命の恩人と止まったままの酒場
夕暮れのノクスアーク。
西へ傾いた陽が石畳を橙色に染め、店々には灯りがともり始めていた。
食堂からは香ばしい匂いが漂い、露店では客と店主が楽しそうに笑い合っている。
仕事を終えた魔族たちが肩を並べて歩き、子どもたちは通りを駆け回っていた。
「今日は宿を取って……。」
「明日から仕事を探そう。」
タクは革袋を軽く握る。
金貨、銀貨はまだある。
すぐに困ることはない。
だが、働かなければ、この世界では生きていけない。
「まずは生活基盤だな。」
そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。
ドドドドドドドドッ!!
腹の底まで響く轟音。
地面が震えた。
「……!」
タクは反射的に首を向ける。
通りの向こうから、四頭立ての巨大な馬型魔獣が一直線に駆けてくる。
全身を黒い甲殻のような皮膚で覆われた巨体。
赤く光る眼。
鼻息だけで砂埃が舞い上がる。
鋼鉄のような蹄が石畳を叩くたび、
ガンッ!
ガンッ!
と火花が散った。
その後ろには、金色の装飾をこれでもかと貼り付けた豪奢な馬車。
磨き上げられてはいる。
だが美しいというより、下品だった。
金の装飾。
宝石。
無駄に大きな紋章。
まるで金をそのまま形にしたような成金趣味。
御者が立ち上がり、鞭を振るう。
「どけぇぇぇぇっ!!」
怒号が通りへ響く。
歩いていた人々が一斉に道の端へ飛び退く。
店主たちは商品を抱え込み、子どもたちを引き寄せる。
しかし。
一人だけ。
その轟音に気付いていない影があった。
小柄な老婆。
杖をつきながら、ゆっくりと横断しようとしている。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
だが。
もう間に合わない。
あと一秒。
いや、それすら無い。
タクの身体が動いた。
考えるより早く。
気付けば地面を蹴っていた。
「っ!」
足へ激痛が走る。
だが止まれない。
運が悪い。
最悪なら。
二人とも死ぬ。
それでも。
運が良ければ。
せめて、このおばあさんだけでも助けられるかもしれない。
耳へ飛び込んでくる。
魔獣の荒い息遣い。
御者の怒鳴り声。
蹄が石畳を砕く音。
すべてが混ざり合い、世界が一つの轟音になった。
時間だけが、ゆっくりと流れる。
老婆との距離が縮まる。
あと一歩。
あと半歩。
「……っ!」
右手が伸びる。
細い腰を掴む。
そのまま全身で押し飛ばした。
「ひぇっ!」
老婆の短い悲鳴。
二人の身体が宙へ舞う。
同時に。
タクは背負っていた鞄を反対側へ放り投げた。
ガタンッ!
革鞄は石畳へ落ち、その上へ老婆の身体が転がる。
衝撃を吸収するように、鞄が潰れた。
老婆は助かった。
しかし。
タクはまだ道路の真ん中だった。
目の前には。
巨大な魔獣。
赤い眼。
開かれた牙。
もう避けられない。
そう思った瞬間。
魔獣が僅かに首を振った。
その動きに合わせるように、タクは咄嗟に身体を捻る。
鼻先が頬を掠める。
風圧だけで身体が吹き飛びそうになる。
次の瞬間。
四頭の魔獣が轟音と共に横を駆け抜けた。
髪が激しく揺れる。
熱い息が背中を撫でる。
あと数ミリ。
ほんの僅かでも遅れていたら。
命は無かった。
十メートルほど先で、ようやく馬車が止まる。
御者が勢いよく立ち上がった。
「貴様ぁぁぁぁっ!!」
馬鞭を振り上げ、タクを指差す。
「危ねぇだろうが!」
「このお方は、高貴なケヌーマ・アルド様の御馬車だぞ!」
「進路を塞ぐとは何事だ!」
「無礼者ぉっ!!」
タクはゆっくりと立ち上がる。
身体中が痛い。
だが。
動く。
骨は折れていない。
運が良かった。
本当に。
運が良かった。
