呆然のエクセレンス
テンダイは駅員の仕事をしている。しかし、テンダイの趣味は手品であり、その手品も中々堂に入ったものである。そうなったのはホウリュウという老人との出会いがきっかけになっている。
手品とは縁のない生活を送っていたテンダイに対して新風を吹かせたのがそのホウリュウという男性である。テンダイとホウリュウの出会いはテンダイが小学校6年生の時の出来事である。
その時のテンダイは公園のベンチで友達を待っていたのだが、その友達は約束の時間になってもやってこなかった。ただし、テンダイが待ちぼうけをしたからといって友達に裏切られたと考えるのは早計である。テンダイが住んでいるのは『愛の国』とも呼ばれるトイワホー国だからである。
大抵の場合においてトイワホー国の国民は理由もなく人との約束を破るようなことなどしないのである。だから、テンダイの待っていた友達にも理由があって公園に来られなかったのである。その時は幸いどちらも無傷だったが、その友達は自転車で接触事故を起こしてしまっていたのである。
スマホを持っていなかったので、残念ながら、その友達はテンダイに連絡することは叶わなかったのである。ホウリュウはそんな時にテンダイの座っているベンチの横に腰を下ろした。
ホウリュウはサイフを開いた。テンダイはとても暇だったので『この老人は何をするのだろう?』と思っていると500パンダの硬貨がテンダイの座っている前の地面に落ちた。
そのため、テンダイはそれを拾ってあげた。ホウリュウは不意に妙なことを言った。ホウリュウは「コインは消えなかったかな?」と言ったのである。それは何を意味するのか、よくわからなかったが、とりあえず、テンダイはホウリュウに硬貨を返した。すると「この硬貨は時々消えてしまうのだ」とホウリュウは主張した。理屈はわからないが、テンダイはそれを聞くとびっくりした。
ホウリュウは件の硬貨をよく見ておくように言ったので、テンダイはその硬貨を凝視した。今のホウリュウは指先を上にして左手の親指と中指でコインを持っている。
ホウリュウは右手でコインを掴み取ったような素振りを見せた。ホウリュウは左手にコインがないことを示すために左の掌を下ろしたあとで握った自分の右の拳を見た。だから、テンダイはホウリュウの右手を注視した。それから、ホウリュウは右手を開いた。なんと、コインはそこから無くなっていた。手品のことはあまりよく知らなかったので、テンダイはそのことには大いにびっくりさせられた。
ホウリュウはテンダイの驚きが冷めてくると「これはフレンチ・ドロップという手品だ」と種を明かした。さっきのホウリュウは右手でコインをつかんだように見せかけてフィンガー・パームという技により、実際は下にしても落ちないように左手の中指と薬指でコインを挟んでいたのである。
これこそはテンダイと手品の出会いである。テンダイはあっという間に手品の虜になってしまった。ホウリュウはもっと見たいのなら、今度は家に来るといいと言ってくれたので、当時のテンダイは喜んでそれに同意した。ホウリュウとテンダイの師弟関係はここから始まった。テンダイにとっては忘れられない思い出の一つである。それはホウリュウにとっても同じことである。
それでは一つだけホウリュウの人柄を現すための挿話を紹介しておくことにする。テンダイは中学校二年生の時に父の馴染みの酒屋でホウリュウのためにペパー・ミントを買った。ペパー・ミントとはリキュールの一種である。未成年者はトイワホー国でもアルコールを購入できないことになっているが、テンダイは父に連れられてその酒屋に来たことが何度もあったので、酒屋のおじさんは酒を売ってくれたのである。ここはやはり『愛の国』と呼ばれるトイワホー国だけあって皆がよくも悪くも寛容なのである。酒屋のおじさんはテンダイが自分で飲むのではなく父のために酒を買ったのだと思ったのである。
その三日後のことである。酒屋のおじさんからホウリュウのためにテンダイが酒を購入したことについて聞いた父はテンダイと話をした。テンダイは父に対して昔も酒屋に入って酒をプレゼントしたことがあった。その時は相当に窘められたのにも関わらず、今回のテンダイは以前ほどに小言を言われることはなかった。それを不審に思ったテンダイは父に対して何度も問いかけると、父は根負けした。
テンダイのやさしさを踏みにじられたくはなかったので、ホウリュウはテンダイの父に対して何度も頭を下げ「どうか、テンダイのことを怒らないで上げてほしい」と言ってくれていたのである。テンダイの父もトイワホー国の国民なので、その話に賛同してくれていたのである。
ホウリュウはそもそもテンダイからお酒をもらった時に次のように言っていた。お酒は体によくないから、プレゼントはそれ以外のものが望ましいとホウリュウはやんわり注意を促していたのである。
大人になった現在のテンダイはこの時のホウリュウの裏に隠された気持ちを汲んであげられている。結論を言えば、ホウリュウはとてもやさしい老人だということである。ホウリュウは人が怒られているシーンすらも考えたくない程の平和主義者なのである。
次の話はテンダイとホウリュウの二人の結びつきをより強めたものである。季節はジングル・ベルが聴こえてくる冬である。トイワホー国には四季というものが存在するのである。
トイワホー国はいくつかの独自の政策を行っているが、その一つとして『愉快なクリスマス』というものがある。『愉快なクリスマス』とは公民館や学校において料理を食べたり素人が出し物をしたりする催しである。料理を食べたい人は料金を払う必要があるが、他の人は無料で入ることができる。
なんにせよ『愉快なクリスマス』のパーティーは誰もが気軽に参加することができるので、昔から多くの人に利用されているし、クリスマスを楽しく過ごしたい人のための社交の場でもある。
高校一年生だったテンダイはその『愉快なクリスマス』で手品を披露することになった。その際のテンダイは前座を務めるつもりであり、その次にはホウリュウが手品を披露することになっていた。ホウリュウは実を言うとその当時から近所でも有名な手品師だったのである。
事件はその夜に起きた。テンダイは完璧な手品を披露したのだが、プロ並みに手品がうまいはずのホウリュウはイージーなミスを三回も繰り返してしまったのである。だから、パーティーの終わったあとのホウリュウは「テンダイはすでに自分を超えたのだ」と言ったが、テンダイはどうしてもそれに納得が行かなかった。だとすると、考えられるのはホウリュウがわざとミスをしたという可能性である。つまり、ホウリュウはテンダイに自信をつけさせてくれようとしたのかもしれないのである。
もし、そうなら、ホウリュウの気持ちはうれしいが、ホウリュウの格好の悪いところを見るのは悲しいというのがテンダイの本心である。その後のホウリュウはテンダイに対して格好の悪いところを見せたことを詫び「自分はしばらく休暇を取ることにする」と打ち明けた。
それからというもの、ホウリュウからの連絡は途切れたので、テンダイは当然のことながらホウリュウのことを心配した。そのため、ある日のテンダイはホウリュウの家を訪れることにした。
ホウリュウの家は果たして留守だった。しかし、ホウリュウの家の隣では外でポリタンクに石油を入れているおばさんがいたので、テンダイは彼女に対してホウリュウの行方を知っているかどうかを聞いてみることにした。そのおばさんは驚きの事実を口にした。
なんと、ホウリュウは手術を受けるために入院しているというのである。テンダイはそのおばさんからホウリュウの入院先を聞いてお礼を言うと早速に問題の病院に向かうことにした。
その後のテンダイはホウリュウと病院で対面することになった。テンダイがやってくると、ホウリュウはまず心配をかけたことを詫びた。しかし、テンダイにはそれよりも気になることがあった。
それというのはどうして入院しているのかという疑問である。その答えは間もなくわかった。ホウリュウは加齢黄斑変性症だったのである。ようするに、今までのホウリュウは片目が見えていなかったのである。もっとも、今は手術も成功しており、ホウリュウの目は順調に回復してはいた。
話は『愉快なクリスマス』での事件に戻る。パーティーでホウリュウが単純なミスを繰り返したのは言うまでもなく片目が見えなかったからなのである。それではなぜパーティーの出し物に参加したのかというと、テンダイは『ホウリュウさんが一緒に手品を披露してくれると勇気が沸く』と発言していたからである。ホウリュウは自分を尊敬してくれているテンダイに対して格好の悪いところを見せたくはなかったので、当初は芸も完璧にしようとしたのだが、残念ながら、それは失敗してしまったのである。
ただし、テンダイは『愉快なクリスマス』のパーティー会場に自分がいることによって安心ができたのなら、ホウリュウは皆の前で恥をかいてもそんなことは構わなかった。
それでも、テンダイに対して言い訳をしたくないから、黙って入院していて目が万全になったら、ホウリュウは再びテンダイと一緒に手品をやりたいと考えていたのである。
ホウリュウは自分よりも劣っている自分がテンダイから今まで通りに師匠と呼んでくれるかどうかと心配していたのだが、テンダイはもちろんホウリュウのおかげで晴れ舞台で成功できたお礼を言って今まで以上にホウリュウのことを慕うようになった。テンダイはホウリュウの気持ちを酌んだのである。
ペパー・ミントの一件でもそうだったが、ホウリュウという老人は人の見ていないところでも人のためになることをすることができるのである。ちなみに、今のホウリュウは82歳で存命である。
テンダイの夢はそんなホウリュウの大きな背中を追いホウリュウのような腕もピカ一で心やさしき手品師になることである。テンダイは素直な大人に育ったのである。
話は変わる。29歳のテンダイは先月に結婚したばかりである。つまり、テンダイは新婚ほやほやなのである。結婚した相手はテンダイと同い年のミズキという女性である。
ミズキには心配性なところもあるが、テンダイはそんなミズキの思いやりのあるところも気に入っている。とはいっても、トイワホー国の国民なら、誰でも思いやりを持っているから、正確に言えば、テンダイはそれ以外の細かいところでもミズキのことを気に入っている。
クリーブランド・ホテルというところで挙式をする際にはこの国の数少ない殺人事件に巻き込まれ一悶は着あったものの、結局はそれもテンダイがミズキとの結束力を強めることになった。
テンダイとミズキはアパートに引っ越し、ミズキは専業主婦に転身した。それはテンダイに対して少しばかり過保護なところのあるミズキの献身ぶりが窺える事実である。
今日は平日の朝である。テンダイはちょうど出勤前にミズキの作ってくれたご飯を食べているところである。ミズキは結婚前から自炊していたので、料理はそつなくこなしている。
「ここに越してから一カ月は経ったけど、テンダイはそろそろ出勤の過程にも慣れてきた?」ミズキは台所においてすでに自分が使った食器を洗いながら話を開始した。
「うん。出勤はもう慣れたよ。それにね。電車の乗り換えは引っ越してくる前より今の方が一つ少ないから、ぼくは助かっているよ。ぼくとしては大満足だけど、ミズキの方はどう?」テンダイは問うた。
「あたしもテンダイと同じよ。あたしはまだまだ主婦として至らないところはあるけど、最初よりは随分と馴染んできていると思う。それに、トイワホー国の国民だけあって近所の人達もやさしいからね」ミズキはいいことを思い出して穏やかな口振りになっている。
「そうだね。ぼくも挨拶に回った時はそう思ったよ。そう言えば、ミズキは今日もラズベリーさんとお茶会をする予定だったよね?」テンダイはミズキの予定を思い出して発言をした。
「ええ。近所の人の皆と仲良くなりたいとは思っているけど、一番に懇意にさせてもらっているのはラズベリーさんだから、あたしは今日を楽しみにしていたの。テンダイは一生懸命にお仕事に励んでいる時なのに、ごめんなさい」ミズキは慎み深い一面を見せて謝罪の言葉を口にした。
「いや。謝る必要はないよ。ぼくにだって楽しんで仕事をする時はあるからね。それに、近所の人との交流を大切にすることはとてもいいことだと思うよ。できれば、ぼくもラズベリーさんとのお茶会に参加したいくらいだから、ミズキはよろしく言っておいてくれるかな?」テンダイは陽気に聞いた。
「ええ。もちろんよ。今は平和だけど、テンダイの言うとおりにラズベリーさんと仲良くしていれば、いざっていう時にすんなりと助け合いができるものね。ことわざで言うところの遠くの親戚よりも近くの他人っていうことかしら?」ミズキは上機嫌に言った。新婚となれば、これはありきたりなものかもしれないが、ミズキがうれしそうにしていると、テンダイは自分の方もうれしい気持ちになっている。
