八話:童
「ふぅ涼しー。シンも風呂入る?」
「入らぬ。我に風呂は不要だ。」
湯気を立たせながら、首にタオルをかけて風呂から出てきた直之に、鬼はそっけなく返す。なんとも、先程から感じている苛立ちが収まらないのである。調子良く振る舞う直之を見ていればいるほど、百足が腹の奥を蠢くような不快感が、収まらないのである。同時に実感させられる、自身の心内の変化にも。
「シン、ちょっと俺小腹空いたからきゅうりの塩揉み作るけど、シンも食べる?」
「食わぬ。」
「そっかぁ。」
反射で返した鬼に、残念そうな声の直之が台所に引っ込む。何故かこのやり取りすら苛立たしい。鬼は気が利かない自身に呪いそうなほど腹が立った。
少しくらい、直之の提案に乗ってやっても良いだろう、我。もうすぐで死ぬつもりの人間、そも鬼より短命の生物、やらせたいようにやらせてやった方がこちらの懐の広さが伺えるというもの……いや、何故そう我が気を使わねばならぬのだ。ただ三日過ごす望みを叶えてやっているだけ感謝しろというもの。それ以外の望みを全て叶えてやる必要など。
だが。望み、願望、直之の最大の望みは我に喰われること。鬼は分かっている。そして、今の鬼には、どういうわけかその望みを、なんとかして叶えてやりたい思いが芽生えだしていた。鬼は自身の変化に意味が分からない。ふつふつと怒気が沸いて仕方ない。
気を紛らわすために読んでいた本を閉じる。試しに瞼も閉じてみるが、全く気が休まらないために意味がない。風呂上がりであるせいか直之の匂いがこちらまで漂いやすくなっているため、余計に鬼は落ち着かない。
全く美味そうな匂いで、嫌になる。それに天井裏の物音がうるさい。初日から聞こえてはいたが、今夜はやけに騒々しい。鬼は既に何者の音かは予想がついているものの、それでも静かにしていて欲しいものである。
「そういえばさ、シン、鬼って群れないのか?」
「……通常は群れぬ。元より力の弱い小鬼は複数で行動するが、我ら食人鬼は基本単独だ。」
「へぇ……いや、グループ作った方が色々と効率的なんじゃないかなぁとか思ったからさ。むしろシンが一匹狼貫いてるだけなのかとか考えたりしたから。」
「我が単独なのは楽だからだ。獲物の取り合いにもならず、争いもない。同族殺しも起きぬしな。」
「え、鬼って互いに殺し合ったりするの?」
「する。特に狙った獲物が被れば勝者を競い闘う。無論捨て身の戦いにもなり得る。」
「えぇ……弱肉強食って鬼でもあるんだ……え、じゃあ争いもなく俺がシンに食われた例って結構平和的だったんだ。」
「そういうことになるな。」
まぁもし他の者がお前を喰おうとしようが、我が喰っただろうが。
そう、思って、鬼はふと、こちらに背を向けたまま作業している直之の首に目が行った。僅かに覗く赤い痕。それが、自身のつけた一口目の噛み痕であることに、何やら喜悦に似た感情を覚える。そしてもしこの痕が他の鬼につけられたものだったら。そう思うと途端に不愉快になる。さらに腹立たしくなる。この移ろい過ぎる自身の変化に、わけが分からなくて。
「……苛立たしい。」
「え? 何?」
「……何でもないわ。」
「そう……なぁシン。」
「なんだ。」
返事をすれば、直之が鬼の方を振り向く。つまみ食いしながら塩揉みを作っていたらしい直之は、かりぽりと食べていたきゅうりを飲み込むと、神妙そうに口を開いた。
「……その、ありがとな。」
「何だ急に。」
「なんか、すっごく感謝してぇって気持ちになってさ。正直、迷惑だったろ、急に食ってくれなんて頼んできたり、一緒に過ごしてくれって言ってきたりする、俺……自覚はさ、あるよ、ごめんな、俺の自己満足に付き合わせて……それなのにもう二日も飽きずに一緒にいてくれてさ、その、ありがと……それから、さ、」
「……」
「もう、食ってくれなんて言わねぇよ、そんなに大変なことだって、分かってなかったや、ごめん。……そ、それだけっ。」
最後、少し照れながら言い切ると、直之は再び台所の方を向いた。とんとん、と胡瓜を包丁で切っていく音がする。
鬼は、巫山戯るな、と思った。
無性に、そんな言葉が聞きたいのではないと思った。では何が聞きたいのか。分からない。何故感謝してくるのだ。分からない。我は御前の最大の望みも叶えてやれていないというのに。
せめて、『咬み痕』がなければ。鬼は未知の人間を喰らうことができ、此奴は喰われたいという望みを叶えられる……いや、以前喰われたからこその願いであるのだからそんなこと本末転倒なのだが。
