できること、できないこと
2020年、7月。
空が朱色に染まり、焼けた夕陽が瞼を焦がす。
その中に、ボーっと薄っすら暗い影が大きな動作を取って、
「おらあ‼」
振りかぶった拳だと分かった時には、それが強く左頬を打ち付けていた。
地面へと勢いよく態勢を崩し、後から痛みと口の中に鉄の味が広がっていく。
もう何度目かに分からない屈辱を噛み締めて、藤木援は立ち上がった。
「いい加減にしろよテメエ! 人の邪魔したと思ったら、何度も何度も立ち上がりやがって。いい加減、諦めたらどうだ?」
「『邪魔』? 貴方たちが、嫌がる女性に何度も絡むから、いけないんでしょう? それに僕は、まだやれます……」
「コイツ、ふらふらの癖によく言うぜ」
見ているだけの二人が笑い飛ばす中、一人、援に向き合う男は指を不機嫌に指を鳴らした。
「困っている人は放っておけないってか? 御大層なことだな、そんな弱っちい力でよ」
そして強引に援の髪をつかみ取り、彼の顔面を夕陽に晒し上げる。
殴られ痣になったところを除けば、好青年のような整った顔立ちをしていただろう。しかしただ一点に置いて。
本来なら白く水々しいはずの眼球の結膜が、彼の右目だけは緋色に塗りつぶされていた。
充血とは一線を画し、瞼周辺には火傷跡のようなシミまで広がっている。
「自分さえ救えない『患い者』の癖に、救える立場にあると思ってんのか?」
「っ⁉」
静かな激情。
援は男の手を振り払い、拳を握って臨戦態勢を取る。
「僕は、自分が普通より劣っているなんて、一度も思ったことなんか無い‼」
「だったら証明してみせろよ!」
男は自分の付けていた学生服を脱ぎ捨て、手招きする。
「っ! うああああああああああああ‼」
体当たりで突っ込み、力一杯に押し倒そうとする。
しかし結果は空しく、相手のガタイは一歩後退させるだけ。
援はそこから足払いを受け、横なぎに投げ飛ばされる。
「あぐ!」
「残念、惨敗だったな。お前に、他人を救う力なんてない。この偽善者が」
男は足を振り上げ、踏みつけようと迫るが。
不意に彼の脇腹に衝撃が走り、予期せぬ攻撃によってよろめいた。
「そこまでにしとけよ、お前ら。揃いも揃って、時代遅れのチンピラのような真似しやがって」
「ってめえ、は⁉」
「みょ、明道⁉」
絡んでいた三人は顔を一瞬で曇らせた。
現れた第三者。風になびく赤髪の短髪。すらりと細い体躯には、必要最低限に搾り上げられた筋肉が、服の下からでも容易に見て取れる。
それに加え、相手を射殺さんばかりの眼光に、三人組はよろめいた。
「まずいよ駿! こいつ確か、数十人の不良メンバーを一人で半殺しにしたっていう」
「腕っぷしもそうだけどよ、こいつの家は確か!」
「ブラックドーム研究の第一人者で、チームを率いている。おまけに軍にも顔が立つ、てか?」
明道暁は、彼らのセリフを言い当て、笑ってみせた。
「安心しろ、俺はただの養子だ。それにお前たちともめたかなんて、一々告げ口したりしない」
「兄さんはしなくても、私はしちゃうかもです」
そう切った矢先に、女の声が暁の行動を抑制した。
栗色の艶やかな髪をポニーテールにまとめる少女。
歳の割に少し小柄だが、相反して気丈そうな振る舞いを見せる暁の義妹――明道エミは、にこやかに告げる。
「ここで問題を起こしてもいいんですか兄さん? また父さんに説教されますよ?」
「待ってくれよ。ここで咎められるべきは俺なのか?」
「もちろん、そこの三人にも。貴方たち二人は先月、生徒指導を受けたばかりですよね?」
スマホを弄りながら、エミは取り巻き二人に釘を刺す。
「お前っ! どうしてそれを⁉」
「私、噂には敏感なんです。それから木島俊さん、貴方にも。喧嘩の常習犯がこれ以上、悪目立ちしたら、学校も退学させられちゃいますよ?」
「…………」
リーダーである駿は押し黙ったまま。
しかし残りの二人は、完全に波にさらわれる形で戦意を失っていた。
