第六十五話
高度に発達した科学は魔法と区別がつかない。
かのアーサー・C・クラークの言葉だが、恥ずかしながらその意味をこれまで理解していなかった。
高度すぎる科学とは、そのメカニズムの美しさであるとか、段取りのカタルシスであるとか、システムの心地よい整合性だとかすら理解できないのだ。
言うなれば理解の及ばない科学とは、外見上は実も蓋もなく、あまりにも強引で、雑なやりかたでも成立するような技術なのだと。この旅で僕はようやく思い知ることになる。
どれほどの時間が過ぎたのか。
僕はさすがに何十時間もの加速に耐えることを諦め、大半は薬を使って眠っていたが、トムとクーメルは早くも順応してスクワットなどで体を動かしていた。実にたくましいけどこの狭い船で運動するのは勘弁してほしい。
そしてある一瞬。突如として重力が消え去り、船内のあらゆるものが宙に浮く。
「にゃっ!? どうしたのにゃ」
「地殻貫通縦路に向けて投擲されたんだ! 自由落下状態だぞ、身構えろ!」
衛星が周回を回る軌道には何種類かあるが、大気圏外での周回だけを目的とするなら高度400から2000キロ、だが今回は秒速数千キロはあるため、第二宇宙速度も大幅に超えている。どの位置で回っていたのか想像もつかないが、おそらく地表までは数秒で、そして地表から惑星の核までの6000キロあまりの旅路すら、おそらくは十数秒で。
そして来た。ほんの数マイクロ秒の一瞬。弦転跳躍システムが黄色に発光し、表面をぴしりと電圧が走り、そして意識が後方に置き去りにされるような感覚が。
「うぐっ……」
その奇妙な体験はほんの一瞬。
『終わりましたみー』
船内に響くのはガウディの声、ガラクタの山にしか見えない機械の中から声がする。
「ガウディ? 通信機でも積んでたのか?」
『いえ、もう惑星から400光日の彼方ですから通信は無理ですみー、僕は簡易AIですみー』
「んにゃっ、もう着いたのにゃ? ワープしたのにゃ?」
『ワープじゃなくて弦転跳躍ですみー』
そのこだわりはガウディにも受け継がれたらしい。
しかし本当に跳躍できたなら、それは一瞬のことに違いあるまい。宇宙始原点の向こう、数千億光年の彼方まで跳躍できるシステムだ、その速度は光速が亀の歩みに見えるほどに高まるはずなのだ。
もっと言うと弦転跳躍システムが一秒も稼働したなら、その余波で僕ら全員蒸発していても不思議ではない。あの機構では励起は一瞬でなくてはならなかった。
「ところで加速中はなぜ黙ってたの?」
『加速はめちゃくちゃきついから、いると分かったらブーブー言われると思ったですみー』
「……」
ぐうの音も出ない。猫は本当にしたたかな生き物だと思う。
まあそれはともかく、目的の方に思考を切り替えよう。
「もう月の近くなのかな」
『たぶんそうですみー、でも観測できませんみー、まず機械を外に出さないといけませんみー』
そこからは少しややこしい工程が続く。
まずAIの指示に従い、荷物の山から四本足の蜘蛛のような機械を取り出す。弦転跳躍システムの角柱に装着すると、手足を絡めるように機械が巻き付き、低い駆動音と共に角柱を外に押し出す。まさか空気漏れなど起こさないだろうな、とか思っていると、蜘蛛のような機械は泡を吹き、角柱の出ていく穴を泡で覆ってしまう。ということは蜘蛛じゃなくて蟹だったのか、などとどうでもいいことを思う。
『さ、そこにある機械をどんどん泡から外に出してくださいみー』
「これ……こんな泡で空気漏れ防げてるの?」
『特製の高分子ポリマーですみ、これは僕が開発しましたみー』
世が世ならこの発明だけで億万長者になれそうだな、と感心したが、さすがにそんなに長時間持つはずもあるまい、僕たちは急いで機械を泡に入れていく。その泡は見た目よりかなり固く。三人がかりで力を込めてぐいぐいと突き入れる格好になる。機械を泡が包み込み、突き抜けるとまた泡が集まる。
『順調ですみー、観測衛星と推進機を展開しますみー』
そして泡も消え、後には透明な観測窓が装着される。実に手際がいい。外に出された機械は順次変形して衛星になったり、ラジコン飛行機のような形状になって船に張り付くのだという。
『ありましたみー、相対速度2800キロ毎時オーバー、距離67万キロ、行きますみー』
10兆キロの跳躍で誤差67万キロか、ダーツならダブルブルに相当する見事な精度だ。小型挺は推進機の力を得て虚空の点に向かって進む。僕たちは船外活動服を着込み、じっと待つ。
さらに長い待機。船が減速に転じて数時間ほど経ってからガウディの声が響く。
『あれですみー』
「何も見えないけど……」
『太陽がないから暗いんですみー、高感度処理しますみー』
その窓はディスプレイの用を果たすらしい。腕を伸ばした先のビーチボールほどの大きさに月が見える。僕もよく見知った地球の月によく似ている。あるいはこれも最果ての四王が用意した人工天体かも知れないが。
それは少し異彩を放っていた。進行方向に対して尾部に、肉眼ではっきり見えるほどの巨大な噴射ノズルがある。さながらジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」、あれに出てきた月の目に刺さった宇宙船を思い出す眺めだ。
よく見ればノズルの周囲が陥没しており、空気の抜けかけたバスケットボールのように凹んでいる。
