オスイターとライドォリ
夜の魔王国を、静かな風が吹き抜けていた。
『Rack of Luck』には今日も穏やかな灯りがともり、グラスを傾ける客たちが、それぞれ思い思いの時間を楽しんでいる。
ガルムはヴィールを片手にソージーセを頬張り、旅猫は窓際で夜景を眺めながらカクテルをゆっくり味わっていた。
ミズネは帳簿を閉じ、ミズハは冷えた白ヴァインを楽しんでいる。
そんな落ち着いた空気の中――。
カラン。
扉のベルが静かに鳴った。
入ってきたのは、一人の犬獣人の男性だった。
灰色のスーツにロングコート。
少し癖のある髪を後ろへ流し、鋭い目つきをしているが、その瞳にはどこか知性と疲労が同居している。
肩から革鞄を提げ、その足取りは軽い。
だが、どこか考え事をしているようにも見えた。
タクは笑顔で一礼する。
「こんばんは。いらっしゃいませ。」
男は柔らかく笑った。
「やぁ。」
「僕は魔王国立探偵、シャークチックキームズ。」
少し肩をすくめる。
「長いから、キームズと呼んでくれ。」
「噂になっていたんだ。」
「素敵なダイニングバーが出来たってね。」
店内をぐるりと見渡し、満足そうに頷く。
「なるほど。」
「確かに落ち着く。」
カウンターへ腰を下ろすと、タクへ向き直った。
「さて。」
「今日のおすすめか、僕に合いそうな一皿をお願いできるかな?」
タクは少し考え、穏やかに微笑んだ。
「でしたら今日は。」
「解禁日を過ぎ、ちょうど食べ頃を迎えた熟成ライドォリをご用意できます。」
キームズの眉が少し動く。
「ほう。」
「それに、本日は新鮮なオスイターも仕入れております。」
「白ヴァイン蒸しがおすすめです。」
「お酒は?」
「どちらにも合わせるなら、白ヴァインが一番かと思います。」
キームズは嬉しそうに笑った。
「それは実に魅力的だ。」
「では両方いただこう。」
「かしこまりました。」
タクは厨房へ向かう。
まず取り出したのは、熟成を終えたライドォリ。
熟成庫から出した肉は、淡い飴色を帯び、旨味を十分に蓄えていた。
表面を軽く整え、塩と胡椒だけで下味を付ける。
フライパンへヴァターを落とす。
じゅわり――。
甘い香りが立ち上る。
そこへライドォリを静かに置く。
ジュゥゥゥ……
皮目からじっくり火を入れる。
焦らない。
肉の中へ熱をゆっくり届けるように、ヴァターを何度も掛け続けた。
香ばしい香りが店内へ広がる。
続いて小鍋へ。
新鮮なオスイターを並べ、白ヴァインを注ぐ。
香草をひと枝。
蓋を閉じると、優しい蒸気がゆっくりと立ち上った。
貝殻が一つ。
また一つと静かに口を開いていく。
海の香りと白ヴァインの芳香が混ざり合い、店中へ広がった。
「いい香りだな……。」
ガルムが鼻を鳴らす。
旅猫も耳をぴくりと動かした。
「今日は海の匂いもするにゃ。」
その頃。
タクは一本の白ヴァインを棚から取り出した。
ボトルを静かに傾け、デキャンタへ移す。
黄金色の液体がゆっくりと流れ落ちる。
さらに、デキャンタ中央のくぼみへ透明な氷を入れた。
ワインへ直接触れず、器だけを冷やしていく。
温度だけを静かに下げる、タク流の冷やし方だった。
その様子を見ていたキームズが、不意に呟く。
「……まさか。」
「ドアノブに氷……?」
「それなら密室の外から鍵を掛けられる……。」
ぶつぶつと独り言が続く。
「ドアの下の水たまり……。」
「いや、それだけでは説明が……。」
タクは苦笑しながらも、その独り言には触れない。
ワインをグラスへ注ぐ。
ちょうど香りが最も開く瞬間を見計らって、静かにカウンターへ置いた。
「お待たせいたしました。」
その声に、キームズははっと現実へ戻る。
「あ、ああ。」
「ありがとう。」
グラスを持ち上げ、一口。
目を細める。
「……実にいい。」
「料理が来る前から満足させられるとは。」
続いて、ライドォリとオスイターが運ばれてきた。
香ばしく焼き上がったライドォリ。
白ヴァインの香りをまとったオスイター。
氷を敷いた皿の上で、美しく盛り付けられている。
「これは……。」
「素晴らしい。」
キームズは嬉しそうにナイフを入れた。
ライドォリを一口。
オスイターを一口。
白ヴァインを流し込む。
思わず笑みがこぼれる。
「……噂以上だ。」
その頃、タクは別の常連客の注文へ取り掛かっていた。
「塩縁のカクテルをお願いいたします。」
「かしこまりました。」
グラスの縁を軽く湿らせ、塩を美しくまとわせる。
さらり。
ほんの少し塩がこぼれた。
その一粒が、オスイターの皿を支えていた氷へ落ちる。
じわっ――。
みるみる氷が溶け始めた。
タクは気付き、小さく頭を下げる。
「申し訳ありません。」
「氷へ塩が掛かってしまいました。」
「すぐ新しいものをご用意いたしますので、少々お待ちください。」
そう言って厨房へ向かう。
その瞬間だった。
キームズの瞳が大きく見開かれる。
「……そうか!」
勢いよく立ち上がる。
「だから床の水が乾いた後に白い粉だけ残っていたのか!」
「水だけではない!」
「塩だったんだ!」
店内の全員がきょとんとキームズを見る。
しかし本人は気付かない。
「塩で氷を急速に溶かした!」
「だから証拠は消えた!」
「密室は最初から存在していなかったんだ!」
拳を握る。
「これで奴のアリバイは崩れる!」
「犯人は――!」
そこまで叫ぶと、キームズは我に返った。
「……いや。」
「続きは現場でだ。」
ライドォリを最後の一口まで味わい。
白ヴァインも飲み干す。
立ち上がると、ちょうど戻ってきたタクの両手をがしっと握った。
「ありがとう!」
「素晴らしいマスター!」
「君のおかげで事件が解けた!」
「え?」
タクは目を丸くする。
キームズは懐から代金を取り出すと、予定より多めの硬貨をカウンターへ置いた。
「釣りはいらない!」
「これは閃き代だ!」
そう言い残し、勢いよく店を飛び出していく。
カランッ!
扉が閉まり、店内は静寂に包まれた。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて旅猫が首を傾げる。
「……結局。」
「何が解けたんだにゃ?」
ミズハも苦笑する。
「さっぱり分からなかった……。」
ガルムはヴィールを一口飲み、肩をすくめた。
「探偵ってのは、ああいう生き物なんだろ。」
ミズネは帳面へ何かを書き込みながら、小さく笑う。
「少なくとも、お料理には満足していただけたようですね。」
タクは置かれた硬貨と閉まった扉を見比べ、困ったように笑った。
「……事件も、お料理も。」
「無事に解決できたなら、何よりです。」
その言葉に、店内は優しい笑いに包まれた。
今夜もまた、『Rack of Luck』には、一つ不思議で、少しだけ愉快な思い出が増えていた。




