それぞれの裏事情
「ただいま」
援の声が、薄暗くひと気の無い廊下に浸透する。
生気が感じられない廊下を進み、向かう先は、ある人が居座る寝室。
「母さん、今帰ったよ。具合の方はどう?」
花柄の敷布団を被りながら、ただじっと天井を眺める人物。
そこには顔の三割を黒い肌に侵食されながら、意識を朦朧とさせている援の母が居た。
今ではただ一人となる、援の肉親である。
「ごめんね遅くなって。ちょっとそこの路地で、偶然あっ君たちと会ってね。覚えてるかな? 近所のあっ君とエミちゃん」
「…………あ、あ…………う」
口元は僅かに動いていた。
薄く開いた瞼内の眼球も、小刻みに震え、焦点は何時とて天井に向けられたまま。
かれこれ四年になる。母が突然倒れたと思えば、異変はすぐに皮膚を黒々と変色させた。
『黒蝕病』――文字通り人間の細胞を黒く蝕む病気だ。
始めは手の甲に留まっていたが、病状は進み、今でも悪化し続けている。
体も動かせず……会話はおろか食事一つ取れない有様。
全てはブラックドームから放出される、《ネクタル因子》と呼ばれる物質が原因だった。
援の右目もその後遺症である。
かつてあった彼らの地元は、今やブラックドームに呑み込まれた。
必死に逃がれ、その災害を辛うじて生き残った。にもかかわらず、あの未曾有の災害は、副次的な被害をばら撒いてきたのだ。
対処法は未だ不明。謎の病気の後遺症は、彼ら親子を『患い者』へと変え、一般の人たちからも遠い壁を敷いている。
倒れた日から、母とは口も利けていない。
援には、母の身の回りの清掃や世話。そして唯一の生命線である、チューブに繋がれた輸液剤の取り換えしかできなかった。
「また切れかかってる。最近減りが早いな」
居間へ、輸液剤を取りに行く。
四年にも渡る輸液の生活。
反して、母の体は多少やせ細ってはいても、衰弱は見受けられない。
これもネクタル因子による影響なのか……。
『次のニュースです。ブラックドームに相次いだ、「アッシュ」襲撃事件からはや二日。BD対策本部室は、襲撃したアッシュが四体であると正式に発表されました』
居間にあるテレビから、そう報じられた。
キャスターたちの横にはボードがあり、そこにはアッシュの写真パネルが貼られていた。それをドーム境界線に設置された施設の間取り図を元に、襲撃位置へ貼り付けていく。
『今回現れたアッシュはこの四体。ほぼ一〇分おきに別々のセクターを襲撃。特に第五セクターの被害は尋常ではなく、二体目の襲来ともあり、死傷者は三〇名を超えています』
『藤岡キャスター。出現したアッシュの駆逐は、どうなったのですか?』
『今回駆逐できたのは三体。ブラックドームに逃げ帰った個体と言うのが、この狼のような動物型アッシュですね。こいつが第五セクターを後から襲撃し、更なる被害をもたらしました』
『同時多発的な襲撃なんて、前代未聞ですね? それも全て動物型。ここから更に“植物型”や“鉱物型”が出たらと思うと』
『そうならないためにも、今後の対策本部はより一層の防衛を固める方針のようです』
アッシュ絡みのニュースが続く中、援は画面の向こうに居る写真パネルを凝視していた。
対策室が取り逃がしたという、獣のアッシュ。その目つきは憤怒を滾らせたような、険しいものだ。
同時に、そいつの眼は似ていた。援と同じ、赤い眼であり。
「っ!」
目尻をなぞる指が震え、援はテレビの電源を消す。
◇
一台のバイクが、とある施設の敷地に入っていく。
ブラックドーム区域(壁から周囲一〇キロに及ぶ、住民立ち入りが許されない警戒区域)に造られた対策室。
壁が併設されてから、ほぼ同時期に作られたこの施設は、ドームの観察・管理。そしてアッシュに対しての必需軍備を兼ね揃え、軍事基地と言っても差し支えない。
区画分けされた建物が並び立つ。その中の一つ、車庫入れにバイクを止め、暁とエミはヘルメットを外す。
「エミちゃ〜ん、暁さ〜ん。やっと来てくれましたか〜」
近くの建物内から、出迎えてくれる者が居た。
暁らと同じ、フローラチルドレンのメンバーである。
「レイラちゃん、お疲れ様。私たちの呼び出しの件ってのは一体」
「まあ私たちが呼ばれてる時点でね~。ただ、今回はいつも通りとは違うかも」
瑠璃色の長髪をツインテに纏め、程よいメイクで肌を白く魅せるギャル調のレイラ。
レイラは二人に硝子型タブレットを渡してきた。
「これって例の」
「うん、街に逃げたっていうアッシュ」
「なるほど。俺たちの仕事ってのはつまるところ」
「鬼ごっこ、ということだ」
暁の言わんとしていたことを代弁しながら、彼らの上司が廊下の先から歩いてくる。
木島剛山。渋目の顔立ちに黒スーツを着込む四〇代の男は、簡潔な作戦内容を告げた。




