【外伝】The First Song in the Moon 第三話
ティル技長。あるいはティル統括技術長。
この名を聞いて、ある猫は尊敬に顔を熱くし、ある猫は机の下に逃げ込むという。
ティルもまたファミーの理解を超えた猫人である。
あらゆることを知り、あらゆるものを生み出す、建国神話から名前を連ねる科学猫。
猫らしく小柄ながらスタイルは抜群のものがあり、所作には知的さと華やかさが同居している。白衣を颯爽となびかせ、現場を指揮して回る姿にはシュガーとも違う凛々しさ、あるいは美しさがあった。
その仕事場は月に建造された技術工房。もし電源の入っていない時にここを訪れたならば、そのほとんど物のない空間に奇妙な印象を覚えただろう。
折り畳み式の椅子が部屋の隅に立てかけてあるだけで、デスクも工具もなく、端末らしきものが見当たらない。
ティルが親指と人差し指でL字を作ればそこにモニター画面が浮かび、指をピアノを弾くように動かせばそこにキーボードが浮かぶ。全ては動作に紐付けされたコマンドで行われている。
ファミーが部屋の入り口に立ったとき、その指揮者のような動きに目が引き付けられ、つと足が止まる。
モニターから声が響く。
『にゃー、ティル技長、植物工場の基礎工事、検査完了ですにゃー』
「分かりましたにゃ、建設機を出すから人員は退避するですにゃ」
また別の窓が開く。今度は数人が映り込んでいた。
『にゃー、ティル技長、大浴場のトイレを改装してほしいですにゃー』
『あそこ狭いにゃー』
「分かりましたにゃ、広げるだけでいいですにゃ? 何か希望があれば反映させますにゃ」
『にゃー、便座が光ると楽しいですにゃー』
『にゃー、吊り天井の罠の方がいいにゃー』
「なぜトイレに罠を……?」
そこでティルは腕をゆっくり動かす、周囲のモニターが一ヶ所に寄せられ、振り向いて笑う。
「ファミー伍長、何か用ですかにゃ」
「あ……」
その仕事ぶりに、しばし茫然としていたらしい。
「その、シュガー伍長のことを聞きたくて」
「シュガー伍長ですかにゃ、ふむ、そういえば兵長の座をかけて模擬戦をやるらしいですにゃ」
ティルは体の脇でキーボードの立体映像を叩き、どこかへ指示を出す。
「これから行きますにゃ」
『はいにゃー、了解ですにゃー』
「ファミー伍長、見せたいものがありますにゃ」
「……?」
※
ティル技長が月で発明したものは、一説では数百に及ぶという。どこでも呼び出せるホロ・スイカ。月を動かしている核融合エンジン。多種多様な建設機械。
いま二人を乗せているのもティルの発明、銀色のエイである。
機械で再現された砂絨毯であり、全体は縦横3メートルほどのひし形。月の表面に張り巡らされた不可視の磁気レールを走行する浮上式列車である。その速度は最大で時速2000キロに達するという。
二人は宇宙服を身に付け、月面を駆ける。それなりに地形は造成されているが、施設の外に出てしまえば岩の大地なことは間違いない。しかしまったく揺れも感じず、移動しているという感覚すら希薄になりそうな乗り心地だった。
「シュガー伍長が野良猫であることはご存じですにゃ?」
「はい、本人から聞きましたにゃ」
「月にはいま30人ほどの野良猫がいますにゃ。核融合エンジンの出力が安定したら、もっと人口を増やしてもいいと考えていますにゃ。何をするにも人手は必要なのですにゃ」
ファミーにはあまり実感のない話である。月の社会において、人口はここ10年ほど変化がなかったのだから。
そうするうちに銀のエイが表面を変形させ、座椅子のような足場のようなものが出てくる。二人はゆっくりと立ち上がり、進行方向を下にして立つような形になる。加速度による疑似重力の世界で、エイは月の側面を下る。
「ファミー伍長は前世のことを覚えてますにゃ?」
