序、ある記録官の救出(後悔はここから)
階段を降りていく段階で、すえた匂いがした。
覚悟はしていたもののベルの口からため息が出てしまう。まだ吐くには早いとわかっていても、これから見るものに想像がつけば止められない。人はどうしてここまで残酷になれるのか、そんな光景が間違いなく待ち構えている。
一度は目に焼き付けておくべきだ。今後二度と起こさせないよう知っておかなければならない。自ら買って出た。覚悟のうえで来たつもりでも、先の戦いで負傷した右腕が痛みだす。僕の気持ちが弱いせいとしたいくらい、空気が腐っている。
死臭にまみれた地下牢だった。
「ベルのお兄ちゃん、顔色が悪いよ。だいじょうぶ?」
「あまり無理するなよ、怪我人なんだからな」
キキョウが心配そうに顔を覗き込み、ヨシツネがいつもお調子者の口調で気を遣う。
二人には元気づけられた。ベルの気分はだいぶ持ち直す。
「ごめん、僕は大丈夫だよ。それにヨシツネのほうが怪我は酷いはずだろ」
「大怪我なんてガキの頃から何度もしてるしな。こんなのいつものことだ。それよりも……」
途中でヨシツネは答えを止めた、というより置いた。階段を降りきり、火をかざす。通路の壁に設置された灯りを点けていく。
いくら明るくしても牢内から反応はない。
中を覗けば、いずれもやはりとする状況だった。痩せこけた屍体ばかりだ。腐乱して人の原型を留めていないものもある。ただし全体的にある共通項を持っている。
それほど昔ではない。
拘束ではなく処刑として牢へ閉じ込められた者は、近年のユラン皇帝時代においてであった。裏付ける証拠がここにある。
「ユラン皇帝になってから、本当に見境なくなっていたみたいだね」
ひどい……、と忍びのキキョウが口にしたくらいである。
改めてベルも思う。かつて画策した暗殺は手順が浅慮でも、狙う相手としては間違いでなかったみたいだ。
けれどもユリウスに諭された言葉も思い出す。皇帝だけ殺っても今の状況は変わらないぞ。
「さてと、生きているヤツがいるか確認するか。屍体はこのまま残しておくぜ。いかに帝国がヤバかったか、証明するものは多ければ多いほどいいからな」
ヨシツネが途中で置いた答えの残りを口にする。
了解の返事と共に三人は手分けして探す。もしかして生存者がいるかもしれない。帝国の悪虐を示す代物として地下牢はこのままにするが、まだ息のある者は救いたい。
確認が進むにつれ絶望の色が濃くなっていく。
もう誰もいないか、と諦めかけた時だった。
「おい、おまえ。生きてんのか」
素っ頓狂なヨシツネの声に、ベルとキキョウは急いで向かう。
最奥の牢内だった。かけ布もなく、ぼろぼろの囚人服で寝転がっている。髭はぼうぼうで髪も伸び放題。かろうじて男性だとわかる。それ以上の事柄は見た目から判明できない、と思ったらだ。
「なんだ、おまえかよ」
ようやく見つけた生存者にも関わらず、ヨシツネのうんざりした様子だ。
「ヨシツネの知っている相手なのか」
「ベルだって知っているヤツだぜ」
えっ、とベルは目をこらす。もっともここでは正体の見極めに視力の良さなど関係ない。記憶に重ねられるかどうかの話しだ。
「わからないなぁー、誰だい?」
「あいつだよ、あのうざってぇー、戦闘記録官っ」
「ウィリアムか!」
思い当たったら当たったでベルの顔が微妙な感じになった。
蚊帳の外とするキキョウは当然ながら確かめずにいられない。
「ウィリアムって言うんだ。ベルのお兄ちゃんもヨシツネさんもよく知っている人みたいだけど」
「それはもう、キキョウちゃん。この人なんだよ、僕らを『四天』なんて呼ばれるようにしたのは」
へぇー、とキキョウは今ひとつピンっとこない様子だ。愛称を付けた人物なのはわかった。なんでせっかくの生存者を発見したにも関わらず、二人が失敗したみたいな顔をしているかが不明だ。もっと尋ねなければ訳がわからない。
が、その前に動きがあった。
ウィリアムと呼ばれた囚人服の男が寝返りを打った。おっと声も上げてくる。どうやら目覚めたらしい。
助けにきました、とキキョウが声をかけるなりだ。
「なんだ、帝国の連中か」
不機嫌そのもので吐き捨ててくる。
きっと過酷な投獄生活で意識が混濁しているのだろう。そう斟酌したキキョウは優しく事情を伝えようと思う。
だがぞんざいな返事のほうが早かった。
「なんだ、オレたちがわからないか。牢屋に入っているうち耄碌したか。優れた記憶力のおかげで記録官に抜擢されたんだって威張っていたくせによー」
痩せこけた相手だろうが構わずヨシツネは挑発している。
驚くことに、すっかり弱っていそうなくせ乗ってきた。しかも元気な声で。
「バカにするな、ヨシツネ、それにベルだろ。覚えているとも、ああ覚えている。せっかくこの私が『死を司る天使たち』と美麗な命名をしてやったにも関わらず、『四天王』の略みたいな安直な形へ変えるなど、本当にセンスのない連中だ」
「おまえのほうこそ、どうかしてんだろ。髭面も混じるいい大人の男たちに天使だぁー。呼ばれるほうは恥ずかしくなって戦う気が失せるってなもんなんだよ」
キキョウがベルへ向く。そうなの? と尋ねたら、うんとうなずき返された。
二人がやいのやいの始めれば、地下牢へ入った当初の深刻さが懐かしくなってくる。まだ数十分も経っていない。
「そういうことだから帝国の都合いいようにだけ記録するなど真っ平御免蒙る。権力者の都合でつまらぬ時間を過ごすくらいなら死んだほうがマシだ」
そう言ってウィリアムは、ぷいっと寝転んだまま横を向く。誰とも顔を合わせたくないと、すねた感じにも見受けられる。なかなか付き合い難そうな人だ。
どうするの? とキキョウが二人へ小さな声で訊く。
にこり、とベルがした。にやり、とヨシツネが人の悪い顔をした。
「ところでさ、僕らもう帝国の者じゃないんだよね」
ピクリ、横たわるウィリアムの肩が震えている。
「もう帝国はなくなっているぜ」
がばっと囚人服が起きた。すっかり痩せこけた身体のどこからとする大声が飛び出てきた。
「もしや外はトンデモないことが起きているのか」
ベルとヨシツネが簡単に状況を教えたらである。
こんな面白い時代に死ねるかー、と叫ぶ帝国記録官ウィリアムの顔は紛れもない恍惚で彩られていた。
こうしてユリウス治世下の記録を残すこととなる人物は救出された。
もっとも仕事熱心すぎてウィリアムの手は公式に限らず私事まで及ぶ。四天の二人の、やっぱり助けるんじゃなかったとなりそうな予感は、見事なくらい当たることとなる。




