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始まりの1日

柔らかな光が、ゆっくりと瞼を照らした。


タクは小さく身じろぎをし、ゆっくりと目を開ける。


「……ん。」


天井が違う。


白い漆喰と木の梁。


窓から差し込む朝日が、部屋全体を優しく照らしていた。


しばらくぼんやりと天井を見つめる。


昨日までなら、朝は決まって電子音が鳴っていた。


――ピピピッ。


目覚まし代わりのスマートフォン。


だが今日は違う。


静寂だけが部屋を包んでいた。


「……そうか。」


ここは異世界だった。


タクはゆっくりと身体を起こす。


昨日の疲れは嘘のように抜けていた。


窓を開ける。


ひんやりとした朝の空気が部屋へ流れ込み、木々の匂いを運んでくる。


遠くから鳥のような鳴き声。


市場の方からは、店を開ける準備をする人々の声が微かに聞こえていた。


「朝か……。」


ふと机の上へ視線を向ける。


そこにはスマートフォンが置かれていた。


タクは画面を静かに見つめた。


圏外。


データの更新も止まったまま。


もう、この世界では何の役にも立たない。


それでも、簡単には手放せなかった。


ゆっくりと電源を落とし、大切に鞄へしまう。


「……また、いつか。」


小さく呟き、立ち上がった。


その現実を、改めて突き付けられた気がした。


少しだけ寂しそうに笑うと、電源を落とす。


画面が暗くなる。


静かになったスマートフォンを、大切そうに鞄へしまった。


「またいつか。」


小さく呟く。


その言葉が誰へ向けたものなのか、自分でも分からなかった。


着替えはない。


昨日の服のまま軽く身なりを整え、一階へ降りる。


木の階段が優しく鳴る。


ぎし。


ぎし。


昨日エレノアが言っていた。


『主人は、この音が好きだった。』


その意味が少しだけ分かる気がした。


誰かが暮らしている音。


それは、不思議と安心する音だった。


一階へ降りると、朝日が店いっぱいに差し込んでいた。


昨夜とはまるで違う。


店全体が黄金色に染まり、木目が温かな色合いを見せている。


タクは厨房へ向かい、魔力式冷蔵庫の前へ立った。


取っ手へ手を掛ける。


かちゃり。


中には昨日エレノアが入れてくれた朝食。


三つの包みが綺麗に並んでいた。


「いただきます。」


カウンター席へ腰を下ろし、一つ目を開く。


柔らかなパンに、レタスとチーズ、薄切りのゆでたブタ肉が挟まれていた。


一口。


「……美味しい。」


噛むほどに小麦の甘みが広がる。


塩気は控えめ。


素材の味がよく分かる。


二つ目。


今度は卵を潰して挟んである。


ほくほくとした優しい味だった。


三つ目。


白身魚によく似たアジのような魚の身らしい。


ほぐした身と野菜がよく合っている。


「全部美味しいな。」


気付けば三つとも食べ終えていた。


どれも優しい味だった。


少しだけ味付けは薄い。


だが、不思議と身体へ染み込むような美味しさだった。


「健康的だな……。」


思わず苦笑する。


こんな朝食を最後に食べたのは、いつだっただろう。


その時。


――コンコン。


玄関が軽く叩かれた。


「タクー。」


聞き覚えのある優しい声。


エレノアだった。


タクは立ち上がり、鍵を開ける。


「おはようございます。」


「あら。」


エレノアは少し驚いたように笑った。


「もう起きてたのかい。」


「はい。」


「ぐっすり眠れました。」


「それは良かった。」


エレノアは店へ入り、朝日を浴びながらゆっくりと伸びをした。


「今日もいい天気だ。」


そう言うと、手に提げていた籠をカウンターへ置く。


タタクはサンドイッチのお礼を言う。


「サンドイッチ、美味しかったです。ありがとうございます。」


エレノアは少し首をかしげた。


「さんどいっち?」


「ああ。」


すぐに何かを思い出したように微笑む。


「パォンに具材を挟んだ料理のことかい。」


「この辺じゃ、みんな『サァンドパォン』って呼んでるんだよ。」


「あ……。」


タクは少し照れくさそうに笑う。


「そうなんですね。」


「でも、美味しかったです。」


「それは良かった。」


エレノアは嬉しそうに頷いた。


