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004KIMI版その2

■第七章 魔素の統制

夏の訪れは、北大陸にとって魔素の季節だった。

太陽の光が強くなり、土地に眠る魔素が活性化する。川の水が青白く光き、風に魔力の粒子が混じり、夜には、空中に微かな火花が散る。魔術師にとっては力の源であり、一般人にとっては災いの種だった。

制御されない魔素は、疫病を生む。

魔素濃度の高い地域では、空気自体が毒になり、呼吸するだけで肺が爛れる。魔素の乱流が生じた場所では、生物が異形化し、植物が凶暴化する。そして、魔素の暴走が起こった時——都市は、一瞬で灰燼と化す。

暗黒時代の夏は、毎年、魔素関連の死者が人口の二割を占めた。

「——東第三区画、魔素濃度、閾値超過」

監視塔からの報告が、中央執行塔に届いた時、レイは、地図の前で眠りについていた。三日三夜、魔素統制網の最適化に没頭し、ついに机に突っ伏したのだ。

「総帥!」

副官の声で、目を覚ました。

「東第三区画、魔素濃度が、安全基準の三倍に達しています。予測では、七十二時間以内に、暴走の可能性があります」

「……エランナは?」

「魔導回廊師団長は、現地に向かっています。——ただし、単独で」

「単独?」

レイは、立ち上がった。

「護衛は?」

「不要と、申されました」

「馬鹿め」

レイは、剣を掴み、部屋を出た。

東第三区画は、かつての旧貴族の別荘地だった。

魔素の豊かな土地に、豪奢な館が並び、庭には、魔素を吸収して美しく咲く花々が植えられていた。暗黒時代には、領主が独占し、民は近づくことすら許されなかった。

今は、民の居住区に変わっている。

しかし——

「——これは」

レイが馬を止めた時、そこに広がっていたのは、異形の庭だった。

魔素の濃度が高すぎて、植物が暴走していた。薔薇の蔓が、建物を覆い、窓を破り、中にいた民を絡め取っている。花弁は、人の頭ほども大きくなり、中心からは、酸性的な粘液を滴らせている。

「——助けて!」

絡め取られた民の声が、蔓の間から漏れる。

「誰か——誰か——!」

「黙れ! 動くな!」

エランナの声が、館の屋根から聞こえた。

彼女は、杖を掲げ、魔力収束式を展開していた。複雑な幾何学模様が、空中に浮かび、暴走した魔素を、強制的に安定化しようとしている。

「——《魔素鎮静》!」

青白い光が、幾何学模様から放たれた。

しかし——暴走した魔素は、光を吸収し、さらに膨張した。

「——ダメ! 濃度が高すぎる! 鎮静式が、逆に触媒になっている!」

エランナが、叫んだ。

「下がれ! ここから、離れろ!」

「下がるわけにはいかない!」

レイが、馬から飛び降りた。

剣を抜き、暴走した蔓を斬り払う。異形の植物は、驚くべき強靭さを持っていた。斬っても、斬っても、次々と再生する。

「——レイ! ここは、魔術師の領分よ! 剣なんて、通用しない!」

「通用しないなら、何をすればいい!」

「——《魔素逆流》! 暴走した魔素を、別の場所に、導く! だが——」

「だが?」

「導き先が、必要だ! 同等の容量を持つ、魔素の『容器』が!」

レイは、一瞬、動きを止めた。

そして——

「——俺が、容器になる」

「何?」

「俺の体は、魔素適性が高い。若い頃、魔術師の修行を、少しだけしたことがある。——俺の体に、暴走した魔素を、流し込め」

「馬鹿なことを言わないで!」

エランナが、叫んだ。

「そんなことをしたら、あなたの体は——」

「どうなる」

「——魔素汚染で、内臓が爛れる。最悪の場合、魔素の暴走を、体内で起こし——爆発する」

「確率は?」

「——五割」

「五割か」

レイは、微かに笑った。

「十分だ。——やれ」

「レイ!」

「やれ!」

レイは、剣を地面に突き立て、両手を広げた。

「暴走した魔素を、俺に流し込め。——そして、民を、助けろ」

エランナは、震えていた。

杖を握る手が、震えている。唇が、震えている。目が——涙で、潤んでいる。

「……お前は、本当に」

「本当に、何だ」

「——本当に、人を救うつもりで、ここまで来たのね」

「ああ」

レイは、頷いた。

「それが、何か?」

「……分かったわ」

エランナは、杖を掲げた。

「——《魔素逆流・転送》!」

幾何学模様が、変質した。

暴走した魔素を、吸い上げ、凝縮し、導管として光の線を伸ばす。線の先端は、レイの胸に触れた。

「——くっ!」

激痛が、全身を貫いた。

魔素が、血管を逆流する。神経を灼く。骨髄を凍らせる。内臓が、絞られるように痛む。視界が、青白く染まる。

「——もっと、流せ!」

レイが、叫んだ。

「まだ、半分も、流していない!」

「——無理よ! あなたの体が、限界に——」

「流せ!」

レイは、地面に膝をついた。

血が、口から溢れる。魔素汚染で、内臓が損傷している。それでも——両手を広げたまま、受け止め続ける。

「——民を、助けろ。それが、俺たちの——」

「——分かってるわよ!」

エランナが、叫んだ。

「黙って、受け止めてなさい! あなたの馬鹿な正義を!」

魔素の流れが、加速した。

レイの体が、青白く発光する。血管が、皮膚の下で、光の線として浮かび上がる。痛みは、もう感じない。感覚が、麻痺している。

「——最後だ! 一気に、行くわよ!」

「……ああ」

レイは、目を閉じた。

「行け——」

轟音。

暴走した魔素が、一斉にレイの体に流し込まれた。衝撃波が、周囲の建物を揺らす。異形の植物が、一斉に枯れ、蔓が、民を解放する。

そして——

静寂。

レイが、目を覚ました時、そこは、野戦病院だった。

「——三時間、意識不明だった」

テルトイアが、枕元に立っていた。

「魔素汚染は、深刻だ。内臓の損傷は、治癒術でも、完全には修復できない。——お前の寿命は、おそらく、十年、短縮された」

「十年、か」

レイは、微かに笑った。

「安いものだ。——民は、助かったか」

「助かった。東第三区画の民、二百四十七名、全員、無事だ」

「……それで、いい」

レイは、目を閉じた。

「十年の寿命で、二百四十七名を救う。計算すれば——合理的だ」

「馬鹿なことを、言うな」

テルトイアの声が、震えていた。

「十年は、長い。お前にとっても、俺たちにとっても。——お前が、十年早く死ねば、『黒鉄の執行秩序』は、どうなる? 千年後の世界は、どうなる?」

「……」

「自分の命を、安く見るな。お前の命は、今や—— thousandsの命と、等価だ。それを、理解しろ」

レイは、目を開いた。

テルトイアの目が、怒りと、悲しみで、潤んでいる。

「……感謝する」

「感謝は、いらない」

テルトイアは、野戦病院を出た。

「——ただ、もう、一人で死ぬな。約束だ」

回復は、一ヶ月かかった。

その間、エランナは、一度も顔を見せなかった。

「——師団長は、魔素統制網の再設計に、没頭しています」

副官が、報告した。

「東第三区画の事故を受け、全都市の魔素安定化装置の、強化と自動化を、進めています。——本人は、『同じ事故を、二度と起こさない』と」

「……そうか」

レイは、病床から、窓の外を見た。

中央執行塔の方向に、青白い光が見える。エランナが、魔導塔で、術式を編み出しているのだろう。

「——入っていいか」

声が、扉から聞こえた。

グランだった。大剣を背に負い、武骨な顔に、珍しく疲労の色がある。

「ああ」

「……聞いたぞ」

グランは、枕元に腰を下ろした。

「十年の寿命を、捨てたそうだな」

「捨てたわけじゃない」

レイは、微かに笑った。

「投資した。十年で、二百四十七名を救う。——それが、投資だ」

「投資、か」

グランは、大剣を膝に置いた。

「お前は、本当に——何もかもを、数字にするな」

「数字にする」

レイは、認めた。

「だが——数字の裏に、人がいる。それを、忘れない」

「……」

「グラン。お前は、まだ信じているか」

「何を?」

「俺を」

グランは、長い間、黙っていた。

そして——

「——信じている」

「本当に?」

「本当に、だ」

グランは、大剣の柄を握りしめた。

「お前が、東第三区画で、何をしたか——聞いた。お前が、民を助けるために、自分の命を賭したか——聞いた。——それが、真実なら、俺は、信じる」

「……」

「だが——」

グランは、一歩前に出た。

「お前が、自分の命を、安く見るなら——俺は、お前を斬る。それが、約束だ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「分かったか?」