その時。
豪華な馬車の小窓がゆっくり開いた。
中から、一人の男が顔を覗かせる。
青白い肌。
ぶよぶよと肥えた頬。
脂ぎった髪。
十本の指には、これ見よがしに宝石の指輪がはめられていた。
男はタクを一瞥すると、露骨に顔をしかめる。
「……ふん。」
「こんな下賤の者に時間を使っている暇はない。」
冷え切った声だった。
「貴族院へ急げ」
御者が深々と頭を下げる。
「はっ!」
男は最後に、細い目でタクを見据えた。
「お前。」
「顔は覚えた。」
その一言だけで、背筋が冷えた。
男は薄く笑う。
「いずれ後悔する日が来る。」
窓が閉まる。
御者は再び鞭を振り下ろした。
「走れぇっ!!」
四頭の魔獣が再び地面を蹴る。
轟音を残しながら、馬車は王城の方角へ走り去っていった。
静寂が戻る。
そして。
「兄ちゃん!」
「大丈夫か!」
「怪我は!?」
「水を持ってこい!」
一斉に人々が駆け寄ってきた。
角の生えた鬼のような男が肩を貸す。
翼を持つ女性がタオルを差し出す。
蛇の下半身を持つ女性が水筒を持ってくる。
犬獣人の店主は心配そうに顔を覗き込み、
「無茶しやがって!」
と苦笑した。
さっきまで遠くから見ていた魔族たちが、誰一人として見て見ぬふりをしなかった。
その優しさに。
タクは少しだけ胸が熱くなる。
やがて。
鞄の上から、老婆がゆっくりと立ち上がった。
身体を震わせながら。
何度も。
何度も。
タクを見つめている。
そして。
涙を流した。
「ありがとう……。」
その一言を口にすると。
堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ありがとう……。」
「本当にありがとう……。」
「寿命が百年縮んだかと思ったよ……。」
「もう駄目だと思った……。」
老婆は何度も何度も頭を下げた。
震える手でタクの両手を握る。
その温もりは、小さく、そして力強かった。
タクは照れくさそうに笑う。
「助かって良かったです。」
「それだけで十分ですよ。」
老婆はタクの手を両手で包んだまま、何度も何度も頭を下げていた。
「ありがとう……。」
「本当にありがとう……。」
「もう駄目だと思ったんだよ……。」
涙を拭っても、次から次へと溢れてくる。
タクは困ったように笑いながら首を振った。
「頭を上げてください。」
「無事で、本当に良かったです。」
「いやいや。」
老婆は大きく首を横へ振る。
「助けてもらったのは私だよ。」
「お前さんが飛び込んでくれなかったら、私は今頃あの馬車の下敷きさ。」
「この歳になって命を拾うなんてねぇ……。」
老婆はそう言って胸を撫で下ろした。
その様子を見ていた周囲の住民たちからも、安堵の息が漏れる。
「兄ちゃん、すげぇ度胸だったな。」
鬼のような角を持つ男が感心したように腕を組む。
「俺なら足が竦んで動けなかったぜ。」
「本当よ。」
翼を持つ女性も頷く。
「あんな馬車の前に飛び出すなんて、自殺行為だもの。」
犬獣人の八百屋の主人が笑いながら言った。
「今日は酒の肴に困らねぇな!」
「『馬車を止めた兄ちゃん』って話で一杯飲める!」
周囲から笑い声が起きる。
先ほどまで張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいった。
だが、その中で一人だけ。
年配の蜥蜴人が眉をひそめて呟く。
「……しかし。」
「あの家紋。」
「アルド家だったよな。」
笑い声が止まる。
「ありゃ面倒だ。」
「目ぇ付けられたってたぞ。」
「あそこは金と権力だけはあるからなぁ。」
「しかも執念深い。」
周囲の住民たちが顔を見合わせる。
タクはその様子を静かに見つめていた。
やはり、あの男はこの国でも嫌われているらしい。
