婚約解消。「あれは放っておけねえ」と寒漉きを後にされ続けた十年、漉き簀を一枚抱えて出て、いまは自分の名で紙を漉いています
【寒の入りの朝・漉き舟の脇】
桶の取っ手が、指の腹へ食い込んだ。冷たいというより痛い。寒の入りの水は遠慮というものを知らず、漉き舟の縁へ触れた指から、腕一本まるごと持っていこうとする。
「まだですかねえ」
女衆五人が、さらした楮の前で手をこすっている。空は明るくなりかけているのに、運びを頼んだ伊之助さんは来ない。刻限を過ぎれば水まで機嫌を損ねるのだから、許婚より始末が悪い——いや、水は冷えると先に知らせてくれるぶん、よほど話の通じる相手ですわ。
わたしは壁に立ててあった漉き簀を取り、指で端をなぞった。十年使って、竹の一本一本まで手のひらへ馴染んだ一枚である。これさえ機嫌よく水を切ってくれれば、今日も紙は上がる。
「六助さん、兄さんは?」
土間へ駆け込んできた六助さんは、鼻の頭を赤くして笑った。
「お蔦の家の荷を運んでるよ。あっちは男手が足りねえんだとさ」
「こちらには、桶へ脚を生やせる者がおりませんけれど」
「紙なんぞ、手があれば上がるだろ」
その手を五人、凍らせて待たせているのは誰でしょう。紙に口があったら一枚につき三言ずつ文句を言わせたいところだが、千枚上がれば三千言。聞くこちらが先に干からびる。
女衆の一人が、空の桶へ目をやった。
「おしまさん、わたしたちで運びますか」
「いいえ。手を温めておいてくださいな。水へ入ったあとの手は替えが利きませんもの」
わたしは桶を両手で持ち上げた。縁を腿へ当て、滑らせるように戸口まで運び、敷居をまたぐところだけ一息に上げる。井戸との往復は十二。伊之助さんを待てば半刻、わたしが運べば紙五十枚ぶんの手間。腹立ちまで勘定へ入れると赤字だが、腹立ちは売れない。まことに商いの邪魔ですこと。
三つめの桶で袖が濡れ、六つめで肩が軋んだ。九つめには女衆が黙って戸を押さえ、十二を漉き舟へ空けるころ、ようやく水の高さが揃った。
「始めましょう。楮を入れて」
漉き簀を水へ沈める。竹を抜ける水の音が、今日も同じ調子で土間へ広がった。
ここなら、わたしの手が要る。そう思えば、伊之助さん一人ぶんの遅刻くらい、紙の下へ敷いてしまえた。
* * *
【十日後・干し板の前】
紙の端が、ぺこりと持ち上がっていた。ずいぶん愛嬌のある反り方だが、紙屋は愛嬌へ銭を払いません。
わたしは干し板から一枚を剥がし、伊之助さんの鼻先へ差し出した。
「納めは九日後ではなかったのですか」
「昨日だ」
「昨日」
「先方と話して、早めた。聞いてなかったか」
聞いておりません。聞いていれば、わたしの頭が先に火を噴いています。乾きの遅い空模様で納めを十日詰めるなど、紙百枚を井戸へ放り込み、浮いた銭を柄杓ですくおうとするようなものだ。
「どなたへお知らせになりました?」
「六助には言ったと思うが」
干し板の向こうで、六助さんが首を横へ振った。伝言一つ、見事に宙へ漉き上がっております。
わたしは反った紙を板へ戻し、布で端を押さえた。湿りを吸った繊維は、叱っても真っ直ぐにはならない。人も紙も、曲がる前に手を入れるのが一番安い。
「先に一言いただければ、漉き始めを早めました。乾かす板も増やせましたし、女衆へ頼む日も——」
「あっちは急ぎだったんだ」
伊之助さんは紙ではなく、戸口の雪を見た。もう説明は済んだ顔である。済んだのは伊之助さんの口だけで、こちらには十日ぶんの紙が残っておりますけれど。
「急ぎなら、なおさら知らせてくださいな」
「だから、間に合わせればいいだろ。おしまならできる」