しかし、果たして此奴を喰ったら、我は消滅するのだろうか。もし、もしも此奴を喰って、消滅しなかったら、そしてもし、此奴が纏うものが神気で、我が餓鬼になることなく、神に、格上げされたら。そう思ってしまうと。
喰いたい。
「では喰えば良いではないか。駄鬼が。」
頭上から降ってきたのは幼い声。鬼が嫌そうな顔を隠しもせずに、目だけで上を見上げる。そこには、天井から上半身のみ生やしたように顔を出している女児がいた。
大きな黒い目、小さな口、病的なまでに青白い肌、結ばないままの長い髪を床に着きそうな勢いで垂れ流し、蝶の模様を散りばめた山吹色の着物は、縫われたばかりのように美しい。この口だけ笑っている女児は、実は人間の最も近くで寛いでいる、どこの家屋にも潜める妖の一人。
「……座敷童子めが。騒々しくしおって、我を観察するのがそんなに面白いか。」
「ふふっ、ふふっ、ああ面白い。とてもとても面白い。そしてつまらない。お主があまりにも無知でつまらない。ふふっ。」
全く面白そうではない、棒読みのような女児の声は聞きようによっては、不気味。目は笑ってもおらず瞬きもしていないため、よりその不気味さに拍車をかけている。
「無知……? 何の話だ。」
「無知だ、嗚呼、無知だ。可哀想に、餌の前で駄犬のように涎を垂らしている。目の前には、お主にとっては最上の肉があるというのに。ふふっ。」
「……なんだと?」
「んー? シン? 一体誰と話して……え、えっなっなっ、何その、子、えっ、なんで天井から? え?」
胡瓜を盛った皿を手にやってきた直之がそのままの姿勢で硬直する。それもそうだろう、髪の長い女児が天井から逆さまにぶら下がっているのだから。鬼はもう慣れたものだが、直之はこんな心霊現象経験したことなどない。だがそれ故に、童子を追い払おうとしまいか、些か鬼は心配になった。
女児はにっこりと微笑み、その目を見開いたまま口を開いた。
「ふふっ、沢田直之、お初にお目にかかる。儂は童のスミコ。ふふっ。何とでも呼べ。」
「わ、え、わらし、座敷童子? えっ!? この家座敷童子いたのか!? ……すげぇ良物件じゃん!?」
「そう考える辺り御前だなと安心したわ。」
心配して損した。鬼が重く息を吐く中で、直之が皿を机に置きながらスミコに近づき、それどうなってんの!? 頭痛くならねぇの!? と騒いでいる。だがふと鬼は先程言われたことを思い出し、身を引き締めた。童子は悪戯はよくすれど、姿を見せることは滅多にしないはず。そして嘘はつかない。ということは、態々姿を現してまで言ってきた言葉には、何か意味があるはず。
「童子、先程の言葉説明せよ。我にとっては、とはどういうことだ。」
「ふふっ。正しくお主にとっては最上よ。嗚呼、可哀想に、可哀想に。嗚呼、なんと健気かな。しかし知ればこの均衡も崩れよう。可哀想に。可哀想に。ああ沢田直之、その胡瓜一つ頂こう。」
「え、あ、どうぞ。」
スミコが天井からくるりと回って床に降りてくる。直之の膝丈程小さかった背丈に直之は驚きつつ、胡瓜の乗った皿をスミコに差し出した。スミコは皿から一欠片取ると、小さな口でかぷりと齧る。
「うむ、美味、美味なり。」
「……おい、焦ったいな、さっさと教えぬか。」
「うん? おおそうだったな、さて、ふふ、どうしようかの。どうしようかの。ふふふふふ。」
「えっと、何? 何の話?」
笑っていない目で口は笑いながら胡瓜をもう一つ食べているスミコと、話が理解できない直之。鬼は先程から抱いている苛立ちのままに怒鳴ってしまいそうだったが、その前に直之が声を上げた。
「なぁシン、えっと、スミコちゃん、かな? 何の話してるんだ? なんでシンが怒り気味なんだ? ……スミコちゃんが何かしたの?」
「儂は何もしておらんのよ、沢田直之。そして此れはまごうことなきお主の話よ、沢田直之。お主は可能性を秘めていながらよくここまで生きながらえたものよ。ふふっ。嗚呼、可哀想に。可哀想に。」
「ええい童子! いい加減はっきりせぬか、此奴に何があるというのだ、それが我に何をもたらすというのだ!」
「し、シン、まぁ少し落ち着けよ。なぁスミコちゃん、教えてくれねぇ? 今言ったのはどういうことなんだ?」
直之の声に、急にスミコが動きを止め真顔になる。そして口が裂けたかのようにニタァと笑うと、鬼の方を、鬼の眼を見据えて言った。
「駄鬼よ、健気に制約を破らぬよう堪える鬼よ。教えてやろう。お主は此奴を、沢田直之を喰えば、百発百中で神に戻れるぞ。」
「……へ?」
「……神、だと?」