「分かった」

レイは、再び目を開いた。

「もう、一人で死なない。——約束する」

一ヶ月後、レイは、職務に復帰した。

最初の会議は、魔素統制網の強化案についてだった。

「——『広域魔素統制網』の、完成図」

エランナが、巨大な設計図を、壁に広げた。

北大陸全土に、魔導オベリスクを配置する。各オベリスクが、土地の魔素を感知し、調整し、安定化する。オベリスク同士は、結界で繋がり、一つの網目状のシステムとして機能する。

「これが完成すれば——都市内の魔素濃度を、常に安全基準内に保てる。暴走の予兆を、七十二時間前に察知できる。——そして、民の、自由な魔法行使を、完全に監視できる」

「自由な魔法行使を、監視?」

テルトイアが、眉を顰めた。

「それは——民の、自衛手段を、奪うことではないか」

「自衛手段ではない」

エランナは、冷たく答えた。

「反乱の手段だ。暗殺の手段だ。破壊の手段だ。——魔法は、力だ。力を、自由に使わせれば、秩序は崩壊する」

「だが——」

「テルトイア」

レイが、口を開いた。

「エランナの案を、採用する」

「レイ——」

「ただし、条件を付ける」

レイは、設計図に指を置いた。

「各オベリスクに、『緊急解放装置』を設ける。魔素の暴走や、外敵の襲来など、国が定めた『緊急事態』が発生した時のみ、民の魔法行使を、一時的に許可する。——それ以外の場面では、監視する」

「……緊急事態の定義は?」

「法で定める」

レイは、テルトイアを見た。

「『緊急事態法』を、起草する。何が緊急事態か、明確に定義する。定義を超えて、魔法行使を許可する者は、罰する。——それで、どうだ」

テルトイアは、長い間、考えていた。

そして——

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

テルトイアは、ペンを取り出した。

「『緊急事態法』を、起草する。——ただし、定義の審査は、俺が、直接、行う」

「頼む」

『広域魔素統制網』の建設は、二年かかった。

二年の間、エランナは、魔導塔に籠もり、術式を編み、オベリスクを設計し、建設現場を回った。睡眠時間は、一日二時間に削られた。食事は、配給された栄養剤だけになった。

「——師団長、休んでください」

副官が、何度も申し出た。

「無理です。これ以上、続ければ——」

「無理じゃないわ」

エランナは、設計図から目を離さなかった。

「計算すれば、まだ、余裕がある。——あと、三ヶ月。三ヶ月で、完成する。完成すれば——」

「完成すれば?」

「——同じ事故を、二度と、起こさない」

エランナの目には、狂気のような光があった。

東第三区画の事故以来、彼女は変わっていた。以前は、迷いながら協力していた。今は、迷いを捨て、完璧を追求していた。

「——完成させる。完璧な監視網を。誰一人、魔素の暴走で、死なせない。——それが、私の、責任だ」

二年後、『広域魔素統制網』は完成した。

北大陸全土に、三百六十五基の魔導オベリスクが配置された。各オベリスクは、直径五十キロの圏内の魔素を監視し、調整する。中央執行塔の『魔素統制室』では、全オベリスクのデータが、リアルタイムで集約される。

「——魔素濃度、全基準内」

「——暴走予兆、ゼロ」

「——緊急事態発生、なし」

「——民の魔法行使監視、正常」

オペレーターの報告が、規則正しく響く。

エランナは、統制室の中央に立ち、全データを見渡していた。目は、充血している。体は、痩せ細っている。だが——

「——完璧よ」

呟いた。

「完璧な監視網。誰一人、魔素の暴走で、死なない。——誰一人、自由な魔法行使で、反乱を起こせない」

「エランナ」

レイが、統制室に入ってきた。

「……お前、変わったな」

「変わったわ」

エランナは、振り返らなかった。

「東第三区画で、あなたが死にかけた時——私は、悟ったの。迷いは、不要だと。完璧を求めなければ、人は死ぬ。——だから、迷いを捨てた」

「……」

「今の私は、完璧な監視網を作る機械よ。人間性は、いらない。感情は、いらない。——ただ、完璧を、追求する」

レイは、長い間、エランナの後ろ姿を見つめていた。

そして——

「……それで、いいのか」

「いいのよ」

エランナは、初めて振り返った。

そこには、かつての迷いがなかった。ただ、冷たい確信だけがあった。

「お前が、人間性を捨てて、魔王になったように——私も、人間性を捨てて、監視網になる。それが、私の、選んだ道だ」

「……」

「ただし——」

エランナは、一歩前に出た。

「この監視網が、人を縛りすぎる檻になった時——私は、お前に、檻を壊すことを、求める。それが、最後の、人間性だ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「分かったか?」

「分かった」

レイは、目を開いた。

「お前が、檻を壊せと言う時——俺は、壊す。約束する」

「……感謝するわ」

エランナは、再び統制室に向き直った。

「——魔素濃度、全基準内。暴走予兆、ゼロ。——完璧よ」

魔素統制網の完成は、新たな問題を生んだ。

「——『自由の名を取り戻す会』、活動再開」

テルトイアが、報告書を差し出した。

「ロラン・ヴェスティアを中心に、魔素統制網に反対する運動を開始。主張は、『魔法行使の自由は、人間の基本権である』『魔素統制網は、精神の監獄である』」

「……ロランは、まだ、生きていたか」

レイは、報告書を開いた。

ロラン・ヴェスティア。会談から二年。戸籍登録を拒否し、配給を受けず、医療を受けず——まだ、生きていた。

「どうやって、生きている」

「地下の、支持者的の支援。密輸による食料の供給。——魔素統制網の監視を、何とか回避している」

「回避、か」

レイは、目を閉じた。

「……会談を、求めているそうだ」

テルトイアが、付け加えた。

「再び、公開の場で、対等の立場で。——条件は、前回と同じ」

「……会う」

レイは、立ち上がった。

「前回と同じ場所で。——ただし、今回は、一人で行く」

「一人で? 危険だ」

「危険だが——必要だ」

レイは、剣を腰に下げた。

「ロランは、『対等』を求めている。護衛を連れれば、対等ではない。——一人で行く。それが、信頼の、示し方だ」

再会は、中央広場で行われた。

二年ぶりのロランは、さらに痩せ細っていた。白髪は増え、目は落ちくぼんでいる。しかし——目の光だけは、前回と同じだった。

「——レイ・アルマート殿」

ロランが、最初に口を開いた。

「二年ぶりだ。貴殿の『檻』は、さらに完成したそうだな。戸籍に、魔素統制網に。——人は、もう、息もできない」

「息は、できる」

レイは、静かに答えた。

「安全に、穏やかに、毎日を生きている。飢えず、病まず、魔素の暴走で死なず。——それが、今の北大陸の、現実だ」

「現実?」

ロランは、笑った。

「冷たい数字の、現実だ。人の心は、どうだ? 人の夢は、どうだ? 人の愛は、どうだ?——数字には、ない」

「数字には、ない」

レイは、認めた。

「だが——数字には、人の命がある。命があれば、心も、夢も、愛も、育つ。命がなければ、何も育たない」

「……」

「貴殿は、二年間、戸籍を拒否し、配給を受けず、生きてきた。——どうやって、生きた?」

「支援者が、いた」

「支援者は、誰だ」

「……」

「戸籍を持つ者だ。配給を受ける者だ。魔素統制網の保護を受ける者だ。——貴殿の『自由』は、『管理された者』の支えによって、成り立っている」

ロランの表情が、微かに硬くなった。

「……違う」

「違わない」

レイは、一歩前に出た。

「貴殿が、自由を享受するためには、誰かが、管理を受け入れなければならない。貴殿が、詩を読むためには、誰かが、パンを焼かなければならない。貴殿が、哲学を語るためには、誰かが、下水を掃除しなければならない。——それが、社会だ」

「……」

「貴殿は、『自由』を、特権として享受している。管理を受ける者の上に、立って。——それが、貴殿の言う『自由』の、真の姿だ」

ロランは、長い間、震えていた。

そして——

「……では、どうすればいい」

「管理を、受け入れる」

レイは、静かに言った。

「戸籍に登録し、配給を受け、魔素統制網の保護を受ける。——そして、法の中で、異論を唱える。それが、『黒鉄の執行秩序』が認める、唯一の自由だ」

「……法の中での、自由か」

「ああ」

「法を作るのは、貴殿だ」

「ああ」

「では、貴殿が、不利な法を作れば——自由は、意味を失う」

「失わない」

レイは、即座に答えた。

「法を変える手段は、残っている。数字だ。データだ。記録だ。——管理を受け入れれば、配給を受け、健康を保ち、学問を修め、数字を理解できる。数字を理解できれば、法の矛盾を、指摘できる。法の矛盾を指摘できれば——法を、変えられる」

