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九話:名前と鈴

「お主は此奴を、沢田直之を喰えば、百発百中で神に戻れるぞ。」


 ニタニタと笑うスミコは、これからの展開が面白くて面白くて仕方ないとでも言うように、目を、口を、三日月のように歪めて笑っている。


「……へ?」

「……神、だと?」

「なぁ鬼よ、目の前にあるは黄金の輝きを抱いた血肉ぞ。白狼よりも白い米の山ぞ。なぁ鬼よ、お主は神に戻りたいのではないのか? ふふっ、戻りたかろう? うん? うん?」

「……何の話をしている、」

「おお、おお可哀想に。人々に慕われていた鬼よ、最古の鬼神であった鬼よ、それが……村一つ簡単に亡くしてしまったのだからなぁ! あな、恐ろしや、あな、哀しきかな!」

「村、一つ……?」


 意味が掴みかねない直之はスミコに問いかけようとした。しかしふと、鬼の様子がおかしいことに気づいて振り向いた。

 鬼は見るからに動揺していた。一切の瞬きをしないスミコから目が離せず、何か言い返そうにも何も言えず。何故なら正に、スミコに言われた通りだったのだから。


「……何故……何故それを知っている。」

「嗚呼、嗚呼! 知ってしまった、知ってしまったなぁお主! 目の前にあるは望みを叶える宝物だと! さぁどうする? どうする?」

「聞いているのは我だ! 御前はただの童子であろう、であろうに、何故それを、」

「おや、言いそびれたか? 儂は童、(さとり)の童、澄子なり。何も覚が座敷童子の真似事をしようと良かろうもん。儂の前では鬼も素っ裸よのう。果たしてお主は、宝物を横取りされてもええのかえ? ふふふふふ。では、沢田直之、胡瓜、誠に美味であった。」

「待て、まだ話は終わっておらぬ!」


 止める鬼の声も気にせず、覚は飛び上がると天井を突き抜けて消えてしまった。直之は驚けばいいやら何やらで現状に追いつくのでやっとだったが、澄子の声をやっと噛み砕いた。


「さとり……ってあの、相手の心を読むっていうあの覚、だよな、シン……シン?」


 呼びかけられて、鬼はハッとする。そして直之を見た。見てしまった。急に目の前の人間に、喉元から出る手が届きそうな気が、してきて。先程の、澄子の言葉は童子の言葉ではない。つまり、ただの戯れ、嘘かも知れないことは鬼も分かっていて、だが。


 神に、戻れる……。


 もうどれほど前かわからない、過去、突如として飢えに苦しんだあの夜。山を転げるように走り降りたあの夜。その上あの、惨状は。

 身体が痺れる。頭から指先に至るまで当時を想起する。迎えた朝……どれほど絶望しただろう、どれほど咽び泣いただろう。そして今まで何度、飢えに身体が冷えただろう。


 いや、だが、だが。


 覚は相手の心を読み、言霊を用いて相手を弄ぶのが大のお気に入り。その口から発される言葉が真実である保証はどこにもない。そこまで考えて欲求を抑えかけた鬼の頭に、澄子の言葉が蘇る。


『横取りされてもええのかえ?』


 横取り……横取り? この人間が他の鬼に喰われるとでも言うのか。『咬み痕』のある人間を喰らいたいなどと思う鬼がいるのか。しかしもしこの人間が、喰えば格上げ確定の生であるのなら、それも、あり得るのか。


 何やら鬼の脳裏に、直之が別の鬼に喰われる想像が浮かんで離れない。今すぐ獲物を自分のものにしなければならないような焦りを覚える。嗚呼苛立たしい、嗚呼喉が、渇く。その渇きが脳内を占めて、喉が低く鳴って。待ったもかけられずに、鬼は動いていた。


「なっ、何、シンっ、」


 乱暴に獲物を掴んで引き倒し、その首根っこを強く抑える。夏の匂いだ。現代の夏の匂い、緋色の夕刻、鴉の鳴き声、エアコンの冷気、胡瓜の青々しさ、その中に、懐郷の情に浸ってしまいそうなほど柔らかな、樹液の、甘味が。鬼は唾を飲む。鬼は、目を光らせる。


「シン、どうし、たんだよ、くるし、ぃ、シンっ――」


 好ましい、爽やかそうで、滑らかそうで、食欲をそそる、直之の。鼻腔に充満する匂いに思考が回らなくなる。身体が熱を帯びる。期待を、抱く。コレを、喰っていいのなら、喰えば、戻れるのなら。


 歯を、唇を、我欲を舐める。獲物の動きが、諦めるように静かになる。匂いを吸い込みながら、口を大きく開けながら、鬼はソレの首筋に牙を突き立て――ようとした。


 鈴の音が。


 動きを止め、鬼が見やった先には、自身の懐から転がり落ちる青い鈴。緋色の光を受けて浄く輝く、小さな一つに目を奪われて、そうして、初めて、泣き声が聞こえるのに気づいた。


 直之が、泣いていた。片腕で顔を隠しながら、隠しきれない涙が肌を伝って落ちていて。啜り泣く声は、戸惑いに溢れていて。鬼は直之の首を抑えていた手を慌てて緩めた。


「……御前、」

「っ、けほ、ぅ、ひぅ、ぅ、」

「何故……何故御前は泣いてい」

「うーっ、やだ、やだ、ぁっ! 俺は、やっぱりシンに、喰われてぇの! だから、シンが喰ってくれるんならって、思った、けどやっぱ、こんな形で喰われんの、やだぁっ……」


 その声に鬼の方が困惑した。相手に泣かれるのはこれが初めてではないが、このように静かに涙を流されることなど、それも子どもの駄々のように嫌がられることなど、振り返ってみても一度もなく。一気に、身体の熱が冷めて。言霊の錯乱が、解けるのを感じて。


「なんなん、だよ、変な女の子出てくるし、変なこと言い残してどっか行っちゃうし、シンはおかしくなるしぃっ!」

「わ……悪かった、すまない、すまない泣かないでくれ、悪かった、我が悪かった、」

「ひどい、シンのバカ、ちゃんと、ぅ、説明しろよ、ぜんっぜん、わけわかんねぇ、だろうがっ」

「分かった、分かったから泣くのをやめてくれ、すまなかった、」

「うぅ、バカ、ばーか、シンのバカ、バカ鬼、わからずや、ひぐっ」

「すまない、すまなかった、嗚呼、我はどうすればいいのだ、」

「なんなんだよもう、ったくもう! ……だったら、ぎゅってしろばーか、そんでちゃんと、俺の名前、呼べ!」


 ん、と手を伸ばしてくる直之に、未だ惑いながらも、鬼は直之を抱きしめた。そうして名前を口にしようとして、そういえば、今まで一度も呼んでいなかったことを、知って。


「……直、」

「ん。」

「……直殿、すまなかった、」

「ん、ちゃんと、俺には直之って名前、あんの。呼んでくれよ、ずっと、お前ばっか言ってきやがって。」

「……すまなかった、」

「もう、いいから、名前呼んで。」

「……直殿、直之殿、」

「ナオ。ナオがいい。」

「……直殿、」

「もう一回。」

「直殿。」

「ん、ふふ、もう一回。」


 呼べばそう言ってくるものだから、もう一度呼べば更に催促してくるものだから、鬼は名前を繰り返すしかなく。だが呼ぶ度に笑いが増えているのは確かで。鼻の啜る音が少なくなっていくのは、確かで。


 まさか直殿から受け取った鈴に、助けられるとは。


 ちりん、と鈴が鳴る。その青は、夕陽を受けて明く光っていた。




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