「ここで引いたなら、エミも告げ口はしない。どうする?」
「ちっ!」
軽く舌打ちし、援の方を一瞥しながら、彼らは去っていった。
喧嘩の終息にエミは安堵し、立ち上がりに服の埃をはたく援へと駆け寄る。
「援さん、大丈夫でした? またあんな輩に絡まれて」
「どうしてもこの姿だと目立っちゃうのかもね。ありがとう、助かったよエミちゃん」
地面に落ちていた白布の眼帯を拾い、右目を覆う。
先ほどまでの出来事を忘れたように、援は気軽に礼を告げた。
「ありがとう、あっ君。また助けられちゃったね」
「その呼び名は止めろ。もう俺ら高二だぞ?」
「それでも僕にとっては、あっ君だから」
暁は白けた表情を作った。
「お前、いい加減あんなことやめたらどうだ?」
「あんなことって?」
「あんな連中に絡まれるようなことだよ。どうせまた、どっかの知らぬ相手にお節介焼いたんだろ? それをやめろと言っているんだよ」
「だけど! あの場で見過ごしてたら、一体どうなっていたか」
「他人の心配か? 自分がどうなっていたかなんて、分からない癖に」
俯きがちに答える援に、つい鼻で笑う暁。
「兄さん、失礼よ。援さんは正しいことを」
「『正しい』? むしろ俺は、相手の言い分にも一理有ると思ってるがな」
「それって、どういうこと?」
口をもごつかせる援。
暁はそれに目を細めて、躊躇いなく告げる。
「『力無き正義』ってのが、どれだけ脆いかってことだ。お前の自己満足で、あの様じゃ話にならない。助けた相手が人を呼んだ形跡も無いしよ。はっきりいって『時間の無駄』だな」
「兄さん!」
エミに脇腹を小突かれても、暁は態度を変えない。
それを前に、援は悔しくって奥歯を強く噛む。
「僕にとっては無駄なんかじゃない! あの頃の、君の姿を見たから。だから僕は!」
「おい」
低く、ドスの効いた声で暁は、援の襟元を掴まえて引き寄せる。
夕日に落ちる影が、暁を黒く塗り変えた。
「俺らもう高二だぞ? 一体何年前の心構えを持ち出す気だ?」
「でも、だって!」
「『でも』も『だって』もねえよ……。ガキの頃の威勢なんて、いちいち背負っている馬鹿はいない。少なくとも俺は、もうそんな幻想見ちゃいねえ」
援を強引に突き放し、そこから一瞥もくべることなく。
「あの災厄の前では、俺たちガキの手なんざ誰も掴んじゃくれねえ。そう実感させられたから、俺は、自分の身の回りだけを守ると決めた。他人がどうなろうが、知ったこっちゃねえ」
突き付けられたのは非常な現実。
そして今度は暁が、それを手に取り、背を向けて歩き始める。
「お前もさっさと割り切れよ。自分が、『戦う側』の人間じゃないってことぐらい」
援は、言い返せなかった。
押し黙ったまま、呆然と。
「兄さんの言葉なんて気にしなくていいですからね! 私は立派だと、あの……」
早口で弁明をするエミであったが、哀愁漂う援の雰囲気をどうすることもできず。
エミは「ごめんなさい!」と頭を下げて、静かに立ち去った。
「兄さん! ちょっと暁君‼ どうしてあんなこと言うの⁉ 援さん、傷ついていたよ⁉」
速足で暁に追いつき、妹の立場から、幼馴染の頃だった呼び名でエミは糾弾。
普段の温厚さとは違う怒気顔に、暁はため息を付いた。
「あいつには他に優先すべきことがある。他人助けよりもな」
「だからって言い方を考えてよ! あんな『お前には無理だ』みたいな突き放し方!」
「それじゃあ、お前には分かるのか? あいつにできる限度がよ」
「それは」
言い淀み、エミは口を閉じた。
エミにも、そして暁にも、どうしても言えなかった。
安易に他人を助けると口にすることが、どれだけの重みを持っているのかを。
“実践する”ことを味わったからこそ、現実を知らない援に、少しだけ腹も立てていた。
ピピピッ! ピピピッ!
数秒の静寂の間を、軽やかな電子音が駆け巡る。
「暁君!」
「ああ。“仕事”みたいだな」