「……」

「貴殿は、学者だ。数字を理解できる。法の矛盾を、見抜ける。——ならば、管理を受け入れ、法の中で、異論を唱えろ。それが、貴殿にできる、最大の抵抗だ」

ロランは、長い間、レイを見つめていた。

そして——

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

ロランは、深く息をついた。

「俺は、戸籍に登録する。配給を受ける。魔素統制網の保護を受ける。——そして、法の中で、異論を唱える。貴殿の檻の、矛盾を、指摘する」

「頼む」

レイは、微かに笑った。

「お前の異論が、檻を——改善する。それが、お前の責任だ」

「……改善、か」

ロランは、奇妙な笑みを浮かべた。

「檻を、壊すのではなく、改善するか。——貴殿は、本当に、巧妙だな」

「巧妙じゃない」

レイは、振り返った。

「現実主義だ。檻を壊せば、混沌が戻る。混沌が戻れば、人が死ぬ。——檻を改善すれば、人は生きる。生きながら、変わる」

「……」

「選べ。壊すか、改善するか」

ロランは、最後に、空を見上げた。

魔導オベリスクの青白い光が、空を照らしている。完璧な監視網の光。

「——改善する」

「分かった」

「ただし——」

ロランは、レイの背中に向かって言った。

「檻の改善が、不可能になった時——俺は、壊す。それを、覚えておけ」

レイは、足を止めなかった。

「……ああ。覚えている」

その夜、レイは、魔素統制室を訪れた。

エランナは、オペレーターの席に座り、データを見つめていた。

「——ロラン・ヴェスティア、戸籍登録完了。配給受給開始。魔素統制網の保護下に、入る」

「……知っているか」

レイが、背後から問うた。

「知っているわ」

エランナは、振り返らなかった。

「ロランの登録を、承認したのは、私よ。——監視下に置くためだ」

「監視下、か」

「ああ。彼の全行動を、監視する。全発言を、記録する。全交友関係を、把握する。——反乱の芽が、生じた瞬間、摘む」

「……」

「お前は、何か言いたそうね」

レイは、一歩前に出た。

「ロランは、法の中で、異論を唱える。——その異論を、監視する必要は、ない」

「必要があるわ」

エランナは、振り返った。

「異論は、反乱の種だ。種を、放っておけば、芽が出る。芽が出れば、木になる。木になれば——檻を、壊す」

「……」

「お前が、ロランに『改善』を約束したのは、知っている。——だが、私は、『監視』を約束する。改善と監視は、表裏一体よ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「分かったか?」

