第35話 聖女は羞恥に身悶える
全身をふんわりと包む柔らかな感触と若草と甘い匂いは、私の目覚めを快いものにしてくれた。
夢を見ることなくぐっすり眠って、ぱっと瞼を開けた時、そこが見慣れた自分の部屋だったことに気づいて、思わず飛び起きた。
自分が眠りに落ちた場所が、ここではないことを覚えている。
色々あり過ぎて体力と精神の許容量が過ぎてしまった結果、漸く終わったと思った瞬間に、意識がふつりと切れてしまった。
最後の一押しが、あのお茶と陛下の心配そうなお顔だったわね…。上掛けを引っ張って、血が上り出した顔を隠してみる。
泣き言漏らして、本当に泣きだしてしまったり…いい年して何をやってるのかしら、私は。
それよりも、どうやって家へ帰って来たのか判らず、ブランケットの端を握りしめながら途方に暮れた。様々に湧き上がる妄想の果ては結局一緒で、情けないやら恥ずかしいやら…。想像しては悶絶を繰り返していても仕方ないので、そろそろと部屋を出た。
陽はすでに天中に近く、寝坊なんて笑えるような時間ではないんだろう。静まりかえった食堂を覗いても、父も兄もすでに姿はなかった。
「フェリシア、やっと起きたの?」
背中側からかかった声に驚いて飛び上がり、頭がかぁっと熱くなった。
「あ、のね、お…おはよう。母さん」
「おはようなんて時間じゃないわよ。もう子供じゃないんだから…」
母は洗濯籠を両腕に抱え、困った子を見るように呆れ嘆息しながら洗濯場へ向かった。その後を追いながら、どう切り出したらいいか惑う。うろうろオロオロしている私に、また溜息を漏らすと、母はいきなり振り返って腰に手をやり、少しだけ怖い顔をした。
「あなた、昨日の夕方にお城から馬車で送られて来たのよ?それも、眠ったまま国王様に抱きかかえられて。倒れたのかとお父さんとイブンが慌てたら、国王様が詳しくお話して下さって…。家族が心配してるだろうからってお城に泊めないで、わざわざ送って来て下さったのよ!もう恥ずかしいったらなかったわよ」
母の話は、内心で悲鳴を上げ続けながら聞くしかなかった。ここで本当に悲鳴を上げたら、もっとお説教が酷くなる。
つまり、私はあの時点からずっと眠り込み、夕方になっても目覚めないので、そのまま陛下の手で運び込まれたと言うこと…になるのねぇ。
もう恥ずかしさの極致で、ジタバタするしかない!でも、すぐに力尽いてしまった。丸一日食べていない上に、余計な力を使い過ぎた。
「ああ、もう!なにやってんの!私!でも、お腹すいた…」
「――――全く!大変だったのは分かったけど、国王様にあまりご迷惑をおかけしては駄目よ?」
「ええ、分かってるわ。私だってまさか眠り込んじゃうなんて思わなかったわよ。でも、兎に角疲れて疲れて…」
ふらふらと食卓に座り込んだ私の前に、昼食用に仕込んでいたらしいルッコの香草と森葡萄を散らして焼いた薄パンとシチューが出された。
ああ、爽やかな草の匂いと甘い香りは、これを焼いている匂いだったのかと思い至り、自分のお腹のすき具合に笑った。
「母さん……私が王妃様になるって言ったら、どう思う?」
「ん?どうも思わないわよ?あなたが聖女として大神殿に召された時から、いずれは王妃様になると思っていたからね。ただ相手が代わるだけの違いでしょう?」
「あっ…」
そうだった!私が聖女になった時、同時に王太子と婚約し、いずれは王妃になるはずだった。あの下種な王太子と結婚せずにすんだことで、自分が王族に入るなんてこの先はないと思っていた。縁のない世界だと。
「少し散歩してくるわ。…一人になって考えたいから…」
それだけ告げると家を出て、私はのんびりとした足取りで樹海への小道を辿った。
昨日お会いした先代王妃のアンジェリカ様の言葉が、一字一句蘇って脳裏を巡る。あの方は、私がクライヴ陛下の横に立つことを、喜び望んでくれた。今は立場ある身だが、昔は皆平民だったのだから身分なんて気にするなと仰って。
でも、あの方を知ったことで、私は王妃というお役目を果たせる女なのかが、今度は悩みの中心になった。あの気迫と熱。そして強さと愛情。あの方が王妃であっても、貴族たちはあの様な状況に甘んじて来た。
人の業の深さが成せることだとは言え、あの方と同じように―――いえ、それ以上の王妃になんて。
「私はあれほどの強さを持っていないわ…すぐにくよくよするし…」
「それ以上、強くなってもらっては、私が困る……」
突然かけられた声に、慌てて振り返った。
大分、樹海の奥まで入っていただけに、こんな時間にこんな場所で聞けるとは思えない声が聞こえて、一瞬幻聴かと疑ったくらい。
「なぜ、ここに…ご政務はどうされたのですか!?」
いつもと同じように真っ黒な、しかしお城に居る時の上品で優雅な煌びやかさは皆無な服装で、クライヴ国王が立っていた。
私の指摘に、陛下の笑顔が微苦笑に変わって視線が揺れた。
ああ、失敗。こんなことより先に言わなければならないことがあるのに。
「差し出がましいことを…申し訳ありません」
「詫びないでくれ。実際に、アレックスの目を盗んで出て来ている。それより…」
「昨夜は……ありがとうございました。色々とお気を使って頂いたようで、大変助かりました」
私の感謝がまだ固いと感じたのだろう。陛下は側まで来ると、またもやあの穏やかで甘い笑みを浮かべて、私の顔をあからさまに覗き込んで来た。
「元気なようで良かった。昨日は、真っ白な顔で突然眠り込まれたので心配だったんだ。無理をさせてしまったな…」
「いいえ、あの場に加わりたいと申し出たのは私です。自分が受けた被害の結末を、自分の目で確かめたかったのですから」
通常なら、被害者であろうと平民の立場では、貴族を裁く場への参加は認められない。どうしてもとなった場合は、被害者の雇い主や領主などの貴族が代行して出席する。
今回、私が出席できたのは、高位貴族の令嬢を助けたことと王のご厚意。そして、私の怒りだった。
それも、落ち着いた今となっては、王の支配する場を横取りしてしまった後味の悪さが…。
「けれど、今思えば、私などいなかった方が良かったのかもと…」
「それは無い。あれは貴女の身に起こったことだ。貴女の怒りあってこそ、彼らの目を覚まし、心からの反省を促せたのだ。……王としても感謝する。不甲斐ない王ですまないな」
陛下と並んで木漏れ日の中を歩き、匂い断つ夏草の中を進む。
「クライヴ陛下」
「なんだ?」
「貴方は、私と聖女――――どちらを王妃にしたく思ってますの?」
身分の重りを取り払い、残るは私の心の内にある感情のみ。
では、クライヴ=ノヴァ=ディアベルは?ディアベル国王陛下は?
鳥の囀りが遠くから聞こえ、木漏れ日以外の灯りの無い木々の陰影の下で足を止めた。
彼はどう答えるのだろうか。一人の男として?国王として?
それを私は、彼にはっきりと答えて欲しかった。
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