褒め言葉のように置かれたそれを、わたしはうっかり拾いそうになった。危ない危ない。拾えば次も落とされる。しかも今度は二十日ぶんかもしれない。
女衆へ板を三枚追加してもらい、火鉢の位置を動かす。反りの少ないものを先に選り、残りは湿りを戻して貼り直す。手間は紙二百枚ぶん、炭は三日ぶん、知らせる言葉は一言ぶん。ずいぶん高価な一言である。
伊之助さんは、反った一枚を指で弾いた。
「これくらい、混ぜりゃ分からねえよ」
「分かりますよ。紙屋は紙を見ますもの」
「細けえなあ」
細かくなければ、紙など漉れません。大ざっぱな水、大ざっぱな楮、大ざっぱな日取りで上がるなら、わたしはとっくに暖かい部屋で餅でも焼いております。
* * *
【師走の夜・漉き場の土間】
楮の値を書いた紙を、わたしは火鉢のそばへ置いた。去年より二割高い。同じ銭なら、握り飯は五つが四つほど、餅は十が八つほど。食べ物へ換算すると、たいていの値上がりは許しがたさを増す。
「来月のぶんは、今のうちに押さえたいのです。それから女衆の手も、先に——」
「今夜、お蔦んとこへ行ってくる」
伊之助さんは上着へ腕を通した。わたしの言葉は、袖口にでも引っかかったらしい。
「まだ話が終わっておりません。楮を先に買わないと、寒のうちに漉る数が——」
「あれは放っておけねえ」
伊之助さんは話の途中で背を向けた。お蔦さんの家で屋根の継ぎ目から水が落ちるという。師走の夜に困るだろう、それは分かる。分かることと、わたしの言葉を床板へ落として踏んでよいことは、同じ紙へ漉き込めない。
「では、楮代を置いていってください」
「戻ってからでいいだろ」
戸が閉まった。冷たい風だけは、きちんと断りもなく入ってくる。伊之助さんより筋が通っておりますわ。風は最初から無作法を隠しませんもの。
楮屋が荷を引くのは夜明け前である。わたしは自分の手銭を数えた。嫁入りの足しにと貯めた銭から出せば、必要な束へぎりぎり届く。嫁入り先の仕事を守るため、嫁入りの銭を減らす。紙にすれば裏表が逆、帳面なら書き直しです。
「買ってきます」
女衆が顔を上げた。
「おしまさん、伊之助さんを待たなくていいんですか」
「楮は待つと値が上がります。伊之助さんは待っても値打ちが上がりません」
二人が吹き出し、残りの三人も肩を揺らした。笑って手が温まるなら、薪より安い。
楮を足し、灰汁を抜き、叩き、舟へ入れる。漉いて伏せ、漉いて伏せ、紙床の高さを指で測る。水が深夜の冷えへ変わるころには、指先の感覚が薄くなった。あと百二十枚。握り飯なら二つ、いや一つは朝へ残したい。腹まで日取りへ組み込むとは、我ながら働き者というより食い意地の管理人である。
冷えた握りを立ったまま食べた。米粒が固く、噛むたび歯の根へ寒さが響く。座れば脚が仕事を終えたと勘違いしそうで、土間の柱へ肩だけ預けた。
夜明け前、最後の一枚を伏せた。女衆が紙床へ重しを載せたところで、伊之助さんが戻ってきた。袖に新しい泥がついている。
「もう終わったのか」
「ええ」
「よく間に合ったな」
わたしの手から水が一滴、土間へ落ちた。伊之助さんはそれを見ず、火鉢へ両手をかざした。
* * *
【年明けの朝・紙屋の店先】
一番よい着物は、働くには向かなかった。袖は長いし、帯は固いし、漉き簀を抱えると皺が寄る。けれど今日は、わたしの見栄にも一枚ぶん働いてもらう。
夜明け前に仕掛かりの紙を乾かし終え、漉き場の簀をすべて洗った。竹の目に残った楮を爪で取り、同じ向きに揃えて壁に掛ける。伊之助さんの家のものは一枚も持ち出さない。十年前から自分で繕ってきた古い一枚だけを布で包み、胸へ抱えた。