すると老婆が杖を地面へ強く突いた。
「何がアルド家だい!」
その声は、先ほどまで泣いていた人物とは思えないほど力強かった。
「人を轢き殺しかけておいて偉そうに!」
「悪いのは向こうじゃないか!」
「この子に何かしようってんなら、私が出るとこ出てやるからね!」
「こんな歳でも、まだ口くらいは動くんだから!」
周囲から
「そうだそうだ!」
「婆ちゃんの言う通り!」
と賛同の声が上がる。
タクは思わず笑ってしまった。
魔王国。
そう聞いて想像していた世界とは、あまりにも違う。
恐ろしい魔族たちが暮らす国。
そんな先入観は、今日一日で何度も覆されていた。
見た目は怖い。
角も牙も尻尾もある。
けれど。
その中身は、自分が元いた世界の人たちと何も変わらない。
いや。
もしかすると、もっと温かいのかもしれない。
老婆はふぅ、と息を吐き、ようやく落ち着きを取り戻した。
そして改めてタクの顔をじっと見つめる。
一度。
二度。
三度。
まるで何かを確かめるように。
「……お前さん。」
「はい?」
「この辺りの人族じゃないね?」
「え?」
「顔立ちも違う。」
「服も見たことがない。」
「それに、その鞄。」
老婆はタクが背負い直した鞄を見つめた。
「そんな作りの鞄、この国じゃ見たことがないよ。」
タクは少し迷う。
隠すべきだろうか。
だが。
命を助けた相手に嘘をつく気にはなれなかった。
「実は……。」
「今日、この世界へ来たばかりなんです。」
老婆は目を丸くする。
「やっぱり。」
「異世界から来たのかい。」
「勇者様かい?」
タクは苦笑した。
「勇者ではありません。」
「そう呼ばれはしましたけど……。」
「巻き込まれただけです。」
「今は、帰る方法も分からなくて。」
「仕事も。」
「住む場所も。」
「何も決まっていません。」
老婆は静かに頷く。
その目には驚きよりも、どこか納得したような色が浮かんでいた。
「そうかい……。」
「大変だったねぇ。」
その一言が、不思議なくらい胸へ沁みた。
同情ではない。
憐れみでもない。
ただ、本当に心配してくれている声だった。
老婆はタクの手をもう一度ぎゅっと握る。
「だったら、なおさらだ。」
「今日はうちへおいで。」
「え?」
「宿も決まってないんだろう?」
「命を助けてもらったお礼には、全然足りないけどね。」
「泊まっていきなさい。」
突然の申し出だった。
タクは慌てて手を振る。
「いえ、そんな。」
「宿代くらいならありますし。」
「一晩くらいなら何とかなります。」
「ご迷惑を掛ける訳には……。」
「何言ってるんだい。」
老婆は少しだけ怒ったような顔になる。
「命の恩人に礼をするなって言うのかい?」
「それとも。」
「この婆さんの恩返しを断る気かい?」
「いや……。」
「袖振り合うも、多生の縁って言うじゃないか。」
「この歳になるとね。」
「人との縁ってのは、お金よりずっと大事なんだよ。」
そう言って、優しく微笑んだ。
タクは少し俯く。
運が悪くて、この世界へ来た。
けれど。
魔王に助けられ。
仲間を紹介され。
仕事の準備もできて。
そして今。
命を助けた縁で、泊まる場所まで見つかろうとしている。
「……運がいいな。」
思わず口から零れた。
老婆が首を傾げる。
「ん?」
「いえ。」
タクは照れくさそうに笑った。
「よろしくお願いします。」
その言葉を聞いた老婆は、嬉しそうに目を細めた。
「よし!」
「それでいい!」
周囲から拍手が起こる。
「よかったな!」
「兄ちゃん!」
「婆ちゃん家なら安心だ!」
「今日はご馳走だな!」
「酒も出るかー!」
好き勝手なことを言う住民たちに、老婆は杖を振り上げる。
「出ないよ!」
「人の財布を当てにするんじゃない!」