テンダイは今日も定刻のとおりに出勤した。家に残ったミズキは懸命に家事をこなすことにした。パートとしてクリーニング屋で働いていた時もそうだったが、ミズキは働き者の女性なのである。アルバイトは男女のどちらでも言うが、パートは女性のみを言うのである。もっとも、これは蛇足である。
ミズキは洗濯をしたり掃除機をかけたりお風呂の掃除をしたりしてきちんと家事をすませてから家を出た。ラズベリーはテンダイとミズキの部屋の隣に住んでいるのである。
ラズベリーの方はあいにく外出の用意がまだできていなかったので、ラズベリーに先に行って待っていてくれるように言われると、ミズキは一人で徒歩だと5分のところにあるカフェテリアに向かって行った。カフェテリアとは客が料理を自分で選んで食卓に運ぶセルフ・サービス形式の軽食堂のことである。
そのため、ミズキは少し料理を自分の食卓に運んだ。今は12時過ぎである。ラズベリーはミズキが5分も待たない内に店内に現れた。現在の年齢は44歳だが、ラズベリーは年齢よりも若々しく見える女性である。今日のラズベリーはブラウスにティアード・スカートという出で立ちである。
「こんにちは」ラズベリーは挨拶した。「遅れてしまってすみません。本来なら、私も遅刻するとは思っていなかったのですが、息子も急遽「一緒に食事を取りたい」と言い出したので、私はその用意に手間取ってしまったんです」専業主婦のラズベリーは傍にいる中学生の息子を見ながら言った。
「はじめまして」男の子は言った。「チャスティーです。特に母ちゃんとミズキさんの邪魔はしない予定なので、ミズキさんはご安心下さい」チャスティーはそう言いながらもふざけて敬礼をした。ラズベリーは比較的にスリムだが、チャスティーはぽっちゃり系である。チャスティーの体型は父親譲りである。
「はじめまして」ミズキは律義に挨拶を返した。「チャスティーくんはすごく礼儀が正しいのね。とりあえず、お二人も料理を取ってきて下さい。あたしは大人しく待っています」ミズキは提案した。
ラズベリーはミズキにそう言われると恐縮しながらも一旦はチャスティーと一緒にこの場を離れることにした。ミズキは自分でも言っていたが、その間はラズベリーとチャスティーと一緒に食べ始めた方がいいかと思いミズキも料理に手をつけなかった。
ラズベリーとチャスティーの二人はやがてミズキのところに戻ってきた。その際のラズベリーは待たせてしまったことを再び詫びた。チャスティーはまたもや『びしっ!』と敬礼を決めた。
「チャスティーくんは敬礼が好きなんだね。チャスティーくんはもしかして警察や消防士に憧れているのかな?」ミズキはお待ちかねだった食事を始めながら早速に世間話を始めることにした。
「いや」チャスティーは説明をした。「ぼくは小学校の頃に習った軍人のまねをしているんです。戦争はいけないことですけど、ぼくはその時に命をかけて戦った人の気持ちを忘れないようにしているんです」
戦争はこの天地という惑星においては一度しか起きていない。その上『愛の国』であるトイワホー国はもちろんだが、現在は戦争のための兵器を所持している国はどこにも見られない。
「チャスは妙なところで正義感が強いんですよ。『情けは人の為ならず』という私の昔からの言いつけが骨身にしみ込んでいるからか、自分はいいことをすれば、チャスは自分にもいいことがあると信じ込んでいるんです。ですが、その徹底ぶりは少し笑えるんです」ラズベリーはそう言うと具体例を上げた。
例えば、チャスティーはサーチ・ライトを見つけたら『自分は公明正大だ』ということを示すために身を晒し、またはペット・ショップでゲージの鳥に鳴かれたら、その時はきちんと返事をするし、環境の保全をするためとはいえ、ある時は乞食のようにしてゴミを出さずいらない紙を集めてルーズ・リーフの代わりにバインダーで閉じるといったような細々したことまでよく善行をしようとするのである。
「それは確かに徹底的ですね」ミズキは頷いた。「ですが、チャスティーくんはすごいと思いますよ。チャスティーくんはトイワホー国の国民らしく性格がやさしいんだね?」
「いやー!」チャスティーは照れた。「それ程ではありませんよ。話は変わりますけど、ぼくは中学校で何部に入っていると思いますか? 当てるのは相当に難しいかもしれませんけど」
「難しいの?」ミズキは考え込んだ。「なんだろう? 水泳部とか、野球部のキャッチャーとかじゃあ、答えとしては普通よね。チャスティーくんは野球部のエースだったりして」
「ミズキさんは想像力が逞しいんですね。ですが、ミズキさんの解答は残念ながら不正解ですよ。正解は陸上部なんです。それにしても、私にはチャスがピッチャーでエースだなんて考えられませんでした」ラズベリーはそう言うと『びしっ!』とチャスティーの肩を叩いた。チャスティーはそれを気にすることなくすでに食事に心血を注いでいる。チャスティーはのんびり屋なのである。
「まあ、あたしはチャスティーくんがピッチャーをやっていても違和感はないと思いますが、陸上部で活躍しているっていうことだけでもすごくいいことだと思います。ラズベリーさんにはもう一人の息子さんもいらっしゃいましたよね? チャスティーくんのお兄さんですよね?」ミズキは確認した。
「ええ。そのとおりです。上の兄のシェフィルは高校一年生です。チャスとの仲は悪くありませんが、そのシェフィルはチャスティーに負けず劣らずのお調子者だから、私はよく手を焼かされます」ラズベリーは嘆いて見せた。とはいえ、それはほんの軽い気持ちで言っただけである。
「つまり、シェフィルくんは元気がいいんですね? それはまたいいことですね。シェフィルくんの方もなにかの部活に入っているんですか?」ミズキは世間話として何の気なしに聞いた。
「ミズキさんはよくぞ聞いて下さいました。シェフィルは手品部に入っているんです。テンダイさんは手品を趣味にされていますよね? シェフィルはきっとテンダイさんと話が合うと思いますよ。シフィルは少なくとも一回はテンダイさんの手品を見てみたいと言っていましたからね」ラズベリーは最低限のマナーとしてきちんと口に食べ物が入っていない時に言った。
「そうだったんですか。その話を聞けば、テンダイは喜ぶと思います。テンダイにはなにせ師匠はいても教え子になってくれる人はまだいないですからね。あ、でも、勝手にシェフィルくんをテンダイの教え子にしちゃったら、それは少し厚かましい話ですよね。すみません」ミズキは頭を下げた。
「いいえ。私は手品について詳しく知りませんが、シェフィルにはまだまだ学ぶべきことは一杯あるんじゃないかと思いますよ。そうだ。シェフィルの学校では明後日に学園祭があるんです。もし、よかったら、ミズキさんは私と一緒に顔を出しませんか? シェフィルはそこで手品を披露することになっているんです。ミズキさんはもちろんほんの少しの間だけでも構いません」ラズベリーは律儀な態度を見せた。
「それは魅力的な提案ですね。あたしもぜひご一緒をさせて下さい」ミズキは好意的に言った。話はまとまったので、ミズキは時間を設定して小さなノートにそれをメモしておいた。
「私はミズキさんのおかげでシェフィルの学園祭をもっと楽しむことができそうです。お楽しみは明後日だけではなくて明日にもありますよね?」ラズベリーは秘密めかした。
「はい。楽しみとおっしゃって下さるとうれしいです。明日は子供会でテンダイが手品を披露することになっています。子供会での披露は初めてですけど、似たような場数はテンダイも踏んでいるので、おそらくは大丈夫だと思います。あたしは心配性ですけど、少しはテンダイを信用しなくちゃいけませんものね」ミズキは言った。これはクリーブランド・ホテルでミズキがテンダイを殺人犯かもしれないと疑ってしまった時のことを暗示しているので、実は中々に含蓄のあるセリフである。
「そうですね。旦那さんを信用してあげることはとてもいいことですね。私は子供会で役員をやっているので、テンダイさんが手品を披露されている間は心の中でテンダイさんを応援していようと思います。テンダイさんはひょっとしたら私が声を出すと集中力を途切れさせてしまうかもしれませんからね」ラズベリーは慎み深く言った。ラズベリーはおしゃべりだが、そういう心配りはできる女性なのである。
ミズキとラズベリーの二人はその後も井戸端会議を続けた。ラズベリーは少し遠くにあるドライブ・インの映画館の話をしたり、ミズキはタートル・ネックのセーターを買った近くの洋服屋の話をしたりして情報交換をした。ミズキとラズベリーはすっかり仲良しである。
一度はチャスティーによって荷物を見てもらい、ミズキとラズベリーの二人はトイレに行ってから、三人は店を出ることになった。ミズキたちはそれぞれの部屋の前で別れた。その後のミズキは甲斐甲斐しく家事をこなした。それでも、ミズキはテンダイが仕事から帰ってくると一緒に気を楽にした。
ミズキは早速にラズベリーと仲良くなれてうれしかったという話をした。テンダイはそれを自分のことのようにして喜び「自分も今日の茶会に参加したかった」と主張した。
テンダイはシェフィルが手品をやるという話を聞くと一度はシェフィルに会ってみたいものだなと思った。なんにしても、テンダイとミズキの二人は幸せな結婚生活を享受している。ただし、テンダイとミズキはこれから奇妙な出来事に遭遇することになる。それは些か不穏な気配を帯びている。
次の日のテンダイは近くの町内会館に足を運んだ。その理由は子供会で手品を披露するためである。高校生の頃のテンダイは上記のとおりにホウリュウがいないと心細かったが、10年以上の経った今では一人きりでの舞台でもさ程に緊張することはなくなってきている。
ただし、テンダイはそれもこれも全てはホウリュウのおかげだと思っている。テンダイはホウリュウに対してだけではなくいつの時も感謝の気持ちを忘れないようにしている。
テンダイはラズベリーを発見したので、昨日は妻のミズキがお世話になったとお礼を言った。そんなことはないとは言ったが、ラズベリーはとてもうれしそうだった。
テンダイはいよいよ手品をすることになった。テンダイはロー・テーブルの前に座っており、20人ほどの子供たちの中には座っている子と立っている子の両方がいた。テンダイは皆を見渡した。
「はじめまして」テンダイは挨拶をした。「ぼくはテンダイと申します。手品を見るのは初めてという子もいると思います。ですから、ぼくは皆に手品ってすごいなって思ってもらえるようがんばろうと思います。それではよろしくお願い致します」テンダイはそう言うと律儀にぺこりと頭を下げた。すると、子供たちからは拍手で応えてもらえることになった。トイワホー国ではやはり子供もやさしいのである。
普段のテンダイは『ぼく』と言うが、手品をする時は『私』と言っている。しかし、今日は相手が子供なので、テンダイは堅苦しくならないように意図的に今『ぼく』と言ったのである。
テンダイは挨拶を終えると自分の持っている53枚のトランプを扇形に開いた。テンダイは観客の子供たちに対して全種類のカードが揃っていることをアピールした。
「それではまず瞬間移動のマジックをお見せしたいと思います。ぼくは今からトランプをパラパラとやりますので、君は好きな所でストップをかけて下さいますか?」テンダイは小学校二年生の少年を指名して問いかけた。その少年は頷いてから適当なところでストップをかけた。
テンダイはストップのかかったところを切れ目にしてトランプの塊を上下にわけて観客に対して上の塊の一番下にあるカードを見せた。子供たちはそれを注意深く確認した。
「このカードはこれから瞬間移動することになります。皆さんはよく覚えておいて下さい。ぼくも確認をさせてもらいますが、選んでもらったカードは『三つ葉の二』です。それではこの『三つ葉の二』を一番上に持って行きます。一番上のカードはすると間違いなく『三つ葉の二』になりました。だから、ぼくは一番上のカードを持ちます。度々すみませんが、君はこちらの塊を抑えておいて下さいますか?ようは蓋をする訳です」テンダイは説明した。先程の少年は裏側になったトランプの塊を手で蓋した。こうすれば、物理的にはカードを差し入れることは不可能になってしまった訳である。
「それでは注目していて下さい。ぼくの持っている『三つ葉の二』は今からそちらの塊の一番上に移動します」テンダイはそう言うと自分の持っていたカードをあっという間に消して見せた。
件の少年はテンダイの指示によって今まで抑えてきたトランプの塊の一番上のカードを表にした。すると、観客は驚いた。そのカードは確かに『三つ葉の二』だったのである。