紙屋の店先で荷を下ろしていた伊之助さんが、わたしの着物を見て眉を上げた。
「なんだ。どこかへ行くのか」
「ええ。ここを出ます」
「は?」
伊之助さんの手から、荷縄が落ちた。わたしはいつものように、今日乾く紙、明日漉く紙、次に買う楮を頭の中で数えようとした。けれど一枚目が出てこない。水の音だけが、遠い漉き場から戸を抜けてくる。
「お蔦のことなら、仕方なかったんだ。あの家は——」
「お蔦さんのことではありません」
「じゃあ、何だよ」
十年ぶんを並べれば、店先から往来まで紙で埋まる。どの一枚を見せても、伊之助さんは裏返して「間に合った」と言うだろう。だから並べない。わたしが持って出るのは、この一枚だけでよい。
「わたしは十年、この寒の水の音の中に、自分の名があると思うておりました」
抱えた漉き簀の竹が、帯の上でかすかに鳴った。
「この縁は、ここまでにいたします」
「待てよ。急に何を言い出すんだ。春には祝言の話も——」
「十年待ちましたので、急ではありません」
伊之助さんがこちらへ一歩出た。けれど紙屋の奉公人が荷車を通すため声をかけると、道を空けるしかない。わたしも横へ退き、そのまま伊之助さんの隣へは戻らなかった。
「おしま。漉き場はどうする」
「洗って、揃えて、掛けてあります」
「そうじゃねえ。誰が回すんだよ」
誰でしょうね。ようやく、わたしの知らない仕事になりました。
漉き簀一枚は軽い。十年抱えていたものより、拍子抜けするほど軽かった。
* * *
【早春・他町の紙屋の店先】
店先の軒から落ちる雪解け水を、わたしは十七滴まで数えていた。十八滴目が落ちる前に、往来の向こうから松次郎さんが来た。
「おしまさん」
紙屋の戸口に掛かった時の札を見る。約束した刻限、ちょうどである。まあ。人というものは、本当に刻限どおりに現れられるのですね。空から餅が降るより珍しいと思ったが、店の者は誰も驚いていない。もしや驚くべきは、こちらではなくわたし。
松次郎さんは、わたしの横に置いた紙包みを見た。
「早いですね」
「雪道ですから、遅れぬようにと」
「どれくらい前から?」
「半刻ほど」
自分で答えてから、指が冷えている理由に気づいた。店へ入らず、半刻も戸口で待っていたのだ。相手が来ないうちに暖を取れば、すれ違うかもしれない。そう体が先に決めていた。
松次郎さんは時の札を見上げ、それからわたしの手を見た。
「……いや、早いんじゃない。待つのが癖になってるんだ」
「待つのも仕事のうちかと」
「違います。約束した側が、待たせないところまでが仕事です」
きっぱり言って、紙包みを店内へ運んだ。余計な慰めも、気の毒そうな顔もない。用件は紙、ならば紙を見る。それでよいらしい。
松次郎さんは一枚を灯りへ透かし、繊維の散り方を確かめた。次に端を二本の指で挟み、ゆっくりしならせる。
「厚みが揃ってる。端も負けていない。これは、待てる人が漉いた紙だ」
紙を受け取ろうとしたわたしの手が、一拍止まった。
「待ちすぎた紙は、乾きますよ」
「では、乾く前に買います。三百、揃えられますか」
「日をいただければ」
「何日です」
救うとも助けるとも言わず、数と日を聞く。ありがたい。人情で紙は乾きませんが、きちんとした注文なら飯になります。しかも温かい飯になる可能性が高い。これは大事です。
わたしは空模様と水の冷えを頭へ並べた。
「十二日。雨が二日続けば、もう一日」
「分かりました。十三日後のこの刻限に来ます」
松次郎さんは紙を包み直し、代金の半分を注文の証として店の帳場へ置いた。わたしへではない。紙屋の決まりどおりに。それもまた、妙に胸へ引っかかった。
* * *