どっと笑いが起こった。
夕暮れの街へ、温かな笑い声が響いていく。
タクも自然と笑っていた。
異世界へ来て、まだ一日も経っていない。
それなのに。
少しだけ。
この国が好きになり始めている自分がいた。
「あんたの名前は…タクって言うのかい」
ネームプレートをのぞきこんだおばあさんが
タクに手を伸ばす。
「さあ。」
老婆がゆっくり歩き始める。
「家はこっちだよ。」
「歩きながら、この国のことを少し話してあげよう。」
タクはその隣へ並び、静かに歩き出した。
夕焼けに染まる石畳を踏みしめながら。
新しい縁へ向かって。
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しばらく魔王城のほうに歩いたあと。
「さぁ、着いたよ。」
おばあさんが足を止めた。
タクも視線を上げる。
そこに建っていたのは、小さな二階建ての建物だった。
派手ではない。
けれど丁寧に造られた木造とレンガの外壁。
大きな窓。
入口の横には年月を感じさせる木製の看板が揺れている。
どこか洒落た雰囲気だった。
「……お店ですか?」
「昔はね。」
おばあさんは少しだけ懐かしそうに笑った。
「バーだったんだよ。」
「バー……。」
その一言に、タクは思わず異世界へ来る直前の出来事を思い出した。
(バーに縁があるな)
静かな酒場。
木の香り。
磨かれたグラス。
そして、不思議なマスター。
偶然とは思えない。
そんな気がした。
「まぁ入っとくれ。」
ギィ……
木の扉がゆっくり開く。
カラン……
入口に付けられたベルが優しい音を鳴らした。
その音だけで、店が客を迎えていた頃の姿が想像できた。
扉が開いた瞬間。
ふわり、と風が吹き抜ける。
同時に。
積もっていた埃が光の中へ舞い上がった。
「けほっ……。」
タクは小さく咳き込む。
店の中央には丸いガラス玉が一つ浮かんでいた。
電球ではない。
乳白色の光球が、ゆっくりと宙を漂いながら店全体を柔らかく照らしている。
幻想的だった。
店内は時間が止まっていた。
木製のカウンター。
並んだ椅子。
棚に置かれたグラス。
酒瓶は少なくなっているが、それでも几帳面に並べられている。
「ずっと、このままなんですか?」
「うん。」
おばあさんはゆっくり頷く。
「閉めてから、そのまま。」
静かな店だった。
それでも、不思議と寂しさより温かさを感じる。
大切にされ続けてきた場所なのだと分かった。
おばあさんはカウンターへ手を置いた。
そっと撫でる。
「ここはねぇ。」
「私と主人で開いた店なんだ。」
「主人……。」
「一年前に亡くなったよ。」
タクは何も言えなかった。
少ししてから、ふと思い出したように尋ねる。
「そういえば。」
「まだ、お名前をちゃんと聞いてませんでした。」
エレノアは優しく微笑む。
「私は、エレノア・ヴァルディス。」
「でも今は、ただのエレノアさ。」
タクは軽く頭を下げる。
「では、ミセス・エレノア。」
「あははは。」
エレノアは思わず吹き出した。
「他人行儀だねぇ。」
「そんな立派な身分じゃないよ。」
「エレノアおばさんでも。」
「エレノアでも。」
「好きに呼んでおくれ。」
タクは少し考え、静かに笑う。
「……では。」
「エレノアさん。」
「それが一番自然です。」
「ふふ。」
「本当に真面目だねぇ。」
嬉しそうに目を細めるエレノア。
おばあさんは穏やかに笑っている。
けれど、その目だけは少し潤んでいた。
「おじいさん、お酒が大好きでねぇ。」
「若い頃からずっと夢だったんだよ。」
「いつか、自分の店を持ちたいって。」
「それで二人でお金を貯めて。」
「ようやく開いたのが、この店。」
店内を見渡す目は、とても優しかった。