「どれが一番気に入ったんだい?」


「どれも美味しかったですけど……。」


「卵のやつが特に好きでした。」


「たまご?」


エレノアは不思議そうに瞬きをする。


「ああ、タメェゴォのことだね。」


「この辺じゃ、あの鳥のタメェゴォはそう呼ぶんだよ。」


「なるほど……タメェゴォ。」


タクは忘れないよう、小さく口の中で繰り返した。


「あと、魚の身も美味しかったです。」


「ええと、アジみたいな……。」


「ああ、アジュだね。」


エレノアはにっこり笑う。


「海でよく獲れる魚さ。」


「塩焼きも美味しいし、ほぐして具にしても人気なんだよ。」


「アジュ……。」


「パォン。」


「タメェゴォ。」


タクは一つずつ口にして確かめる。


「少しずつ、この世界の言葉も覚えていきます。」


その言葉に、エレノアは満足そうに微笑んだ。


「焦らなくていいさ。」


「みんな最初はそうやって覚えていくんだからね。」


そう言って籠をカウンターへ置くと、にこりと笑う。


「じゃあ今日は、店中の埃を全部追い出そうじゃないか。」


朝日に照らされた店が、まるで二人を迎えるように、静かに輝いていた。


エレノアは入口の扉を大きく開け放った。


朝の爽やかな風が店内へ流れ込み、木の香りを運んでくる。


続いて窓という窓を次々と開けていく。


からり、と木枠が音を立てるたび、店の空気が少しずつ入れ替わっていった。


「まずは風を通す。」


「掃除の基本さ。」


「空気まで綺麗になる気がします。」


タクがそう言うと、エレノアは嬉しそうに笑う。


「その通り。」


「店ってのは料理や酒だけじゃない。」


「空気もご馳走なんだよ。」


そう言うと、入口の脇に置かれていた大きな籠を持ち上げた。


中には親指ほどから拳ほどまで、大きさの違う透明な珠がぎっしり詰まっている。


「これは……。」


「新しい魔力珠さ。」


エレノアは一つ取り出し、壁際の小さな装置へはめ込んだ。


かちり。


珠が淡い青色に光る。


天井の照明が一瞬だけ優しく明るくなった。


「灯り。」


次は流し台。


蛇口の横を開き、別の珠を入れる。


さらさら……


試しに蛇口を捻ると、水が勢いよく流れ出した。


「水道。」


さらに冷蔵庫。


透明な窓の付いた箱の裏側へ珠を差し込む。


冷気がゆっくりと漂い始めた。


「冷蔵庫。」


今度は調理場。


丸い魔法陣が刻まれたコンロへ珠をはめる。


ぽっ、と青白い炎が静かに灯る。


「火。」


最後にヴィールサーバー。


樽の横へ珠を入れると、ごぽ、ごぽっと内部で酒が循環する音が聞こえた。


「これで全部。」


タクは店内を見渡した。


「全部、魔力珠で動くんですね。」


「そうさ。」


エレノアは籠を床へ置く。


「魔力が多い種族なら、自分の魔力を流して使う人もいる。」


「でも普通は珠を使うね。」


「誰でも同じ生活が出来るようになってるんだよ。」


タクは透明な珠を手に取った。


中では淡い光がゆっくり揺れている。


まるで小さな星を閉じ込めたようだった。


「これはどれくらい持つんですか?」


「このくらいの大きさなら三十日くらいかな。」


「毎日普通に生活して、そのくらい。」


「結構長持ちですね。」


「生活用だからね。」


エレノアは笑う。


「業務用はもっと大きい。」


「酒場なんかは一か月で何個も使うよ。」


タクは珠を眺めながら尋ねた。


「高いんですか?」


エレノアは指を一本立てた。


「これ一つで金貨一枚。」


「えっ?」


思わず声が裏返る。


「そんなにするんですか?」


「だから大事に使う。」


「壊れない限り最後まで使い切るんだ。」


そう言って流し台を軽く叩く。


タクは納得したように頷いた。


「この店の分さね。」


エレノアは籠をタクへ押した。


「全部、餞別さ。」


「え?」


「最初くらいは私が出す。」


「命を助けてもらった礼なんだから。」


タクは慌てて首を振る。


「そんな……。」


「いいんだよ。」


エレノアは優しく笑った。


「お金ってのは使う時に使わなきゃ意味がない。」


「それにね。」


「店が軌道に乗ったら、何倍にもして返しておくれ。」


タクも思わず笑った。


「それなら頑張ります。」


「その返事が聞きたかった。」


エレノアは満足そうに頷いた。