【梅雨・紙の戻りと講の寄合】
松次郎さんからの使いが来たのは、荷の届く前の日だった。雨で橋の板が浮き、紙の戻りが一日遅れるという。たった一日のために、人が先に来た。
わたしは文を裏返し、日付をもう一度見た。遅れてから事情を聞くものだとばかり思っていたので、先に届いた知らせをどこへ置けばよいのか分からない。ひとまず濡れぬ棚へ置いた。礼節にも置き場所が要るとは、十年知らずに済ませてきた贅沢である。
翌日、漉き方を見せるため、講の寄合へ紙と漉き簀を持っていくと、松次郎さんも遅れていた荷とともに現れた。
「昨日、使いをいただきました」
「遅れが決まった時点で知らせるのは、商いなら当たり前です」
当たり前。ずいぶん軽く言う。こちらは、その当たり前一つで紙十日ぶんを反らせたことがあるのですけれど。
戻った紙には、雨気が残っていた。松次郎さんが乾きの見込みを尋ねたので、わたしは包みを開き、中央と端を指で押した。
「今夜は重ねず、風を通してください。明日の昼に一度返し、板へ貼るならその後です。ただ、この雨がもう二日続けば——」
そこで、次に遮られる言葉を口の中へ用意した。ですが。仕方ない。間に合えばよい。どれでも来い、紙三枚ぶんで噛み返して差し上げます。
松次郎さんは何も言わなかった。わたしが雨の具合と板の置き方を最後まで話し終えると、そこで初めて口を開いた。
「では、板へ貼る日はそちらに任せます。納めは三日延ばす。それで傷みませんか」
「傷みません」
「分かりました」
刻限を守る。遅れを先に知らせる。人の話が終わるまで待つ。
三つとも、松次郎さんは誇りもしなかった。講の者も褒めなかった。商いなら当たり前だと、一枚の紙を数えるより軽く扱う。
特別でないことを、十年、一度もしてもらえなかった。
半刻前から待つ脚も、言葉を遮られる前に息を詰める癖も、遅れを知らされぬまま埋める日取りも、全部わたしの体へ残っていた。きれいに漉き込まれすぎて、裏から透かすまで見えなかったのだ。
十年ぶんの紙が、そこで一度に灯りへ透けた。よくもまあ、わたし一人へこれだけ漉かせたものです。代金を請求する帳場がないのが、実に惜しい。
寄合が終わるころ、以前の女衆が二人、わたしのそばへ来た。片方が声を落とす。
「元の漉き場ね、始める朝が半月ずれたんです。寒の紙が、寒のうちに上がらなくて」
もう一人は、両手で板が反る形を作った。
「干し板の紙も端から浮いて。六助さん、何も言えなくなってました」
(寒はまた来る。来年やり直せばいいことだ——)
わたしは紙包みの紐を結び直した。来年の寒は来る。けれど今年の水は、もう二度と戻らない。
外へ出ると雨脚が強くなっていた。軒下へ置いたはずの漉き簀が、さらに奥へ移され、乾いた布を掛けられている。松次郎さんが袖の雫を払っていた。
「動かしてくださいました?」
「濡れていたので。ついでです」
わたしは布の端を直し、簀を抱えた。
* * *
【秋から寒へ・簀一枚の漉き場】
秋の終わり、講の者が三人、わたしの紙を机へ並べた。春の紙、梅雨の紙、乾いた風の中で漉いた紙。透かし、折り、墨を置いたあとで、代表の女が言った。
「この冬の寒漉き、おしまさんの名で引き受けてくれませんか」
紙屋からも注文が来た。誰かが口を利いたのではない。机の上の紙が、わたしより先に返事をしていた。十年漉っても名のなかった手が、ようやく紙の端へ追いついたのである。
「簀は一枚しかありません」
「一枚から始めればいいでしょう」
「量は多くできませんよ」
「出来の悪い千枚より、その紙を二百枚ほしいんです」
