忍び寄る幽鬼
一方、赤頭巾のエリシュカは松明と月明かりを頼りに、サビナ・ハナ姉妹を連れてボネの森を抜けでた。丘陵が広がり、その頂上部には兵士たちの仮設共同墓地の墓標が見える。赤頭巾の少女は見知った場所に出てほっとした。丘を登り、墓標を横目に進んでいく。そこを越えれば、ヴォーダン村が見える。
――兵隊さん、見守っていてね……
エリシュカは昨年亡くなった北軍兵士パウル・ヴィーネに、心の中でお願いした。だが、少女たちの悲鳴で中断された。彼女達の前に灰色狼の一群が現れたのだ。目を月明かりに光らせ、低く唸って、ヨダレを垂らしている。夕暮れにエリシュカを襲った餓狼群と同じものであろう。
「そんな……ここまで来たのに……」
しかし、唸るだけで襲ってこない。松明の火を恐れているのだ。しかし、隙をみて襲いかかろうと包囲している。エリシュカの左右にサビナとハナがしがみつく。みんな恐怖で足がすくむ。
「おじいちゃま……グリフェさん……誰か……助けて……」
その時、右側から紫の淡い光が近づいてくるのに気がついた。見上げれば、暗闇のなかにボロボロのローブが宙に浮かんでいるいのが見えた。だが、半分透けて遠景が見える。それが紫色の淡い光を放ち、こちらに向かってくるのだ。顔はフードを被っていて見えないが、腕はやせ細って、骨のようだ。足元はローブで見えない。
「……あれは……紫衣の……幽鬼……」
〈紫衣の幽鬼〉とは、墓地や戦場跡に出現する魔霊だ。ソウル・イーターともいう。墓場で彷徨う死者の魂を喰らい、ときには生者からも魂を奪うという。
この魔物には、幽霊、悪霊、ファントム、スペクター、レイスなどのゴースト系モンスターも恐れる。なぜなら彼にとって幽体モンスターも餌でしかないからだ。さらに幽体ゆえ、物理兵器も通用しない。
低く唸る狼のうち三匹が、跳躍して紫衣の魔物に戦いを挑んだ。灰色狼は空中の幽鬼に突っ込んだ。発光する紫衣が丸く膨らむ。が、狼はそのまま中で動かない。まるで水槽に落ちた動物のように、足をバタバタ動かしていた。やがて動かなくなり、ボトボトと落下。だらりと舌を出して、剥製のように動かない。魂を吸い取られたのだ。
あらたな脅威に少女たちも狼も動けなくなった。紫衣の魔物は値踏みするように空中を漂っていたが、エリシュカの方にフードを向けて、静かに漂ってくる。
「いやあああああああああああああっ!!」
悲鳴をあげるエリシュカたちに、〈魂喰いの幽鬼〉は覆いかぶさろうと降りてきた。せっかく、人狼の館から逃れてきた少女たちは、ここで魂を奪われるのであろうか……だが、エリシュカの前に何者かが立ちふさがった。
「パウルさん!」
それは昨年、この丘で戦死したはずの北軍兵士パウル・ヴィーネであった。全身が透けて見える……幽霊である。彼は少女たちを庇護するように小銃を片付けで構えて紫衣の幽鬼を睨みつけた。
〈紫衣の幽鬼〉は彼の鉄の意思に押されたように、動けない。この魔霊は人間や動物の怯えや恐怖心につけこんで、魂を吸引するが、強い意志をもつ者にはつけこめないのだ。幽鬼が怒りに打ち震える。
そして、フードで隠された頭部の暗闇から素顔が見えた。乾いた肌が骸骨に張りついたミイラの顔だ。歯は剥き出しのまま、眼窩の奥の暗闇で陰火が燃えあがる。眼窩は額にもう一つあり、三つ目であった。魔霊は守護者であるパウルを威嚇して、彼を吸い込もうと念を集中する……
「幽鬼退散!」
〈紫衣の幽鬼〉の背後から声がして、左の肩口から右の腰にかけて斜めに筋が入った。物理法則が通用しないはずの魔霊の体がずれていく。この世のものとは思えない絶叫が響き渡り、幽鬼は四散して、消滅していく。
その背後にグリフェが立っていた。ダンフォース司祭から譲り受けた〈聖銀の大剣〉は強力な悪霊であっても、浄化できるのだ。
しかし、魔霊が霧散したのをみて、灰色狼の群れがエリシュカたちに飛びかかる。銃声が連続してコダマし、狼に命中。残りの狼たちは山へ逃げて行った。
「孫に手を出すな! この悪たれ狼どもが!」
「おじいちゃま!」
イグナーツが猟銃から硝煙をあげて右側に立っていた。下半身の氷結もだいぶ溶けている。エリシュカが子犬のように跳ねて、祖父に抱きついた。ザビナ・ハナも安堵してへたりこむ。
「おお……あんたが、パウル・ヴィーネか……昨年は孫を南軍の腐れ兵士たちから救ってもらい、死んだ後まで魔霊から救ってもらうとは……感謝してもしきれんわい!」
老猟師がパウルの幽霊に握手を求めて走り寄る。パウルも手を差し出したが、老人の手は幽霊をすり抜け、宙を切って空振りし、ゴロンと大地にでんぐり返った。霊体に触れることはできないのだ……そして、話す事もできない。
「ありがとう、パウルさん……」
エリシュカが話しかけるが、兵士の幽霊はニッコリと笑って返事した。やがて、彼の体はさらに透き通って行った……やがて、光の雫となって、この世から消え去ってしまった。
「パウル・ヴィーネか……どんだけ、いい奴なんだよ、まったく……」
グリフェは帽子を取って、北軍兵士の墓標に敬礼した。イグナーツと少女たちもそれに倣う。やがて、ボネの森から魔物と戦って生き残った村人と修道士たちがこちらにやってくるのが見えた。満月だけが何事もなかったように煌々と照らしていた――
宿屋に戻ると、エリシュカは両親の温かい胸に飛び込んで泣きあった。ミランとアンドレア、タートルもそれを微笑ましく見守り、遅れてきたグリフェとイグナーツを出迎えた。
血なまぐさい話だったので、深夜2時更新でしたが、次回から夕方6時更新となります。