「分かった」

レイは、目を開いた。

「監視は、お前の責任だ。改善は、俺の責任だ。——二人で、檻を、支える」

「……ああ」

エランナは、再びデータに向き直った。

「——魔素濃度、全基準内。暴走予兆、ゼロ。民の魔法行使監視、正常。——完璧よ」

夜深く。

レイは、中央執行塔の最上階で、一人、数字を追っていた。

「——戸籍登録者数、十二万四千五百六十七名。配給受給者数、十二万四千五百六十七名。魔素統制網保護下、十二万四千五百六十七名」

ペンが、紙を走る。

「——自由を選び、戸籍登録を拒否した者、三百名。うち、二年間で死亡した者、二百四十七名。生存者、五十三名」

数字は、冷たかった。

「——ロラン・ヴェスティア、生存。戸籍登録完了。監視下に、入る。——異論の記録を、開始する」

窓の外では、魔導オベリスクの青白い光が、夜空を照らしている。

完璧な監視網の光。

「……完璧か」

レイは、呟いた。

「完璧な檻。完璧な監視。完璧な管理。——だが、完璧すぎるものは、脆い」

手を、窓に当てる。

冷たいガラスの感触。

「いつか、亀裂が生じる。完璧を求めすぎて、亀裂が生じる。——その時、誰が、檻を壊すのか」

「——私が、壊す」

声が、背後からかかった。

振り返ると、エランナが立っていた。

「……お前、どうしてここに」

「魔素統制室から、歩いて、三分よ」

エランナは、窓際に立った。

「お前の言う通り——完璧すぎるものは、脆い。この監視網も、いつか、亀裂が生じる。——その時、私が、壊す」

「……」

「だが——今は、完璧を、追求する。亀裂が生じるまで、完璧を、追求する。——それが、私の、責任だ」

レイは、目を閉じた。

二人の呼吸が、静かに響く。

「……エランナ」

「何?」

「お前は、まだ——人間か」

「人間よ」

エランナは、微かに笑った。

「完璧な監視網になりたいと、言ったわ。——だが、まだ、人間だ。怒りも、悲しみも、恐れも——持っている。ただ、隠しているだけ」

「……なぜ、隠す」

「隠さなければ——壊れるから」

エランナは、窓の外を見た。

青白い光が、彼女の顔を照らす。冷たい光の中で、彼女の目には——確かに、涙の光があった。

「隠して、完璧を、演じる。演じ続ければ、いつか——本当に、完璧になるかもしれない。——そう信じている」

「……信じているのか」

「信じているわ」

エランナは、振り返った。

「お前も、そうでしょ? 魔王を、演じ続ければ、いつか——本当に、魔王になるかもしれない。そう信じているんでしょ?」

レイは、答えなかった。

ただ、青白い光を、見つめていた。

「……ああ」

やがて、呟いた。

「信じている。演じ続ければ、本当に——なるかもしれない。——それが、怖くもあり、望みでもある」

「……同じね」

エランナは、一歩近づいた。

「私たちは、同じよ。レイ。お前も、私も——完璧を演じる者。魔王を演じる者。監視網を演じる者。——いつか、本当に、なりたいと、望みながら、恐れている」

「……」

「だが——望むなら、なりなさい」

エランナは、レイの肩に手を置いた。

「本当の魔王になれば——この世界は、救われる。本当の監視網になれば——この世界は、守られる。——それが、私たちの、選んだ道だ」

レイは、目を閉じた。

肩の手の温かさが、微かに感じられる。

「……感謝する」

「感謝は、いらないわ」

エランナは、手を離した。

「ただ——お前が、本当の魔王になった時——私は、本当の監視網になる。そして——」

「そして?」

「——お前の檻を、壊す」

エランナは、部屋を出た。

青白い光が、一人のレイを照らす。

「……壊すか」

レイは、呟いた。

「いつか、壊される檻。——だが、今は、完璧を、追求する。壊されるまで、完璧を、追求する」

ペンが、再び紙を走る。

「——魔素濃度、全基準内。暴走予兆、ゼロ。——完璧だ」

完璧な数字が、闇の中で、光を放つ。

しかし——

その光の中に、微かな亀裂が、既に生じていたことに、誰も、まだ気づいていなかった。

【第七章 魔素の統制 了】


■第八章 エランナの涙

『広域魔素統制網』完成から半年後、エランナ・フィムスは初めて「異常値」を記録した。

深夜の魔素統制室。青白いモニター光が、オペレーターたちの顔を照らす。規則正しい報告声の中で、彼女は三六五号オベリスクのデータに目を止めた。

「——東第七区画、魔素濃度、基準値の百十二パーセント」

「基準値超過は、日常茶飯事よ」

副官が、無関心に言った。

「夏の気温上昇による、一時的な変動。七十二時間以内に、自動調整される」

「違う」

エランナは、杖でモニターを叩いた。

「変動パターンが、自然変動と、三パーセントのずれがある。——これは、人為的だ」

「人為的?」

「誰かが、オベリスクに、干渉している」

エランナは、立ち上がった。

「現地調査に、行く。——単独で」

「師団長、護衛を——」

「いらない」

彼女は、既に扉に手をかけていた。

「私が作った装置に、私が詳しい。——他の者を連れても、足手まといになるだけよ」

東第七区画は、かつての旧貴族の魔術研究施設だった。

暗黒時代には、領主が民を実験台にし、非道な人体実験を行った場所。今は、民の居住区に変わっているが、地下には、当時の施設が、一部残っている。

エランナは、オベリスクの基底部に降りた。

そこにあったのは——

「——誰?」

若い男だった。二十歳前後。痩せた体に、古びた魔術師のローブを着ている。手には、自作の魔力干渉装置を持ち、オベリスクの制御回路に、無理やり接続していた。

「……『黒鉄の執行秩序』の、魔導回廊師団長」

男は、驚きもせず、振り返った。

「エランナ・フィムス。——この監視網の、生みの親」

「知っているのね。——ならば、答えなさい。何を、しているの?」

「見ての通りよ」

男は、干渉装置を掲げた。

「この監視網を、ハッキングしている。あなたの作った、完璧な檻を——壊している」

「……なぜ?」

「なぜ、って?」

男は、奇妙な笑みを浮かべた。

「あなたが、作ったものを、壊すのが、私の仕事だからよ」

「仕事?」

「『自由のリベルタス』——聞いたこと、あるでしょ?」

エランナの表情が、微かに硬くなった。

「……ロラン・ヴェスティアの、組織」

「正解。——私は、ロラン様の、弟子よ」

男は、一歩前に出た。

「あなたの監視網は、完璧ね。民の全行動を、把握する。全魔法行使を、記録する。全異論を、摘む。——それが、『救済』だと、言うの?」

「救済じゃないわ」

エランナは、冷たく答えた。

「生存だ。——飢えず、病まず、魔素の暴走で死なない。それが、この監視網の、目的よ」

「生存?」

男は、笑った。

「生きている死体置場ね。呼吸はする。心臓は動く。——だが、何も感じない。何も考えない。何も、望まない。それが、あなたの言う『生存』?」

「……」

「私は、望むわ」

男の目が、狂気のように輝いた。

「自由に、魔法を使うことを。自由に、空を飛ぶことを。自由に、人を愛することを。——あなたの監視網は、それを、全部、奪う」

「自由に、魔法を使えば——人が、死ぬ」

「分かっているわ」

男は、認めた。

「分かっている。——だが、それでも、使いたい。危険を冒してでも、使いたい。それが、人間だから」

「人間じゃないわ」

エランナは、杖を構えた。

「それは、『人間らしさ』の、模倣よ。本当の人間なら——生き延びることを、選ぶ」

「生き延びて、何になる?」

男は、干渉装置を作動させた。

「生き延びて、数字になる? 番号になる? 監視データの、一つになる?——それなら、死んだ方が、マシよ」

「——《魔素鎮静》!」

エランナが、術式を発動した。

青白い光が、男を包む。男の動きが、一瞬止まる。——しかし、干渉装置が、光を吸収し、逆に膨張した。

「——無駄よ。あなたの術式は、私が、解析済み」

男は、笑った。

「この半年、監視網のデータを、こっそり集めて、解析して、弱点を、見つけた。——あなたの作った、完璧な檻の、弱点をね」

「……」

「弱点は、『制御者自身』よ」

男は、オベリスクに触れた。

「監視網は、あなたの魔力で、動いている。あなたの術式で、制御されている。——ならば、あなたの魔力パターンを、模倣できれば、監視網を、騙せる」

「……模倣、できないわ」

エランナは、静かに言った。

「私の魔力パターンは、複雑すぎて、模倣できない。——お前のような、素人には、不可能よ」

「素人、ね」

男は、懐から、小さな水晶を取り出した。

「これ、知っている?」

「……記憶水晶?」

「正解。——あなたの、魔力パターンの記録よ」

エランナの表情が、変わった。

「——どこで、手に入れたの?」

「どこで、って?」

男は、歪んだ笑みを浮かべた。

「あなたの、『部下』からよ。監視網の、オペレーターの、一人から。——あなたに、虐げられ、追い詰められ、数字の奴隷にされた、可哀想な部下から」

「……嘘よ」

「嘘じゃないわ」

男は、水晶を掲げた。

「あなたは、完璧を、追求しすぎた。部下に、完璧を、求めすぎた。ミスを、許さなかった。遅刻を、許さなかった。私情を、許さなかった。——そして、部下は、壊れた」

「……」

「壊れた部下は、私に、助けを求めた。そして、報酬として——この水晶を、くれた。あなたの、魔力パターンの記録を」

エランナは、杖を握りしめた。

手が、震えている。

「……お前は、何を、望んでいるの?」

「簡単よ」

男は、干渉装置を作動させた。

「この監視網を、七十二時間、停止させる。——その間、『自由の風』は、全都市に、同時にテロを、仕掛ける。監視網が、停止すれば、誰も、止められない」

「テロ、で——人が、死ぬわよ」

「知っているわ」

男は、認めた。

「知っている。——だが、それでも、やる。自由のためなら、犠牲は、仕方がない」

「……」

「選べ、エランナ・フィムス」

男は、最後に言った。

「監視網を、停止するか。それとも——ここで、私を、殺すか。——どちらを、選ぶ?」

エランナは、選択を、迷わなかった。

「——《魔素暴走・誘発》」

杖が、青白く発光する。

オベリスクの魔素が、一瞬、乱流化する。干渉装置が、過剰な魔力に、耐えきれず、爆発する。

「——がっ!」

男が、吹き飛ばされる。

エランナは、即座に、男の元へ駆け寄った。杖の先端を、男の喉に突きつけた。

「——監視網を、停止する?」

冷たく、告げた。

「馬鹿なことを、言わないで。監視網を停止すれば、何千人が、魔素の暴走で、死ぬか、知っているの?」

「……知っているわ」

男は、血を吐きながら、笑った。

「知っている。——だが、それでも、自由は、欲しい」

「自由が、何になるの?」

「何にでも、なるわ」

男は、目を見開いた。

「自由は、何にでも、なる。希望にも、絶望にも、愛にも、憎しみにも。——だから、自由は、美しいのよ」

「……美しくないわ」

エランナは、杖を、強く押し込んだ。

「自由は、醜い。無秩序で、無責任で、無意味で。——管理された世界の方が、美しい。完璧な方が、美しい」

「——あなたは、壊れているわ」

男が、最後に呟いた。

「完璧を、追求しすぎて——自分自身が、壊れている。——気づいているの、エランナ・フィムス?」

「……黙れ」

「気づいているはずよ。——あなたの中に、亀裂があることを。完璧な監視網の、制御者自身に、亀裂があることを」

「黙れと、言ったわよ!」

杖が、閃いた。

男の体が、青白い光に包まれ、灰燼と化した。

風に、灰が、散っていく。

エランナは、一人、オベリスクの基底部に立っていた。

「——部下の裏切り、確認」

エランナは、中央執行塔の会議室で、冷たく報告した。

「オペレーター第七席、カリン・モス。私の魔力パターンを、記憶水晶に記録し、『自由の風』に、提供した。——既に、処分済み」

「処分、とは?」

テルトイアが、眉を顰めた。

「殺した、ということよ」

エランナは、無表情に答えた。

「監視網の、機密情報を、漏洩した者。——生かしておく理由は、ないわ」

会議室に、重い沈黙が落ちた。

グランは、大剣の柄を握りしめ、何かを言いかけて、やめた。

テルトイアは、ペンを置き、数字を見つめた。

レイは——

「——なぜ、部下は、裏切った?」

静かに、問うた。

「なぜ、って?」

「なぜ、部下は、お前に、不満を持った? お前に、助けを求めず、敵に、手を貸した?」

「……私が、完璧を、求めすぎたからよ」

エランナは、認めた。

「ミスを、許さなかった。遅刻を、許さなかった。私情を、許さなかった。——部下は、壊れた。壊れた者は、敵に、流れた」

「……」

「だが——」

エランナは、一歩前に出た。

「それが、正しいのよ。監視網は、完璧でなければ、機能しない。完璧を、求めなければ、人が、死ぬ。——部下が壊れようと、敵に流れようと、私は、完璧を、追求する」

「完璧を、追求しすぎれば——」

レイは、言葉を選んだ。

「お前自身が、壊れる」

「壊れても、構わないわ」

エランナは、即座に答えた。

「私が壊れても、監視網は、残る。システムは、残る。——それで、十分」

「……」

「お前は、何か、言いたそうね」

レイは、長い間、エランナを見つめていた。

そして——

「——お前は、去るか」

「去る?」

「この『黒鉄の執行秩序』を、去るか。——お前自身が、壊れる前に」

エランナは、一瞬、目を見開いた。

そして——

「……去らないわ」

「なぜだ」

「約束したから」

エランナは、杖を構えた。

「お前が、檻を壊せと言う時——私が、壊す。それまで、私は、檻を、作り続ける。——それが、私の、責任だ」

「……」

「お前は、自分の命を、安く見る。私は、自分の心を、安く見る。——同じよ、レイ。私たちは、同じ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「分かったか?」

