散歩する影法師
翌日は何事もなく一日が過ぎ去った。しかし、アンドレアはふさぎ込んだまま、幌馬車の中と宿屋の自室で閉じこもっていた。しかし、夕食の時間になると、食堂に現れた。
そして、グリフェに「昨日は大人げなかった」と、一言。グリフェは「どうってことはない……俺も大人げなかった……」と。ミランとタートルは胸をなでおろした。少しずつ、元のようになるはずだ、と……
旅が始まってから7日目の朝7時すぎ――
グリフェ達一行はダシュコフの町に来ていた。炭鉱の町でかつては副都心に次ぐ人口で隆盛をきわめていたが、石炭の減少につれて寂れつつある町だ。宿屋で朝食を終え、厩舎から二頭の馬を引き出して、幌馬車に繋ぎ、旅の支度をしている。ミランとグリフェは厩舎で馬にブラシをかけ、タートルが飼い葉の補充を馬商人と掛け合っている。
「う~~む、酒も飲んでないのに昨日から体がだるい……」
「大丈夫ですか、グリフェ殿……」
気だるげな表情のグリフェを心配するミラン。そこへ商談を終えたタートルが陽気にやってきた。
「おいおい、グリフェ……気が抜けて体がなまっちまったんじぇねえのかい?」
「だといいが……もしかしたら、〈安息日〉が早まったのかもしれん……」
化合人間は一ヶ月に一度、まる一日間身動きできない仮死状態となる。それを〈安息日〉と称した。化合人間の能力を使えば使うほど、周期は短くなる。
「なにっ、グリフェはまだ一週間は先のはず……いや、連日の戦いでオレっちみたいに早まったのかもな……」
「ええええっ!!」
「そう、驚くなって、ミランくん。いざとなったら、このタートルさまがついてらあ!」
タートルが胸をドンと叩くが、むせて咳をする。
「……まあ、これでも頼りになる男だ。それに休憩を多めにすれば回復する。だが、もしもの時は主人を守れ、ミラン……」
「はいっ、いざとなれば私だって、アンドレア様を習った護身術で守りますよ!」
男たちの話を知らず、アンドレアは幌馬車後部の出入り口から足を出して座り、人通りの少ない街並みをながめていた。ロバの鞍に木枠をつけ、水瓶を乗せて手綱を引っぱる男が通り過ぎる。“水売り”だ、この辺の水はまずいので、遠くの泉からミネラルウォーターを運んできて商いをする。
――ミアーチェの都会の館よりも、領地であるイェーガルドルフの田舎町に似た風景じゃのう……
ふと、右側のほうをむき、何かが動いた気がした。だが、誰もいない。目を凝らして注意深く眺める。雑貨屋や食料品店、新聞屋などの建物が見え、仕事に向かう炭鉱夫、農夫、卵を買った主婦などが行き交うのが見えた。石炭の産出量が減ってきて寂れた印象の町。
それでも今日は日曜日で、光神教団の教会へお祈りと司祭の説教を聞きにいく家族連れが見えた。炭鉱夫の父親の無事を願う者たちであろう。周囲には数珠や蝋燭などを売る聖具屋や、聖書を売る書店などが見えた。
「アンドレア様!」
「おおっ……なんじゃ、ミラン」
「宿屋の女将さんに聞いたんです。この町の店で売っているお守りはよく効くそうで、魔除けになるとか……ぜひ、これを……」
「なんじゃ?」
アンドレアは執事から小箱を受けとり、蓋をあけると、お守りのネックレスが入っていた。都会の装身具と違って、質素で地味な物だ。ミランらしい。彼女は微笑みを浮かべ、さっそく首につけた。
「どうじゃ、ミラン?」
「よくお似合いです……きっと、魔除けが効くと思いますよ!」
そういって、ミランは宿屋に勘定を支払いにいった。おだやかな目でそれを見送る。また周囲を見回した。朝日をうけて、幌馬車の長い影が伸びている。幌の天辺に瘤のようなものが見えた。そんな物があったかどうか、幌馬車の上を見る。
だが、幌は鉄枠ごとにゆるい曲線を描くだけで、瘤のような隆起物はない。もう一度、幌の影を見ると、隆起物の影は依然とある。アンドレアの頭にクエッションマークが浮かんだ。目の錯覚かと、目をこするが変わらない。影を映すべき本体は存在しなのに、影だけが存在している。御伽話のような不可思議。
「まるで……童話の『影法師』じゃ……」
さっそく、ミランに話そうと馬車後部から降り立つ。その時、影の隆起物がムクリと動き出した。影は人間が立ち上がった姿となり、ピョンと幌から飛び離れた。そして、本体のない人影は何処かへ歩いて行く。あまりの不思議と好奇心の虜となったアンドレアは、フラフラとその影の後を追った。まるで、夢遊病者のように……魔魅に取り憑かれた人間のように……
タートルの化けた老婦人が飼い葉飼料を詰めた麻袋を幌馬車に積み込み、グリフェとミランに、アンドレアは何処かと尋ねた。
「あれ……どこでしょうか? お手洗いかな?」
「杞憂とは思うが、一応探してみるか……」
その頃、アンドレアは不思議な歩く人影を追ってダシュコフ駅まで来ていた。ちょうど、停車していた蒸気機関車が汽笛を鳴らして、白煙をあげ、ジョッシュジョッシュと動き出す。駅の出入り口からまばらな乗客たちが吐き出され、何処かへ去っていった。
歩く影法師は最後に出てきた人間に近づいていく。その足元に影は無かった。影法師はその影の無い人間の足元に、元気な猟犬のように飛び込んだ。黒影はピタリとくっついた。アンドレアが人影を見上げると、高価な革靴、洒落たズボンと上衣、ステッキを持ち、トレンチコートを羽織りシルクハットを被った若い男がいた。彼はそのまま、貨物列車の荷物を補完する煉瓦造りの倉庫地帯に歩いて行く。
アンドレアはフラフラと魔に魅入られたように後についていった。男が突然、振り向きシルクハットをとって、柔和な笑顔をみせた。顔の長い若者だ。都会の名士か紳士であろうか。アンドレアは一瞬、粗末な身なりに変装している自分が急に気恥ずかしくなった。それに、歩く影を見たのは幻覚か夢だった気がしていた。
「ごきげんよう、美しいお嬢さん……」
「……ごきげんよう……」
「私の〈影〉を見送っていただき、ありがとう……やはり、〈影〉がないと帽子を忘れたようで落ち着きませんなあ……」
「……えっ、!? やはり影は……あなたと離れていて……いま、くっついたのですか?」
「ええ……私は昔から影を自在に操ることができましてねえ……人は私を〈魔力者〉と呼びます……」
アンドレアが目を見開き、後退りする。もしかして、賞金稼ぎかギャリオッツの使者かもしれないと、表情が強張る。