「はい、以前に霊薬を飲みましたにゃ。戦闘訓練と銃器の扱いなどの経験を十分に」
「いいや、もっと前のことですにゃ。っと、着きましたにゃ」
そこはファミーたちの暮らす場所から千キロあまり、月の側面にある施設だった。
進行方向、地平線の果てにはダイヤモンドダストのような白い輝きが見える。あれは核融合エンジンから排出される微粒子の風だろうか。
大地にゲートがある。もし見かけの重力がなければ真下に向かう穴だろう。銀のエイはそこに入っていき、エアハッチをくぐったところで動きを止める。
「ここは?」
「夢の王が安置されている場所ですにゃ。ここだけは他の施設と切り離されて建造されていて、特に優秀で勤勉な、選りすぐりの兵によって守られていますにゃ」
ティルたちの宇宙服はヘルメットが着脱式であり、ティルはそれを小脇に持って進む。歩む先に明かりがついていき、やがて廊下も動き出す。自動走行型の歩道は数キロに渡って続き、真っ直ぐな通路で照明が後ろに流れていく。
「先ほどの話……もっと以前というと、古王国時代ですにゃ? その時はスイカ村にいて、スイカを育ててたことしか」
「その前はどうですにゃ?」
「その前……建国神話の頃ですにゃ? ほとんど覚えてないですにゃ、黒猫と小人を行ったり来たりしてたような……」
「そうですにゃ、それは記憶媒体の上書き消去に似てますにゃ。何度も上書きすれば元の記憶はほとんど無くなる。たとえ霊薬を飲んでも全てを明確には思い出せない。しかしそれは問題ではないですにゃ。思い出すべきはもっと根元的なこと、夢の王との繋がりなのですにゃ」
「……?」
「それにしても、見張りを任せてた猫がいないですにゃ、もっと奥ですかにゃ?」
そして何度目かのハッチをくぐるとき。
「にゃー、ティル技長、よくお越しくださいましたにゃー」
そこには二人の猫人がいた。二人とも石の槍を持ち、上半身裸で、顔には赤や青の染料を塗りたくっている。
「ややっ、ティルさま、どうしましたにゃその格好は」
「超ウルトラこっちのセリフですにゃ!」
※
「ちょっとオリジナリティ出してるのですにゃ、何しろ長年ここにいるものでヒマなんですにゃ」
「まだ前の見張りと交代して三ヶ月ですにゃー!」
「ファミー伍長、宇宙服はお預かりしますにゃ」
「あ、ありがとうにゃ」
槍を構えた兵士は二人を案内すると、敬礼してから部屋の外へと去っていった。
通されたのはホールのような大きな部屋。中央にはベッドほどの大きさのものが布を被せられて安置されており、それをアクリル板が箱形に取り囲んでいる。装飾は一切なく、定常性を持って続く核融合エンジンの鳴動の他には何の音もない。荘厳なような寂しいような、形容の困難な空気が流れている。
ティルはいつもの白衣、ファミーは簡素な室内着となって並んで椅子に座り、安置された物体の方を向く。
「夢の王に会うのは初めてですにゃ?」
「はい、存在は知っていましたが、お会いするにはティル技長かドラム軍司令の許可が必要と聞いてますにゃ」
「ふむ、それで、夢の王が月の機械と、猫たちの無限の魂に干渉していることは知っていますにゃ?」
「もちろん、教育施設で習いますにゃ」
ティルはうなずき、安置されたものを遠い目で眺める。
「このシステムは本当に不思議ですにゃ。月にもとからあった機械、万能工作機やその他の施設は、すべてナノ波干渉によって王たる者の脳波とリンクしていますにゃ。これを作った存在は、自己という概念を拡散し、天地万物と、またすべての生命と一体になろうとしたかのような……」
その話はファミーにとっても難解であったが、ティルはファミーの反応を見ずに言葉を続ける。
「一般的に、前世持ちの猫は野良猫より優れると言われてますにゃ。前世での経験や知識を受け継ぐからだと」
「はい」