「分かった」

レイは、目を開いた。

「お前は、檻を、作り続ける。俺は、檻を、使い続ける。——二人で、世界を、支える」

「……ああ」

エランナは、会議室を出た。

背中には、もう、迷いがなかった。

ただ、冷たい確信だけがあった。

その夜、エランナは、一人で、魔導塔にいた。

モニターの青白い光が、彼女の顔を照らす。完璧なデータが、規則正しく流れる。完璧な監視網が、規則正しく動く。

「——完璧よ」

呟いた。

「完璧な監視網。完璧なデータ。完璧な、私」

手を、モニターに当てる。

冷たいガラスの感触。

「……壊れているの?」

独り言のように、問うた。

「私は、壊れているの? 完璧を、追求しすぎて、壊れているの?」

モニターは、答えない。

ただ、完璧なデータが、流れ続ける。

「……壊れていても、構わないわ」

エランナは、目を閉じた。

「壊れていても、完璧を、演じ続ける。演じ続ければ、いつか——本当に、完璧になる。そう信じている」

信じている。

その言葉が、塔の中で反響する。

「——ロラン・ヴェスティア」

ふと、名前を呟いた。

「あなたは、法の中で、異論を、唱えている。——私の檻の、矛盾を、指摘している。それが、あなたの、責任」

窓の外では、東第七区画の方向に、オベリスクの光が見える。

「……矛盾を、指摘してちょうだい。私の檻の、亀裂を、指摘してちょうだい。——そして、私は、その亀裂を、修復する。完璧を、追求し続ける」

光が、微かに揺れる。

完璧な監視網の、微かな揺れ。

「——完璧よ」

エランナは、再び呟いた。

「完璧な檻。完璧な監視。完璧な、私。——いつか、本当に、完璧になるわ」

目を開けると、そこには——

涙が、一粒、頬を伝っていた。

「……涙?」

驚いて、指で拭う。

「なぜ、涙が? 私は、完璧なはず。完璧な監視網なら、感情も、完璧に、制御できるはず。——なのに、なぜ、涙が?」

涙は、止まらなかった。

一滴、また一滴と、頬を伝い、モニターのガラスに落ちる。

完璧なデータの上に、不規則な水たまりができる。

「……壊れているわ」

エランナは、呟いた。

「私は、壊れている。完璧なはずの、私は——壊れている」

声が、震える。

「壊れているのに、演じ続ける。完璧を、演じ続ける。——なぜ? なぜ、演じ続けるの?」

答えは、出ない。

ただ、涙が、続く。

「——レイ」

最後に、名前を呟いた。

「お前も、同じでしょ? 壊れているのに、魔王を、演じ続ける。——なぜ? なぜ、演じ続けるの?」

窓の外で、風が吹く。

魔導オベリスクの光が、微かに揺れる。

「……同じね」

エランナは、涙を拭った。

「同じよ、レイ。お前も、私も——壊れた者の、共犯者。完璧を演じる、二人の、壊れた者」

モニターの光が、涙で濡れた顔を照らす。

「——だが、演じ続けるわ。壊れていても、演じ続ける。——それが、私たちの、選んだ道だ」

翌朝、エランナは、完璧な顔で、魔素統制室に現れた。

「——全オベリスク、正常。魔素濃度、全基準内。暴走予兆、ゼロ。——完璧よ」

誰も、彼女の涙に、気づかなかった。

誰も、彼女の亀裂に、気づかなかった。

完璧な監視網は、完璧な制御者の下で、完璧に動き続ける。

——しかし。

完璧な檻の、どこかで、微かな亀裂が、音を立てて、広がり始めていた。

誰も、まだ、気づいていなかった。

【第八章 エランナの涙 了】


■第九章 命の選別

夏の終わり、疫病が北大陸を襲った。

「——『灰熱病』の流行、確認」

テルトイアが、報告書を中央執行塔の会議室に放り投げた。羊皮紙が、テーブルの上で散らばり、数字が、不規則に並ぶ。

「発症者数、三日で三百名。致死率、六割。潜伏期間、不明。感染経路、空気と、接触の両方。——最悪のタイプだ」

「治癒術は?」

レイは、報告書を一つ拾い上げた。

「効果は、限定的」

テルトイアは、額の汗を拭った。

「灰熱病は、魔素汚染を伴う。治癒術で症状を抑えても、体内の魔素バランスが崩壊し、再発する。——完全治癒には、個別の魔素調整が必要だ」

「個別の魔素調整、とは?」

「患者一人ひとりの、魔素パターンを解析し、調整する。——エランナの監視網の技術を応用すれば、可能だが」

「時間は?」

「一人あたり、三時間」

テルトイアは、数字を指さした。

「発症者三百名。うち、治癒術で症状を抑えられるのは、百名程度。残り二百名は、個別調整が必要だ。——三時間かけて調整すれば、一人の術師が、一日八人を処理できる。二百名を処理するには、二十五日。——灰熱病の致死までの時間は、平均七日だ」

「……間に合わない」

「間に合わない」

テルトイアは、認めた。

「ならば、選別が必要だ」

「選別?」

「治療の優先順位を、決める」

テルトイアは、冷たく言った。

「治癒術で症状を抑えられる百名は、優先度低。個別調整が必要な二百名の中で、七日以内に処理できるのは、五十六名。——残り百四十四名は、治療を受けられず、死ぬ」

「……」

「誰を生かし、誰を見捨てるか。——それを、決めなければならない」

会議室に、重い沈黙が落ちた。

グランは、大剣を握りしめ、何も言わなかった。

エランナは、杖を抱え、目を閉じていた。

レイは——

「——選別基準を、作る」

静かに、告げた。

「年齢。職能。貢献度。家族構成。——全てを、数字にして、評価する。高得点者を、優先治療する。低得点者を——」

言葉が、詰まる。

「——後回しにする」

「後回し、とは?」

テルトイアが、鋭く問うた。

「治療を、遅らせる。致死率が高まる。——事実上の、見捨てだ」

「……分かっている」

レイは、目を閉じた。

「分かっている。——だが、他に方法がない。全員を治療すれば、五十六名しか救えない。選別すれば——」

「選別すれば、どうなる?」

「高得点者を、優先的に救う。低得点者は——」

「死ぬ」

「ああ」

レイは、目を開いた。

「死ぬ。——だが、システムの存続のためには、必要だ」

「システムの存続?」

「ああ」

レイは、テーブルに両手を置いた。

「高得点者とは、何者か。若年層。生産性の高い職能者。過去に高い貢献をした者。家族が多く、社会に根ざした者。——彼らを失えば、システムは、崩壊する」

「……」

「低得点者とは、何者か。高年層。生産性の低い職能者。貢献歴の少ない者。家族が少なく、社会に根ざしていない者。——彼らを失っても、システムは、存続する」

「それが、お前の『正義』か」

テルトイアが、低く呟いた。

「正義じゃない」

レイは、即座に答えた。

「計算だ。合理性だ。——正義など、最初から求めていない」

「……」

「やるか、やらないか。——選べ」

テルトイアは、長い間、震えていた。

そして——

「——やる」

「本当に?」

「本当に、だ」

テルトイアは、ペンを取り出した。

「選別基準を、起草する。——ただし、一つだけ、条件がある」

「何だ」

「選別の結果は、公開する。誰が選ばれ、誰が見捨てられたか、全員に知らせる。——隠蔽は、許さない」

「……公開すれば、混乱が生じる」

「生じるだろう」

テルトイアは、認めた。

「だが——隠蔽すれば、不信が生じる。不信は、混乱より、長く続く。——公開する。それが、俺の条件だ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

