第十一話 揺れる数字(14F→15F)
十四階の廊下は、低い地鳴りをずっと抱えていた。壁紙の内側で空気が細かく膨らんだり萎んだりして、手の甲を当てると心臓とは別の鼓動が伝わってくる。窓のビニールは二度と真っ直ぐにならない皺をいくつも抱えて、風が触れるたび、同じ場所で鳴いた。
列は角を曲がるたびに速度を落とし、足音の間隔を合わせ直した。先頭の海斗は透明の食品容器を胸の高さに上げる。中の鍵が水滴をまとう。見える場所にある限り、鍵は誰のものでもないが、誰にも奪われにくい。見えるという事実が、列の背骨だった。
砂原が歩きながら名簿をめくる。ペンの先で一行目をなぞり、二行目で止まり、端に寄せた余白で数字の順列を組み直す。合理で切り捨てることに慣れた指先が、紙の角で初めて立ち止まる。紙は濡れて重い。重いから、数字は遅れて出る。
「私が乗るべきか」
立ち止まったままの指先が小さく震えた。問いは自分に向けられているのに、列の背に当たって広がる。誰も答えない。ここで出した答えは、扉の前へ行く途中で必ず形を変える。答えはいつも、最後の風で決まる。
耳の奥で金属の擦れる音がした。十三階で拾った古いトランシーバーを熊谷が腰につけている。その小さな箱の中で、掠れた声がひとかけら弾けた。
「ぼくは行く。上で待ってる人に、下にいるあなたたちの話をする」
陸の声だった。断片は短く、途切れ途切れで、たぶん上空からの反射で紛れ込んだ。それでも、陸の声には陸しか入っていない。最短距離の笑顔で言い切る声だ。列の空気がひとつ軽くなり、同時に胸がきゅっと痛む。届く言葉は、残される人間にとって刃にもなる。
「私は残る。配信者は、誰かの物語を勝手に切り取ってきた。最後くらい、切り取らずにいるをやる」
結衣が歩幅を崩さずに言った。手は空いている。空き手は扉の角を押さえるために残してある。スマホは十二階の壁際に置いたまま。画面の黒は、今も濡れた床に光を返しているはずだった。
砂原は彼女を見て、小さく笑った。笑うと言っても、曲げたのは唇の片側だけだ。
「数字、壊れてきたな」
「壊れた数字は、人に戻るだけ」
灯が短く返した。海晴を渡し終えた腕にまだ残っている熱は、指の付け根でかすかに疼く。熱の記憶は確かだ。確かだから、合理が滑る。滑ったぶん、足場を作り直す必要がある。
十四階の内扉を抜けると、踊り場に小さな案内板があった。壁から少し剝がれかけて、端が波打っている。鴫原が身を寄せ、指で泥を拭い、文字を読んだ。
「屋上へのご案内。ドア開放中の逆流事故に注意」
文字は軽いのに、意味は重い。灯が頷く。頷き方は小さい。小さくても、目に芯がある。
「押さえるのは俺が」
熊谷が言う。声は低く太い。保冷箱を下ろした肩は自由だ。上で手がいるなら、自分は外へ出てからでも役に立てる。彼がそう考えていることは、誰が見てもわかった。
灯は首を振った。
「あなたは最後まで必要。上でも、下でも」
言い切って、彼の眼を一度だけ見た。熊谷は口を結び、黙って頷いた。必要と言われる重さは嬉しくない。嬉しくないが、立っていられる。
紗耶は父の額をタオルで拭く。皮膚の色の変化を目で追い、指の腹で熱の差を拾う。言いかけた言葉を、咽喉の奥で呑み込む。私が、と言えば、周りの筋肉が余計な緊張をする。誰もが、自分の最後を言葉にすることの重さを知っている。重い言葉は、扉の角度を狂わせる。
海斗は透明容器を握り直した。鍵が掌の温度に沈む。重さはたしかに増えないのに、容器を肩の高さへ持ち上げると、腕の裏側がぴりっと痺れた。持つだけで、選ばされる。選ばれるだけで、疑われる。疑いの芽を、見える位置で潰し続けるのが、自分の仕事だった。
十四階から十五階へ向かう階段は、途中で踊り場が一つ欠けていた。段鼻に沿って泡が盛り上がり、逆流の舌が時おり段を舐める。鴫原が耳をすませ、音の間隔を数える。早くはない。けれど、一段分の跳ね上がりはあり得る音だ。
「開けたら閉める。開けっぱなしの怠惰を、逆流は狙う」
鴫原の独り言は、列の合言葉になって久しい。灯はうなずき、先頭の海斗の背中に視線で合図を送る。海斗は容器を掲げたまま、一段ずつ上がる。
中段で喘息の青年が足を止め、紙コップのスペーサーを手に震わせた。灯が背中に手を添え、海斗が肋骨の下に指を入れる。青年は目を固く閉じ、吐く長さを六に揃える。数は簡単で、難しい。簡単だから、迷いに勝つ。
