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予約席

休肝日も終わり、穏やかな昼下がり。


店内には窓から柔らかな陽射しが差し込み、磨き上げられた木のカウンターが琥珀色に輝いていた。


タクはいつものように床を掃き、テーブルを拭き終えると、グラスを一つずつ光にかざしながら磨いていた。


カラン。


控えめに扉のベルが鳴る。


「いらっしゃいませ。」


入ってきたのは、白い毛並みの山羊獣人の老紳士だった。


上品な燕尾服に銀色の杖。


姿勢は美しいが、その歩みには年齢相応のゆっくりとした落ち着きがある。


店内を見渡し、穏やかに微笑んだ。


「ここが……『Rack of Luck』ですかな。」


「はい。」


タクが微笑み返す。


老紳士は少しだけ照れくさそうに咳払いをした。


「実はお願いがありまして。」


「はい。」


「……明日の夜。」


「二人でお願いできますかな。」


「二人……ですか?」


「ええ。」


「予約という形で。」


その言葉にタクは一瞬止まった。


(予約……。)


日本では当たり前だった。


飲食店では当たり前。


バーでも当たり前。


しかし、この世界へ来てから『予約』という言葉を聞くのは初めてだった。


「少々、お待ちください。」


タクは奥へ声を掛ける。


「エレノアさん。」


奥からエレノアが顔を出す。


「どうしたんだい?」


事情を聞くと、エレノアはすぐに笑顔になった。


「もちろん。」


「喜んでお受けいたしますよ。」


老紳士は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「実は……。」


「妻との結婚四十年の記念日でして。」


その一言だけ残し、静かに帰っていった。


扉が閉まる。


タクは少し考え込む。


「予約……。」


エレノアはカウンターへ腰掛けた。


「タク。」


「はい。」


「予約っていうのはね。」


「席を売ることじゃない。」


 タクは耳を傾ける。


「席を約束することさ。」


「その時間。」


「その場所。」


「その空間。」


「全部、そのお客様のために取っておく。」


タクはゆっくり頷いた。


「約束……ですね。」


「そう。」


「その約束を守るから、お客様は安心して来られるんだ。」


その言葉は、タクの胸へ静かに刻まれた。


————————


翌日。


開店前。


タクは小さな木札を削っていた。


丁寧に角を落とし、磨き、筆を取る。


墨を含ませる。


一文字ずつ。


ゆっくりと。


『予約席』


「できました。」


エレノアが見て微笑む。


「いい字だね。」


開店十分前。


タクはその札をカウンター中央の二席へ静かに置いた。


————————


夜。


カラン。


最初に入ってきたのはミズハだった。


木札を見る。


「あれ。」


「今日は予約があるんだね。」


「はい。」


「でしたら私は今日は端に。」


何も聞かず。


いつもの席を空けた。


続いてガルム。


「お。」


「予約席か。」


ニヤリと笑う。


「店らしくなってきたじゃねぇか。」


入口近くの自分の席へ。


そのままヴィールを注文する。


「今日はソージーセとポトテサラダ頼むぜ。」


「承知いたしました。」


さらにミズネ。


木札を見る。


「なるほど。」


「予約制度ですか。」


「良いですね。」


「店への信用になります。」


そう言って一番奥の席へ。


謎の常連客も静かに現れた。


琥珀色のヴィースキー。


今日も一番端。


誰も予約席には近寄らない。


誰も理由を聞かない。


誰も文句を言わない。


自然と二席だけが空いたまま時間が流れていく。


タクはその光景を見て思う。


(誰にもお願いしていない。)


(でも。)


(みんなが店を作ってくれている。)


————————


約束の時間。


ベルが鳴る。


「こんばんは。」


昨日の老紳士。


そして隣には、柔らかな笑顔の羊獣人の老婦人。


「お待ちしておりました。」


タクは木札を下げる。


「どうぞ。」


二人は顔を見合わせる。


「本当に空けていてくださったのですね。」


「ありがとうございます。」


席へ座る。


周囲の常連たちは軽く会釈するだけ。


その空気が二人を歓迎していた。


「本日は結婚四十年、おめでとうございます。」


「最初の一杯でございます。」


細身のグラス。


淡い黄金色。


白スパークリングヴァイン。


細かな泡が静かに立ち昇る。


コトン。


二人の前へ。


「乾杯。」


チン。


小さな音。


店中が少しだけ微笑んだ。


「美味しい……。」


「優しい泡ですね。」


タクは心の中で安心する。


(強すぎない。)


(正解だった。)


————————


「本日のファーストプレートでございます。」


白い皿。


クラッカ。


その上には薄く切ったサモン。


クリームチーズュ。


香草。


黒胡椒。


彩りよく四枚。


「まあ。」


「綺麗。」


老婦人が嬉しそうに微笑む。


一口。


燻製の香り。


チーズュの滑らかさ。


クラッカの食感。


そこへ白スパークリングヴァイン。


「……。」


「ぴったりですね。」


老紳士も頷く。


「若い頃を思い出します。」


————————


メイン。


仔ヴシ肉のロースト。


赤ヴァインソース。


香草。


ヴァター。


肉汁が静かに流れる。


そこへタクが赤ヴァインを注ぐ。


老紳士は香りを楽しむ。


「素晴らしい。」


老婦人は笑う。


「あなた。」


「新婚旅行でこんなお料理を食べましたね。」


「ああ。」


「覚えているとも。」


自然と手を重ねる二人。


店内には誰も余計な言葉を挟まない。


ガルムは静かにヴィースキーを飲み。


ミズハは赤ヴァインを傾け。


ミズネはドライ・ジィンのカクテルを楽しみ。


謎の常連は今日も何も言わずヴィースキーを味わっていた。


それぞれが、それぞれの夜を過ごしている。


そして今日は、その中心に老夫婦がいた。


————————


食後。


「最後の一杯でございます。」


小さなスニフターグラス。


ブランディア。


掌でゆっくり温める。


香りが立ち昇る。


老紳士は目を閉じた。


「……いい香りです。」


「今日という日に。」


「これほど合う酒はありませんな。」


老婦人も嬉しそうに笑った。


————————


閉店前。


二人は席を立つ。


「ありがとうございました。」


「忘れられない四十周年になりました。」


帰り際。


老婦人が振り返る。


「また予約してもいいかしら。」


タクは笑顔で答える。


「もちろんです。」


「いつでも、お待ちしております。」


二人は夜の街へゆっくりと歩いて行った。


————————


閉店後。


静かな店。


エレノアが木札を手に取る。


『予約席』


それを指で優しく撫でた。


「今日、分かっただろう。」


「はい。」


「予約っていうのはね。」


「席を空けることじゃない。」


「お客様との約束を守ることなんだ。」


タクは静かに頷く。


木札を丁寧に磨き、引き出しへしまう。


この小さな札は、これから何度も取り出されることになる。


誰かの大切な記念日。


誰かとの再会。


誰かの告白。


誰かの旅立ち。


そのすべての約束を、この店は受け止めていく。


『Rack of Luck』はまた一つ、ただ酒と料理を提供する店から、人と人との「約束」を預かる店へと成長した夜だった。

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