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アンチョヴィのクラッカ

夕暮れ。


『Rack of Luck』の窓からこぼれる灯りが、石畳をやわらかな琥珀色に染めていた。


からん――。


扉のベルが静かに鳴る。


今日も店内には、いつもの穏やかな時間が流れていた。


カウンターではガルムが琥珀色のヴィースキーをゆっくりと転がしている。


大きな手の中で氷が小さく鳴り、その音に耳を傾けるように目を細めていた。


入口近くの席では、河童族のミズハが白ヴァインを傾けながら、叩きギュウリを一切れ口へ運ぶ。


奥の席ではネズミ獣人のミズネが帳面を開き、細い文字を書き込みながら、時折ドライ・ジィンのカクテルを静かに味わっていた。


誰も大声では話さない。


それぞれが、それぞれの夜を楽しんでいる。


その穏やかな空気を包み込むように、魔導蓄音機から流れる弦楽器の音色が店内へ溶け込んでいた。


タクはカウンターの中で、小皿へオリーヴとウェットチーズュを盛り付ける。


彩りを整え、一皿ずつ左手で静かに差し出した。


「お待たせいたしました。」


「おう。」


ガルムが嬉しそうに頷く。


「今日もいい香りだ。」


「ありがとうございます。」


ミズハも小さく笑う。


「この塩加減、好きなんですよ。」


ミズネは帳面から目を離さないまま、控えめに会釈を返した。


「いつもありがとうございます。」


いつもの声。


いつもの席。


いつもの夜。


だからこそ、この店には安心できる時間が流れていた。


その時だった。


からん……


扉のベルが、いつもより控えめに鳴る。


けれど、扉は最後まで開かなかった。


タクが顔を上げる。


入口には、一人の女性が立っていた。


腰から下は、美しい青い鱗に覆われた魚の尾。


夕暮れの灯りを受けて、鱗が水面のように淡く輝いている。


長く流れる蒼銀色の髪。


透き通るような白い肌。


その身体を支えているのは、木と鉄で丁寧に作られた一台の車椅子だった。


女性は静かに扉を押す。


けれど重い木の扉は途中までしか開かない。


前輪が入口の段差へ軽くぶつかり、小さく止まる。


もう一度だけ押してみる。


それでも越えられない。


困ったように微笑み、少しだけ俯いた。


「……ごめんなさい。」


その小さな声が聞こえた瞬間だった。


ガルムは何も言わず、グラスをカウンターへ置いた。


椅子から立ち上がる。


ゆっくり入口へ歩いて行く。


「少し失礼するぞ。」


それだけだった。


女性が小さく頷く。


「は、はい。」


ガルムは車椅子の後ろへ回り込む。


鉄を運ぶ時と同じように腰を落とし、重心を静かに整える。


ぐっと力を込めるのではなく、ふわりと持ち上げる。


前輪が段差を越えた。


続いて後輪。


木が軋む音すら立てないほど丁寧に。


静かに。


優しく。


車椅子は店内へ滑るように入ってきた。


「これでよし。」


ガルムは軽く笑う。


女性は何度も頭を下げた。


「ありがとうございます……!」


「気にするな。」


ガルムは照れくさそうに鼻を掻く。


「鉄の塊よりゃ、ずっと軽ぇ。」


その一言に、店内から小さな笑いがこぼれる。


張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。


だが。


今度は席だった。


カウンターは高い。


今日はテーブル席もすべて埋まっている。


タクが店内を見回した、その時だった。


「こっち。」


ミズハが静かに立ち上がる。


指差したのは、隣の雑貨屋の軒先だった。


今日は休みらしく、入口脇には小さな丸テーブルが置かれている。


「少し借りるね。」


返事を待つことなく軽々と抱え上げ、そのまま店内へ運んできた。


すると今度はミズネが静かに席を立つ。


何も言わず収納棚を開け、真っ白なクロスを取り出した。


さらり――。


布が静かに広がる。


皺を丁寧に伸ばしながら、テーブルへ掛ける。


位置を少しだけずらし、車椅子が自然に入れる高さと角度を確かめた。


「これなら、不自由はありませんね。」


穏やかに頷く。


その様子を見ていたエレノアが、小さく笑った。


「あと一つ。」


カウンターの奥から、小さな硝子瓶を持ってくる。


紫。


白。


淡い青。


季節のドライフラワーを一輪ずつ整え、小さな花瓶へ挿した。


テーブルの中央へ、そっと置く。


「これで完成だ。」


人魚の女性は、目を丸くしたまま言葉を失っていた。


しばらくして、小さく呟く。


「……皆さん。」


「慣れていらっしゃるんですね。」


タクは優しく首を横に振る。


「いいえ。」


「今日が初めてです。」


「え……?」


女性は驚いたようにタクを見る。


タクは静かに微笑んだ。


「でも。」


「困っている方がいらっしゃれば。」


「この店では、いつも誰かが自然と動いてくださるんです。」


女性は店内を見渡した。


ガルムは、もう何事もなかったようにヴィースキーを口へ運んでいる。


ミズハは白ヴァインを楽しみながら、叩きギュウリを摘まんでいた。


ミズネは再び帳面を開き、静かに文字を書き始めている。


