第3潜 初ダイブと小さな違和感 ③
甲板の上に特設されたクレーン付きのウィンチの前に、4人が緊張した面持ちで集まった。
「メンチ、いよいよ本番だよ……緊張するね」
「大丈夫、史奈が入れてくれた補正コードを信じましょう」
「よし、電源オン。テメーらのロマンを深海に叩き込んでやれよ」
史奈が最後の遠隔コマンドを送信し、ガチャンと音を立ててメンチのメイン電源がフル稼働に入る。
ウィンチのワイヤーがゆっくりと繰り出し、愛らしいオレンジ色のドームを纏った機体が、神津島の青い海面へと静かに下ろされていった。
まずは水深50メートルの浅い層で一時停止させ、カメラの映像やスラスタのレスポンス、水圧センサーの数値に異常がないかをじっくりとチェックする。
「各計器、異常なし! スラスタの挙動も完璧です!」
朱音の報告を受け、史奈が頷いた。
「よし、本番深度へGOだね」
シュボッという微かな気泡の音を残し、メンチは太陽の光が届かない深い深海へと、本格的な潜航を開始した。
「潜航開始、深さ100メートル……150メートル……順調です!」
朱音がガッチリとタブレットを抱えながら状況を実況する。
太陽の光はすでに届かず、周囲の海の色は眩しいエメラルドグリーンから、吸い込まれそうなほどに濃い群青色へと変化していく。
水圧計の針が恐ろしいほどの勢いで上昇し、機体に掛かる負荷は毎秒ごとに増していく。
しかし、史奈が書き直したPID制御のゲイン値と完璧なドリフト補正のおかげで、機体は潮のうねりに揺らぐことなく、一糸乱れぬ直進安定性を保ったまま真下へと突き進んでいった。
「対地速度、安定してる。ジャイロのドリフトも完全に抑え込まれてるね。これなら狙ったポイントからミリ単位もズレないよ」
史奈がキーボードを叩きながら冷静かつ満足げにデータを確認する。
甲板の上で、凪と菜月は固ずを飲んでタブレットのモニター画面を凝視していた。
有線ケーブルの向こう側、人間が容易に踏み込むことのできない漆黒の異世界へと、自分たちの夢と情熱を詰め込んだ メンチ──めんだこ1号 が今まさに挑んでいる。
その事実だけで、胸の高鳴りが止まらなかった。
「深さ200メートル通過……。まもなく、目標深度です」
朱音の緊張に満ちた声が響く。
そして――。
『水深230メートル。海底に到達しました』
船上のモニターに映し出されたのは、これまでの浅瀬とはまったく違う、底知れぬ静寂と神秘に満ちた世界だった。
漆黒の闇のなか、メンチの強力なLEDヘッドライトが、周囲の海底を白く、鋭く照らし出す。
そこには、ざらついた白い砂の平原と、気の遠くなるような時間をかけて地球の営みが形成した奇妙で美しい岩肌が広がっていた。
波の音一つしない、圧倒的なまでの静寂。それは地上の喧騒を完全に遮断した、完全なる別世界だった。
「うわぁ……これが、深海の底……」
菜月は息を忘れたようにモニターを凝視し、小さく感嘆の声を漏らした。
「綺麗……なんだか、別の惑星に降り立ったみたい……」
凪も感動に震える声で呟く。
画面に広がるのは、荒涼とした白い砂の原野に、気の遠くなるような年月をかけて積み重なった地層の模様。
そして、潮の流れにゆっくりと揺らめく微小なマリンスノーが無数に舞っている。
自分たちが手ずからガレージの床に寝転びながら組み立て、何日も徹夜でコードを書き、幾度もの絶望的なトラブルを乗り越えて調整を重ねた「自分たちの分身」が、今まさにその瞳で捉え、リアルタイムで私たちの足元に、鮮明な現実として届けてくれている。
その圧倒的な事実に、朱音の胸の奥底から熱いこみ上げるような感動が堰を切ったようにあふれ出した。
「私たちが……自分たちの手で作り上げた機械が、誰も見たことのないこの深海の底を照らしている……。ここまで来たんだわ……!」
凪が小さく呟いた言葉に、菜月が力強く頷き、史奈もまた、画面から目を離さずにふっと誇らしげで、どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
誰一人として妥協せず、それぞれの得意を持ち寄って創り上げた奇跡の瞬間が、今、この漆黒の海底で結実していた。
「さあ、探索を始めるわよ。カメラを少し右に振って……」
朱音の指示で、メンチがゆっくりと海底の岩陰を這うように進む。
数分間、誰もが息を潜めてモニターを見つめていたその時だった。
「あ――っ! あそこ、岩の隙間に何かいる!」
菜月が甲板の上で飛び跳ねながら、嬉しさのあまり大声を上げて叫んだ。
カメラのライトに照らし出されたその場所には、鮮やかな朱色の体に、まるで大きな絹のような美しいヒレを優雅に揺らす、神秘的な深海魚の姿があった。
「あれは……ユメカサゴ……っ!」
朱音が我が目を疑うようにメガネを外し、再びかけ直して画面に顔を近づける。
「図鑑でしか見たことなかった……! 本物のユメカサゴが、今、私たちの手で捉えたカメラの向こうにいる……!」
「うわ、本当だ、なんかちょっとふんわりしてて可愛い……!」
菜月が両手を合わせてうっとりとする。
「やったね、史奈ちゃん! これ、めっちゃ綺麗に映ってるよ!」
史奈も自分のノートパソコンの画面を確認し、「ふん、まあボクが組んだ補正のおかげでブレてないからね」と得意げに鼻を鳴らしつつも、その頬はわずかに緩んでいた。
その後も、メンチは水深250メートルの海底を縦横無尽に探索し、珍しい深海性のカニや、名前も知らない美しい深海魚たちを次々とカメラに収めていった。
最初のテスト航行での絶望的なトラブルが嘘のように、計画は大成功に終わったのだった。
数日後。
夕暮れ時の静かな自室で、朱音は一人、ノートパソコンの画面に向き合っていた。
あの日の探査でメンチが持ち帰った数時間の記録映像。
それを編集しながら、お気に入りのシーンを何度も再生している。
「……やっぱり、菜月の言ったとおりだわ」
画面に映る、ライトに照らされたユメカサゴの群れをうっとりと眺めながら、朱音は小さく独り言をこぼした。
「ネットや図鑑で見るのとは訳が違う。自分たちの手で作り上げた機械が、誰も見たことのない深海の景色を捉えて、こうして目の前に映し出してくれている……。これほど美しいものなんて、他にあるわけがない」
胸の奥が温かい感動で満たされ、朱音は満足げに息をついた。
そろそろ夜も遅いし、今日はこの辺で動画を切り上げて寝ようか。
そう思い、マウスカーソルをプレーヤーの閉じるボタンに伸ばした、その瞬間だった。
画面の隅、ライトの光が届くか届かないかの暗い海底の端っこに、キラッと冷たい光を放つ何かが、ほんの一瞬だけ、反射して映り込んだのが見えた。
「……ん?」
朱音の手が止まった。
映像を少し巻き戻し、コマ送りにしてその一瞬のフレームを凝視する。
そこにあったのは、自然の岩や砂ではありえない、人工的で鋭い直線と光沢を持つものだった。
「……これ、なにかしら……? 空き瓶の破片……?」
いや、ちがうわ……
静まり返った部屋の中で、朱音の胸のなかに、先ほどまでの感動とは違う、言い知れぬざわめきが静かに広がり始めたのだった。
(つづく)
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