「でもね。」
少しだけ声が震える。
「年を取って。」
「主人の足が悪くなって。」
「立ち仕事が出来なくなって。」
「お客さんに迷惑を掛けるくらいなら。」
「店を閉めようって。」
「そう決めたんだ。」
エレノアおばあさんはカウンターの奥を指差した。
「地下には酒蔵もあるんだよ。」
「おじいさんが集めたお酒が、まだ少し残ってる。」
「全部、思い出さ。」
その言葉の重さが胸へ響く。
タクは静かに店内を見渡した。
誰もいない。
けれど。
笑い声が聞こえてきそうだった。
グラスを合わせる音。
常連客の笑顔。
カウンター越しに話す夫婦。
そんな景色が自然と浮かんでくる。
「二階へおいで。」
階段を上る。
木の階段が心地よく軋んだ。
二階には生活空間が広がっていた。
寝室。
浴室。
小さな書斎。
決して広くはない。
けれど一人で暮らすには十分だった。
「今日だけなら。」
タクが静かに口を開く。
「泊めていただくだけでも十分です。」
「そんなにご迷惑は掛けられません。」
エレノアはゆっくり首を横へ振った。
「違うんだよ。」
「え?」
「住んでほしいんだ。」
「家はね。」
「人が住まなくなると、少しずつ息をしなくなる。」
窓の外へ目を向ける。
「掃除をしても。」
「手入れをしても。」
「灯りが消えた家は、少しずつ寂しくなっていく。」
そして、静かに店内を見回した。
「この店はね。」
「主人と二人で築き上げた、大切な居場所なんだ。」
「ここで笑って。」
「ここで泣いて。」
「たくさんのお客さんと、思い出を積み重ねてきた。」
少しだけ声が震える。
「だから、本当は。」
「このまま眠らせてしまうのが、一番辛い。」
タクは静かに店内を見渡した。
磨かれたカウンター。
並ぶグラス。
静かに時を待つ酒棚。
そこには確かに、人の温もりが残っていた。
そして自然と、一つの想いが胸に湧き上がる。
バー。
酒。
お客様の笑顔。
前の世界で、最後に立ち寄ったあの店。
異世界へ来てから出会った人たち。
そのすべてが一本の線になった。
タクはゆっくりとエレノアの前へ立つ。
「エレノアさん。」
「……ん?」
「一つ、お願いがあります。」
タクは深く頭を下げた。
「このお店を。」
「私に、やらせていただけませんか。」
静寂が落ちる。
エレノアは目を丸くしたまま、言葉を失った。
タクは顔を上げる。
「私はまだ、お酒のことも、この世界のことも何も知りません。」
「だから、一から教えてください。」
「掃除でも。」
「皿洗いでも。」
「雑用でも。」
「何でもやります。」
そして真っ直ぐ店を見つめた。
「この店を、もう一度。」
「お客様の笑い声が響く場所にしたいんです。」
「主人が大切にしてきた想いも。」
「エレノアさんが守り続けてきた時間も。」
「全部、次へ繋げたい。」
「だから。」
「この店を、私に受け継がせてください。」
エレノアは両手で口元を押さえた。
涙が、ぽろりと零れる。
「そんなことを……。」
「言ってくれる人が、いるなんてねぇ。」
しばらく涙を拭うことも出来なかった。
やがて、小さく笑う。
「主人なら。」
「きっと喜んで頷いてるよ。」
タクへ歩み寄ると、その両手を優しく包み込んだ。
「ありがとう。」
「本当に……ありがとう。」
「この店を。」
「よろしくお願いします。」
その言葉を聞いた瞬間。
タクは深く頭を下げた。
「はい。」
「必ず。」
「この店を、もう一度、たくさんの笑顔が集まる場所にします。」
夕陽が店内へ差し込む。
長い眠りについていた店は、新しい主人を迎えようとしていた。
静かだった店に、再び人の想いが灯る。
その日。
おばあさんから受け継がれた想いは、
新たな一歩を踏み出したのだった。