これなぜなのかと言うと、テンダイは実のところ『三つ葉の二』を手に取る時に上にあるカードも余分に一枚だけ抜き取っていたのである。テンダイはさらに『三つ葉の二』のカードを一番上に持って行く時にダブル・リフトという技によって二枚のカードを塊の中に置いていたからである。
つまり、本当は『三つ葉の二』の上にもカードが一枚あったのだから、テンダイの持っていたカードは『三つ葉の二』ではなかったのである。そうなると、少年によって抑えてもらっていたトランプの一番上のカードは必然的に最初から少年自身がストップをかけたカードだったという訳である。
それではどうやって『三つ葉の二』の上にあったダミーのカードを消したのかと言うと、テンダイは単純に観客には死角となる自分の膝の上に落としていたのである。
「それでは引き続きトランプによるマジックをご覧頂こうと思います。ぼくはトランプを使ったマジックを最も得意としているのです。先程は瞬間移動をお見せしましたが、次はカードが綺麗に揃うマジックをやらせてもらおうと思います。こちらはとてもシンプルなので、どうか、皆さんは気楽にご覧下さい。まずはここには黒のカードが6枚あります」テンダイはそう言うと6枚のカードを表にして扇形に広げた。そのため、観客は確かに種類の違う黒のカードが6枚あることをしっかりと確認した。
「ぼくは今から一番上にあるカードを一枚ずつ下に置いていこうと思います。ただし、その時は表のまま下において行くのではなく裏→表の順で下において行きます。そうすると、カードは全部の作業が終わった時に裏と表がごっちゃになっているはずですよね? とりあえず、ぼくはやってみようと思います」テンダイはそう言うとそれぞれの先頭の『10のクローバー』を裏にしてテーブルに置いて次の『9のクローバー』を表にして『10のクローバー』の上に置いた。テンダイはその後もゆっくりとした動作で6枚のカードを全て裏表の順で積み重ねていった。観客は誰も口を利かず、この場は静かである。
「ここにある6枚のカードはこれで裏表が交互になったはずです。しかし、これは手品ですから、そうは問屋が卸しません。ご覧下さい」テンダイはそう言うと6枚のカードを裏返してテーブルで広げた。すると、観客はざわついた。広げられたカードはなんと裏表ではなく全てが表になっていたのである。とはいえ、このトリックはこの上なく簡単である。なぜなら、表にしたはずの二番目と4番目のカードはのりでそれぞれの同じ数字とマークのカードが張りつけられていたからである。
つまり、観客は二枚目と4枚目のカードの一方が表なのだから、ひっくり返した時にはもう一方は裏になっているはずだと思っても実は元々その二つのカードには裏なんて存在しなかったのである。
「次の手品はこのぼくのオリジナルです。種類は先程と同じように同じカードを綺麗に揃えるというものです。ぼくはカードをパラパラしますので、マドモアゼルはお好きなところでストップをかけて下さい。ぼくはストップをしたところにエースのカードを一枚ずつ入れていきます。つまり、ぼくは同じ作業を4回する訳ですが、それはご了承下さい」テンダイはそう言うと改めて小学校4年生の女の子に対してパラパラのストップを促す声かけをお願いした。テンダイは52枚のカードを裏にしてパラパラとやったので、女の子は適当なところでストップをかけた。テンダイはそこに一枚のエースを入れた。テンダイはその後も自分でも言っていたとおり同じ作業を三回ほど繰り返すことになった。
「ありがとうございます。ぼくはこれから4枚のエースだけを綺麗に表向きにしたいと思います。ただし、それにはカードの塊をカード・ケースに入れてシャッフルしなければなりません。ですから、皆さんはこのカード・ケースに種も仕掛けもないことをお確かめ下さい」テンダイはそう言うと観客に対して持っていたカード・ケースを色んな角度から見せた。テンダイは観客が十分に見届けたところでカードの塊をカード・ケースに入れてシャッフルを始めた。5秒くらいはシャッフルをすると、テンダイはカードの塊をカード・ケースから取り出して裏向きのままテーブルの上にカードを広げた。
すると、観客は三回目の驚きを味わうことになった。さっきは裏にして入れたはずのエースの4枚がなんと所々で表になっていたのである。実はこれもまたとても簡単なトリックである。
なにしろ、4枚のエースは最初から表になっていたからである。つまり、観客によって4枚のエースを入れてもらったカードは確かに裏にしていたが、それとは別にもう一組のエースは表になって混在していたのである。だから、その4枚のカードは最初から表になっていたのである。
テンダイは4枚のエースを観客の助けを借りてカードの塊に入れるとそれをこれから出てくるものと同一だと思わせ、さらにシェイクすることによってカモフラージュしていたのである。最初にカードを扇形にした時にはネタがバレなかったのはうまくテンダイがエースを隠しとおしたからである。
テンダイはその後もオリジナルの手品をトランプで二つほど披露した。テンダイはやはりトランプによる手品が十八番なのである。テンダイは今日の子供会では5つの手品を披露した訳だが、観客である多くの子供たちはそのどれもで十分にエキサイトすることができた。
今回はこうして一度もミスをすることなく手品を披露することができたので、テンダイはようやく安堵した。テンダイはやがて帰宅の準備を始めた。ラズベリーはそんなテンダイのところにやってきた。
「お疲れ様です。私もしっかりとテンダイさんの手品を見させて頂きましたが、テンダイさんの手品はとてもすばらしかったと思います。テンダイさんはきっと何度も練習を重ねられたんでしょうね?」ラズベリーは聞いた。テンダイは作業の手を休めると紳士的な態度で応じた。
「はい。ぼくはどれも抜かりのないように納得が行くまで練習しました。ラズベリーさんにもどうやら楽しんで頂けたようなので、ぼくはうれしく思います。がんばった甲斐はありました」
「ええ。子供たちからも大好評なので、私としてはまたテンダイさんの手品の披露をお願いしたいくらいです。それはご迷惑ですか?」きちんと気配りのできるラズベリーはしっかりと確認を取った。
「いいえ。迷惑なんてことはありませんよ。ぼくはむしろうれしいくらいです。お客さんに対しては謙虚さを忘れないことこそがぼくの師匠の教えの一つですからね」テンダイは微笑んで答えた。
「そうでしたか。テンダイさんのお師匠さんはテンダイさんと同じくきっとすばらしいお方なんでしょうね。これはミズキさんにもお話をしましたが、うちのシェフィルも手品をやっているので、もし、機会があれば、テンダイさんはシェフィルにも手品のアドバイスなんかをしてもらえませんか?」
「はい。それは喜んで引き受けます。今までは実を言うとあまり人に手品のやり方を教える機会はなかったのですが、シェフィルくんが希望しているなら、ぼくは精一杯にいいアドバイスをできたらいいなと思います」テンダイはうれしそうである。テンダイは自分とホウリュウの関係性を思い出している。
「ありがとうございます。テンダイさんは人間のできた方ですね」ラズベリーは称賛した。テンダイはそれを受けると照れ笑いを浮かべた。野暮になるから、口には出さなかったが、テンダイ自身は自分がそこまでできた人間だとは思っていない。ちなみに、それは謙虚さからくるものだけではない。
なにせ、クリーブランド・ホテルにおいては殺人事件があった時に死体の発見現場に居合わせながら他にも証人はいたのだから、テンダイはわざわざ厄介事に巻き込まれに行くことはないというミズキの意見に従ってしまいその件で警察に申し出なかったことがあるのである。
あの時は結果的にヤツデという素人の男によってその秘密を明かされてしまい自分の意志で警察へと行ったのだが、テンダイは自分のせいで事件を難しくしてしまったので、今度からはもっと他の人を信頼することにしようとミズキと同様にして決心していたのである。
テンダイはやがてラズベリーに対して挨拶をして町内会館を辞した。ミズキはテンダイが家に帰るとテンダイを暖かく迎え入れてくれた。ミズキはテンダイによって首尾よく手品を披露することができたと言われると安堵した。もっとも、テンダイが手品の練習を入念にやっていることはミズキも重々承知していたので、ミズキはさ程に心配していたという訳ではない。
翌日はミズキがラズベリーと一緒にシェフィルの学園祭に行く日である。テンダイはまだシェフィルの手品を見たことがないので、本当は仕事があってミズキと同行できないことを残念に思っている。
だから、ミズキはテンダイの分までしっかりとシェフィルの手品を見てくることを誓った。テンダイはミズキからの報告を楽しみにしていつものように仕事へと行ってしまった。
家に残ったミズキはいつものとおりに家事をこなしてラズベリーの訪問を待った。ラズベリーは二時になるとやって来たので、準備が万端だったミズキはラズベリーと一緒にシェフィルの高校へと向かった。目的の高校はミズキのアパートからはバスで10分のところにある。
「昨日はテンダイさんの手品を見せてもらいましたが、テンダイさんの手品はとてもすばらしかったと思います。テンダイさんのの手品は子供たちにも大好評だったんですよ」ラズベリーはバスの中において話を切り出した。ラズベリーはテンダイに対して最上級の敬意を込めている。
「そうでしたか。それはあたしもうれしく思います。今日はあたしがシェフィルくんの手品で驚く番ですね」ミズキはテンダイを褒められていかにも楽しげな表情を浮かべている。
「いいえ。テンダイさんの手品を見慣れているミズキさんなら、シェフィルの手品は物足りないかもしれませんよ。前にも申し上げたとおり、私はそんなに手品に詳しい訳ではありませんが、シェフィルが手品を始めたのはなにしろ一年前ですからね」ラズベリーはすっかりとリラックスした状態である。
「そうだったんですか。ですが、シェフィルくんは皆の前で発表ができるなんて立派なことだと思います。ラズベリーさんは高校の文化祭に行かれるのは久しぶりですか?」ミズキは聞いた。
「ええ。そのとおりです。なんだか、自分の学生の頃を思い出しちゃいますね。実は私にも女子高生だったことがあるんですよ。とはいっても一年生の頃は全くいけてない文化祭だったんです」ラズベリーはそう言うと思い出話を始めた。その昔のラズベリーのクラスではクラス・メートの皆がモップやレーヨンといったガラクタを持ち寄ってバザーのなりそこないのようなものをやったのである。
しかし、ラズベリーのクラス・メートが決死の思いで持ってきたストロボの着いたカメラも売れず、商売人の腕の見せところも見せられず、売り上げはわずかに500パンダだったのである。500パンダと言えば、コンビニでかろうじてお弁当が一つ買えるくらいの価格である。
「ですが」ミズキはラズベリーの話を全て聞き終えるとすかさず感想を述べた。「今はこうしていい思い出話になっているので、それはそれでいいんじゃないですか?」
「そうおっしゃって下さいますか? ありがとうございます。ミズキさんの方はどうでしたか? ミズキさんはなにか文化祭で晴れやかなことをされたりしましたか?」ラズベリーは興味津々である。
「あたしは着替えのブースがある貸衣装屋をやったことが印象に残っています」ミズキはラズベリーと同様にして昔を思い出した。その昔のミズキのクラスにおいては袴やルバシカやエプロン・ドレスやローブといったものを皆が持ち寄りそれをお客さんに貸すという出し物をしたのである。それだけではなくミズキは自身も着物を着て宣伝をするというようなことも経験した。
「それはいいですね。ミズキさんは明るい方ですから、学生時代のミズキさんもきっと楽しく過ごせたのかもしれませんね」ラズベリーは羨ましそうに言った。その後はバスを降りると、ミズキとラズベリーの二人は真っ直ぐにシェフィルが手品を披露することになっている高校の教室に向かった。
ミズキとラズベリーはやがて目的地の教室でシェフィルを発見した。シェフィルはまだ手品を披露していなかったが、手品が行われることになる教壇の前ではすでに20人ほどの観客がイスに座って手品の披露を心待ちにしていた。
シェフィルの集中力を途切れさせないようにするため、母のラズベリーは息子のシェフィルに対して声をかけたりはしなかった。手品の行われる時間になると、シェフィルは「はーい!」と言った。
「皆さーん。お待たせ致しました。はじめまして」シェフィルは前口上を述べた。「わたくしはシェフィルと申します。あるところに足の悪い三十男がおりましてこの男がですね。って」シェフィルは乗り突っ込みをした。「落語かよ。すみませんね。ぼくは人前に出るとしゃべり倒したくなるんです。って」シェフィルは再び突っ込んだ。「どんな性分だよ。これはまた失礼しました。今回の皆さまに見て頂くのは落語でもなければ、コントでもありません。言わずと知れた手品です。ぼくはそろそろまじめにやらせてもらおうと思います」シェフィルはそう言いながら頭を切り替えることにした。
