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すれ違い結婚  作者: 夏帆
9/9

番外編 月明かりと流行

本編では高校生だった牧野君の10年後。タイトルは…はい、思いつきです。

「壁ドン、顎クイはもう古いっていうけど、未体験な私としては興味があるのよ」

「は?」

俺が目を瞬かせているのを無視して、目の前の女性はビールを豪快に呷る。ドン、と盛大にジョッキを机に置くと「おに〜さん!生中もう一杯!」なんて叫んで、ほにゃりと笑った。

「だって、イケメンに強引に迫られたらドキドキするじゃない。女の子の憧れよ〜」

「そういうものですか…?」

「もちろん!あ、お兄さんありがと〜」

けらけらと笑った女性はジョッキを受け取ると嬉しそうに口をつけた。その様子を見るに、酔っ払っていることは間違いないだろう。


彼女の名前は常磐雪葉(ときわゆきは)、俺の同僚で2歳年上の社会の教員で、面倒見のよい姉御肌の女性だ。俺が新任の時の部活動の指導教官でもある。

俺は今、高校の時からの念願である地元の高校教師をしている。

初恋の人である高校の恩師に憧れ教職を志すようになり早10年。仕事を覚え、クラス担任を受け持つようにもなって、俺はいつの間にか初めて俺と香代子先生が出会った当時の、彼女の年齢と同じ年齢になった。

香代子先生を思い出すと、必ず高校3年の冬が脳裏に浮かぶ。実らなかった初恋は今でもほろ苦さを残すけれども、直向きに愛したその過去は今の俺を支えてくれている。大切な思い出だ。

それに…。

俺は目の前に座る常磐さんを見つめた。彼女は目を眠そうに細めて、小さくあくびをしている。



俺は今、常磐さんが好きだ。



外見だけで言えば、常磐さんは香代子先生に遠く及ばない。香代子先生が薔薇のような大輪の花なら、常磐さんはカスミソウみたいな可憐な花だ。

それでも、隣にいたいと思えるのは常磐さんだけだ。香代子先生の時は見ているだけで良かった。彼女が幸せなら、隣にいるのは俺じゃなくても良かった。

けれども常磐さんに対しては違う。仮に常磐さんが幸せになれても、それが俺じゃない誰かから与えられるものだったら、俺は許せないと思う。

香代子先生は憧れだったけど、常磐さんに抱くのは明確な恋情だ。そのことを理解できるのも、香代子先生を想い続けた日々があるからだ。



「牧野く〜ん、なに辛気くさい顔してるのよ〜」

間延びした声に我に返れば、常磐さんが頬杖をついて俺を見ていた。真っ黒な瞳は艶やかに煌めき、赤く色づいた唇が肉感的だ。常磐さんの表情に女を感じて、鼓動が速くなる。

「常磐さん、飲み過ぎです。よく飲めるなぁと呆れていたんですよ」

「なによぉ〜!そういう牧野君は飲まなさすぎ!」

沸き上がる邪な感情を隠すために敢えてからかうような言い方をした俺に、常磐さんは不服そうに唇を尖らせた。その表情に胸がチリッと焦げる。


その唇を奪いたい。


そう告げたらこの人は何と答えるのだろうか。


不意に過る仄暗い想いに、俺は机の下で拳を握り締める。

「もう、帰りますか。いくら常磐さんが酒に強くても、生中をジョッキで5杯は飲み過ぎです。送りますよ」

「え〜…まだ飲む。だってまだ壁ドンと顎クイを体験してないもん!」

なら、俺がしましょうか。

喉元まで込み上げた言葉を飲み込み、俺は席を立つ。酔っ払いの言葉を真に受けても仕方ない。

普段は真面目な人だし、少なくとも職場の後輩に「壁ドンと顎クイをされたい」とせがむ人ではない。だから、もしそれを本当に実行したら素面になった時に後悔し、避けられてしまうのは明白だ。そこまでのリスクは負えない。

俺がハンガーに掛けられたジャケットを羽織って鞄を抱えると、仕方なさそうに常磐さんも席を立った。

「今日は俺のおごりです」

「ん〜ありがと〜ごめんねぇ?次はおごるから〜」

覚束無い足取りの常磐さんを支え、俺は会計を済ませると店を出た。




俺と常磐さんの家は割と近い位置にある。俺はアパート暮らしで、常磐さんは実家暮らしだ。遅くまで飲んでると親が心配するといって、彼女が22時以降まで飲んでいることはないし、帰る時もタクシーを使う。