なんと気前のよい話。二百枚なら、蕎麦がきを何杯食べられるだろう。そこで勘定を始めるあたり、わたしの名は立派でも腹はちっとも立派になっていない。
早春から借りている小さな漉き場へ、以前の女衆が自分の荷を持って来た。
「こっちで働かせてくださいな」
「元のところはよいのですか」
「手があれば上がるそうですから」
五人が一度に笑った。わたしも漉き舟の縁を叩き、笑いを水へ落とした。
寒の入りを待って楮を入れ、乾きの日を数え、納めから逆に漉く量を決める。誰に言われるでもなく、わたしの名で。例の古い漉き簀を水へ入れると、十年馴染んだ竹が手の中でしなった。
初漉きの前の日、お蔦さんが訪ねてきた。戸口で深く頭を下げ、手拭いを握り締めている。
「知らなかったんです。伊之助兄さんが、おしまさんとの約束を後にして、うちへ来てたなんて。わたし、何度も頼んでしまって」
「あなたのせいではありません」
「でも——」
「頼まれた者が、どの約束を守るか決めるのです。お蔦さんの荷まで、わたしが背負うことはありませんよ」
お蔦さんは口を閉じ、もう一度だけ頭を下げた。持ってきた干し柿を置いて帰ったので、女衆と分けた。五人で六つ。わたしが二つ食べたのは、漉き場の主には味見の務めがあるからです。異論は紙に書いてください。
初漉きの朝、漉き舟の水は薄く凍った。木槌で端から割り、氷をざるですくっていると、戸口へ伊之助さんが立った。
頬がこけ、上着の裾には乾いた紙屑がついている。
「戻ってくれ」
女衆の手が止まりかけたので、わたしは顎で楮を示した。水は待たない。伊之助さんの都合で五人の手まで凍らせる気はない。
「始める日が分からねえ。乾かす順も、納めの組み方も狂う。六助じゃ回せないんだ」
「そうですか」
「お前なら分かるだろ。十年やってきたんだ。祝言の話だって、まだ——」
伊之助さんは一歩、漉き舟へ近づいた。わたしは古い漉き簀を両手で持ち、水面へ置く。
「あれは放っておけねえ」
伊之助さんが、口を開いたまま止まった。
わたしは簀を水へ沈めた。凍りかけた水が袖口へ入り、腕を噛む。けれど今度の冷たさは、誰かの遅れを埋めるためではない。わたしの紙を、わたしの日取りで上げる冷たさだ。
「戸を閉めてくださいな。水が冷えすぎます」
女衆の一人が伊之助さんの脇を通り、戸へ手を掛けた。伊之助さんは何も言わず、外へ出るしかなかった。戸が閉まり、漉き舟へ朝の光だけが残る。
一枚目を伏せる。二枚、三枚。水の音が、わたしの手の動きに合わせて土間へ満ちた。
昼には火鉢を囲み、女衆が蕎麦がきの椀を並べた。
「おしまさん、詰めて」
「そこ、風が来ますよ」
「主なんだから真ん中へ座んなさい」
押されて車座の真ん中へ入る。湯気の立つ蕎麦がきを箸でちぎり、熱いまま口へ放り込むと、上顎を見事に焼いた。うまい。熱い。うまい。冷えた握りを立ったまま齧っていたわたしへ、椀ごと見せびらかしてやりたい。
冬が深まったころ、松次郎さんが注文を持って来た。仕上がった紙の端を確かめ、必要な量を帳面へ書く。
「三百。納めは二十日後で」
「雪が続けば、二十二日いただきます」
「では、二十二日。早く上がるなら、先に知らせてください」
「承知しました」
松次郎さんが何か言いかけ、戸口の漉き簀へ目をやった。
「それから——いえ。次の三百は、もう少し薄くできますか」
「水がさらに冷えれば。次の寒の具合を見ましょう」
日取りと量を決め、帳面を閉じる。用件はもうないはずなのに、松次郎さんは戸口から動かなかった。
「……次の寒も、来ます」
「では、刻限に」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