普段のシェフィルは自分のことを『おれ』というが、手品で観客を相手にする時は『ぼく』とか『わたくし』というようにしている。テンダイは同様にして使い分けているから、そこはテンダイとシェフィルの共通点である。シェフィルのお調子者の加減は人前に出なくてもいつもと同じである。
「それでは始めたいと思います。冒頭ではバカなことを申し上げましたが、手品はミスのないように披露したいと思っています。早速ですが、ぼくは協力をお願いしたいと思います。ここには52枚のトランプがあります。マークや数字はご覧のとおりに全く別のものですね?」シェフィルはそう言いながらカードを扇形にして観客の皆にそれを見せた。そこには確かに種々雑多なカードが入り混じっている。シェフィルはそのカードの塊を裏向きにし、傍にいる男子の高校生により一枚のカードを引いてもらった。その男子生徒が引いたカードは『ハートの12』だった。
シェフィルはそれを声に出すと皆に向かって『ハートの12』のカードを見せた。それから、シェフィルは適当なところを開いて例の男子によって『ハートの12』を52枚のカードの塊の中に入れてもらった。それが終わったら、シェフィルはそのカードの塊を一旦はテーブルに置いた。
「さて『ハートの12』はこれでどこにあるのか、わからなくなってしまいました。しかし、ぼくは今からそれを一発で探り出します。もちろん」シェフィルは笑んだ。「表を見ずに探り出します。そのためには重さを計らないといけないので、ぼくは小道具を使わせて頂きます」シェフィルはそう言うとハンカチを取り出した。シェフィルはカードの塊をハンカチで覆い重さを計るような仕草を見せてから何十枚かのカードを持ち上げた。観客は誰も口を利かず静かにそれを見守っている。
「ぼくの記憶が確かなら、重さはこの程度でした。それでは確認してみましょう」シェフィルはそう言うと残った塊の一番上のカードを表にして観客の皆に見せた。そのカードは間違いなく『ハートの12』だったので、観客からは驚嘆の声が聞こえてきた。ミズキは同様に拍手を送った。
このマジックのトリックの説明をしておくと、シェフィルは確かに最初にカードを扇形に広げたが、広げなかったところには5枚のカードがクリップで止めてあったのである。
だから、シェフィルはクリップでまとまったカードより上を観客に引いてもらい戻す時はクリップでまとまったカードの上にちゃっかりと戻していたのである。
それではどうやって観客にクリップでまとまったカードより上のものを引かせたのかというと、クリップでまとまったカードは割と下の方にあるし、シェフィルは上の方のカードだけを扇形にして観客にカードを引いてもらっていたのである。あとの説明は簡単である。
シェフィルは重さを計ると言っておいてクリップでまとまったカードとその上のカードを全て持ち上げれば、ただ単にそれでいいだけだったのである。シェフィルはとにかくそんな感じでその後も4つの手品を披露した。ミスは結果的に二度もしてしまったが、ラズベリーは息子のシェフィルに対して惜しみのない拍手を送った。ラズベリーとミズキはやがて手品の時間が終わるとシェフィルの所へと向かった。ラズベリーはそれぞれミズキとシェフィルの二人を紹介した。
「手品はなんとかして最後まで漕ぎつけたけど、シェフィルは口が達者よね。シェフィルはただでさえミスしないかって不安だったっていうのに、私は無駄口が空回りするんじゃないかとそっちの心配でヒヤヒヤさせられたのよ」ラズベリーは母親らしく息子に対しての心配性なところを見せた。
「まあ、おれは本気で軽口を叩いているつもりだし、トイワホー国の国民なら、皆は広い心で受け入れてくれるということも織り込みずみだったんだよ。ミズキさんはおれの話で白けましたか?」シェフィルは話を振った。シェフィルはやはり誰にでも友好的なのである。ミズキはそれに応じた。
「いいえ。あたしはああいうのがあってもありだと思うよ。シェフィルくんは堂々としていたけど、緊張はしなかったの?」ミズキは考え事があって少しばかり上の空で問いかけた。
「おれは緊張しっぱなしでした。見かけはお調子者だと思われているかもしれませんが、おれは割と小心者ですからね」シェフィルはなんとなく照れくさそうにしている。
その後のシェフィルにはまだ手品を披露する予定があるので、ミズキとラズベリーの二人はシェフィルに対して励ましの言葉を述べてからこの場を辞した。ミズキとラズベリーは学園祭で食事を取ってから帰途に着くことにした。しかし、食事中のミズキは呆然としていた。
なぜなら、シェフィルがさっき披露していた三つの手品はテンダイが考え出したオリジナルの手品だったからである。ミズキはそれが不思議で呆然としていた。
新妻のミズキはやがて帰宅し、テンダイも仕事から帰ってくると一緒に夕ご飯のカルパッチョを食べることになった。テンダイはやはり新婚生活が楽しそうである。
「今日はお疲れ様だったね。ミズキは学園祭に行ってきたんだよね。シェフィルくんの手品はどんな感じだった?」アラモードのセーターを着たテンダイはミズキと一緒に食事をしながら気になっていたことを口にした。今の季節は秋なのである。トイワホー国では秋に文化祭が行われるのである。
「あたしから見たら、シェフィルくんの手品は上手だったと思う。ある部分は除いてね。それに、シェフィルくんは話術が巧みだから、お客さんの気を引くのもうまかったと思う」ミズキは言った。
「そうか。手品ではトークが重要になってくる時があるから、それはいいことだね。ぼくはますますシェフィルくんに会ってみたくなったよ。まあ、シェフィルくん本人はどう思っているか、わからないけど」テンダイはトイワホー国の国民らしく謙虚な姿勢を見せた。
「あたしの主観を言わせてもらえるなら、シェフィルくんはもしかしたらテンダイと会いたくないんじゃないかしら?」ミズキは真剣な顔をして言った。今までは飾ってあるサボテンをぼんやりと眺めていたテンダイもミズキによってさすがにそう言われるとまじめな顔になった。
「ミズキは随分と意味深なことを言うね。それはどういうことなのかな? 一体」テンダイはあることを思い出した。「そう言えば、ミズキはさっきある部分でシェフィルくんの手品は上手じゃなかったっていうようなことを言っていたね?」テンダイは存外にも的を射た指摘をした。
そのため、ミズキは全ての事情を打ち明けることにした。テンダイとは接触していないにも関わらず、なぜか、シェフィルはテンダイが考え出した手品を三つも披露していたこと、今日のシェフィルは一度もミズキと目を合わせないようにしなかったこと、シェフィルがミスしたのは問題になっている三つの手品の内の二つだということを話したのである。
その間のテンダイは初めから終わりまで相槌だけを打って聞き役に徹していた。
「なるほどね。話はよくわかったよ。でも、それは単なる偶然なんじゃないかな? つまり、ぼくとシェフィルくんは全く同じことを考え出しただけなのかもしれないよ」テンダイは楽観的である。
「あたしはそんなことはありえないと思う。シェフィルくんがあたしと目を合わせなかったのは後ろめたい気持ちがあったからだろうし、シェフィルくんが失敗した二つの手品はテンダイのオリジナルの手品だったのよ。シェフィルくんはもしかしたら最近に覚えたからこそテンダイの手品を失敗しちゃったんじゃないかしら?」ミズキはまじめな表情で言った。ミズキは本気で真相を知りたいと思っている。
「うーん。そうか。となると、ぼくの極秘の情報はどこからか漏れているということになるね。シェフィルくんはこの家にやって来て家探しをしていたとは思えないから、可能性は他にどんなことが考えられるだろう?」テンダイはミズキと同様にまじめな顔をしている。
「テンダイが子供会で披露したものとシェフィルくんが学園祭で披露した三つの手品は全く同じものだったから、一つの可能性を言わせてもらえるなら、それにはラズベリーさんが関わっているんじゃないかしら?」ミズキはまるで探偵のように推理している。しかも、ミズキは自信ありげである。
「ラズベリーさんは確かにぼくの手品をしっかりと見て下さっていたみたいだけど、それは可能性が低いんじゃないかな?仮にだよ。ラズベリーさんはシェフィルくんに対して子供会で見たぼくの手品を教えたとしても、そうなると、シェフィルくんとラズベリーさんは人のオリジナルの手品の種を三つとも見破ったっていうことになるよ。自分で言うのもなんだけど、一つならともかく全ての種を見破られたなんてことは信じられないな。憶測はまたスタート地点に戻ってきちゃったよ」テンダイは言った。
「そうね。あたしもテンダイが一生懸命に考え出した手品をあっという間に見破られたなんて信じたくはないもの。シェフィルくんはどうやってテンダイの手品の種を知ったのかだけじゃなくもう一つ不思議なことがあるのよね」ミズキは相も変わらずに考える人を続行している。
「今のぼくもそう思ったよ。それは動機のことだよね? シェフィルくんはなぜ学園祭でぼくの手品を披露したんだろう?ミズキはそのぼくの手品を見れば、ぼくの考え出したものだっていうことは一発でわかってしまうからね。シェフィルくんはそれともミズキが観客の中にいることを知らなかったのかな?」テンダイは問いかけた。ミズキはまじめなので、テンダイは同様に段々とまじめに考えるようになってきた。テンダイはミズキが自分を思いやってくれていることに気がついているのである。
「いいえ。その可能性はないと思う。ラズベリーさんによると、シェフィルくんはラズベリーさんとあたしが見に行くっていうことを伝えてあったみたいだったもの。そうなると、シェフィルくんの狙いは本当にわからなくなっちゃったみたい。テンダイはどうする? テンダイはシェフィルくんに対して遅かれ早かれ苦情を言いに行く?」これは気が強くて一本気なミズキらしい発言である。
「うーん。どうしようかな? 苦情という程に強くではなくても、ぼくはシェフィルくんとお話をする機会があったら、その時はやんわりと話をシェフィルくんから聞いてみることにするよ」これはまたテンダイらしい発言である。ミズキはそんなテンダイのことを見て微笑んだ。
「テンダイは相も変わらずにお人よしなのね。まあ、テンダイはそれでいいというのなら、あたしも反対はしないけどね」ミズキは穏やかに言った。これは夫を立てる妻の図である。
その後のテンダイとミズキは食後にレモネードを飲んだが、シェフィルについては話題に上がらなかった。もし、シェフィルはテンダイの手品のパクリをしていたとしても、テンダイは先程の会話からもわかるとおりに全く怒っていない。テンダイはやはりやさしいのである。
とはいえ、理由はそれだけではない。ホウリュウはテンダイの手品の師匠だが、同時に心の師でもあるので、テンダイはそのホウリュウと同じく度量の大きい男なのである。
テンダイはやがて束の間のオフ・タイムをゆったりと過ごして就寝することにした。テンダイは時に横になって寝る前に手品の種を考えることもあるが、今夜はシェフィルと自分の手品が一致したことについて一から考え直してみることにした。すると、テンダイにはその理由についての答えが閃いた。
一見すると、可能性は低そうだが、テンダイはもしかしたらこれが正解かもしれないと段々とその推測に自信を持つようになった。テンダイはやがてすぐに眠ってしまった。テンダイは割と寝つきがいい方なのである。シェフィルはなぜテンダイのオリジナルの手品を使っていたかは早晩にわかることになる。
翌日のテンダイは仕事が休みだった。テンダイはパジャマをコットンのTシャツに着替えるとミズキの作ってくれたご飯を食べることにした。今日のテンダイとミズキの朝食はハム・エッグとレタスとカリフラワーと白米である。テンダイは食卓において早速にミズキに対して昨日の寝る前に考えたシェフィルの謎の答えを話した。ミズキはそれを聞くと大いに驚いたが、テンダイの推測を否定はしなかった。
もし、テンダイの考えが本当だとすると自分もシェフィルにテンダイの手品の種を教えた片棒を担いでいることになるので、やさしい性格のミズキは本当に申し訳なく思った。
朝食は食べ終えたので、テンダイとミズキは二人で食器を流し台へと持って行こうとした。インターホンのチャイムはちょうどその時に鳴った。テンダイはダイニングにいたままだったが、ミズキの方は玄関へと向かった。ミズキは間もなく一人でテンダイのところに帰ってきた。