『現在、月はその質量の12パーセントを失ってますみー。あのノズル周囲の岩盤を堀り起こして核融合エンジンの燃料にしてるんですみー』
「なるほど、加速と減速で、地球に着く頃には質量のほとんどを使いきる算段だったか」
かつて、宇宙飛行士はロケット花火の先端に乗せられたアリだと揶揄された。宇宙に人間を送り出すためには、その質量の何百倍もの燃料と酸化剤が必要だったわけだ。
推進機が核融合エンジンに変わったとはいえ、月面の真円すら歪めるほど質量を消費している。猫たちが行っているのは月すらも食い潰す旅なのだろう。
しかし、噴射口と言うには何も吐き出しているように見えないけれど。
『やはり惑星からの観測どおりですみー、今は噴射を止めて慣性移動してますみー。速度は光速の92%ですみー』
それでも物理現象に影響が及ぶほどの超高速には違いないが、十分なウラシマ効果を得るには足りない。なぜ止まっているのだろう。観測情報から考えてもう数ヵ月は、あるいは一年以上あの状態だと思われるが。
そのとき、月の表面上に光がまたたく。
表面のある一点で続けざまの爆発。小さな重力の中で岩石が巻き上がり、何らかの施設が爆発炎上する。
「! ガウディ、あの光の部分を拡大できるか」
『はいですみー』
「うにゃー、窓が小さいにゃー」
まるで水族館の丸窓に群がる観光客の図だが、僕たち三人はその小さい窓から月を伺う。
それはドラゴン。白い巨体に大きく広がった翼膜、そして特徴的な長い尾。口腔をオレンジ色に光らせ、爆炎の球体を吐き出す。それが灰色の積み木のようなものに突き刺さって炎上させる。まだ遠すぎるため地形図のように見えるが、あの灰色の立方体がビルだとするとドラゴンはかなり大きい。
『みー! ドラゴンですみー! 全長はおよそ70メートル。翼長は150メートルを超えてますみー!』
しかし積み木の街もただ崩されるままではなかった。地表の広範囲からちかちかと光がまたたき、ドラゴンの全身を細かな爆発が包む。
『レーザーですみ! すごい出力ですみ!』
そして地表の一点から音速で何かが飛び出し、ドラゴンの体に食い込むと同時にその体を大爆発が包む。
しかしドラゴンはまだ健在である。その脚部から噴煙を放ち、速度を上げてレーザーの持続的照射を防ぐ。
「きりもみ運動をしてる……レーザーは一点に照射し続けないと効果が薄いからな」
そして背中から噴煙。脊柱付近から飛び出すのは数十基のミサイルだ。周囲に散らばってレーザー塔を破壊していく。
「にゅー、なんだか劣勢に見えますにゅう」
「ガウディ! この船に武装はあるのか」
『みー、どうせ僕の補佐は着陸までだったんですみ、最後にこの船で体当たりしますみー。みなさんは着地用バブルで降りてくださいみー、こちらの相対速度は6000キロ毎時はありますみー、これなら一撃でコナゴナですみー』
唐突に窓が開き、内部の空気が一瞬で虚空に逃げていく。小型挺だから体ごと吸い出されるほどではない。僕はいち早く窓から出て、船の下に伸ばされた縄ばしごに捕まる。
「にゃー、この服動きにくいにゃー」
「いいから早く降りてくれ」
トムとクーメルもはしごを降り、そこに複数の方向から泡が吹き付けられる。今回はかなり長い。雪だるまのように泡の塊がどんどん成長し、ほどなく光も見えなくなる。そして宇宙服内に無線音声が届く。
『推進機で泡を把持して、逆噴射をかけながら落下させますみ。着地時の相対速度はプラスマイナス500キロ毎時、舌を噛まないように口を開けててくださいみー』
「にゅー、ぜんぜん分かんないですにゅう、大丈夫なんですにゅ?」
いや、現役の宇宙飛行士が聞いてもSF作家が聞いても卒倒しそうな力技な気がする。あえて言うこともないので黙っていたが。
そして縄ばしごが切り離され、僕たちを包んだ泡が自由落下していく感覚。
『どうかご無事で、目的を果たされてくださいみー』
相対速度6000キロで突っ込むなら、おそらくガウディのAIは無事では済むまい。ガウディの補佐は着陸までだったとは言え、その覚悟のような声に僕は胸を打たれる。
そして分厚い泡に包まれ、ほとんど闇の中となってしまった空間の中で、僕は確かに見たと思った。ドラゴンに突っ込む灰色の玉子を、そしてドラゴンが四散しながら爆発に包まれるのを。
僕たちは闇に投げ出される。推進機が小爆発を起こす音。泡が岩肌に削り取られる感覚。何度もの大バウンドと回転。三半規管の混乱。
「にゃー!? ぐるぐるするにゃー」
「互いの頭をぶつけないように気を付けるんだ、フェイスガードだけは割らないように……」
そして止まる。
体感だが、どうも速度は100キロほどに抑えられてた気がする。それとも泡による劇的なまでの緩衝効果だろうか。
僕は吐き気のひどい頭でなんとか上下を意識し、宇宙服の腰からヒートナイフを取り出し、泡を斬り裂いていく。馴染みのあるデザインで特注してもらった品だ。泡は衝撃には強いが熱には弱く、ずんずん斬り裂いていけばほどなく岩肌が見え、最後に泡を押し広げながら外に出る。
「にゅー、やっと着きましたにゅー?」
「あたたた、もう二度と宇宙旅行はごめんにゃ」
トムとクーメルも後に続いて出てきて。
そして僕に習って両手を上げる。
僕たち三人はすでに囲まれていた。同じような宇宙服を着込み、ロングバレルの銃を構えた人物たちに。




