第十二話 保持者(15F→17F)
保持者は、役職じゃない。名札でもない。最後の瞬間に、自分の体で世界の重さを受け止める者のことだ。誰かがそう呼ばれるのは、誰かがそう名乗るからではなく、状況のほうがその名前を押しつけてくるからだ。
十五階の内扉を抜けると、吹き抜けの空気ははっきり変わっていた。下からせり上がる水の匂いに、腐った木と油と、どこかから流れ込んだ冷蔵庫の中身みたいな甘さが混じる。風には湿った熱が乗り、壁紙の下の空気が脈打つ。手のひらを押し当てると、人間の心臓とは別の、建物そのものの心拍みたいな律動がひそかに伝わってくる。
十六階へ上がる途中の踊り場で、外の風が一段変わった。雲が割れ、陽が差し、同時に腐敗の匂いが濃くなる。時間が晴れると、現実は容赦なく見えるようになる。あの灰色の世界の中にも、色はあったのだと気づかされる。光に照らされた濁流は、茶色ではなく、もっと複雑な色をしている。黄土と緑と、どこかの部屋の絨毯の赤が混ざって、きらきらと光った。
灯は、あごにタオルを挟みながら、胸の前の包みをそっと持ち上げた。海晴は小さく動くだけで、泣かない。泣かないのは我慢ではない。まだ泣く体力の波が来ていないからだ。灯は耳を海晴の耳に近づけ、自分の心拍を合わせる。一定のリズムを、音ではなく、熱で伝える。泣き声が風に攫われないように、泣く前から世界のほうを海晴の速度に合わせる。
ヘリの一便目は、結局、海晴を乗せなかった。保温が足りない。機内に温める箱もない。ゆれる風の上で小さな肺が止まる可能性を、救助員は恐れた。灯はそこで頷いた。頷くしかなかった。美桜は泣きながら、灯の手を握った。赤ん坊の体温は灯に残り、母の体温は風に奪われ、機体は上がった。上がる音が遠ざかった後も、灯の腕には重さが残った。残った重さを確かめるために、彼女は海晴の頬を唇で触れ、そこにちゃんとある熱を何度も測った。
熊谷はロープの結び目を三重にし、ほどけにくい巻き方へと組み替える。引く、落とす、受けるの三つをひと縄でできるように、端に輪を二つ増やす。手際はいい。彼は自分で持ち場を決めず、穴のあるところに自然と入る。上でも下でも、彼はそうするのだろう。
結衣は髪をゴムで束ね、額の汗を手の甲で払った。十秒だけ目を閉じ、指先の感覚を確認する。扉の角を押さえる時の三センチの世界を思い出す。あの世界では、指の位置が一ミリずれるだけで風の牙が角を食う。画面ごしの切り取りでは通用しない世界だ。彼女はそこにいる。いることだけが、仕事になる世界だ。
紗耶は父の手を自分の首に回し、「一緒に」と囁く。父の掌は冷たい。冷たいが、薄い脈はある。紗耶は自分の首筋にその重さを乗せ直す。父の重さを自分の重さとして受ける角度を探す。角度が見つかると、少しだけ、息が合う。
砂原は名簿の隅に「保持者:未定」の文字を線で囲んだ。二重の線で囲み、それでペンを置く。置いたペン先から、紙に染みこんでいた湿り気が、じわりと跳ね返る。数字を動かしてきた彼は、数字で決められない瞬間の目に、まだ慣れていなかった。けれど、慣れていないから間違うとは限らない。慣れていなくても、見えるものはある。
十六階の踊り場に着くと、外の光はさらに白くなっていた。風は南から東へ回っている。ビルの谷間で加速した突風が、ときどき鋭い刃になって扉の縁を噛む。鴫原は耳を澄ませ、逆流の音と風の音を分けて数えた。彼の指先は震えていない。震えは全部、鍵束の金属のほうへ移してある。彼は、自分の震えの置き場所を知っている。
「開けたら、閉める。閉めるために、誰かが押さえる」
その声は震えていないのに、灯は背骨の中で震えを感じた。言葉が体に直で触れてくる。
海斗は透明容器の位置を胸から目の高さへ上げた。鍵②を内扉の前でくるりと回し、音を確かめる。かすかな金属音が踊り場の水に溶け、階段の影へ流れていく。鴫原は鍵①を右手に、左の指で扉の縁の変形を撫でた。膨らんだ枠の出っ張り、その角の欠け。鍵さえ回れば開くわけではない。人の力と、鉄の癖と、風の意地が一緒に噛み合わないと、扉は敵になる。