『灰熱病選別法』は、翌日に公布された。

全住民に、健康状態の申告を義務化。発症者は、隔離施設に収容。治療の優先順位は、以下の基準で決定。

一、年齢。十五歳から四十歳までを、満点。四十歳を超えるごとに、一割減点。十五歳未満は、五割減点。

二、職能。軍人・術師・医療従事者・生産管理者を、満点。一般労働者を、七割。非生産的職能を、三割。

三、貢献度。過去三年の貢献記録を、数字化。高貢献者を満点。低貢献者を、減点。

四、家族構成。扶養家族が多い者を、加算。単身者を、減算。

五、治癒可能性。治癒術で症状を抑えられる者を、優先。個別調整が必要な者は、上記基準に従い、再評価。

「——これは、人間の選別だ」

ロラン・ヴェスティアが、配給所の前で、羊皮紙を読み上げた。

彼は、戸籍登録を完了し、法の中で異論を唱えることを選んだ。今は、配給を受けながら、中央広場で、定期的に演説を行っていた。

「年齢で、人を選ぶ。職能で、人を選ぶ。貢献度で、人を選ぶ。——これは、人間の尊厳を、踏みにじる行為だ!」

民は、黙って聞いていた。

誰も、賛同しなかった。誰も、反対しなかった。——ただ、自分の番号が、どの順位になるか、計算していた。

「——私は、選別基準に、反対する!」

ロランが、叫んだ。

「全ての人は、平等に治療を受ける権利を持つ! 年齢や職能や貢献度で、差別をする権利は、誰にもない!」

「——では、全員を治療すれば、どうなるか」

誰かが、呟いた。

「治療師が、足りない。薬が、足りない。——全員を治療すれば、誰も、治らない」

「……」

「選別は、残酷だ。だが——選別しなければ、より多くの人が、死ぬ。——それが、現実だ」

ロランは、答えなかった。

ただ、羊皮紙を握りしめ、広場を出ていった。

選別は、開始された。

隔離施設は、中央執行塔の東に、急遽建設された。簡易な小屋が、列をなし、各小屋には、番号札が下げられている。

「——一四号、治癒術適性あり。優先度、A。即座に、治療室へ」

「——二七号、個別調整必要。年齡三歳。職能、該当なし。貢献度、ゼロ。家族構成、単身。——優先度、E。後回し」

「——三五号、個別調整必要。年齡六十七歳。職能、引退。貢献度、中。家族構成、単身。——優先度、D。後回し」

「——四二号、治癒術適性あり。優先度、A。即座に、治療室へ」

選別の声が、規則正しく響く。

テルトイアは、治療室の前で、数字を追っていた。

「——A優先度、百名。治癒術で、症状抑制。回復予測、五日以内」

「——B優先度、四十名。個別調整、可能。回復予測、七日以内」

「——C優先度、三十名。個別調整、困難。回復予測、十日以内。致死率、二割」

「——D優先度、五十名。個別調整、不可能。回復予測、不明。致死率、八割」

「——E優先度、六十名。個別調整、不可能。回復予測、なし。致死率、十割」

ペンが、紙を走る。

「——総治療可能数、百七十名。総発症者数、三百名。——見捨て予測数、一百三十名」

テルトイアは、目を閉じた。

「……一百三十名か」

独り言のように、呟いた。

「一百三十名を、見捨てる。——それが、俺の、選別か」

「——テルトイア師団長」

看護師が、駆け寄ってきた。

「E優先度の患者の中に、意識のある者がいます。——最期の言葉を、聞き取れますが」

「……行く」

テルトイアは、隔離小屋に向かった。

小屋の中は、熱気と、腐敗の臭いに満ちていた。

患者は、老女だった。年齢は、おそらく七十歳近い。皮膚は灰色に変色し、呼吸は浅く、目は、もう焦点を合わせていない。

「……誰か、いるのか」

老女が、かすれた声で、問うた。

「——『黒鉄の執行秩序』、治癒兵站師団長、テルトイア・ファレンストロイ」

「……師団長、様」

老女は、微かに笑った。

「偉い方が、来てくれたのね。——私のような、使い古らされた婆さんの、最期に」

「……何か、望みはあるか」

「望み?」

老女は、空を見上げた。

小屋の天井には、穴が開いている。そこから、夏の空が、小さく見える。

「……孫が、いたの」

「孫?」

「ええ。戦乱で、息子は死んだ。嫁は、疫病で死んだ。——残ったのは、孫だけ。三歳の、女の子」

老女の目に、微かな光が戻る。

「孫は、今、どこにいるのかしら。——隔離された時、別の小屋に、連れて行かれた。——優先度、Eだったわ。私と、同じ」

「……」

「孫は、治るのかしら」

テルトイアは、答えられなかった。

三歳。職能なし。貢献度ゼロ。単身。——E優先度。後回し。致死率、十割。

「……治る」

嘘を、ついた。

「孫は、治る。——お前の孫は、A優先度に、変更された。今、治療室で、治癒術を、受けている」

「……本当に?」

「本当だ」

老女は、満足そうに、目を閉じた。

「……ありがとう。——それなら、私は、安心して、死ねるわ」

呼吸が、浅くなる。

「……師団長様。——一つだけ、お願い」

「何だ」

「孫に、伝えてちょうだい。——お婆ちゃんは、空を見上げて、死んだと。——きれいな、夏の空を、見上げて、死んだと」

「……分かった」

「感謝するわ。——『黒鉄の執行秩序』に、感謝するわ」

最後の呼吸が、止まった。

テルトイアは、長い間、老女の顔を見つめていた。

そして——

「……嘘を、ついた」

呟いた。

「孫は、治っていない。A優先度に、変更されていない。——E優先度のまま、後回しにされている。——そして、死ぬ」

手が、震えている。

「……なぜ、嘘を、ついた」

自分に、問うた。

「なぜ、最期の人に、嘘を、ついた。——選別基準は、公開された。公平なはずだ。正確なはずだ。——なのに、なぜ、嘘を、ついた」

答えは、出ない。

ただ、老女の顔が、安らかに見えたことだけが、頭に残る。

「……テルトイア」

声が、背後からかかった。

振り返ると、レイが立っていた。

「……見ていたのか」

「ああ」

「なぜ、止めなかった」

「止める理由が、なかった」

レイは、一歩前に出た。

「お前の嘘は、老女の最期を、安らかにした。——それが、正しいかどうかは、分からない。だが——」

「だが?」

「——お前が、人間であることの、証だ」

レイは、老女の顔を見た。

「選別基準は、冷酷だ。数字は、冷たい。——だが、数字の裏に、人がいる。人間が、いる。それを、忘れないこと。——それが、お前の、人間性だ」

「……人間性」

「ああ」

レイは、静かに言った。

「お前が、人間性を、失えば——俺は、お前を、去る。それが、約束だ。——だが、お前が、人間性を、保つなら——俺は、お前を、必要とする」

テルトイアは、目を閉じた。

「……去りたい」

「なぜだ」

「嘘を、ついた。選別基準を、曲げた。——公平性を、損なった。正確性を、損なった。——そんな者を、必要とするか」

「必要とする」

レイは、即座に答えた。

「公平性と正確性は、システムが保つ。人間性は、人間が保つ。——お前は、システムではない。人間だ。——人間として、嘘をついた。それが、罪ならば——」

「罪ならば?」

「——俺も、共犯だ」

レイは、老女の手を取った。

「俺も、選別基準を、作った。数字で、人を選別した。——お前の嘘は、俺の罪の、一部だ」

「……」

「共犯として、続けろ。——システムを、数字を、選別を。——そして、時々、嘘を、つけ。人間として、嘘を、つけ」

テルトイアは、長い間、震えていた。

そして——

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

テルトイアは、老女の手を、床に置いた。

「——ただし、一つだけ、条件がある」

「何だ」

「孫を、助ける」

テルトイアは、レイの目を見た。

「老女の孫を、E優先度から、B優先度に、引き上げる。——個別調整を、受けさせる。——それが、俺の、条件だ」

「……基準を、曲げることになる」

「曲げる」

テルトイアは、認めた。

「公平性を、損なう。正確性を、損なう。——だが、老女の最期の安らぎを、守る。それが、人間性だ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