「シェフィルくんはテンダイにお話があるって言ってきてくれたよ。十中八九は例の件についてだと思うけどね。あたしはシェフィルくんを家に上げてもいいよ。その間のあたしはなんなら別のところで仕事しているよ。シェフィルくんはその方が話しやすいかもしれないでしょう?」ミズキは愛情に満ちた瞳をしている。ミズキはテンダイの推測を前提にして話を進めている。テンダイはそれをありがたく感じた。
「うん。そうかもしれないね。ミズキは気づかってくれてありがとう」テンダイはそう言うと玄関に向かった。テンダイは挨拶をしてからシェフィルを玄関に入ってすぐの部屋に案内した。ミズキは宣言したとおりにテンダイとシェフィルの話が終わるまではキッチンで洗い物をしているつもりである。
シェフィルは「失礼します」と言って入室した。「早速に本題に入らせてもらいますが、実はテンダイさんには謝らなければならないことがあるんです。テンダイさんはすでにご存知かもしれませんが、おれはテンダイさんの考え出した手品を勝手に使ってしまいました。どうもすみません」シェフィルはそう言うと正座をしたまま頭を下げた。テンダイはしみじみと「そうか」と言った。
「あれはやっぱり偶然の一致ではなかったんだね。でも、シェフィルくんは謝らなくても大丈夫だよ。ぼくは少しも怒っていないからね。謝りに来るには勇気のいることだったよね?シェフィルくんはそれでも謝りにきてくれたんだから、ぼくは決してシェフィルくんのことを責めたりはしないよ」テンダイは寛大である。シェフィルはテンダイの言葉に胸を打たれた様子である。
「すみません」シェフィルは謝意を表した。「ありがとうございます。テンダイさんはとてもやさしい方なんですね。ですが『お詫びカード』は持ってきたので、どうか、これは受け取って下さい」シェフィルはそう言うとポケットから『お詫びカード』を取り出した。
そのため、テンダイはシェフィルから素直にそのカードを受け取った。なお『お詫びカード』とは数々のトイワホー国の政策の内の一つである。もしも、トイワホー国の国民は誰かに対して礼を失してしまったら、その時はその人へ『お詫びカード』を渡すのである。
それでは『お詫びカード』を貰うと、それにはどんな特典がついてくるのかというとその『お詫びカード』をそのまま『お詫びカード』として使うのもよし、あるいは『お助けカード』として使うこともできるのである。つまり、現在に問題になっている代物は表が『お詫びカード』であり裏が『お助けカード』になっているという訳である。もし、トイワホー国の国民は困っていることがあり人の助けが必要なら、そんな時はその問題を他の人に解決してもらうためにしばしば『お助けカード』が使われるのである。
もちろん『お助けカード』は知り合いでもそうでない人にも使える。助けを頼まれた人は基本的にその頼みを叶えてあげなければならない。とはいえ、無茶苦茶な頼みなら、その時は当然のことながら断ってもいいが『愛の国』とも言われるトイワホー国ではそんな無茶な頼み事をする人はまずいないはずである。もしも『お助けカード』の対象者になり人を助けていたせいで学校や会社に遅れてしまったなら、その時はいいことをしていたので、その人はきちんと許してもらえるのである。
「シェフィルくんが申し訳なく思ってくれているのはよくわかったけど、実のところ、ぼくには聞きたいこともあるんだよ。シェフィルくんはどうやってぼくの手品をコピーしたのかな? それはよくぼくも考えてみたけど、答えはシェフィルくんから教えてもらいたいと思ってね」テンダイは穏やかである。
「わかりました。テンダイさんは最近に子供会で手品を披露されていますよね? あの時はおれの母親もあの場にいました。だから、おれは母親からその日に見たものを聞き出してその手品を研究したんです。とはいえ」シェフィルは少し相好を崩した。「おれはテンダイさんの手品をそう簡単には見破れなかったので、おれが学園祭で披露した手品はテンダイさんの手品のなりそこないの手品だったと思います。母は悪くないんです。おれは母にしつこく聞いたから、母はそれに応えてくれたんです。悪いのはおれ一人です」シェフィルは虚空を見つめてゆっくりと言った。テンダイは少しの間を開けてから再び口を開いた。
「それじゃあ、シェフィルくんはどうして学園祭で例の手品を披露したのかな? あの場にはミズキがいたんだから、ぼくのまねがバレてしまうのはわかりきっていたはずだよね?」テンダイは聞いた。
「それは簡単な話です。おれはただ手品部の他の皆を驚かせたかったんです。皆は実際に手品が終わったあとで喜んでくれていまいした。おれはこそこそと隠れてテンダイさんの手品を披露するより堂々としていた方がまだましなんじゃないかと思ったからでもあります」シェフィルは真剣である。
「なるほどね。理由を聞く限りでは最もらしく聞こえるね。でも、理由は本当にそうなのかな? ぼくはシェフィルくんと長く付き合っている訳ではないけど、シェフィルくんの話してくれた理由とシェフィルくんの性格はそぐわないような気がするよ。シェフィルくんの弁舌のうまさはミズキも認めているしね。シェフィルくんはどうやってぼくの手品の種を知りなぜ学園祭で披露したのか、ぼくは実を言うとその二つの答えを知っているような気がするんだよ。シェフィルくんはさっき『悪いのは自分一人だ』って言っていたけど」テンダイは途中までしか言えなかった。テンダイの家のインターホンのチャイムがまたもや鳴ったのである。テンダイはシェフィルに断りを入れて腰を上げようとした。
しかし、ミズキはテンダイよりも先に玄関へと向かっていた。今日は特に来客の予定はないから、訪問者は誰だろうとテンダイは思いながら先程の話を再開しようとした。ミズキはその時にこの部屋のドアを開けた。ミズキは後ろにシェフィルの弟のチャスティーを連れてきていた。
「お話し中に、ごめんなさい。シェフィルくんだけじゃなくチャスティーくんもテンダイには話があるそうよ。テンダイはもちろん聞いてあげるよね?」ミズキはやさしく問いかけた。
「うん。ぼくは話を聞くよ。どうぞ。チャスティーくんは遠慮しなくてもいいよ」テンダイは穏やかに言った。ミズキの後ろで待機していたチャスティーはテンダイとシェフィルの二人がいる部屋に入って来た。話の邪魔をしないようにするため、ミズキはこっそりとこの場を立ち去ることにした。
「それで?」シェフィルは真っ先に口を開いた。「チャスはテンダイさんになんの話があるんだ? ついでだから、おれも聞かせてもらうことにするよ」シェフィルは興味津々である。しかし、シェフィルには概ねの話の内容がわかっている。テンダイは高みの見物といった体である。
「兄ちゃんはテンダイさんに謝りにきたんだろう?でも、本当に謝らないといけないのはこのぼくだから、ぼくは兄ちゃんがテンダイさんのところに行ったって母ちゃんから聞いて飛んできたんだよ」チャスティーはしょんぼりしている。シェフィルは何かを言おうとしたが、テンダイはその前に口を開いた。
「なるほどね。シェフィルくんとチャスティーくんは思いやりのある子達なんだね。これこそは兄弟愛というやつか。大丈夫だよ。たぶん」テンダイはすぐに続けた。「ぼくは事の真相を知っているけど、シェフィルくんにもチャスティーくんにも怒りを感じているようなことは全くないからね。事の発端はミズキがラズベリーさんとチャスティーくんと一緒にカフェテリアで食事をした時だね?」テンダイは聞いた。
「はい。そのとおりです。母ちゃんとミズキさんはあの日のある時に荷物を置いてトイレに行った時があったんです。ぼくはその時にぼんやりとミズキさんのバックに目を向けたら、ミズキさんのバックの口は開いていていました。ぼくはそのバックの中で『手品ノート』って書いてあるものを発見したんです。ぼくは申し訳ないと思いながらも兄ちゃんのためにそのページのいくつかをスマホで撮影しちゃったんです。どうもすみませんでした」チャスティーは心からの謝罪を口にした。言うまでもないかもしれないが、問題になっている『手品ノート』とはテンダイが自分で考えた手品を書き込んでいるノートのことである。
そのノートは殴り書きではないし、テンダイは元々達筆だったばかりにシェフィルもそれを詳しく理解することができたのである。この件に関してはミズキにも落ち度がある。それは間違ってミズキが門外不出のテンダイの『手品ノート』を外に持って行ってしまったことである。
普段のミズキが持ち歩いている小型のノートとテンダイの『手品ノート』はお揃いだったから、ミズキは持って行くノートを間違えてしまったのである。ミズキはドジを踏んでしまったという訳である。
「チャスは自分の方が悪いと言っていましたが、おれはチャスからそれを見せられてもそれを採用しなければ、よかったんです。全てはおれの間違った選択がこういう事態を引き寄せてしまいました」シェフィルはしっかりと自分の否を認めた。シェフィルは誠実な青年なのである。
「いや」テンダイは打ち消した。「シェフィルくんはやさしいから、本当はその選択しか選べなかったんじゃないかな? それはチャスティーくんが来てくれる前にシェフィルくんが自分だけで罪を被ろうとしていたことからも窺えるよね? そう考えれば、シェフィルくんはなぜわざわざミズキのいる前で手品を披露したのかということにも説明がつくものね。もちろん」テンダイはなおも推論を続けた。「ぼくの手品を隠れて披露するのは卑怯だと思ったのかもしれないけど、シェフィルくんはなによりもチャスティーくんの気持ちを踏みにじりたくなかったんじゃないかな?」テンダイは先程からとても温厚な声で話をしている。テンダイは怒っていない証拠である。
「すみません」チャスティーは素直に謝った。「ぼくは軽い気持ちで悪さをしてしまいました。それがどういう事態を招くのか、ぼくは予測をできなかったなんてバカ者でした。兄ちゃんにも迷惑をかけた。ごめん」チャスティーは俯いている。チャスティーは兄のシェフィルからブルースのCDをもらったり勉強を教えてもらったりグリルやプルコギなんかをおごってくれたりした常日頃のお礼としてシェフィルにテンダイの手品を盗んでしまったのである。しかし、チャスティーはそれによってテンダイだけではなくシェフィルにまで迷惑をかけてしまったので、本人はちゃんと反省しているのである。
「とりあえず、事実の確認ができてよかったよ。真相がわからなければ、ぼくはもやもやしてしまっていただろうからね。ぼくは今回の件を気にしていないから、シェフィルくんとチャスティーくんはこれからもぼくに引け目を感じる必要はないからね。もし、二人はこれからもぼくと付き合いをしてくれるのなら、今回のことは忘れてフランクに行こう。シェフィルくんは特に手品をするから、ぼくは手品師の先輩としてアドバイスしてあげることもできるからね」テンダイはそう言うと気さくに微笑んだ。
シェフィルとチャスティーはそれを受けると感無量の状態でお礼を言った。シェフィルとチャスティーは「困ったことがあれば、自分たちはテンダイとミズキを助けるから、人手が必要な時はいつでも言ってほしい」と言うとテンダイの家を辞去した。この兄弟は基本的にまじめなのである。
その後のテンダイはリビングへ向かった。ミズキはそこへ自分のものとテンダイの分のジャスミン・ティーを持って来た。テンダイはミズキに対して落ち着いた様子で事の顛末を話した。
「そっか。シェフィルくんとチャスティーくんはやさしいが故に苦しんでいたんだね。元はと言えば、あたしのミスから始まったんだけどね。ごめんなさい」ミズキはテンダイからシェフィルとチャスティーとの話を聞き終えると素直に謝った。ミズキは心から反省している。
「いや」テンダイは鷹揚である。「ぼくは別にいいよ。ぼくも『手品ノート』を出しっぱなしにしているのが悪かったんだしね。『手品ノート』は門外不出のものなんだから、ぼくもこれからは『手品ノート』を厳重に保管することにするよ」テンダイは正しい道を選んだ。テンダイは一度もイライラしないのは立派である。一時の感情に流されないのはいいことである。
「それはいいことかもね。テンダイはそれにしてもシェフィルくんとチャスティーくんのことをあっさりと許しちゃったなんてさすがね。でも、内心ではどう思っているのかしら?」ミズキは聞いた。
「ははは」テンダイは一笑に付した。「そんにも嫌味たらしく言わないでくれよ。ぼくは少しも怒っていないよ。できた人間っていうのは高々そのくらいのことでは怒らないものだよ。ぼくはまだ自分ができた人間だとは思っていないけど、高みに近づこうとする努力は怠らないよ」テンダイはどこまでいっても寛大である。ミズキも相好を崩した。ミズキは明らかにテンダイに感化されている。
「あたしは前から知っていたけど、テンダイはいい性格だね。テンダイの目標は手品の師だけじゃなく心の師でもあるホウリュウさんのようなやさしい人になることだものね」ミズキはやさしく言った。