「十七階で、いちど、全部合わせる」
灯は短く言い、海晴の包みを首にかけ直して、両腕を使える位置を確保した。彼女は抱くと運ぶを同時にやる。片方だけにはしない。片方だけにすると、もう片方が落ちる。落ちるものが人である限り、どれかひとつだけにできない。
十七階へ向かう最後の階段は、濡れた石の匂いが強かった。段鼻の白はほとんど剝がれ、角の位置は目で捉えにくい。陸がいない列は、笑いの間合いが欠けている。それでも、ジャージの男がぎこちなく肩を回してみせ、結衣が息を吐きながら短く笑った。笑いは、今は祈りではない。筋肉の油だ。一歩ぶんでいい。油が切れる前に、次の一歩を踏み出す。
喘息の青年は紙コップで息を受け、糖尿の女性は少しだけ舐めたチョコレートで意識を繋いでいる。少女はヨリを胸に抱え直し、犬は吠えない。吠えないことが、この場所では勇気だった。紗耶は父の耳元で数を刻み、四で吸って六で吐く。数は祈りにも呪いにもなる。祈りにするか呪いにするかは、言う人間の声で決まる。
十七階前の踊り場に出た瞬間、列の足取りが一瞬だけ軽くなった。ドアの向こうに空がある。空は灰色でも、空は空だ。その軽さが油断を呼ぶことを、鴫原はよく知っている。彼は振り向きもしないで言った。
「開けたら、閉める。閉めるために、誰かが押さえる」
彼の声は震えていない。震えは指先に集めたからだ。灯は、うなずく代わりに、かすかに顎を引いた。海斗は鍵②を回し、鴫原が鍵①を差し込む。重い音が重なり、世界の噛み合わせが一度だけ整う。金属の歯車が、正しく当たったみたいな手応え。扉は、こちらの力を試してくる顔になる。
「段取り」
砂原が名簿を胸に押し当て、短く言葉を並べた。
「内側の支え、二名。角の保持、一名。外の背受け、一名。扉の角度、四十五から五十。風向き、東。保持者は未定のまま。未定でいい。決めるのは風だ」
結衣は自分の手のひらを見て、指先を二度ひらいて閉じた。ひらいたり閉じたりするたび、海の匂いが薄く指にまとわりつく。塩の気配がある。潮と油と、匂いは混ざっているが、手のひらは手のひらのままだ。
ジャージの男は内側の肩に体を入れ、壁の高さと自分の肩の高さを合わせる。腰を落とし、足の幅を決める。筋肉にやれる仕事をすべて渡す。考えは短く。やることは具体的に。彼は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
熊谷は反対側で腰を落とし、外側に向けたロープの輪の位置を確認する。万が一、誰かが滑るなら、そこに腕を通すだけの距離。自分が落ちないための輪ではない。落ちた誰かを戻すための輪だ。
紗耶は父の額の汗を指で拭い、小さく微笑んだ。自分のほうが涙が先に出そうになるのを、笑いで押し返した。笑いは薄いが、役に立つ。
「開ける」
灯のかけ声は短く、それで足りる。鴫原が鍵①を半分回し、海斗が鍵②を押す。扉は牙を見せ、風が爪を立てる。三つの力が同時に扉に触れ、角度は四十七から四十八の間で安定する。外は灰色の光に満ち、黄色い円は泡に三分の二覆われている。柵の切れ目は右奥。足場のパネルは二枚欠け。昨日見た擦り痕が薄く残っている。昨日の線は今日の助けにならない。それでも、線がある場所は人の目に残る。それが役に立つこともある。
「閉める」
鉄が枠に戻り、音が内側の音へと変わる。灯は息を吐き、額の汗を腕で拭いた。結衣の指先はわずかに赤く、ジャージの男の肩には一筋の汗が筋になっていた。鴫原は鍵を引き、首を回して肩の力を調整する。
「二回目、角度を浅く入れてから四十八へ」
砂原が数字を言う。彼の声は冷たいが、冷たさはこの場所の温度に馴染む。冷たさがなければ、熱は人間だけに偏ってしまう。偏れば、扉は敵になる。