レイは、目を開いた。

「孫を、B優先度に、引き上げる。——ただし、これは、『特例』だ。公表は、しない。記録は、『治癒術適性の再評価』として、残す」

「……感謝する」

「感謝は、いらない」

レイは、小屋を出た。

「——ただ、もう、一人で、嘘を、つくな。共犯は、二人で、やるものだ」

孫は、救われた。

三歳の女の子。名前は、ミア。治癒術適性の再評価により、B優先度に引き上げられ、個別調整を受け、七日後に回復した。

「——お婆ちゃんは、空を見上げて、死んだんだよ」

テルトイアが、回復したミアに、告げた。

「きれいな、夏の空を、見上げて、死んだんだよ。——そして、ミアのことを、想って、死んだんだよ」

「……お婆ちゃん」

ミアは、小さな手を、握りしめた。

「お婆ちゃん、空、好きだったの?」

「ああ、好きだった」

「ミアも、空、好き」

ミアは、窓の外を見た。

夏の空が、青く広がっている。

「——お婆ちゃんが、見た空と、同じ空?」

「ああ、同じ空だ」

「……じゃあ、お婆ちゃん、まだ、空に、いるの?」

テルトイアは、答えられなかった。

ただ、ミアの頭を、撫でた。

「……いるよ。お婆ちゃんは、空に、いるよ。——ミアが、空を見上げる時、いつでも、そこに、いるよ」

「……うん」

ミアは、満足そうに、頷いた。

「ミア、空を見上げる。——お婆ちゃんに、会うため」

灰熱病の流行は、一ヶ月後に収束した。

発症者三百名のうち、死者は、一百二十名。予測より、十名少ない。

「——予測より、十名、少ない」

テルトイアが、報告書を読み上げた。

「原因は、治癒術の効率化と、個別調整の精度向上。——また、優先度の『特例変更』により、十名の追加治療が、可能となった」

「特例変更、か」

レイは、報告書を見つめた。

「公表は、していないな」

「していない」

テルトイアは、認めた。

「公平性を、損なう。正確性を、損なう。——だが、人間性を、保つ」

「……」

「この十名の特例変更は、記録から、削除するか?」

レイは、目を閉じた。

そして——

「——削除しない」

「なぜだ」

「記録は、残す。全てを、残す。——公平な記録も、不公平な記録も。正確な記録も、不正確な記録も。——全てを、残す」

「……」

「千年後、誰かが、この記録を読む。——『選別基準』の冷酷さを読む。『特例変更』の人間性を読む。——そして、判断する。どちらが正しかったか」

「その判断は、お前には、見られない」

「ああ」

レイは、頷いた。

「見られない。——だが、記録は、残る。数字は、残る。——それで、十分だ」

テルトイアは、長い間、レイを見つめていた。

そして——

「……俺は、去らない」

「なぜだ」

「お前が、まだ、記録を、残しているからだ」

テルトイアは、一歩前に出た。

「公平な記録も、不公平な記録も。正確な記録も、不正確な記録も。——全てを、残す。それが、お前の、人間性だ」

「……」

「その人間性が、死ぬまで——俺は、去らない」

レイは、目を閉じた。

窓の外では、夏の空が、青く広がっている。

老女が見た空と、同じ空が。

「……感謝する」

「感謝は、いらない」

テルトイアは、会議室を出た。

「——ただ、次の疫病が来た時は、もう、嘘を、つかない。——共犯は、疲れる」

夜深く。

レイは、一人で、中央執行塔の最上階で、記録を追っていた。

「——灰熱病、発症者三百名。死者、一百二十名。治癒者、一百八十名。——選別基準による優先治療、一百七十名。特例変更による追加治療、十名」

ペンが、紙を走る。

「——特例変更、十名の内訳。老女の孫、ミア。三歳。B優先度に引き上げ。回復。——その他、九名。同様に、B優先度に引き上げ。回復」

数字は、冷たかった。

「——老女、E優先度。治療未受け。死亡。最期の言葉、『孫は、治るのかしら』。——テルトイア・ファレンストロイ、師団長が、『治る』と、回答。——実際は、E優先度のまま。——テルトイア、師団長が、特例変更を、申請。——承認」

記録は、正確だった。

「——テルトイア・ファレンストロイ、師団長。嘘を、ついた。選別基準を、曲げた。——記録する」

窓の外では、星が、一つ、覗いている。

煤の色の雲の隙間から、微かに、青白い光を放つ。

「……ミア」

レイは、呟いた。

「老女の孫。三歳。空が、好き。——お婆ちゃんが、空を見上げて、死んだと、信じている」

手を、窓に当てる。

冷たいガラスの感触。

「……千年後、ミアは、どうなっているだろう」

独り言のように、問うた。

「生きているだろうか。死んでいるだろうか。——空を、見上げているだろうか」

星が、雲に隠れる。

闇が、再び、世界を包む。

「……分からない」

レイは、呟いた。

「千年後のことは、分からない。——だが、記録は、残る。ミアのお婆ちゃんの記録が。テルトイアの嘘が。俺の承認が。——全てが、残る」

ペンが、再び紙を走る。

「——灰熱病、収束。——次の疫病までの予測期間、三年。——対策を、準備する」

数字が、闇の中で、光を放つ。

しかし——

その光の中に、微かな温かさが、混じっていることに、レイは、まだ気づいていなかった。

【第九章 命の選別 了】


■第十章 大粛清

秋の終わり、反乱の兆候が北大陸の東方に現れた。

「——東第十五区画、連続テロ、確認」

エランナが、魔素統制室から報告を上げた。青白いモニターの光が、彼女の顔を照らす。目は充血し、頬は痩せ落ちている。三ヶ月前の灰熱病流行以来、睡眠は一日一時間に削られている。

「『自由のリベルタス』の、大規模な攻勢。魔素安定化装置、三基を破壊。配給所、五ヶ所を襲撃。戸籍登録所、二ヶ所を焼却。——死者、四十七名。負傷者、百二十名」

「……目的は?」

レイは、魔素統制室に入ってきた。披風に泥がついている。東方の視察から、戻ったばかりだ。

「監視網の、麻痺」

エランナは、モニターを指さした。

「三基の装置を破壊されたことで、東第十五区画の監視が、七十二時間、空白になる。——その間、『自由の風』は、大規模な集会を開き、反乱の意思を、固めた」

「集会の内容は?」

「録音済み」

エランナが、水晶を差し出した。

「——『レイ・アルマートは、魔王だ。戸籍は、檻だ。魔素統制網は、鎖だ。——俺たちは、自由を取り戻す。血を、流す。命を、賭す。——自由のためなら、何を犠牲にしても、構わない』」

「……ロラン・ヴェスティアの、声だ」

レイは、水晶を握りしめた。

「あいつは、法の中で、異論を唱えることを、選んだはずだ。——なぜ、テロに、転じた」

「転じたのではないわ」

エランナは、冷たく言った。

「最初から、二つの顔を、持っていたのよ。法の中での異論は、表の顔。テロは、裏の顔。——表の顔で、信用を集め。裏の顔で、檻を、壊す。——それが、ロランの、戦略だ」

「……」

「今回のテロは、計画的よ。三基の装置を、同時に破壊するためには、内部者の協力が、必要だ。——つまり、『黒鉄の執行秩序』の内部に、『自由の風』の、協力者が、いる」

「内部者、か」

レイは、目を閉じた。

「誰だ、協力者は」

「調査中」

エランナは、データを呼び出した。

「三基の装置に、アクセス権を持つ者、合計十二名。うち、灰熱病流行期に、東第十五区画に配属された者、四名。——その四名の中で、家族に『自由の風』の関係者がいる者、二名」

