロープを渡す。砂原はドアに肩を当て、鴫原が隣に並ぶ。結衣は反対側の手すりに身を預け、風の圧を受け止める準備をする。最後の一席が、誰かの名前の形を探す。名前は、紙の上ではなく、風の中にある。
「行け」
鴫原が短く言い、海斗は二歩でロープの前に出た。ベルトを腰に回し、二重の輪を胸の上で留める。結び目は右。癖でいつも右に作る。手が覚えている。結衣が角を押さえ、ジャージの男が腰で受け、熊谷が反対側から返す。砂原が肩を枠にめり込ませ、鴫原が背で風を丸く受ける。
救助員の手が合図を送る。海斗は一瞬だけ列を見た。灯。結衣。紗耶。熊谷。砂原。鴫原。少女とヨリ。喘息の青年。糖尿の女性。全員の目が、彼を見ていた。何も言わない。言葉が混ざると、扉が揺れる。
「鍵は——」
「置いていく」
海斗は透明容器を床の隙間へ、もう一度押し込んだ。鍵束が金属の角へ噛み、楔は前より深く入る。彼はロープを掴み、足をパネルの欠けから外し、黄色い円の内側へ身を置いた。
「行きます」
自分の声が自分のものに聞こえない。風のせいだ。ヘリのせいだ。外の世界のせいだ。なんでもいい。ロープが張り、腹が浮き、地面が遠ざかる。ドアの角に置かれた結衣の指が、三センチの世界で小さく動くのが見えた。角度は四十八。風は東。柵の切れ目は右奥。足場のパネルは二枚欠け。頭の中の地図が、今まででいちばん鮮明に浮かぶ。
上で救助員の腕が海斗を引き、甲板の縁へ上げた。ヘリの腹は油と鉄の匂いで満ち、床は薄い振動を続ける。美桜が胸に腕を組んで座っている。目は赤い。陸は親指を立て、何か喋っているが、音は風にちぎれて飛んだ。海斗は振り返る。屋上のドアの角に、小さな手がある。結衣の手。背で受けているのは鴫原。肩を枠へ当てているのは砂原。熊谷の腰が返して、ジャージの男の肩が押して、灯が海晴の残りの温度で声を支えている。
ヘリの中で救助員が指を二本立てた。残り二分。海斗は反射的に腕を伸ばした。ここから縄を投げても届かない。整備された救助の動線を乱せば、誰かの脚を絡める。助けるつもりが、落とす。彼は自分の腕を膝の上で握り、視線だけを屋上へ残した。
「四十八維持。次で閉める」
灯の口が動くのが、遠目にもわかった。彼女は誰かへ向けて言っているのではない。場全体へ向けて、言葉を落としている。落ちた言葉は、床と風の隙間で止まらず、筋肉の上に留まる。留まった言葉の重みで、体は正しい角度を取る。
救助員がパイロットへ合図を送り、ヘリの腹が少し沈む。救命員が身を乗り出し、屋上へ手を伸ばす。もう人は乗らない。乗せない。ここから先は、扉を閉めるための時間だ。閉めるという動詞は、ここでは生きるの同義語になる。
その時、風の層がひとつ、音を変えた。東から北東へ。角が食われる方向。三センチの世界で指を滑らせるタイミングが一瞬ズレた。結衣の手が角を追い、ジャージの男の腰が遅れ、熊谷の肩がすぐに出る。鴫原の背が外で押され、砂原の肩が枠に深くめり込む。ドアが、わずかに開きすぎる。開きすぎた扉は、人間を食う。
「戻す!」
灯の声。短い。鴫原が背をずらし、砂原が肩を回し、結衣の指が三センチで押しを逃がす。ジャージの男が腰を落とし、熊谷が足を前へ出す。紗耶が父の手を強く握り、少女がヨリの胸に顔を埋める。喘息の青年はコップを床へ置き、糖尿の女性は自分の膝を叩いて意識を引き戻す。全員の体がドアの動詞を支え、角が四十八へ戻る。
ヘリの中で海斗は立ち上がりかけ、救助員に肩を抑えられた。降りることはできない。出たものは、戻らない。戻ってはならない。戻れば、全員が崩れる。頭ではわかる。体は納得しない。喉が焼ける。目が熱い。声が出ない。出したら、誰かの指が震える。
「閉める」
灯の口が形を作る。結衣の指が角を押さえたまま、力を緩めない。砂原は肩で枠を受け、鴫原は背で風を丸め、熊谷は内側から押し、ジャージの男は腰で支える。紗耶は「一緒に」と父の耳へ囁き、少女はヨリの耳を撫で、青年と女性は目を閉じる。全員の筋肉が、ひとつの方向へ向く。