「さて。」


「今度は掃除だ。」


二人はそれぞれ布巾や箒を手に取る。


タクは迷いなく二階へ向かった。


まずは天井。


棚の上。


窓枠。


高い場所から順番に埃を落としていく。


「おや。」


階下からエレノアが顔を出す。


「掃除慣れしてるねぇ。」


「家ではよくやってました。」


「なるほどねぇ。」


タクは脚立へ上り、梁の上まで丁寧に布を滑らせる。


角に溜まった細かな埃まで見逃さない。


床へ落とした埃は後でまとめて掃けばいい。


順番も手際も無駄がなかった。


「……。」


エレノアは少し驚いたように見つめる。


「主人も同じ掃除の仕方だったよ。」


「上から下。」


「最後に床。」


「懐かしいねぇ。」


タクは少し照れながら笑った。


「自然と覚えました。」


「いい癖だ。」


エレノアも嬉しそうに頷く。


一時間ほど経つ頃には、二階の窓ガラスまで磨き終えていた。


朝日を受けた窓は、まるで何もないかのように透き通っている。


タクは階段を下りる。


今度は一階。


壁一面に並ぶ酒棚を、一段ずつ丁寧に拭いていく。


瓶を一本持ち上げては棚を拭き、瓶も磨いて戻す。


一本。


また一本。


気が遠くなるような作業だった。


だが、不思議と嫌ではない。


店が少しずつ目を覚ましていくような気がしていた。


エレノアはその様子を眺めながら、小さく呟く。


タクが瓶を一本一本磨いている姿を見て、


エレノアは思わず足を止めた。


「……そこまで丁寧に磨くんだねぇ。」


「せっかく並べるなら、瓶も綺麗な方がお客さんも気持ちいいですから。」


その言葉に、エレノアは少しだけ目を細める。


「主人もね。」


「まったく同じことを言ってたんだよ。」


店の奥に、遠い日の笑い声が蘇ったような気がした。


「この店は。」


「本当に、いい人に出会えたのかもしれないねぇ。」


その言葉は風に溶け、タクの耳には届かなかった。


酒棚の最後の一本を磨き終えた頃には、店の中へ差し込む朝日もすっかり高くなっていた。


磨き上げられた瓶が光を受け、それぞれ違う色を返している。


赤。


琥珀色。


深い緑。


透明な瓶に映る光は、まるで宝石のようだった。


タクは布巾を畳み、ゆっくりと息を吐く。


「終わりました。」


その声に、床を磨いていたエレノアが顔を上げる。


「うん。」


店内をぐるりと見回し、満足そうに頷いた。


「見違えたねぇ。」


昨日まで静かに眠っていた店とは思えない。


窓は朝日を映し、床は木目がはっきりと分かるほど艶を取り戻している。


棚の埃もなくなり、空気まで軽くなったようだった。


エレノアはカウンターへ手を置き、ゆっくりと撫でる。


「主人が見たら喜ぶだろうねぇ。」


その言葉に、タクも静かに店内を見渡した。


まだ酒は少ない。


食材庫も空。


営業はできない。


それでも、この店は昨日よりずっと"店"らしく見えた。


「掃除だけで、こんなに変わるんですね。」


「店も人も同じさ。」


エレノアは笑う。


「手を掛ければ、ちゃんと応えてくれる。」


その言葉に、タクは小さく頷いた。


――コーン…コーン…。


遠くで教会の鐘のような音が鳴る。


街へ時刻を知らせる鐘だった。


「そろそろ役所が開く時間だね。」


エレノアは腰へ手を当てる。


「営業再開の届け。」


「後継人の登録。」


「それから細かい手続きを済ませよう。」


「はい。」


二人は手を洗い、店の戸締まりを確認して外へ出た。


朝のノクスアークは昨日以上に賑わっていた。


露店では焼き立てのパォン(パン)の香りが漂い、商人たちが元気よく声を張り上げている。


獣人の親子が買い物をし、翼を持つ魔族が屋根から屋根へ飛び移る。


牛人が荷車を押し、その横を小柄な妖精たちが笑いながら飛んでいく。


それぞれ姿は違っても、誰もそれを特別とは思っていない。


この国では、それが当たり前なのだ。


「今日は人が多いですね。」


「朝は皆、用事を済ませるからね。」


「市場も役所も混む時間さ。」


石畳をしばらく歩くと、大きな建物が見えてきた。


白い石造りの堂々とした建物。


入口には魔王国の紋章が掲げられている。


「ここが役所。」


中へ入ると、広い受付があり、多くの住民が番号札を手に順番を待っていた。