再び動き出して、十五階の踊り場の手前、外階段の格子に大きな流木が噛んでいるのが見えた。ビルのどこかから流れ込んだ戸棚の板も重なって、濁流はそこで一瞬だけ躊躇した。躊躇した水が渦を作る。渦は力を奪う。奪われた力は、上へ回る。
「束の間の余裕だ。整えられることは全部、ここでやる」
灯は列を半歩だけ脇へ寄せて言う。結衣が頷き、簡易のビニール手袋を二重にした。砂原は名簿の端、今にも千切れそうな角にテープを貼る。少女はヨリの水をペットボトルのキャップで与え、犬は静かに舌を動かした。糖尿の女性はチョコレートを少し舐め、熊谷はロープの端に新しい輪を作る。
ジャージの男が肩を回した。
「屋上のMCは、俺。弟が来たら、最前列だ」
「それ、弟が笑えないよ」
結衣が言って、ほんのわずかな笑いが起きた。笑いは筋肉に油を差す。油が切れるより前に、段差を越える。
十五階の手前で、壁にもう一枚の案内板があった。屋上の矢印。小さな文字は、強い色でこう書いてある。
「ドア開放中の逆流事故に注意」
さっき読んだ言葉と同じ。繰り返される注意は、ここでは祈りの反対だった。繰り返すたびに、体が覚える。覚えたことは、迷いより速い。
灯は片手を挙げ、短く区切った。
「段取りの確認。砂原、数字。海斗、容器。鴫原さん、鍵束。結衣、角。ジャージの人、内側の肩。熊谷、内側の補助。紗耶さんはお父さんと中央。少女とヨリはその右。青年と女性は左。私は掛け声」
「了解」
返事は低く重なる。低い音は、広い場所で崩れにくい。海斗は容器を掲げ直し、視線を前へ滑らせた。十五階の内扉の枠は膨らんでいない。鍵穴に泥はない。鴫原は鍵を選び、差し込んで一度軽く押す。金属の音は正しい。押せる。引ける。動く。
扉を開ける前に、砂原が名簿を胸に当てたまま、短く言葉を並べた。
「揺れているのは数字ではない。場だ。場に引かれた数字が、揺れて見える。私は乗らない」
言い切って、首をすっと横に振る。振り方には迷いが残ったままだが、残ってもいい。残したまま動けるように作られた体を、彼は持っている。
「確認する。次に乗せられる座席があるとして、優先は子ども、介護者、身体の弱い二名。その後は残る覚悟の順で」
灯は線を引くように言った。結衣が息を吸い、吐いて、うなずく。そのうなずきに、辞退の色は混じらない。いる、と決めた目だった。海斗は横目で彼女を見て、視線を戻した。戻す先に、十五階の内扉がある。
「開けるよ」
鴫原が鍵を回す。内扉はすべって、短い踊り場を開く。風が薄く入る。壁紙が柔らかく膨らみ、戻る。屋上へ続く最後の階段は、まだ閉じられたドアの向こうにある。音だけが、そこから漏れてくる。低い、太い風の帯だ。
踊り場の片隅に、誰かが置いた古い折りたたみ椅子があった。背もたれに、蛍光ペンで書かれたメモが貼ってある。文字は滲んでいる。それでも読めた。
「開ける人、閉める人、ありがとう」
誰が書いたのか分からない礼の言葉は、ここでは珍しかった。珍しいから、胸の奥にそのまま刺さる。誰も言葉を足さない。足すと、薄くなる。
列は位置を取った。結衣は扉の角の想像の延長に指を置き、ジャージの男は内側の肩を壁に合わせる。熊谷は反対側で腰を落とし、海斗は容器を掲げ、砂原は名簿を胸に当て、紗耶は父の手を握る。少女はヨリを抱き直し、喘息の青年はコップを握り、糖尿の女性は舌でチョコレートの残りを探した。
「開ける。三秒、視認。閉める。風向きを読む。角度は四十五から五十」
灯が言い、鴫原が鍵を押さえて回す。外の扉が牙を見せ、風が爪を立てる。声より速く、風の圧が肩にかかる。三つの力が同時に扉に触れる。結衣の指が三センチの世界で角を捉え、ジャージの男の肩が内側から押し、熊谷の腰が反対の力を返す。鴫原の背が外から支え、砂原が数字を短く言う。
「四十八」
角度は正しい。外は灰色。黄色い円は泡に半分覆われ、柵の切れ目は変わらない。ヘリの影は、ない。音も、ない。灯は一瞬で視線を横へ滑らせ、屋上のパネルの欠損が昨日より広がっているのを見つけた。欠けたパネルは二枚に増え、脚を取られる危険が増している。
「閉める」
鉄が枠へ戻り、風の牙が空を噛んだ。扉が音を変える。内側の音は、まだ人の声に似ている。灯は短い息を吐いた。
「二回目、角度を浅く入れてから四十八へ持ち上げる。風が北から東へ回っている。保持者は未定のまま」
「未定」
結衣が繰り返した。言葉の重さを、声の中で転がして確かめる。未定は怖いが、正しい。正しいから、怖い。
「砂原」
灯が名を呼ぶ。砂原は名簿を胸に押しつけ、ペンを上げた。揺れている数字の列を、もう一度だけ見直す。視線が海斗の容器へ、結衣の手へ、紗耶の指へ、鴫原の背へ、熊谷の肩へ、それから、自分の額の汗へ降りていく。