今日もタクシーで帰るという常磐さんを説き伏せて、半ば強引に歩いて帰ることにした。彼女は不思議そうな顔で俺を見上げたが、俺はそれを無視する。

二人で飲むのは初めてのことで、つまりプライベートで二人きりというのは今回が初だ。いつも周りに人が集まり囲まれている常磐さんと、こうして並んで歩けるのは貴重なことで、その時間をみすみす手放すことはしたくない。



少しでも長く一緒にいたい。



切実な願い。けれど、言えない。ひた隠しにしている恋情を顕にして、彼女に嫌われたらと思うと怖かった。

それでも傍にいたいという想いからは逃げられなくて、後輩という仮面を株り、人畜無害を装って用心棒をかって出た。

隣を歩く常磐さんは、ゆったりとした足取りで歩いていく。先ほどから俯いたままで表情は見えない。

柔らかな月明かりと街灯を頼りに無言で歩きながら、俺は小さく息を吐いた。常磐さんが好きで、欲しくてたまらないくせに、先輩後輩という都合のよい関係に収まっている。それが情けなくて、もどかしい。こんなに近くにいるのに、心の距離は遠い。

「…牧野君って、彼女いたんだっけ?」

脈絡もなく、ぽつりと落とされた言葉に、思わず目を丸くする。

彼女…?

「いないです。…何ですか、急に」

動揺で、声が上擦る。そのことに気づかない常磐さんは、こちらを見ることもなく、言葉を紡ぐ。

「別にぃ。この前、生徒が牧野君と綺麗な女の人が仲良く歩いてたって言ってたから」

だから、彼女だと思ったの。

歯切れ悪く話す常磐さんは相変わらず道路を見つめたままだ。俺は常磐さんの旋毛を見ながら、首を横に振った。

「それ、たぶん高校時代の恩師ですよ。この前偶然会って。それに旦那さんがいますよ。びっくりするくらい仲が良いです。子供も二人いるし」

久々に会った香代子先生は相変わらず綺麗だった。朗らかに笑って、そしてこの10年のことを教えてくれた。感じたのは、気恥ずかしさと懐かしさ。高校時代みたいな胸の痛みはなかった。