「いらっしゃいませ。」


受付から明るい声が聞こえる。


タクは思わず目を見開いた。


「あれ……?」


受付に立っていたのは、昨日ギルドで案内してくれたトカゲ族の女性だった。


緑色の鱗。


金色の瞳。


優しく揺れる尻尾。


思わず口を開く。


「昨日、ギルドにいましたよね?」


その女性は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。


「ふふっ。」


「よく間違われるんです。」


少し照れくさそうに頬をかく。


「ギルドにいたのは三番目の姉です。」


「私は四番目です。」


「えっ?」


タクは思わず固まった。


女性は少しだけ胸を張る。


「私たち、十姉妹なんですよ。」


「十人とも、よく似ているので皆さん驚かれます。」


そう言って尻尾を揺らした。


「でも、ちゃんと違うんですよ?」


「ほら。」


顔を少し近付ける。


「姉は右の頬に鱗が多くて、私は左側。」


「目も、姉の方が少しだけつり目なんです。」


「言われてみれば……。」


「でしょう?」


にこり、と笑う。


「家族でも見分けが付かない時がありますけど。」


後ろから同僚が苦笑する。


「それは言い過ぎ。」


受付の周囲から小さな笑い声が起こった。


どこか温かい空気だった。


エレノアも笑いながら受付へ近付く。


「営業再開の届けと、後継人の登録をお願いしたいんだけど。」


「かしこまりました。」


四女は慣れた手つきで書類を取り出していく。


「店名は?」


「Rack of Luck。」


「前店舗『Luck Memories』からの継承ですね。」


羽ペンがさらさらと紙を走る。


「代表者はタク様。」


「所有者はエレノア・ヴァルディス様。」


「営業権を後継者へ移譲、と。」


確認しながら丁寧に書き進めていく。


「少々お待ちください。」


四女は書類を持って奥へ消えた。


待合の長椅子へ腰掛ける。


タクは役所の中を見回した。


人族だけではない。


鬼族。


獣人。


悪魔族。


羽のある種族。


様々な人々が同じ窓口へ並び、同じように順番を待っている。


誰も特別扱いされていない。


そんな光景が、この国らしいと感じた。


しばらくすると、受付から呼び声が響く。


「エレノア様、タク様。」


二人は席を立ち、窓口へ向かった。


係員は笑顔で書類を差し出す。


「確認事項があります。」


「後継者登録に伴い、家族構成をお聞かせください。」


エレノアは静かに首を横へ振る。


「主人は亡くなってる。」


「子どももいない。」


「この子に店を継いでもらう。」


係員は静かに頷き、書き記していく。


続いてタクへ視線を向けた。


「ご家族はいらっしゃいますか?」


タクは少しだけ言葉に詰まった。


もともと日本でも天涯孤独だった。


あの友人や同僚ともう会えるかどうかも分からない。


胸の奥が少しだけ痛んだ。


「……今は、いません。」


その答えに、係員はそれ以上深くは聞かなかった。


「承知いたしました。」


優しく微笑み、最後の書類へ判を押す。


――コン。


澄んだ音が窓口へ響いた。


「これで営業再開および後継者登録の手続きは完了です。」


「おめでとうございます。」


その一言に、タクは思わずエレノアの方を見た。


エレノアは嬉しそうに目を細め、小さく頷いた。


「これで本当に、始まりだねぇ。」


トカゲ族の受付嬢が、柔らかな笑顔で書類を差し出した。


エレノアは丁寧に受け取り、小さく頭を下げる。


「ありがとう。」


「また何かあれば来るよ。」


「はい、お待ちしております。」


タクも軽く頭を下げる。


役所を出ると、昼前の陽射しが石畳を明るく照らしていた。


「ふぅ……。」


タクは思わず大きく息を吐く。


「これで少し安心しました。」


「まだ始まったばかりだけどねぇ。」


エレノアは笑いながら歩き出した。


「まずは腹ごしらえだ。」


「午後も歩き回るからね。」


「はい。」


二人は役所近くの屋台通りへ向かった。


昼時ということもあり、多くの人で賑わっている。


大きな鍋から立ち上る湯気。


焼きたてのパォンの香り。


肉を焼く香ばしい匂い。


甘い果物を煮詰めたような香りまで漂ってきた。


どれも食欲を誘う。


