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十話:祈り

 胡瓜をかりぽりと噛む音が、先程から部屋に響いている。直之は険しい表情をしながら、その頭の中は雑多な情報を整理するのに慌しかった。


「ううんと? つまり、さっき現れたのは、滅多に姿を現さない正直者の座敷童子のフリをしていた覚で、覚が言うには俺の体を鬼が喰うと神様になれるんだ。」

「ああ、その解釈で構わぬ。」

「で、覚の言霊でシンはおかしくなっちゃった。」

「……ああ。」

「そんで、覚の言葉は信じられるものかわかんねぇけど、俺の体からは鬼を神様に昇格させることがある神気ってもんと似た匂いがしてて、強ち覚の言ったことも間違いじゃないかもしれねぇんだ。」

「ああ。」

「でも、神気を帯びた存在を鬼が喰うと、高確率で餓鬼に堕ちるのな。でもって、俺は『咬み痕』があるから、そもそも俺を喰ったらお互い消滅するかもってこと。現状はそう?」

「そうだ。」


 鬼の返しに、直之は口をへの字にしつつ、追加で口の中に胡瓜を放り込んだ。

 鬼は直之へ、先程起きたこと、覚との会話の解説を粗方した。その間静かに聞いていた直之は、少し待っての言葉と共に胡瓜を食べ出し、現在に至る。


「俺みたいな、あー、変な匂いのする人間って他にいねぇの?」

「そうだな、我は直殿からする匂いを他の人間から嗅いだことはない。」

「んー、おかしな感じだなぁ。そりゃ、シンに喰われた時の記憶があるって時点でそうだったのかもしんないけど。でもそれじゃ、何で他の鬼に喰われることがなかったんだろ。」

「単に『咬み痕』で見逃された、若しくは見つけられることがなかったのやも知れぬ。人間はただでさえ多い。特に賑わうこの地では匂いが混ざる。」

「ふぅん……なんか、面白いな、鬼が神になるために誰かを喰わなきゃいけないって、それも確率低すぎの極レア要素って、ソシャゲの確率詐欺ガチャみたいじゃん……あーうまかった、ご馳走様。」


 空になった皿の前で、手を合わせて直之が言う。伸びを一度したかと思うと鬼の方を見つめるので、鬼が見返していれば。


「シンはさ、神様だったの?」


 此奴はいつも唐突だなと思いながら、鬼はその問いに、すぐには答えることができなかった。ただでさえ苦い記憶でありながら、未だ自身は執着しているのだと。

 先の、自制もろくにできず直之を襲った行為からも、その度合いを突きつけられて。「……ああ。」と返事をしたものの、その後の声は喉元で詰まる。鬼の黙する様子に、直之は手を振った。


「いや、いいよ。さっきさ、覚が『神に戻れる』って言ってたから、そうなのかなって思っただけだから。じゃあさ、シンは、戻りたいの?」

「……戻れるとは思っていない、と言うたら、先の行為の説明がつかなくなってしまうだろうが、格好悪くも、我は……過去に未だ未練がある。だが今更……覚の一言で正気を失ってしまったような我だ、今更元の姿を得るなどできぬろう。」

「ううん、そうかな、いいんじゃねぇかな、戻りたいって思っても。まぁ、俺が勝手言っちゃいけないとは思うけどさ。俺だって、戻りてぇなって思うこと、あるから。」


 直之はいくらか遠くを見るように手元を見下ろし、その手を握る。その頭の片隅に、直之の身内の姿がいつもあるのをミている鬼は、何も言わなかった。


「……なぁシン。」

「なんだ。」

「……俺のこと、喰いたい?」


 顔を上げ、鬼の瞳を見据えながら、直之が鬼の片手に触れる。直之は続けた。


「俺はさ、いいよ。消滅することになっても。どうせ死ぬつもりだし。だから別に今喰われてもいい。シンは? 俺を喰ったら、消滅するか、神になるか、もしかしたら餓鬼かもしれないけど、どうなるか、わからないけど、でも、神に戻れる可能性が少しでもあるなら、試してみる価値は」