二回目の扉は、風がさっきよりも低い音を混ぜた。どこかで大きなものが倒れ、空気の層が一枚剥がれた音だ。結衣の指先はその押しの方向を読み、三センチの世界で角をずらす。ジャージの男の腰が受け、熊谷の肩が返す。鴫原の背は外の圧を丸く受け止め、砂原の数字が四十八で止まる。灯は出さない。出さない判断は、出す判断と同じだけの重さがある。
「閉める」
扉が戻り、踊り場の水が一度だけ揺れた。揺れはすぐに収まり、静けさが戻る。静けさの中に、遠くの低い音が重なった。ヘリかどうかは判別できない。判別できない音は、期待ではなく準備を増やすために使う。期待に使うと、足がもつれる。
灯は海晴の頬に頬を寄せ、呼吸を合わせる。小さな胸が上がって、下がる。その速度に自分の声を合わせる。合わされた声は、列の中でいちばん落ち着いて聞こえる。落ち着いた声の出どころがここにあるという事実が、列の内側を固める。
「三回目」
扉が開く。風は東から北東へ少し戻り、角度の入りが浅いほうが安定した。黄色い円は半分見え、泡は細かくちぎれては飛ぶ。柵の切れ目の位置は変わらない。足場のパネルの欠けは広がっていない。灯は一瞬だけ結衣を見て、目で合図を送る。彼女は小さく頷き、指先に重ねていたゴムを一枚外して、感覚の鈍さを取った。
「閉める」
鉄が戻り、砂原が息を吐く。彼の胸の名簿は濡れて重く、それでも紙はまだ破れていない。紙が破れたら、体で書く。紙で残せない名前は、扉で残す。そういうふうに、この場所はできている。
「持ち場、確認」
灯は短く刻む。
「内側の支え、ジャージの人と熊谷。角、結衣。外の背、鴫原。数字、砂原。鍵、海斗。私は掛け声と、赤ん坊の保温。紗耶さんは中央でお父さんの呼吸。少女とヨリは左。青年と女性は右。——保持者は、最後に決まる」
保持者は役職ではない。名札でもない。最後に、誰かの背中に自然に貼りつく言葉だ。貼りついたあとでしか、それが何だったのか、本人にもわからない。
「四回目で出す」
灯が言い切ると、踊り場の空気が一度だけ固くなり、すぐに解けた。固くなるのは怖さではない。決めたことの重さだ。重さは解けても、形は残る。解けた形が、体を動かす。
「開ける」
扉が吠え、風が爪を立てる。結衣の指が角を押さえ、ジャージの男の肩が内側から扉を支える。熊谷の腰が反対側で返し、鴫原の背が外で受ける。砂原は四十八を言い、灯は息を合わせる。海斗は鍵を押さえたまま、透明容器を胸の高さで掲げる。奪うなら今、奪わないなら最後まで。彼自身の言葉が、腕の筋肉の中で反芻された。
「子ども、介護者。青年、女性。出る」
灯の声に、少女がヨリを抱え直し、紗耶が父の体を前へ押し出す。青年がコップを手から離し、女性が立ち上がる。各々の足が線を越え、黄色い円の縁へ出る。足場のパネルの欠けを跨ぎ、柵の切れ目を避け、風の層の厚みを肩で受けながら、一人、また一人と線を越える。救助の影はない。けれど、今は線を越える練習が必要だ。線を越える感覚を体に入れる。その感覚なしに本番を迎えると、人は線の手前で固まる。固まると、扉は敵になる。
「閉める」
扉が戻り、鴫原が外から、わずかに足を滑らせた。背で受けた風が唐突に方向を変え、鉄の縁が背骨に食い込む。痛みは短い。短いが、鮮明だ。灯は思わず身をかがめ、結衣の手が三センチの世界で角を逃がす。ジャージの男の腰が内側から押し、熊谷の肩が支える。砂原が数字を落とし、四十七へ。それでも、枠に収まる。
「大丈夫」
灯が言った。鴫原は頷いた。頷いたあと、深く息を吸い、吐いた。息は震えていない。震えは背のほうへ移してある。
そのときだった。遠くの低い音に、別の音が滑り込んだ。鋭い、しかし長くはない、金属が風で鳴る音。ヘリの可能性は低い。低いのに、体は反射する。灯は首だけで外を見た。空は灰色だが、さっきよりも明るい。点滅は見えない。音は方向を持たない。風が音をばらばらにしている。
「五回目。出す。保持者、決まるなら、ここ」
灯の声は、思ったよりも落ち着いていた。思ったよりも落ち着いている自分に、彼女は少し驚いた。その落ち着きは、自分のものではない。腕の中の小さな体の熱が、声を落ち着かせているのだ。名簿の紙ではなく、心臓で決まる落ち着き。