エレノアは一軒の屋台の前で足を止めた。


「今日はここにしよう。」


店主へ声を掛ける。


「パシュタを二つ。」


「ティーチャも二つ頼むよ。」


「毎度あり!」


威勢の良い返事が返ってきた。


しばらくすると木の皿へ盛られた料理が運ばれてくる。


白く長い麺。


香草と細かく刻まれた肉が絡められ、湯気を立てていた。


タクは目を輝かせる。


「パスタ……。」


その言葉にエレノアが、くすっと笑う。


「惜しいねぇ。」


「この国じゃ『パシュタ』って言うんだよ。」


「あ……。」


タクは照れくさそうに笑った。


「パシュタ。」


「そうそう。」


「コォームギの粉を練って作る麺料理さ。」


「コォームギ……。」


「この国じゃ一番よく食べられてる穀物だよ。」


タクは何度も頷く。


「少しずつ覚えます。」


「偉いねぇ。」


エレノアは感心したように笑った。


「昨日来たばかりなのに、もう名前を覚えようとしてる。」


「普通は『麺料理』で済ませちゃう人が多いんだけどね。」


「店をやるなら、食材の名前くらいは覚えないと。」


その返事を聞き、エレノアは嬉しそうに目を細めた。


「その心掛けなら大丈夫だ。」


二人はパシュタを口へ運ぶ。


もちもちとした麺。


香草の爽やかな香り。


優しい塩味。


素朴だが、どこか懐かしい味だった。


続いて運ばれてきた木製のカップ。


琥珀色のお茶から、ふわりと良い香りが立ち上る。


「これは?」


「ティーチャ。」


「ティーの葉を煮出した飲み物さ。」


一口飲む。


ほのかな苦味のあと、優しい甘みが口へ広がる。


「美味しいです。」


「水は無料だけどね。」


「ティーチャは銅貨一枚。」


「他の飲み物も、大体銅貨一枚か二枚くらいだよ。」


タクは頭の中で値段を整理していく。


銅貨。


銀貨。


金貨。


この世界のお金も少しずつ覚え始めていた。


昼食を終えると、二人は市場へ向かった。


酒屋。


八百屋。


肉屋。


乾物屋。


エレノアは店を一軒ずつ指差して説明していく。


「ここが野菜。」


「ここが肉。」


「向こうが酒屋。」


「全部、昔から付き合いのある店さ。」


酒屋の前で足を止める。


樽が何十本も並んでいた。


「ここらへんで一番飲まれてるのがヴィール。」


「ウォームギを発芽させて、糖化させて、発酵させる。」


「飲みやすくて人気なんだ。」


「1言にヴィールと言っても種類はたくさんあるんだ。」


タクは興味深そうに頷く。


「ビールみたいなものですね。」


「よくわからないけどおしいねぇ。」


「一杯、銅貨五枚から七枚くらい。」


「店によって少し違う。」


「突き出し…一緒に食べる物は?」


「突き出し?…ああ、私のお店ではファーストプレートって呼んでるよ。それはね、銅貨三枚以内。」


「それ以上取ると嫌われる。」


「一杯飲んで、銀貨一枚くらい。」


「それが気持ちよく帰れる値段かな。」


エレノアは少し真面目な顔になる。


「それ以上ぼったくる店はね。」


「魔王様のお触れで、あっという間に営業停止さ。」


「商売は信用。」


「一度失えば戻らない。」


タクは真剣な表情で頷いた。


「覚えておきます。」


「ヴィールの樽一本は金貨一枚と銀貨三枚。」


「四十杯くらい取れる。」


「だから儲けは銀貨三枚くらい。」


「飲む人は十杯でも二十杯でも飲むけどね。」


エレノアは笑った。


「牛人やケンタウロスのお客さんが来ると大変だったよ。」


「樽が空になって。」


「翌日の注文で走り回る。」


「嬉しい悲鳴ってやつさ。」


市場を歩きながら、タクは店のことを次々と質問する。


料理。


酒。


保存方法。


値段。


エレノアは一つひとつ丁寧に答えてくれた。


その帰り道。


郵便局へ立ち寄る。


受付には、また見覚えのあるトカゲ族の女性がいた。


「こんにちは。」


「いらっしゃいませ。」


タクは思わず笑ってしまう。


「また、お姉さんですか?」


女性も笑う。


「私は七番目です。」


「皆さん、本当に驚かれます。」


「姉から話は聞いてます。」


「新しい店主さんですよね?」


エレノアは封筒を差し出した。


「昔の仕入れ先へお願い。」


「急ぎじゃないけどね。」


受付のトカゲさんは丁寧に受け取り、大切そうに胸へ抱く。