「うん。そのとおりだよ。もし、底意地の悪いことをしたら、ぼくは恥ずかしくてホウリュウさんに合わせる顔がなくなっちゃうからね。さてと」テンダイは立ち上がった。「ゆっくりとでもいいから、支度ができたら、ぼくたちは外出をしようか」テンダイはグラスの中にあったジャスミン・ティーを飲み終えると爽やかに言った。ミズキはこんな事態でもさばさばとしていられる夫を頼もしく思った。テンダイの懐の広さは知っていたが、ミズキは改めてテンダイのこういう一面を見ることができてうれしいのである。
その後のテンダイとミズキは電車で買い物に出かけた。二人はショッピング・センターにおいてテンダイのハーブ・ティーやミズキのクレンジング・クリームといったようなものを購入した。
帰りはスタンド・バーに寄り、テンダイとミズキはホロ酔い気分になった。テンダイはやはり手品の種を取られたということを本当に気にしていないのである。
もっとも、ここは『愛の国』と呼ばれるトイワホー国だから、大抵のことなら、テンダイだけではなく国民は相手の粗相をなんでも許してあげることができるのである。これこそが他国民から羨望の眼差しで見られ、見習おうと思われるトイワホー国の独自の国民性である。
テンダイはこれから呆然とするような二つ目の優秀さ(エクセレンス)を目の当たりにするとも知らずに日々を過ごした。その後の二日間はテンダイにとって気分のいいものだった。翌日のテンダイはチャスティーがやって来て首都のアクア県で開かれる昆虫展のチケットを貰った。アクア県にはテンダイの住んでいるところから一時間もあれば、テンダイは電車で行くことができる。
チャスティーはどうしてチケットをくれたのかというと、その理由は粗相をしてしまったお詫びである。おそらくはチャスティーも昆虫展に行くことを楽しみにしていただろうと思ったから、最初のテンダイはそこまで気を使ってくれなくてもいいと主張したが、チャスティーは引き下がらなかった。
そのため、テンダイはチャスティーの気持ちを酌み、結局はチャスティーからチケットを受け取ることになった。昆虫展に行ってみたいという気持ちはテンダイにしても大いに持っていたのである。
しかも、チケットは二枚もあるので、テンダイはミズキと一緒に行くことができる。昆虫展のチケットはそもそも新聞社から無料でもらったものなので、チャスティーは父親と二人で行こうとしていたのである。しかし、チャスティーの父親はチャスティーが犯した失敗を聞くとチャスティーがテンダイへチケットを贈ることに賛成してくれた。チャスティーはテンダイに対してその次の日も償いをした。
その日は朝から天気がよく天気予報でも雨が降ることはないだろうと言われていた。しかし、夕方からはそれに反してパラパラと雨が降り始めた。チャスティーはそこで行動に出た。チャスティーはミズキのところへ行き、テンダイは仕事に行く時に傘を持って行ったかどうかを聞いた。テンダイは傘を持って行かなかったということを聞くと、チャスティーは最寄りの駅までテンダイのために傘を持って行ってあげたのである。この作戦は結果的に功を奏した。テンダイは大いに喜んでくれたのである。
今は事件の真相が明かされてから三日後である。「話がある」と言われ、テンダイはシェフィルによって食事に誘われた。テンダイはそれを快諾し、今はシェフィルと一緒にお好み焼き屋に来ている。テンダイは二回目だが、シェフィルは何回も来たことのある店である。
「今日はおれからの不躾なお願いを聞いて下さってありがとうございます。場所はどこでもいいとおっしゃってくれたので、お好み焼き屋にしましたが、テンダイさんはそれでよかったですか?」シェフィルは聞いた。シェフィルは細かい気配りができる。それはトイワホー国の国民である証でもある。
「うん」テンダイは首肯した。「ぼくはお好み焼きが好きだからね。それにしても、ぼくはチャスティーくんにとてもよくしてもらってなんだか殿さまになったような気分だよ。チャスティーくんは申し訳ない程にぼくによくしてくれるからね。シェフィルくんはひょっとしたらチャスティーくんからそのことを聞いているかな?」テンダイは質問した。テンダイは鉄板の上で肉や魚介類や野菜を混ぜている。
「はい。その話は聞いています。兄のおれが言うのもなんですが、根はチャスティーもまじめな人間ですからね。もちろん」シェフィルはまじめな顔つきになった。」おれもちゃらんぽらんじゃいけないと思うので、この店の支払いはおれ持ちにさせて下さい。おれはコンビニでアルバイトをしているので、そのくらいは大丈夫です」シェフィルは申し出た。シェフィルは決してけちん坊なんかではないのである。
「いや」テンダイは応じた。「ぼくはそこまでしてもらうなんて悪いよ。だけど、シェフィルくんとチャスティーくんはすごくやさしい子だね。チャスティーくんはシェフィルくんがぼくに恩返しをしようと着々と計画を進めているって言っていたけど、それはこれのことだったのかな?」テンダイはチャスティーとの会話を思い出して言った。テンダイは同時にシェフィルとチャスティーのやさしさに感動している。
「いえ。その計画とはもう一つのことです。テンダイさんはこの近くの演芸ホールで手品を披露されていると聞いたので、おれは密かに客引きをさせてもらったんです。おれの所属している手品部は部員がおれを入れずに6人いるのですが、その全員がテンダイさんの手品を見に行ってくれるって約束をしてくれました。もちろん」シェフィルは慌てて付け足した。「その皆は嫌々じゃないですよ。皆はテンダイさんの手品を楽しみにしています」シェフィルは言った。シェフィルは部員に対してテンダイのことを手品の天才だと評していたのである。だからこそ、部員は掛け値なしでテンダイの手品を見たがっている。
「それは本当にうれしいな。どうもありがとう。でも、なんだか、恩返しと例の件との釣り合いが取れていないみたいだから、ここの支払いはやっぱりぼくがするよ。あるいは割り勘にしよう」テンダイは提案した。テンダイという男の人間性はここにも滲み出ている。シェフィルは引き下がらなかった。
「いや」シェフィルは簡単には引き下がらなかった。「テンダイさんはお気になさらなくてもいいんですよ。それに、実はテンダイさんを食事に誘ったのにはもう一つの要件もあるからなんです。もし、テンダイさんは釣り合いが取れないとおっしゃって下さるなら、ここの会計は一つの相談事に乗って下さることでおれにさせて下さい」シェフィルは申し出た。テンダイは最もなシェフィルの説得にようやく折れた。
「うん。そういうことなら、ぼくも納得せざるを得ないね。というか、ぼくに相談してもシェフィルくんの悩みが解決するかはわからないよ。かといって」テンダイはやさしい口調で言った。「シェフィルくんのお話は聞きたくない訳じゃないから、ぼくは真剣にシェフィルくんのお話を聞くよ」
「ありがとうございます。ですが、それは悩みというほど大げさなものではないので、どうか、テンダイさんは肩肘を張らずにお聞き下さい。チャスは中学校で減量のために陸上部に入っているのですが、陸上部には25人も部員がいるのに、そこの走り幅跳びで一番の成績を残したんです。チャスは自分でも言っていましたし、母は顧問の先生からその件で褒められたと言っていたので、間違いはないと思います。その顧問の先生っていうのは母の義理の兄なんです」シェフィルは相談を始めている。
「なるほどね。チャスティーくんはたくさんの練習をしてがんばったんだね。まさかとは思うけど、相談っていうのはそれを快く思わない人がチャスティーくんに意地悪をするようになったとか、そんな話ではないよね?」テンダイは当然だというような顔をしながらも一応の確認だけはしておいた。
「いや」シェフィルは言った。「問題はそれ以前の話です。おれが聞いた限りではチャスが意地悪をされていることはないと思います。ようはチャスが学校の陸上部で一番の成績を残したこと自体が不思議なんです。ぽっちゃりとした体格をしていることはともかくとしても、今までのチャスは運動会の徒競走や持久走ではビリか、あるいはビリから二番目くらいの成績しか残したことがないんです」
「うーん。チャスティーくんは急にスポーツができるようになったんだね。チャスティーくんは本当に急成長したのか、あるいはドーピングをしたかっていうことも考えられるね。とはいえ、ドーピングしたからって安々とトップの成績を残せるようになるとは限らないけど、今はチャスティーくんの陸上部には25人も部員がいるんだよね?」テンダイは真剣な表情をしたまま思慮深く聞いた。
「はい」シェフィルは頷いた。「そのメンバーの中にはハードルで県大会に出場している人もいるみたいです。おれもチャスが成長したっていうことを信じなくちゃとは思うんですが、おれにはどうしてもなにか裏があるような気がしてならないんです。それに、チャスはおれが走り幅跳びの実力を見せてくれって言っても絶対に見せてくれようとはしてくれません。まあ、それは恥ずかしがっているだけなのかもしれませんが」シェフィルは言い終えた。弁舌の立つシェフィルの主張はさすがに立て板に水である。
「なるほどね。それは確かに少しだけど、ぼくも気になり始めたよ。もし、不正があったとしても、そのことにはなんらかの理由があるはずだものね。それじゃあ、最近のチャスティーくんにはなにか変わったことはあるかな? 今日のチャスティーくんはどうしているのかな?」テンダイは探偵よろしく聞き込みを開始した。もっとも、テンダイは自分が名探偵のような推理をできるとは思っていない。
「変わったことは三つくらいあります。それと、今日のチャスは家で寝ています。今日は熱が出ているので、チャスは寝込んでいるんです。一応はこれも変わったことの一つです。チャスは二週間に一度くらいのペースで熱を出すようになったんです」シェフィルはお好み焼きを食べてから一気に主張した。
「そうか。それは陸上部の件と関係があるのかな? いや。待てよ。今日のチャスティーくんが熱を出したのはもしかするとぼくのせいなんじゃないかな?昨日のチャスティーくんはなにせぼくのために雨の中で駅まで傘を届けてくれたからね。チャスティーくんはそれで体が冷えちゃったのかもしれないね。だとしたら、ぼくは悪いことをしたね。ぼくはチャスティーくんに『ごめん』って言っていたと伝えてくれないかな?」テンダイはここでもきめ細やかな気配りをした。それこそはテンダイの長所の一つである。ただし、テンダイは内心で話が脱線しているかなと密かに考え直している。
「はい」シェフィルは素直である。「わかりました。一応は伝えておきます。とはいえ、最近のチャスは定期的に熱を出しているので、そのことは一概にテンダイさんのせいだとは決め付けられないとおれは思いますけどね。それからですね。最近のチャスの変わったところっていうのはチャスがおれに話しかけることが多くなったり父と一緒に外出することが多くなったり母の手伝いをすることが多くなったりっていうのもそうです。テンダイさんにはなにかピンとくるものはありますか?」シェフィルはテンダイのインスピレーションに期待した。シェフィルは不信感を抱いてはいても特に思い当たることはなんにもないのである。テンダイは「うーん」と言って考え込んでいる。
「そうだな。ぼくは自分で質問しておいてなんだけど、今のところは何も思い浮かばないな。そも、その変化はチャスティーくんの身体能力のアップと関係しているかどうかも難しい問題だからね。そうだ。これは名誉棄損になっちゃうかもしれないけど、最近のチャスティーくんは悪事をしてその罪滅ぼしで家族の皆にやさしくしているのかもしれないね。チャスティーくんの熱はもしかするとそれとも繋がっているのかもしれない。いや。しかし、ぼくはついシェフィルくんの弟のことを悪く言っちゃってごめんね。まあ、これはごく低い可能性の一つだからね。とにかく」テンダイは話をまとめにかかった。「今すぐに結論を出すことは難しいけれど、家に帰ったら、ぼくはもっと落ち着いて考えてみることにするよ。この件はミズキにも聞いてみていいのかな?」テンダイは律儀な質問をした。人に頼ることは時にとてもいいことである。シェフィルは「はい」と言って即座に同意した。
「もちろんです。おれは勝手に相談させてもらったのにも関わらず、テンダイさんはちゃんとお話を聞いてくれてありがとうございます」シェフィルはテンダイに感化されて律儀に礼を述べた。
「いや」テンダイはシェフィルの目を見た。「大丈夫だよ。ぼくに解決できるかはわからないけど、シェフィルくんはここの会計を清算してくれるって言ってくれたし、シェフィルくんとは三日前に『困ったことがあったら、ぼくに言ってね』って約束していたからね」テンダイは穏やかな口調で言った。