それどころか、常磐さんを思い出して会いたくて仕方なくて。改めて常磐さんへの恋心を実感した。

それなのに、

「そう、なんだ」

常磐さんの声音はそのことを全く信じてないと告げていた。それが胸の奥を引っ掻く。できた傷がじくじくと痛む。

誰に勘違いされても良いが、常磐さんだけには誤解されたくなかった。

「だから、彼女じゃないです。それに俺、好きな人がいるから」

好きなのは、あなたです。

心の中で呟く。伝えられない想いは、甘く痛みを伴って胸をくすぐった。

「…牧野君には、綺麗な人が似合いそうよね」

常磐さんの唇から零れた言葉。その語尾が震えている。俺は歩みを止めた。

「常磐さん?」

「…何でもない」

「何でもないなら、こっちを見てください」

「…」

「常磐さん」

どうして、俯いたままなんですか。

どうして、泣きそうな声なんですか。

疑問が、常磐さんの頑なな態度に少しずつ苛立ちに変わっていく。その時、先程の彼女の言葉が甦った。


『壁ドン、顎クイはもう古いっていうけど、未体験な私としては興味があるのよ』


俺は常磐さんの腕を取り、民家と民家の間、コンクリートの外壁に囲まれた細い脇道に入った。そして、常磐さんを覆うように壁に両手をついた。

「なにして…っ」

驚いて、やっと顔を上げた常磐さんに俺は唇の端を吊り上げてみせる。

「壁ドン、興味があるんでしょう?」

「っ!」

その瞬間、彼女の顔が驚愕に染まったのが分かった。目を見開いて、信じられないものを見たかのような表情に、胸の裡にどす黒い何かが広がっていく。

もう酔いは飛んでいるはずだ。一瞬過った怯えた色がそれを物語っている。それでも、止めることなどできない。もっと困ればいい。俺のことだけを感じていたらいい。

「一応俺もイケメンの部類らしいですし。それとも俺じゃ、役不足ですか?」

意地悪く訊ねれば、常磐さんは息を飲んだ。それが何よりの答えである気がして、目の前が赤く染まる。今まで抑えつけていた感情が堰を切って溢れ出していく。




俺だけしか、見られなくしてやりたい。




俺は壁に肘をつき、顔を常磐さんに近づける。鼻が触れ合うくらい近づいて、彼女の瞳を覗き込んだ。

「俺が好きなのは、常磐さんです。あなたの笑顔が、優しさが、俺の心を捉えて放さない」

不器用な優しさや、木漏れ日のような笑顔が、ゆっくりと俺の心に浸透し、そして、憧れが愛しさに変わった。確かに、俺はこの人に恋をした。

「そ、んな」

「嘘じゃないですよ。信じられないですか?」

その言葉に返事はない。

俺は右手を常磐さんの顎にかけ、そして上に上げた。

「好きです。俺は本気です」

何かを告げようとした彼女の唇に、自分の唇を押し付ける。彼女は小さく体を捩ったが、すぐに動かなくなった。俺は左手で常磐さんの腰を抱き寄せる。相手の鼓動さえ聞こえそうなくらい密着すると、体が熱くなり、じわじわと幸福な気持ちが広がっていった。



あぁ、これが欲しかった。



気づけば、常磐さんの腕が俺の背に回っていた。拒絶されていないという事実に、どうしようもなく彼女が愛しくなる。啄むようなキスがだんだん深くなり、常磐さんの膝がかくんと折れて、俺はやっと唇を離した。

「はっ…はっ……」

浅く息を吐き続ける常磐さんの背を撫でる。くったりと俺の胸にもたれかかり、苦しそうだ。その姿に先程までの激情が成りを潜め、後悔と罪悪感が膨れ上がっていく。


あぁ…やってしまった。


今まで、堪えてきたのに。もうお終いだ。


しばらくして呼吸が整ったのを確認して、俺は彼女を解放した。

見上げた真っ黒な瞳が先程の行為の余韻を残し、熱を孕んで潤んでいる。俺はその目を見つめ、口を開いた。今更後戻りできない。

「キスしてすみません。

でも俺は、本当に常磐さんが好きです。ただの後輩でいるのは嫌なんです」

もう一度常磐さんを抱き寄せる。今度はそっと、ただ優しく。彼女はされるがまま、大人しく体を寄せた。

「本当は、言う気はなかった。でも抑えられない」

朗らかで温かいこの人を、俺のものにしたい。

見ているだけじゃ、足りない。

けれど、そこに常磐さんの心が無ければ意味がない。

「だから、」

「………私は、一度も牧野君をただの後輩だなんて言ったことはないわよ」

あなたが振り向いてくれるように頑張ります。

言おうとした言葉が遮られ、俺はぽかんと口を開けた。

今、なんて…?

困惑する俺に向けられるのは、真っ直ぐな目。

「好きなの」

そう言うと、常磐さんが俺の胸に頬を寄せた。

「私も、牧野君が好き。どうしようもなく好きなの」

「…っ!」

心臓が大きく跳ねる。


常磐さんが、俺を好き?


これは都合のよい夢なのか?


うまく考えがまとまらない。でも腕の中の温もりは現実のもので、俺はじわじわと熱い何かが込み上げてくるのを感じた。

顔が火照る。今、俺はどんな顔をしてるだろう。

「…あなたが好きだ。俺と付き合ってください」

「うん…」

「雪葉、さん」

初めて下の名前で呼ばれて驚く彼女に俺はもう一度、キスをした。



「ところで、いつから俺のことが好きなんですか?」

「………」

「ねぇ、教えてよ」

微笑めば、雪葉さんは顔を背け渋々話し始める。

「…牧野君が新任の時の忘年会。転びそうになった私を抱き止めてくれたでしょ。それから」

「なんだ。あまりに相手にされないから範疇外だと思ってました。それなら、こんなに長い間悶々とせずに早く告白すれば良かったですね」

思わず頬が弛む。

「…牧野君こそ、いつから私のこと好きなわけ?」

「そうですね…出会った時から気になってはいました」

「!」

「だって雪葉さん、おっちょこちょいだし。目が離せなくて」

にやりとすれば、雪葉さんが下から睨み付けてきた。

「牧野君…性格悪い」

「心外ですね。でも確かにからかいすぎました。俺は、新任の時に面倒見てもらって少しずつ好きになったんです。明るくて、人の心に寄り添える優しさが、俺を惹き付けて離さない」

「牧野君…」

「好きです、雪葉さん」

手を繋ぎ、帰り道を急ぐ。そんな二人を月光が照らしていた。


壁ドン顎クイ、憧れです。それが好きな人であればドキドキしちゃいます。牧野君はイケメンさんなので、是非ともやらせてみたかった!(作者の完全なる趣味)


牧野君は一途で溺愛系なので、雪葉さんはこれから目一杯甘やかされるでしょう。とりあえず無事に新しい恋愛に踏み出せて良かったです。

お読みいただきありがとうございました。

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