第5話 ギードとイネーズの苦渋と希望に満ちた決断
左胸を叩くギードに目を丸くして動きを止めるイネーズ。
その一瞬さえももったいないと言うように、ギードは今一度イネーズの手を掴んだ。
「ギード!」
イネーズが心臓に剣を突き立てることを躊躇したと見るや否や、ギードは両手でイネーズの手ごと柄を握り締め、刃を首にあてがったのだ。
「僕にとっては最高のシチュエーションです。これで貴女はもう永遠に、生まれ変わってさえも、僕を想って生きてくれるでしょう?」
そう言葉を発するうちにも、愛剣フランベルジュはすでにギードの首を切り分けるべく、中ほどまで刃を進めていた。
「待って! 私、まだ」
ルゴス騎士団の剣聖としてその剣を止めることも、かといってここぞとばかりに切り進めることもできず、独りでに動く炎の形の刃を見た。
その刃はイネーズの意思を無視して今にもギードの首を切り落とさんとしている。
「やめろおおおお!」
叫んだのはロレッタだ。
隷属する吸血鬼はマスターの危機に敏感になるらしいとイネーズも昔聞いたことがあった。が、止めに入るほどの回復はしていない。
絶叫とも言えるロレッタの声に、イネーズは我に返る。
「愛してる、イネーズ」
ギードが微笑む。
喜怒哀楽全ての感情を煮詰めたような微笑みだった。
――今度は貴女の番です。
先ほどのギードの言葉がイネーズを突き動かした。
「たくさん待たせてごめん、ギード」
イネーズはギードと唇を重ねた後、抱き締めるようにしてその首に舌を這わせた。
吸血鬼と戦う力を得るため、極限まで身体を吸血鬼に近づけている剣聖にとって、さらに彼らの血を摂取することは人間としての死を意味する。
一瞬だけギードの身体が強張った。
イネーズが顔を上げると、ギードは見開いていた瞳をゆっくりと細めた。そして目尻から涙がこぼれ落ちる。
フランベルジュもまた転がり落ちた。
腕の中にあった大事なものは、風が吹くたびに、イネーズが身じろぎするたびに、サラサラと崩れていく。
何も残らない。
しかし悲しみに暮れるよりも先に、ギードの血液がイネーズの体を作り変えていった。深い海の底に沈んでいるかのように体温が失われていく。
光の届かない闇ほどより鮮明に見えるようになり、売春宿の一室で交わされる睦言さえ聞こえた。
苦しかった呼吸が次第に落ち着き、体中の怪我が治癒し始めた頃、イネーズは最も近くから聞こえる二つの心音に渇きを覚えた。
それは自身が吸血鬼へ変貌したという何よりの証拠だと気づいて頷く。
「そっか、私のマスターはギードじゃないんだね」
複数の吸血鬼の血を摂取した場合に誰がマスターになるのか、その細かな条件まではわからない。ただ少なくとも「さいごに血を与えた吸血鬼」ではないらしい。
主のない赤いアスコットタイに手を伸ばしかけて、やめる。制服に混ざった銀糸のせいで、イネーズが動くたび体中を焼けるような痛みが襲う。
愛剣を拾って腰に差し、ソフト帽の男たちから銀糸を全て取り除いてやると、イネーズは細道を飛び出した。
辿り着いたのは聖フィリップ大聖堂……の塔の上だ。
ただの人間には不可能な体捌きで塔のドームのさらに上へと昇り、マントを脱ぎ棄てた。
「にゃあ」
イネーズの足に黒猫が身体をこすりつける。
「ギィ、最後の仕事を頼まれてくれる? 剣聖の証をダナン公爵へ届けて。ごめんなさいと伝えてほしい」
首から外したネックレスには真っ青なサファイア。剣聖はそれぞれ神の祝福を授かった宝玉を代々身につけることになっている。
雷の神はこのサファイアを、火の神はルビーをというように。
ネックレスを首にかけられた猫は、またニャアと鳴いて寝そべった。
「ギィは私を見届けてくれるんだね。じゃあ朝まで一緒に話をしようか」
「にゃあ」
「ギードは結局何年生きていたんだろうね。その間、私は合計して何年この世界に存在していられたと思う?
神に救われないって言葉の意味が、今ならわかるよ。加護がないだけじゃない、光を感じないんだ。ギードはきっと永久に消滅したんだよね。
ふふ。自分で選んだのに、生まれ変わりの無い死がなんだか怖いよ」
イネーズは少しずつ視界が滲んでいくのがわかった。
朝の訪れだ。
白が世界を染めていく。
「永久にギードが存在しない世界を、私は体験したことがない。彼の言う通り、私は生きていても一瞬だって彼を忘れることはできなくなってしまったの。
この手で殺した。何度も何度も、彼を殺すためだけに生まれ変わった。私の記憶はぜんぶ彼のためにあった。
ギードがいないこの世界は色がないよ。心が動かない。これを虚無って言うのかな。ただただ、日が昇るのが待ち遠しい」
灰が舞う。
煤けた町の中を黒猫が駆け抜ける。
飼い主のくだした苦渋の、けれども唯一の希望ともなる決断を、猫には止める術がない。最期の命令を遂行するため、真っ白な光の中をひた走った。
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