「本日中に発送いたします。」


「ありがとうございます。」


役目を終え、郵便局をあとにした。


「明日には返事が届くだろうね。」


「仕入れられるかどうか。」


「楽しみです。」


タクは自然と笑顔になる。


夕方になると、一度店へ戻った。


そこへ大きな影が現れる。


「配達だァ!」


低く太い声。


振り向くと、二本の立派な角を生やした巨大なオーガが立っていた。


肩幅は扉ほどもあり、腕は丸太のように太い。


タクは思わず昨日のオーガ討伐の話を思い出した。


同じオーガでも、まるで別人だ。


エレノアが笑う。


「言ったろう?」


「悪いのは魔物化した一部だけさ。」


「普通のオーガは働き者で力持ち。」


「町じゃ人気者なんだから。」


しかし表情は驚くほど穏やかだった。


「こんにちは。」


柔らかな笑顔で頭を下げる。


その肩には。


敷布団。


掛け布団。


毛布。


シーツ。


四点一組を二セット。


大人一人では持ち上げるのも難しそうな荷物が、軽々と担がれていた。


「重くないんですか?」


思わず聞くタク。


オーガは豪快に笑う。


「これくらいなら羽みたいなもんです!」


「昔ゃ酒樽十本を担いで走ってましたから!」


笑顔のまま店の二階へ運び込み、手際よく新しい寝具を敷いていく。


作業はあっという間だった。


「これで銀貨三枚です!」


そう言って爽やかに一礼すると、再び荷物を担いで風のように走り去っていった。


「あれで一時間も掛からないんだからねぇ。」


エレノアは苦笑する。


「オーガ族は力仕事じゃ右に出る者がいない。」


「だから運送屋さんには欠かせない存在なんだ。」


タクは感心するしかなかった。


夕方、屋上では新しい布団が風に揺れていた。


陽の匂いをたっぷり吸い込み、ふかふかに膨らんでいる。


その様子を眺めながら、エレノアがぽつりと呟く。


「そうそう。」


「文字が読めること、不思議に思わなかったかい?」


タクは少し驚いた。


「そういえば……。」


「昨日、魔王様に会った時。」


「『この世に生まれて、よい音聞け』って言われたんです。」


エレノアは「ああ」と優しく頷く。


「それはね。」


「赤ん坊が生まれた時に贈る魔言葉なんだよ。」


「祝福の言葉さ。」


「その子が言葉を覚え。」


「文字を学び。」


「良いものを見聞きしながら育つようにって願いを込めるんだ。」


「じゃあ……。」


「それだけで読み書きが?」


エレノアは首を横に振る。


「そこまで便利じゃないよ。」


「勉強はちゃんと必要さ。」


「でも覚えやすくなる。」


「だから、この国は読み書きができる人が多いんだよ。」


タクは納得したように頷いた。


魔法だけではない。


努力も必要なのだ。


日が沈み始める。


エレノアは帰り支度を整えると、玄関で振り返った。


「今日は本当にお疲れさま。」


「明日は仕入れ先から返事が来る。」


「もっと忙しくなるよ。」


「はい。」


タクは笑顔で答えた。


エレノアが帰ると、店は静かな夜に包まれる。


二階へ上がる。


昼間、屋上で干した新しい布団は太陽の匂いがしていた。


タクは鞄を開ける。


一番奥からスマートフォンを取り出す。


画面は真っ暗なまま。


時計も。


日付も。


何も表示されない。


静かに電源ボタンを押してみる。


充電がかなり減っている。


しばらく眺めたあと、小さく笑い電源を落とした。


「……帰れない、か。」


そう呟き、もう一度スマートフォンを鞄へしまう。


窓の外を見る。


街には優しい灯りがともり始めていた。


『Rack of Luck』


昼間、自分で磨き上げた看板が、窓の向こうで静かに揺れている。


ここはもう借り物の場所ではない。


自分が守る店だ。


「帰れない、じゃない。」


少しタクは書斎で本を読んだ。


「ここから始めるんだ。」


そう呟き、タクは新しい布団へ身を沈めた。


静かな夜風が窓を揺らす。


明日は仕入れの日。


『Rack of Luck』が、本当の意味で動き出す一日になる。


そんな期待を胸に抱きながら、タクは穏やかな眠りへ落ちていった。

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