「ですが、野良猫の中でもごくまれに、素晴らしい成長を見せる猫がいますにゃ。特に霊薬を飲んだあと、その成長が著しくなるのですにゃ」
「そうなのですにゃ?」
「はいですにゃ、ですが、芯果の社会ではそもそも野良猫がおらず、そのことを研究することもできませんでしたにゃ」
ティルはファミーに語りかけるというより、まるで独り言のような口調になっていた。言葉は早く、ファミーに分かりにくい言葉が混ざる。
「しかし、かつて確かにそんな猫を見たような気がしますにゃ。彼女とは鉄格子越しに何度か話した程度だったけれど、他の猫とは確かに違う、不思議な落ち着きと達観、何がしかの霊性のようなものを持っていた気がしますにゃ。あれがおそらく夢の王と通じ会った猫。人格の一部が転写されたのか、あるいはチャンネルが大きく開かれたのか……」
「ティル技長?」
ティルはふとファミーを見て、どこか申し訳ないような仕草で首を振る。
「私は夢の王に会うたび、不思議な疑問を思い出しますにゃ。命とはどこにあるのだろう、という疑問ですにゃ」
「命……?」
「そうですにゃ、我々は無限の魂を司る機械により死ぬことはなく、その命は永遠に続く。ある人物はそれは偽りであり、肉体の滅びと共にやはり死んでいるのだと言った、どちらが正しいと思いますにゃ?」
「それは、教育施設で習った限りではもちろん」
その瞬間。
景色が変容する。
立ちくらみのような一瞬のめまい。周囲のすべてが変化し、色が咲き乱れ、壁が迫り、さまざまな物体が出現して、そして声が。
――怖いの。
――人は永遠にはなれない。無限はどこにもない。その考えから逃れることができない。
――ごめんなさい、ようやく会えたあなたを、悲しませてしまうかも。
「……!」
今の声は。
一瞬、世界のすべてが塗り変わるようなリアルな幻覚。記憶を思い出すというより、過去のある時点に戻るような。月の施設と似たような近代的な空間、そこで自分は誰と一緒にいたのか?
その停滞は熟考の沈黙と受け止められたのか、白衣の科学猫は優しげな顔でファミーを見たまま、諭すように言う。
「困難な問いですにゃ。私は長年そのことを考えて、こう思うようになりましたにゃ。それぞれが、それぞれの答えを持っており、正解などどこにもないのではないか、と」
「どこにもない……」
「そう、無限の魂。あるいは肉体に依存する一度だけの命。あるいは世界の隅々にまで拡散し、自然やすべての生命と一体になれるような命。どれが正しいかは誰にも分からず、答えなどどこにもない。ただ各々が、自分の信じる命の形に殉じて生きているのですにゃ」
「……」
おそらくファミーには半分も理解は及がばず、またティルですら完全に把握しているという話ではなかっただろう。
だが、己にとって重要な話であることは分かる。
無限の魂を持つということの意味、それとどう向き合っていくのかが、つまりは猫としての強さに結び付くのだと。
ティルは曖昧に笑い、そしてそもそもの話。すなわちシュガー伍長についての話に移る。
「シュガー伍長はつまり、夢の王の影響を強く受けている猫ですにゃ。それが猫の熱情を高め、あらゆることに熱心に取り組めるのですにゃ」
「そうですか……でも私も霊薬を飲んでいますにゃ、それなのにシュガー伍長とは大きく違って……」
ティルはかぶりを振り、その背中にポンと手を置く。
「確かに霊薬の効果は一度だけ、しかしファミー伍長、あなたにもすでに夢の王とのチャンネルは開かれていますにゃ。霊薬とは何かを思い出す薬ではなく、夢の王とのチャンネルを開く薬なのですにゃ」
「チャンネル……」
「思い出すのですにゃ。毎日の夢で何を見ているのか。こうして生きている間に、どのような意志が自分に干渉しているのか。誰もがきっと、毎日のように夢を見ている。心の奥底で囁き続ける、超常的な存在と向き合っているのですにゃ……」