誰も、自分が手伝ったことを誇る様子はない。


まるで最初から、この席がそこにあったかのように。


その光景を見つめる人魚の表情が、ゆっくりとほころんでいった。


人魚は、小さく息をついた。


その瞳には、先ほどまでの遠慮がちな色はもうなかった。


「……ありがとうございます。」


その一言に、店内の誰もが穏やかに微笑む。


ガルムは照れくさそうにヴィールをあおり、ミズハは静かに白ヴァインのグラスを傾ける。


ミズネは帳面を閉じると、小さく頷いた。


誰も「どういたしまして」とは言わない。


それが、この店らしかった。


タクは人魚の表情を見届けると、柔らかく微笑んだ。


「それでは、本日のおすすめをご用意いたします。」


「お願いします。」


その返事にも、もう迷いはない。


タクは静かに厨房へ向かった。


地下の保存庫から取り出したのは、塩漬けにして熟成させた小魚――アンチョヴィ。


旨味をたっぷりと蓄えたニツンの切り身を、余分な塩だけ軽く落とし、上質なオリーヴオイルにくぐらせる。


香り高い黒胡椒をひと挽き。


刻んだ香草を散らし、艶やかなオリーヴを添える。


焼き上げたクラッカの上へ、一つひとつ丁寧に盛り付ける。


最後にレモソの皮を薄く削り、ふわりと香りをまとわせた。


爽やかな柑橘の香りが、魚の旨味を優しく包み込む。


「お待たせいたしました。」


タクは人魚の左側へ皿を置いた。


「本日のファーストプレートです。


 アンチョヴィとオリーヴのクラッカになります。」


続いて、よく冷えた白ヴァインを細身のグラスへ静かに注ぐ。


淡い黄金色の液体が、ランプの灯りを受けて揺らめいた。


「こちらは白ヴァインです。


 魚介の旨味と香りを、より引き立ててくれる一本です。」


人魚は嬉しそうに頷いた。


「いただきます。」


まずは白ヴァインをひと口。


爽やかな酸味が舌を優しく潤す。


続いてクラッカを口へ運ぶ。


さくり。


香ばしい焼き色。


アンチョヴィの濃厚な旨味。


オリーヴの芳醇な香り。


そこへ白ヴァインの清らかな酸味が重なり、口の中で一つの調和を生み出していく。


人魚は目を閉じた。


静かに味わい、ゆっくりと息を吐く。


「……美味しい。」


その声は、波音のように穏やかだった。


「海の香りがします。」


「でも、それだけじゃない。」


「どこか温かくて……帰ってきたような気持ちになります。」


タクは少し照れたように笑った。


「ありがとうございます。」


その言葉を聞いていたガルムが、大きく頷く。


「マスター。」


「俺も同じのを頼む。」


「私も。」


ミズハが静かに続く。


「今日は魚の気分になりました。」


「私にもお願いします。」


ミズネも帳面を閉じ、穏やかに微笑んだ。


気付けば店のあちこちから注文の声が上がる。


「こちらも同じものを。」


「白ヴァインも一緒に。」


「魚の日も悪くないな。」


店内には自然と笑顔が広がっていく。


誰か一人のために用意した料理が、いつの間にか皆で味わう一皿になっていた。


人魚はその光景を見渡し、少しだけ目を潤ませる。


自分だけが特別扱いされたわけではない。


皆と同じ料理を囲み、同じ時間を過ごしている。


そのことが、何よりも嬉しかった。


やがて食事を終え、会計の時間になる。


ガルムは何も言わずに立ち上がると、人魚の車椅子の後ろへ回った。


「送るぞ。」


「ありがとうございます。」


前輪をそっと持ち上げ、段差を越える。


後輪も静かに降ろす。


入ってきた時と同じように、丁寧で自然な手つきだった。


店の外へ出ると、人魚は夜風を受けながら振り返る。


ランプの灯りに照らされた『Rack of Luck』。


その入口には、いつものようにタクが立っていた。


「今日は、お料理もお酒も本当に美味しかったです。」


少しだけ言葉を切る。


「でも、一番心に残ったのは――」


店の中へ視線を向ける。


「あの席でした。」


今日、この店に生まれた、小さな丸テーブル。


誰かのために用意されていた席ではない。


目の前の自分を迎えるために、その場で生まれた席だった。


「……また来ても、よろしいでしょうか。」


タクは迷うことなく頷いた。


「もちろんです。」


「次も、お待ちしております。」


人魚は嬉しそうに微笑み、深く頭を下げる。


夜風が蒼銀色の髪をやさしく揺らした。


その姿が見えなくなるまで、タクは店先で静かに見送る。


店内へ戻ると、エレノアが穏やかな笑みを浮かべていた。


「店っていうのはね。」


カウンターをそっと撫でながら言う。


「人に合わせてもらう場所じゃない。」


「その日、その時、その人に合わせようとする場所なんだよ。」


タクは店内をゆっくり見渡した。


いつもの席。


いつもの常連たち。


いつもの穏やかな時間。


けれど今夜、この店にはもう一つ、新しい居場所が生まれていた。


誰かを迎え入れようとする優しさが形になった、小さな一席。


その席はきっとこれからも――


この店を訪れる誰かの「また来たい」という想いを、静かに受け止め続けていくのだろう

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