「私は、残る。数字は揺らしても、扉は揺らさない」
紙の上で、彼の名前の横に小さな丸がついた。丸は目印ではない。覚悟の位置を忘れないための、針の頭だった。
遠くで、低く長い音が一度だけ鳴った。ヘリの可能性は薄い。薄いまま、風は回り続ける。逆流の舌は下で段を食べ続ける。食べる音が鈍く伝わる。時間の歯が階段に噛みつくたび、列の体は固くなる。固くなった筋肉を、灯の声がほぐす。
「二回目。開ける」
扉が再び吠え、泡が風にちぎれて飛んだ。角度は四十七で入り、四十八で安定する。風の爪が角を食いに来るたび、結衣の指先が押しをずらし、ジャージの男の腰が受け、熊谷の肩が返す。鴫原の背が震え、砂原が数字を削る。開いた視界の奥、屋上の黄色い円の縁に、ヘリの脚が触れたような古い擦り痕が見える。昨日の線だ。昨日の線は、今日には役に立たない。役に立たないことを確認するために、人は目を使う。
「閉める」
鉄が戻る。戻るたび、列の体内の熱が少しずつ削られる。灯は唇を噛み、血の味を舌の裏で確かめた。味は確かで、痛みは薄い。薄い痛みは、判断を邪魔しない。
「三回目は出ない。四回目で出る可能性がある。準備は同じ。保持者は未定のまま。未定でいられるのは、まだ誰も名を置いていないから」
紗耶が小さく頷いた。父の手は冷たいのに、脈はある。脈の速さを自分の心臓に合わせ直す。合わせるたび、心がひとつ軽くなる。軽くなった分だけ、次の重さを持てる。
海斗は容器を掲げ直し、手の汗をズボンで拭いた。鍵は軽い。軽いものほど、落とした傷は深い。彼はその軽さを腕の筋肉に分散するように、持つ角度を変えた。
少女はヨリの耳を撫で、犬は目を細めた。吠えないことが、ここでは賢さの別名だった。
灯は列の全員を一度だけ見て、短く頷いた。頷きは合図になる。合図がある場所では、数字は揺れても足は揺れない。
「三回目。角度の練習だけ。閉める前に、名を呼ばない」
扉が開き、閉まる。開いた間に入ってきた風の匂いは、昨日より金属の色が強い。遠いどこかで、また何かが折れたのだろう。折れた音は、ここでは音にならない。匂いだけが届く。
四回目の前、砂原が息を整え、紙の「保持者:未定」の上にペン先を乗せた。乗せたまま、動かさない。動かした瞬間、この場の温度が変わる。変えられるのは、最後の風だ。
「四回目。開ける」
扉が吠え、風が爪を立て、泡が飛ぶ。角度は四十八。不意に、遠い低音がひとつ重なった。ヘリではない。濁流のどこかに埋まっていた空気が一斉に抜けたような、鈍い腹の底の響きだ。逆流の舌が一段跳ね上がり、下で段が一つ削れた。時間が階段を食べる音が、背中から胃に落ちる。
「閉める」
声が短く刺さり、鉄が枠に収まる。収まった音は小さいのに、十五階の床がわずかに震えた。震えが消える前に、灯は言う。
「ここから、十五階だ。屋上まで、十段。十段のあいだに、数字は必ず変わる。揺れるのは、間違いじゃない。揺れているまま、角度を合わせる」
砂原が名簿を胸に押しつけ、薄く笑った。
「数字は数字。揺れても、紙に残る。壊れるのは、紙じゃないほうだ」
「紙が破れたら、身体で書く」
結衣が言い、指を開いて閉じる。指先の皮膚は赤い。赤いけれど、裂けてはいない。裂けるのは最後でいい。最後に裂ける場所が決まっていれば、その前のすべては生き延びる。
「行こう」
灯の合図で、列は十五階の内扉の前へ身を寄せ、最後の角を曲がる準備をした。外の風は、まだ方角を決めていない。決めないから、こちらが決める。四十八。四十九。四十七。数字は揺れる。揺れながらも、扉は開き、閉じられるはずだ。
海斗は容器をより高く掲げた。奪うなら今、奪わないなら最後まで——いつか自分で言った言葉が、腕の筋肉に沈む。砂原は名簿の上でペン先を浮かせたまま、視線を扉の縁へ送り、鴫原は鍵束を握り直す。熊谷は腰を落とし、ジャージの男は肩を回し、結衣は指で角を捉える位置をもう一度確かめる。紗耶は父の手を握り、少女はヨリの耳を撫で、青年は紙コップを握り、女性は目を閉じる。
十五階へ。十段の先に、空がある。空は灰色だ。灰色でも、空は空だ。そこへ出る条件は、すべてここにある。数字は揺れているが、揺れているままでいい。揺れている数字の上に、それぞれの名前が乗っている。乗ったまま、落ちずに進む。そのために、扉は開き、閉まる。開ける人、閉める人、ありがとう——壁の小さな文字が、濡れた空気の中で、はっきり読めた。