このことは三日前の手品の事件解決の時にも気づいていたが、シェフィルはテンダイの度量の大きさに密かに深く感動している。その後のテンダイとシェフィルの間ではチャスティーの謎については話題にならなかった。シェフィルはその代りに手品との出会いを話し、テンダイはクリーブランド・ホテルでの失態についての話をした。シェフィルとチャスティーの父親は実を言うと小説家である。シェフィルはそんな父に憧れて人に感銘を与える仕事をしたいと前々から思っていた。
ところが、一時は小説や詩やマンガや作曲といったものにも手を出してみたが、シェフィルは今一納得の行く結果を出せずにいた。テレビではそんな時に手品をやっていたので、中学生だったシェフィルは自分も手品をやってみることにしたのである。シェフィルはすると手品が好きになり簡単なものなら、自分は上達も早いということに気づいたので、今でも手品を続けて人に感銘を与えられるような手品師になりたいと思うようになったのである。シェフィルには元々手品の隠された才能があったのである。その点はテンダイと少し似ている。そのため、テンダイはシェフィルに親近感を持った。
テンダイが話した内容は一度だけ話に出ているものである。それは殺人事件の死体を発見した時に厄介事に巻き込まれるのが嫌で逃げてしまったという話だが、一つくらいは新しい情報があるとすれば、それの事実を暴いたのはヤツデとビャクブという素人によるものだということである。シェフィルはその話を聞くと大いに驚いたが、当時はテンダイも大いに驚いたものである。もし、テンダイとミズキがあのまま厄介事を抱えて結婚式を挙げていたら、二人の間には嫌なしこりが残っていたはずなので、テンダイはヤツデとビャクブの二人のことをホウリュウと同レベルの恩人だと今でも思っている。性格は元々誠実だったが、テンダイはその事件があってからさらに誠実に生きるようになったのである。
テンダイは同時にシェフィルに対してその話をしながらヤツデとビャクブなら、おそらくは手品にまつわる謎も快刀乱麻を断つように解決してしまっていたのだろうなと思った。
チャスティーのことはよく考えてみることを約束し、その後のテンダイはシェフィルと別れた。家はどうして隣同士なのにも関わらず、テンダイはこのお好み焼き屋で別れたのかというと、その理由は買い物をしたかったからである。自分だけでいい思いをしているのは気が引けてしまったので、性格のいいテンダイはミズキにロゼットを買って帰ることにしたという訳である。テンダイが家に帰って来てロゼットをプレゼントすると、ミズキは当然のことながら喜んだ。少しはホウリュウから影響を受けている部分もあるが、テンダイは子供の頃から思いやりのある人間なのである。
それからはズボンのバックルの調子が悪かったので、とりあえずはその調子を調べたりミズキの家事を手伝ったりしていたが、夕食の時間になると、テンダイはミズキにシェフィルとの会話の内容やチャスティーの一件を話すことになった。ある意味ではこれも新婚の二人には楽しい時間である。
「なるほどね。学園祭での手品の件があるとはいえ、シェフィルくんは演芸ホールでの客引きをやってくれたり、テンダイはお好み焼きをおごってもらったりしたんだし、あたしたちはそれに応えないといけないみたいね」ミズキは楽しい食卓においてピロシキを食べながら勇ましくも抱負を語った。
「そうなんだよ。チャスティーくんの運動神経が発達していないことを前提にするのは確かに気が引けるけど、お兄さんのシェフィルくんは自信を持っておかしいと言うなら、なんらかの隠された事情はきっとあるはずだからね。まず、チャスティーくんはシェフィルくんにお願いをされても決して走り幅跳びを披露してくれないという事実は何を意味しているんだろう?」テンダイは疑問を投げかけた。
「普通に考えると、もし、恥ずかしがっているのでなければ、チャスティーくんは自分の実力がそれ程に向上していないっていうことがバレるのを恐れているんじゃないかしら? つまり、この事実は裏に何かあるっていうシェフィルくんの考えをより強めることになりそうね。でも、最近のチャスティーくんは熱をよく出すようになったのよね?あたしはテンダイと同じで昨日のテンダイの出迎えでチャスティーくんが風邪をひいたんじゃないと思いたいけど、となると、チャスティーくんは部活を遅くまでやっているから、あるいは体を壊しやすくなったとも考えられないかしら?」ミズキは論理的な説明を披露した。
「そうか。ミズキは中々に穿った考え方をするね。ぼくは言われるまで気づかなかったよ。でも、シェフィルくんは最近のチャスティーくんの帰りが遅いっていうようなことは言っていなかったよ。ぼくは最近のチャスティーくんに変化はあるかなっていうようなことを聞いたけど、シェフィルくんはその時もチャスティーくんの帰宅時間については触れていなかったからね。つまり、チャスティーくんが熱を出しやすくなった理由は別のものか、あるいは現にたまたま問題にしている件と時期が重なっただけなのかもしれないね」テンダイは一応の意見を出した。自信はあまりなさそうである。
「それもそうね。チャスティーくんが熱を出すことやチャスティーくんの走り幅跳びがうまくなったことの二つを簡単に結びつけることはあたしも軽率だったかもしれない。そう言えば、あたしは思いついたんだけど、チャスティーくんが走り幅跳びで一番になったって主張しているのはチャスティーくんだけではないのよね? もっと言えば、それはお母さんのラズベリーさんも主張している訳でしょう? もし、チャスティーくんは走り幅跳びで一番になったんじゃなければ、おそらくはラズベリーさんもどこかでこの件に一枚かんでいるということにならないかしら?」ミズキはまたもや最もなことを言った。
「ああ。それもそうだね。ぼくはどうやらぼんやりとしていてミズキに言われないと重要な論点に気づかないみたいだ。でも、仮にだよ。この件にはお母さんのラズベリーさんが関わっているのなら、事態は悪いことじゃないのかもしれないね。ラズベリーさんはどうしてチャスティーくんが部活で一番の成績を残したっていう嘘をついたのか、その部分は依然として謎のままだけどね。とにかく」テンダイはやさしさを見せた。「ぼくにはラズベリーさんとチャスティーくんが一緒になって悪いことを企んでいるなんて考えられないよ」テンダイは生来から人を信じやすい傾向の性格をしている。
「それはあたしも同感よ。そう考えると、探りを入れるのはなんだか申し訳ないみたいね。でも、テンダイはシェフィルくんから相談されたんだから、もう少しくらいは話を続けましょう。チャスティーくんが走り幅跳びで一番になったって主張しているのはチャスティーくんとラズベリーさんと顧問の先生よね。もし、この三人が嘘をついているのだとしたら、それは誰を騙そうとしているのかしら?」ミズキは問いかけた。今ではもはやミズキも名探偵のような気分に浸っている。
「うーん。その人物は誰だろう? もし、その対象者がシェフィルくんだったとしたら、それはおかしいよね。シェフィルくんは戸惑っているだけなんだから、シェフィルくんにもチャスティーくんにもメリットはなさそうだもの。となると、考えられるのはお父さんかな? チャスティーくんは部活でいい成績を残せば、お父さんから欲しいものを買ってあげるって言われていたのかもしれないよね? いや。この考えはダメか。もし、チャスティーくんがお父さんに何かをしてもらったり買ってもらったりしていれば、シェフィルくんはそれをぼくに言っただろうしね。それ以前に」テンダイは正論を述べた。「ぼくに言われなくてもそういう事実があれば、シェフィルくんはその二つを結びつけて考えただろうし」
「なんだか、推理は先に進んでいるどころか、段々と行きづまっているみたいね。論点はもう少ないけど、最近のチャスティーくんは家族にいつも以上にやさしくなったのはどうしてなのかしら? テンダイはこれも部活での成績と関係があると思う?」ミズキはまじめに問いかけた。
「ぼくはありそうな気がするけど、それはあくまでも勘だから、自信はないよ。まず、最初に考えられる理由は嘘をついている後ろめたさが原因っていうことだね。なにかしら、嘘をつかないといけない理由はあるんだけど、チャスティーくんはやっぱり罪悪感を覚えているのかもしれないっていう訳だよ。だけど、ラズベリーさんがこの件に関わっているのなら、それは悪い話ではないっていう話がもう出たんだから、それとは矛盾することになるね。うーん。どういうことなんだろう?」テンダイは悩んでいる。
「そうね。チャスティーくんは見得を張るような性格には思えなかったからなあ。ん? チャスティーくんの性格と言えば、まさか」ミズキは明らかに何かを閃いた様子である。そのため、テンダイは聞き返した。ミズキはある一つの考えを口にした。しかし、謎はその考えを単体で使っても解けなかったので、テンダイとミズキの二人は再びチャスティーを取り巻く状況に考えを巡らせた。すると、テンダイとミズキはついに答えらしきものに辿り着くことができた。努力はいつか実を結ぶものである。
そのため、テンダイとミズキの二人は大はしゃぎしたが、チャスティーの抱えている問題はお世辞にも明るいものだとは言い難いものだった。もっとも、テンダイとミズキは自分たちが導き出した答えがあっているかどうかの絶対的な自信を持っているという訳ではない。
テンダイはそれでも食後に最中を食べながらシェフィルに対して自分たちの検討の結果を近い内に伝えてみようと決心した。テンダイは少しばかり尊大な気分である。
隣に住んでいるとはいえ、テンダイには仕事があるし、シェフィルには学校と部活とアルバイトの三つがあるので、テンダイとシェフィルの二人は何度かメールでやり取りをした。
テンダイは直接にシェフィルと会ってチャスティーに纏わる謎のことを話そうと思ったので、シェフィルからは次の休みに時間をもらおうとした。すると、テンダイはシェフィルの方から耳寄りな情報を貰った。実はシェフィルがテンダイの手品の種を盗んでしまった件でお詫びをしたいので、ラズベリーは夕食をごちそうしたいと少し前から密かに考えていたのである。
最初はシェフィルからそのことを聞くとそこまでしてもらわなくてもいいかなとテンダイは思った。しかし、テンダイはミズキと話し合いをし、結局はその話に乗ることにした。
それはラズベリーの好意を無駄にしたくないというのもあったし、なによりも、ミズキがその時にチャスティーにまつわる謎の答えをラズベリーから聞かせてもらおうと提案していたのである。
次の休日のテンダイとミズキの二人はラズベリーの家に招待された。その食卓にはシェフィルとチャスティーの二人もいる。今日のラズベリーが作ってくれたのはポーク・ソテーである。
「くどいようですが」ラズベリーは口を開いた。「この度は本当に失礼しました。料理はたくさん作りましたので、どうか、テンダイさんとミズキさんは遠慮せずに召し上がって下さい。私は一生懸命に作りましたが、お二人のお口に合うかどうかはわかりません」ラズベリーは言った。
料理に自信はあるので、これはラズベリーの謙遜である。テンダイとミズキはもちろん最前のラズベリーのセリフを社交辞令だと受け取った。
「そのとおりです。料理はじっくりとご堪能下さい」チャスティーは敬礼しながらしたり顔である。
「って」シェフィルは口を挟んだ。「調子に乗るなよ。チャスは態度がでかいぞ。チャスは何一つとして料理の手伝いをしていないだろう。まあ、おれも人のことは言えないけどな。とにかく」今度はテンダイとミズキに対して言った。「母のソテーはおいしいですよ。それから、今のチャスはもう熱が下がっているので、菌をまき散らしているということはないと思いますから、テンダイさんとミズキさんはご安心下さい」これは人柄のよさを感じさせるシェフィルのセリフである。
「そう」ミズキは微笑を浮かべた。「気を使ってくれてありがとう。チャスティーくんは元気になってくれてよかった。テンダイは自分が雨の日にチャスティーくんを外に連れ出したから、チャスティーくんは熱を出したんじゃないかってずっと心配していたからね。それより、テンダイはともかくあたしまでも家に招待させてもらっちゃってすみません。厚かましいとは思ったんですが、ラズベリーさんの手料理はきっとおいしいんだろうなと思ってあたしもちゃっかりとテンダイについて来ちゃいました」
「それは別にいいんですよ。ミズキさんを誘ったのは元々私の方ですからね。ミズキさんはむしろ来て下さってありがとうございます。それに、料理はそんなに手間ではなかったんですよ。夫がいる時は4人分の料理を作りますが、今日は夫が出張でいないので、私はミズキさんの分を入れても5人分の料理を作ればいいだけでしたからね。それにしても、テンダイさんの手品の件は本当にすみませんでした。全ては私の監督不足のせいです。テンダイさんにはさぞかし不愉快な思いをさせてしまったでしょうね?」ラズベリーは聞いた。ラズベリーは責任感の強い女性でもある。テンダイは「いえいえ」と言って取り成した。