「巫山戯たことを抜かすでない!」


 突然の鬼の怒鳴りに、直之がびくりと跳ねる。鬼は気づいて、何故怒鳴ったのかもわからないまま、俯いた。我は今、何故怒鳴った、何故。


「……我は自己犠牲など求めておらぬ。その思惑は忘れよ。」

「……そっか。」


 それとない言葉を口先で紡いで、鬼はちらと直之を見た。手を離した直之は緩く笑っている。きっと此奴は、我が望めばすぐにでもその首を差し出すのだろう。そう、思えば思うほど、解れば解るほど、苛々する。遣る瀬無いような、歯痒いような、何やら、叫んでしまいそうな。この意味、気づいてしまいたいようで、分からないままでいたいような焦燥に、駆られて。


「んじゃあさ、シン、今日一緒に寝よう。」

「……何故そうなった?」

「なんか一緒がいい! って思ったから。えへへ。」


 やはり此奴はいつも唐突だと、鬼は息を吐いた。



 

 二日目の、夜。もう二日経ったのかと思う鬼は、寝返りの打ちにくいスペースに横になりながら、軽く空気を嗅いだ。直之の匂いがする。本人が隣にいるのだから香らないわけはないのだが、もうこの匂いを嗅ぐのも残り一日、そう思うと、鬼はあまりにも時が経つのが早いような気がした。


「はは、狭いな。」

「それはそうであろう。大の男二人が一人用の布団で寝ているのだから。童に化けようか?」

「そんなことできるのか? んーでもこのままがいい、この方がシンの近くにいるって感じがして嬉しい。」


 へへ、と笑う直之に、鬼はなんとも鳩尾の辺りが柔く押し込まれるような圧を覚えて。妙なむず痒さに、意地の悪いことがしたくなった。直之の耳元に、口を寄せて。


「そうか……近い方が、直殿は良いのか?」

「ひっ近、近いっ、近すぎ、ぃ……」

「何故耳を覆うのだ。」

「うう……シンの声かっこよすぎなんだよ……反則だろそのイケボ……」

「いけぼ……とは。」

「イケメンボイスっ、かっけぇ声ってこと!」

「ほう、つまり直殿は我の声が好みと。」

「やめ、シン、やめろってばっ、もうっ」


 もそもそと動いていた直之は、ついに鬼とは反対の方を向いてしまった。鬼は些か気分がよかった。やはり此奴は愛い反応をする。面白い。


「んん……あ、そうだ、聞きたかったんだけど、シン、昨晩聞かせてくれた話ってさ、」

「ん?」

「……いや、やっぱいいや、それより、その……昨日のやつ、もう一回やってくんねぇ?」

「昨日の?」

「俺のこと眠らせてくれただろ。もう一回だけ。だめ、か?」


 こちらを振り向きながら言う直之に、鬼は少々考える。だが大して不都合はなく、もうあと一日であるのだと思えば、叶えてやらぬこともなくて。


「直殿、こちらを向け。」

「ん。」


 体の向きをこちらへと変える直之を見る。明かりを落とした部屋では、直之の瞳に映る、鬼の目の燐光のみが淡く光っている。鬼はその目を瞑りながら、直之の頬に手を添え、額に自身の額を合わせた。


「え、えと? シン、」

「直殿、」

「……ん?」


 時間が、刻一刻と経つ暗闇。額から感じる温度は、穏やかな温もりで、生の、証で。何卒、何卒。願うように、祈るように、鬼は――


「……シン?」


 今、我は何を祈ろうとした?


「……何でもないわ。良く寝よ、直殿。」

「ん、ありが、と……」


 消え入る声、聞こえる寝息。空気を吸い込めば、直之の匂いが肺を満たす。鬼は直之に対する、この泣き出してしまいそうなほどの情を、どうしたら良いのか、わからなかった。




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