その一秒前、結衣がわずかに体重を前へ移した。角が食われない位置。自分の膝で風を噛ませ、つま先でコンクリートを掴む。彼女は一度だけ画面のない手を見た。配信者として切り取ってきた世界が、ここにはない。あるのは、押さえる、という動詞だけだ。押さえる。そのために、残る。
「いける」
砂原が低く言い、鴫原が肩の角度を合わせる。灯は最後の確認をする声を飲み込み、頷いた。頷きは合図だ。合図が出た瞬間、ドアは人間の側に寄った。
「閉める!」
鉄が枠に収まった。金属の音が風の音を一瞬だけ上書きし、屋上の空気がわずかに軽くなる。角は四十八のまま小さく跳ね、すぐに静まった。扉は閉じた。勝手には開かない。楔の鍵が床で乾いた音を立て、透明容器の蓋がゆっくりと戻る。
結衣は手を離さないでいた。離さない指に、血の色が戻ってこない。戻ってこない指を、彼女は見ない。見ると、震える。震えると、扉が怯む。彼女は顔を上げ、ヘリの腹の方を見ない。見たら、揺れる。揺れると、だめだ。
海斗はヘリの縁で拳を握った。救助員が肩に手を置く。陸がネタ帳を胸に押し付け、口だけで何か言う。美桜は両手を握り合わせ、爪痕を手のひらに刻みながら、目を閉じている。海晴は、灯の腕の形のまま、上の箱へ寝かされ、薄い光の中で指を一度だけ曲げた。
ヘリが離れる。腹の下の風が低く太く鳴り、屋上の泡が一度だけ舞い上がった。海は遠く、都市は沈み、孤島は小さくなる。黄色い円が豆粒になり、柵の切れ目が線になり、ドアの角はもう見えない。見えないのに、海斗の視界にははっきり残っていた。三センチの世界。押さえるという動詞。残るという名詞。
離れていく視界の端で、灯の姿がかすかに揺れた。彼女は海晴の残りの熱で声を支えている。支えながら、次の段取りをしている顔だった。砂原は名簿を胸に押し当て、数字ではない線で「保持者」という文字の輪郭をなぞり続けている。鴫原は背中の痛みを顔に出さない。熊谷はロープの輪を三度確認し、紗耶は父の耳で数を刻み、少女はヨリの耳を撫で、青年と女性は目を開け、また閉じた。
ヘリの中で、風の音が内側の音に変わるまで、海斗は振り返るのをやめなかった。やめないことで、ドアの角を誰かひとりの肩へ置かずに済む気がした。やめない視線は、屋上の上にだけ役に立たない。けれど、その役に立たなさが、外で必要なこともある。上で待つ人間に、下にいる人間の話をする。陸の言葉が、風の中でやっと意味を持つ。
「戻る」
海斗はパイロットのほうを向き直り、救助員へ短く言った。上で、すぐに戻る手筈を作る。温める箱。保温の毛布。ロープの数。人手。燃料。風向き。黄色い円までの降下角度。ここから先、彼は「見る」ではなく、「連れてくる」をやる。
屋上では、扉の前で全員が一度だけ膝に手を置いた。膝の上で手が生身の重さに戻る。灯は深く息を吸い、吐いた。結衣は指を開き、握り、開いた。指先の色がゆっくり帰ってくる。砂原は名簿の「保持者:未定」の文字を見て、ペンを持ち上げかけて、置いた。未定のままでいい。最後の瞬間まで、未定でいられる強さが今は必要だ。
「一回だけのヘリ、終わり」
鴫原が言った。声は低いが、震えていなかった。震えは背中の内側へ押し込んである。
「次の一回を、取りに行く」
灯が続ける。誰に向けた言葉でもない。風へ。空へ。海へ。ここへ。言葉は広く投げられ、どこにも落ちず、全員の体に等しく薄く乗った。薄い重さは、筋肉を正しい方向へ引く。
都市は海の下に音を隠し、屋上は孤島のまま残った。塩と油と鉄の匂いは消えない。風は方角を変える。逆流は下で段を食い続ける。それでも、扉は閉じた。閉められた扉は、次に開けるためにある。次の一回を、取りに行くために。
結衣はドアの角にそっと手を置いた。指の皮膚が、冷えた鉄を覚え直す。彼女は画面のない手を見て、小さく笑った。切り取らずに、いる。いるために、押さえる。押さえるために、残る。名前は要らない。名札はいらない。役職はいらない。最後の瞬間に、自分の体で世界の重さを受け止める者のことを、ここではただ——保持者、と呼ぶだけだ。