「ぼくは別にそんなことはありませんでしたよ。シェフィルくんやチャスティーくんとはこのことをきっかけにして交流を持てるようになったので、ぼくはむしろうれしかったくらいです。ぼくが作ったオリジナルの手品には確かに思い入れはありますが、ぼくの長年の夢は広い心を持った手品師になることですから」テンダイは恩人であるホウリュウを思い出しながら言った。
「今のままだと失礼ですから、無理ですけど、行く行くはおれもそんなテンダイさんの弟子の座を射止めようとしているんですよ。テンダイさんはご存知でしたか?」シェフィルは聞いた。
「いや」テンダイは照れている。「それは全く知らなかったよ。でも、それは本当にうれしい話だね」テンダイはそ言いながら自分にも手品の弟子ができたら、ホウリュウはなんというかなと思った。
ちなみに、ホウリュウはその報告を受けるとまず間違いなくテンダイと一緒にそのことを喜んでくれるのだろうということは言える。ホウリュウはやはり好々爺なのである。
テンダイたちの5人の会食はその後も和やかに行われた。ミズキとラズベリーは料理のことを話したり、チャスティーは減量のためにも町内のマラソン大会に出ようという話が出たりした。
シェフィルとチャスティーはやがて食事が終わると二階へと上がった。実はテンダイとミズキの部屋もそうだが、このアパートは一室が二階建てになっているのである。
テンダイとミズキとラズベリーの三人はリビングに腰を下ろした。テンダイとミズキはチャスティーの一件を話し始めようとしたが、テンダイはその前にトイレに行かせてもらうことにした。
「あれ?」テンダイは立ち止った。「そう言えば、ぼくは食器を台所に移動させていませんでしたね。ミズキはちゃんと片づけているのに、ぼくはだらしがないですね。食器は今すぐに移動させちゃいましょうか」立ち止っていたテンダイはそう言うとダイニングに向かおうとした。
しかし、ラズベリーはそれを制止した。
「いえ。大丈夫です。それはテンダイさんがお手洗いに行かれている間に私がやっておきます。テンダイさんはなにせお客さんですからね。テンダイさんは楽にしてもらっていて結構ですよ」
「そうですか。お気づかいをありがとうございます。それではお言葉に甘えて」テンダイはそう言うとリビング階段の横を通りドアを開けてトイレに行ってしまった。ラズベリーはそれを見届けると宣言したとおりさっとテンダイの食器を台所に移してミズキのいるリビングに帰ってきた。テンダイとミズキとラズベリーはテンダイが帰ってくると、やがてはロー・テーブルの前で座っている状態になった。
「これは不躾な質問で大変に恐縮なのですが、ラズベリーさんはシェフィルくんとチャスティーくんに隠し事をされていらっしゃいますよね? いや。他の家庭の余計な詮索はもちろんいけないとは思ったのですが、ぼくは何分にもシェフィルくんから相談をされた身なので、どうか、お許し下さい」テンダイはへりくだった。テンダイの隣にいるミズキはもちろん同様にして恐縮そうにしている。
「ええ。私は別に気を害したりはしませんが、シェフィルはまたテンダイさんの手を煩わせてしまったのですか。どうもすみません。それで?」ラズベリーは促した。「シェフィルはテンダイさんに対してどんな相談をしたのですか?私には秘密にしていることがないとは言いません」ラズベリーは主張した。
「あたしもテンダイからまた聞きをしたんですが、シェフィルくんはチャスティーくんが部活で好成績を残したのには訳があると言っていたそうなんです。もし、本当にその事実に裏があるのだとしたら、あたしとテンダイが出した結論はチャスティーくんに身体の危機が迫っているんじゃないかということです」ミズキはなんとなく名探偵みたいで恥ずかしいなと思いつつも一気に喋った。
「ぼくたちの推測はもしかしたら外れているかもしれませんが、チャスティーくんがシェフィルくんに部活で一番であるはずの走り幅跳びを見せてくれないのはやっぱり実力がアップしていないからではないかと思ったんです。その考えはチャスティーくんには申し訳ないですけどね。ですが、チャスティーくんとラズベリーさんと顧問の先生の全員が嘘つきだと考えるのは難しそうですから、チャスティーくんが走り幅跳びで一番になったのは本当だったのではないかと思ったんです。それではどうして運動能力がアップしていないはずのチャスティーくんは部活で一番の成績を残せたのかというと他の部員の人達が本気を出さなかったからじゃないかと思えたんです。まあ、ぼくは格好よく推理しているみたいですが、実は先に結論がわかったから、ぼくたちにはそこに至るまでの事情がわかったんです。その結論というのはチャスティーくんがレンリール病に罹患しているというものではありませんか?」テンダイはいよいよ核心をついた。脳卒中は意識を失って倒れて手足の随意運動が不能になるが、レンリール病というものはそれと似たところのあるこの天地という惑星だけにある病のことである。
レンリール病は発熱を繰り返し、やがては手足が不自由になる病気である。とはいえ、現在では『医の国』ラブルエーテ国で作られた薬を飲んでいれば、多くの人は最悪の状況を免れるようになっている。一時期は新聞やテレビといったマス・メディアでも取り沙汰されていたので、テンダイはチャスティーがレンリール病なのではないだろうかと思うようになったのである。
ミズキはチャスティーの性格からレンリール病のインスピレーションを受けていたが、あれは家族にやさしくすることにより、チャスティーは自分にも福を呼び込もうとしているのではないかと考えたのである。つまり、いつも以上にチャスティーが家族にやさしくするようになったのはペット・ショップで鳥に話しかけられたら、返事をするというようなチャスティーの性格の一つの側面だったのである。
「チャスティーは確かにレンリール病に罹患しています。ですが、そのことはまだチャスティー本人には言っていません。レンリール病の多くの人は現在の医学で回復に向かいますが、実はごくまれに服薬しても効果のない人もいるそうなんです。ですから、私はそれを言って怖がらせる必要はないんじゃないかと思い、チャスにはまだこのことを話していないんです。チャスの部活の顧問である私の従姉弟にはこのことを話しました。その従姉弟がチャスの部活の生徒たちにそのことを話すと驚くべきことが起きたんです。ここはトイワホー国だから、あんな奇跡は起きたのだと思いますが、陸上部の他の部員たちは万が一のことを考えてチャスにいい思い出を残してあげようと故意にチャスのことを走り幅跳びで一番にしてくれたんです。信じられないような話ですが、この話は本当なんです。テンダイさんはもしかしてそれも推理されていたんですか?」ラズベリーは恐る恐るといった感じで聞いた。
「いえいえ」テンダイは恐縮した。「ぼくは名探偵ではありませんから、そこまでは予想していませんでした。ですから、ぼくも今は大いに驚いています。陸上部の部員の行動が適切かどうかはともかく」テンダイは提案した。「ラズベリーさんはチャスティーくんに本当のことを打ち明けてしまった方がいいのではありませんか?」テンダイは真剣な顔をしている。
それはテンダイがチャスティーのことを本当に心配している証である。
「おれもそう思うよ。母さんのやさしさはよくわかるけど、それだと、チャスには余計な恐怖心を与えかねないと思うんだ。まあ、話を打ち明けても恐怖心は感じるだろうけど」シェフィルはそう言って突然に現れた。しかも、シェフィルは階段からではなくなぜか隣の部屋から現れた。
「シェフィルはそれ以前にいつからそこにいたの?」ラズベリーは不思議そうである。「シェフィルはさっき二階に上がったはずでしょう? シェフィルはお得意の手品を披露したっていう訳なの?」
「まあ、あれは手品っていう程のトリックか、わからないけど、おれはテンダイさんがトイレに行くって言われて立ち上がった時に階段で待機をしていたから、実はテンダイさんがドアを開けた時にテンダイさんの行動に合わせてミズキさんと母さんの死角に入るようにして一緒に部屋を出て行ったんだよ。テンダイさんはおれにも話を聞かせてくれるように手助けして下さったんだ。食器が云々の話はテンダイさんが母さんの気をそらすためにおっしゃったセリフだったんだよ。とにかく」シェフィルは向き直った。「テンダイさんは協力してくれてありがとうございます。話を戻すけど、おれは真相をチャスに話した方がいいと思うよ。チャスは神経が太いから、それ程にショックを受けるとは思えないよ。チャスはましてや死ぬ訳じゃないし、確率としては治る方が高いしね」シェフィルは弁舌も豊かに長々と言った。
今のところのラズベリーはチャスティーに対して風邪に毛が生えたものだと言っているのである。ミズキはここで口を挟んだ。
「あたしにも発言をさせてもらえるなら、チャスティーくんはなにかを察してすでにシェフィルくんの言うとおりに不安感を抱いているのかもしれません。もちろん」ミズキは真摯な気持ちで言った。ミズキは真摯な気持ちで言った。ミズキは真摯な気持ちで言った。ミズキは真摯な気持ちで言った。「あたしは絶対に真相を明かした方がいいとは言いませんが、ラズベリーさんはあたしの意見も参考にして下さるといいなと思っています」ミズキはラズベリーの反応を待った。
「わかりました」ラズベリーはしばしの間を開けてよく話を咀嚼してからそれに応じた。「テンダイさんとミズキさんも親身になってチャスのことを考えてくれてありがとうございます。実は私もそのことで迷っていたので、どうするかを決めたら、その時はテンダイさんとミズキさんのお二人にもご報告させて頂きます」ラズベリーはそう言うとぺこりと頭を垂れた。その後はしばしの雑談をしてからテンダイとミズキの二人はラズベリーの家を辞した。ラズベリーはもちろんその際にもお礼を言ったし、テンダイとミズキの二人の方は立ち入った話をしてしまったことを詫びた。テンダイとミズキはやがて自分たちの家でブランデーを開けることにした。テンダイはリラックスした状態で言った。
「ラズベリーさんに対しては最後に謝ったけど、ぼくたちは傍迷惑だったかな? あわよくば、ぼくたちはラズベリーさんたちに新風を吹かせてあげられるといいんだけど、それは贅沢かな?」
「いいえ。そんなことは意外とないんじゃない? これは自惚れかもしれないけど、あたしはいい仕事をしたと思うよ。少なくとも、シェフィルくんは真相がわかってよかったと思うしね。それに、推理を披露している時のテンダイは格好よかったよ。あの時のテンダイはまるでクリーブランド・ホテルでのヤツデさんみたいだった」ミズキは思い出した。ヤツデの推理力はそれ程にすばらしかったのである。
「そうかな? もし、そうなら、ぼくは手品の披露で慣れているせいかな? でも、ミズキはそう言ってくれるなら、ぼくはうれしいよ。ぼくはヤツデくんにも憧れているからね。ラズベリーさんとシェフィルくんはこれからどうするか、チャスティーくんはどうなるのか、ぼくは怖いような気もするけど、全ては丸く収まるといいね。ぼくたちはそれを願っていよう」テンダイはものすごく穏やかな口調で言った。
ミズキはもちろんテンダイの意見に同意した。その後のテンダイとミズキはラズベリーからチャスティーに対してレンリール病のことを打ち明けたということを聞くことになった。
それはラズベリーとシェフィルがよく話し合った結果だが、チャスティーはやはり大してそのことに怯えはしなかった。レンリール病で薬が効かない人は実を言うと相当にまれなので、おっとりしたチャスティーはそれを気にしなかったのである。とはいっても、ラズベリーとシェフィルは強調をしたから、チャスティーは楽天的でいられたという側面もある。これこそは親子愛と兄弟愛というものである。
陸上部での一件はさすがにラズベリーとシェフィルもチャスティーに対して話さなかったが、その選択は間違っていないだろうと、ラズベリーとシェフィルの二人は思っている。これは二ヶ月後の話だが、チャスティーのレンリール病は完治する運命だったので、全てはハッピー・エンドを迎えた。
チャスティーはたまたま真相を知ってよかったが、重大な病気にかかった本人に対して病気の事実を伝えるかどうかは難しい問題である。ただし、世の中には知らない方がいいこともあるが、時には知らないことが恐怖を生むこともある。テンダイのやさしさを知らなかったシェフィルと自分の体調を把握していなかったチャスティーの二人は物事や事実を知ることで不安を解消することができたのである。