扉がまた吠え、風が爪を立てる。角度は四十八。外は少しだけ明るい。黄色い円の中に、昨日の擦り痕とは違う、新しい細い線が生まれている。風が砂を運び、濡れたコンクリートの上に薄い模様を描いたのだろう。模様は役に立たない。役に立たない模様でも、人の目は拾う。拾った目は、少し強くなる。
「行く」
灯が言った瞬間、紗耶の口元が僅かに動いた。父の手を自分の首に回したまま、彼女は微笑んだ。微笑みは薄く、けれど確かだった。少女がヨリの耳を撫で、犬は静かに目を瞬いた。青年がコップを握り直し、女性がタオルで掌を拭う。海斗は透明容器を掲げ、砂原は名簿を胸に当て、鴫原は外で背を当てる。結衣は角を押さえ、ジャージの男は肩を入れる。熊谷は反対側で腰を落とし、灯は海晴の頬に頬を寄せる。
「保持者」
砂原が低く言った。言葉は名前を呼ばない。誰の名も、まだ呼ばない。最後の風で決まる。最後の風は、こちらの都合を見ない。こちらの都合を見ない風の前で、誰かが自分の名を呼ぶ。その瞬間まで、未定は正しい。
扉の角が、ほんのわずか食われた。東から北東へ、風の向きが指先でわかるほどに変わった。結衣の指が三センチの世界で押しを逃がし、ジャージの男の腰が受け、熊谷の肩が返す。鴫原の背が外で滑りかけ、彼は自分の体をわずかにひねって圧を背中の広い面へ流す。砂原の数字が四十八のまま止まり、灯の声が出る。
「閉める」
鉄が枠に戻り、内側の音が大きくなる。踊り場の水が、今度はいつもより大きく揺れた。揺れの後で、静けさが押し寄せる。静けさの中で、誰もが自分の心臓の音を聞いた。自分の心臓の音は、他人の心臓の音とときどき重なる。重なる瞬間だけ、列はひとつの体になる。
砂原は名簿を胸に当てたまま、ペンを一度だけ持ち上げて、また置いた。置いた先の紙に、薄い水の輪が広がった。未定の文字は、輪の外にある。輪は消える。文字は残る。紙が破れない限りは残る。破れたら、扉に書く。扉に書いた名前は、風と水と鉄で読めなくなる。読めなくなっても、ここにいたという事実だけは、誰の中からも消えない。
灯は海晴の頬を指でそっとなで、目を上げた。十七階のドアの向こうに、空がある。空はまだ灰色だ。けれど、灰色にも層がある。薄い灰と濃い灰の間に、ほとんど白に近い筋がひとつ走っている。そこだけ風が早いのか、遅いのか、見ただけではわからない。わからなくても、決める。決めて、開ける。開けて、閉める。閉めるために、誰かが押さえる。
保持者は役職じゃない。名札でもない。最後の瞬間に、自分の体で世界の重さを受け止める者のことだ。その名前は、まだ誰の背中にも貼られていない。貼られていないまま、扉の前に立つ。立って、角度を合わせる。角度が合ったら、次の一歩へ。合わなければ、合うまで呼吸を揃える。
「もう一度」
灯の合図で、海斗が鍵②を押し、鴫原が鍵①を差し込む。重い音が重なり、世界の噛み合わせがもう一度、整う。さっきよりも深く。さっきよりも静かに。扉はまた牙を見せる。風はまた爪を立てる。それでも、ここでやることは変わらない。開ける。閉める。そして、最後に、誰かが押さえる。
列は、同時に息を吸い、吐いた。吸う音と吐く音が、踊り場の水音と重なり、ひとつのリズムにまとまる。まとまったリズムの上で、灯が声を重ねた。
「開ける」
彼らは開けた。世界は吠えた。角は保たれた。空は灰色のまま、少しだけ白へ寄った。白へ寄る一瞬、灯の腕の中で海晴が小さく指を曲げた。その形は、段差のへりをつかむ形に似ている。握る形。離す形じゃない。
扉は、まだ人間の側にある。そう感じられるだけの角度が、ここにあった。そう感じられる間に、もう一度、閉める。閉めて、息を合わせる。息が合ううちは、数字は揺れても、前へ進める。
保持者は、まだ未定。未定のまま、十七階。空はそこにある。そこにあるという事実だけを頼りに、彼らはもう一度、扉に手をかけた。