「二名、か」

「ああ。——ただし、まだ、証拠は、不十分よ」

「証拠が、なくても——」

レイは、目を開いた。

「——疑わしきは、罰する。それが、規律だ」

「……」

「二名を、拘束する。審問する。——有罪なら、斬る。無罪なら、释放する。——ただし、释放後も、監視下に、置く」

「それは、恣意的よ」

エランナが、眉を顰めた。

「証拠が、不十分なのに、拘束する。——それは、『自由の風』の、テロと、同じじゃないの」

「違う」

レイは、冷たく答えた。

「テロは、民を、殺す。拘束は、疑わしきを、保護する。——保護の間に、真実を、明らかにする。——それが、違いだ」

「……保護、ね」

エランナは、奇妙な笑みを浮かべた。

「あなたは、いつも、言葉を、綺麗に、飾るわ。殺すことを、救済と言う。拘束を、保護と言う。——それが、魔王の、語彙ね」

「……」

「分かったわ。二名を、拘束する。——ただし、審問は、私が、直接、行う。拷問は、禁止よ。——それが、条件だ」

「承知した」

審問は、三日間続いた。

「——私は、無罪だ」

最初に拘束されたのは、若い技術者だった。二十四歳。魔導オベリスクのメンテナンスを担当する。家族は、両親と、妹。妹は、『自由の風』の支持者と、交友がある。

「妹の交友関係は、知っていたか」

エランナが、審問室で問うた。

「……知っていた」

「なぜ、報告しなかった」

「報告すれば、妹が、疑われる。——監視下に、置かれる。——それが、嫌で」

「嫌で、報告しなかった」

エランナは、ペンを置いた。

「その結果、三基の装置が破壊され、四十七名が死んだ。——その責任は、誰が、負うの」

「……私が、負う」

「どうやって、負うの」

「どうやって、って——」

「命で、負うのか。それとも、自由で、負うのか」

技術者は、答えられなかった。

「——選べ」

エランナは、冷たく告げた。

「『黒鉄の執行秩序』に、忠誠を誓い、妹の交友関係を、全て、報告する。——それとも、『自由の風』に、加わり、檻を、壊すか」

「……」

「選べ」

技術者は、長い間、震えていた。

そして——

「——忠誠を、誓います」

「本当に?」

「本当に、です」

「妹の交友関係を、報告するか」

「……報告します」

「拷問は、していないわ」

エランナは、立ち上がった。

「自ら、選んだのよ。——それを、覚えておいて」

二名目は、中年の管理官だった。

四十五歳。配給所の管理を担当する。家族は、妻と、二人の子供。妻は、『自由の風』の集会に、一度、参加したことがある。

「——妻の集会参加は、知っていたか」

「知っていた」

管理官は、冷静に答えた。

「なぜ、報告しなかった」

「報告すれば、妻が、処分される。——配給を、削減される。——子供が、餓える」

「その結果、五ヶ所の配給所が襲撃され、食料が奪われ、二十名が死んだ。——その責任は、誰が、負うの」

「……私が、負う」

「どうやって、負うの」

管理官は、微かに笑った。

「——死んで、負います」

エランナの表情が、微かに変わった。

「死ぬ、とは」

「妻を、守るためなら、死んで構わない。子供を、守るためなら、死んで構わない。——それが、私の、責任だ」

「……」

「殺してください。——ただし、妻と子供は、どうか、見捨てないでください。配給を、与えてください。生きる権利を、与えてください。——それが、私の、最期の願いです」

エランナは、長い間、管理官を見つめていた。

そして——

「……選別基準に、従うわ」

冷たく、告げた。

「管理官の職能は、重要。貢献度は、高い。家族構成は、複数の扶養家族あり。——優先度、B。処分は、保留。——妻は、監視下に置く。子供は、保護施設に、収容する」

「……本当に、ですか」

「本当よ」

エランナは、審問室を出た。

「——ただし、管理官。お前は、もう、信用できない。——東第十五区画から、転属させる。西辺境の、配給所に、配属する。——それが、条件だ」

「……感謝します」

「感謝は、いらないわ」

エランナは、振り返らなかった。

「——ただ、もう、二度と、隠さないこと。——隠せば、次は、本当に、死ぬわよ」

審問の結果、内部者の協力は、確認されなかった。

「——二名は、『自由の風』のテロに、直接関与していない」

エランナが、報告した。

「技術者は、妹の交友関係を隠蔽した。管理官は、妻の集会参加を隠蔽した。——だが、装置破壊や配給所襲撃に、関与した証拠は、ない」

「……」

「処分は、どうする?」

レイは、目を閉じた。

「——技術者は、忠誠を誓った。管理官は、転属させた。——二人とも、生かす」

「生かす?」

「ああ」

レイは、目を開いた。

「疑わしきを、罰する。——だが、罰は、死だけではない。監視も、転属も、配給削減も、罰だ。——死なせず、罰する。それが、『黒鉄の執行秩序』の、規律だ」

「……」

「問題は、ロラン・ヴェスティアだ」

レイは、地図を指さした。

「『自由の風』の、指導者。法の中での異論を、捨てた。テロに、転じた。——彼を、放置すれば、次は、更大規模のテロが、来る」

「どうする?」

「捕らえる」

レイは、冷たく言った。

「ロラン・ヴェスティアを、捕らえる。——生きて、捕らえる。そして、審問する。公開の場で、審問する」

「公開審問?」

「ああ」

レイは、エランナを見た。

「ロランは、民の支持を、持っている。暗殺すれば、殉教者になる。——ならば、公開審問だ。彼の主張を、民に、示す。そして——」

「そして?」

「——彼の主張の、矛盾を、示す」

ロラン・ヴェスティアの逮捕は、三日后に行われた。

東第十五区画の、地下集会場。彼は、支持者二十名と共に、新たなテロ計画を練っていた。

「——ロラン・ヴェスティア」

グランの剛剣師団が、集会場を包囲した。

「『自由の風』の指導者。テロの首謀者。——投降を、求める」

「……投降?」

ロランは、笑った。

「貴殿らに、投降する? 檻に、入る? 番号を、受け取る?——馬鹿なことを、言うな」

「投降しないなら——」

「——殺すか?」

ロランは、一歩前に出た。

「殺せば、殉教者になる。民は、私を、悼む。『自由の風』は、強大になる。——それが、貴殿らの、望むところか」

「……」

「殺さないなら——何を、する?」

レイが、包囲網の後ろから、歩いてきた。

「ロラン・ヴェスティア。——お前を、殺さない」

「……何?」

「殺さない。——生かす。公開の場で、審問する。お前の主張を、民に、示す。お前の主張の、矛盾を、民に、示す。——そして、民が、判断する」

「判断?」

「ああ」

レイは、ロランの目を見た。

「お前が、正しいか。俺が、正しいか。——民が、判断する。それが、『黒鉄の執行秩序』の、規律だ」

「……」

ロランは、長い間、レイを見つめていた。

そして——

「——分かった」

両手を、挙げた。

「捕らえろ。——ただし、約束だ。公開審問を、行うこと。民の前で、私の主張を、述べさせること」

「約束する」

レイは、頷いた。

「——グラン。縛れ」

「承知した」

グランが、ロランに手錠をかけた。

その時、ロランが、グランの耳元に、低く呟いた。

「——お前は、あいつを、信じているのか」

「……何?」

「レイ・アルマートを。——本当に、正しいことを、していると、信じているのか」

グランは、手錠を締める手を、止めた。

一瞬だけ、止めた。

「……信じている」

「本当に?」

「本当に、だ」

グランは、手錠を締めた。

「——だが、間違っていれば、斬る。それが、約束だ」

「……ふふ」

ロランは、奇妙な笑みを浮かべた。

「面白い男だ。——あいつに、似ている」

公開審問は、中央広場で行われた。

民は、広場の周囲に集まった。一万人を超える群衆。誰もが、ロランの運命を、見守っていた。

「——ロラン・ヴェスティア」

レイが、審問官の席に立ち、告げた。

「『自由の風』の指導者。テロの首謀者。——四十七名の殺人。百二十名の傷害。五ヶ所の配給所襲撃。二ヶ所の戸籍登録所焼却。——これらの罪を、認めるか」

「認めない」

ロランは、被告席に立ち、叫んだ。

「それは、『罪』ではない。『抵抗』だ! 檻に対する、正義の抵抗だ!」

「檻、とは」

「戸籍だ! 魔素統制網だ! 配給制度だ! ——全てが、檻だ!」

ロランは、民を見渡した。

「人は、自由に生まれた! 自由に働き、自由に愛し、自由に死ぬ権利を持つ!——それを、奪うのが、『黒鉄の執行秩序』だ!」

民の間に、ざわめきが起きた。

「——四十七名が死んだ」

レイは、静かに言った。

「お前の『抵抗』で、四十七名が死んだ。——彼らは、自由を、望んでいたか」

「望んでいた!」

ロランが、叫んだ。

「彼らは、自由のためなら、死を、選んだ!」

「本当に?」

レイは、一歩前に出た。

「四十七名の内訳を、読み上げる」

羊皮紙を開いた。

「——配給所職員、十二名。年齢、平均三十四歳。家族あり。——彼らは、配給を守るために、殺された。自由を、望んでいたか」

「……」

「——戸籍登録所職員、八名。年齢、平均二十八歳。家族あり。——彼らは、記録を守るために、殺された。自由を、望んでいたか」

「……」

「——一般市民、二十七名。年齢、平均四十五歳。家族あり。——彼らは、買い物に来ていた。配給を受けに来ていた。子供を迎えに来ていた。——自由を、望んでいたか」

ロランは、答えられなかった。

「——彼らは、自由を望んでいなかった」

レイは、告げた。

「彼らは、生きを望んでいた。毎日を、穏やかに、過ごしたかった。子供を、育てたかった。——それを、奪ったのが、お前の『抵抗』だ」

「……違う!」

ロランが、叫んだ。

「彼らは、檻の中で、生きていた! 生きている死体だった!——死んで、自由になる方が、マシだ!」

「死んで、自由になる?」

レイは、冷たく反問した。

「死んだ者に、自由はあるか」

「……」

「死んだ者に、意志はあるか。希望はあるか。愛はあるか。——ない。死んだ者には、何もない。自由も、檻も、ない。——ただ、無だ」

「……」

「お前は、『自由』を、死者に、売った」

レイは、ロランの目を見た。

「生者には、檻を与えた。死者には、自由を与えた。——それが、お前の、正義か」

ロランは、震えていた。

「……では、お前は、何を与える」

「生者に、生を与える」

レイは、静かに答えた。

「檻の中で、生きる。管理されて、生きる。数字として、生きる。——だが、生きる。死なない。明日を、望める。——それが、俺の、正義だ」

「……」

「選べ、民よ」

レイは、群衆を見渡した。

「ロランの正義か。俺の正義か。——どちらを、選ぶか」

民は、黙っていた。

誰も、口を開かなかった。

「——私は、レイ・アルマートの、正義を、選ぶ」

誰かが、呟いた。

「……私も、選ぶ」

「私も」

「私も」

声が、重なった。

「生きたい。——ただ、生きたい」

「自由は、いらない。——生きる方が、マシだ」

「子供を、育てたい。——檻の中でも、いい」

ロランの顔が、青ざめた。

「……待て。待ってくれ。——私の主張を、聞いてくれ。自由の、大切さを——」

「——充分、聞いた」

レイは、告げた。

「ロラン・ヴェスティア。——お前の罪は、確認された。——だが、お前の主張も、記録された。千年後、誰かが、この記録を読む。——そして、判断する」

「……判断?」

「お前が正しかったか。俺が正しかったか。——その時が来るまで、生きて、待て」

レイは、手を上げた。

「——ロラン・ヴェスティア。死刑ではなく、終身監禁を、科す。——監獄は、東辺境の、隔離施設。——そこで、お前の主張を、書き記せ。全てを、記録せ。——それが、お前の、罰だ」

「……罰?」

「ああ」

レイは、振り返った。

「お前の主張を、後世に、残す。——それが、お前にできる、最大の抵抗だ。——受け入れるか」

ロランは、長い間、震えていた。

そして——

「……受け入れる」

「分かった」

ロランは、護送されていった。

群衆は、黙って見送った。誰も、歓声を上げなかった。誰も、悲鳴を上げなかった。

ただ、一人の少女が、手を振っていた。

三歳の、ミア。

「——ロランおじちゃん、ばいばい」

小さな声が、広場に響く。

「——空、見上げてね。お婆ちゃんが、いるから」

ロランは、振り返った。

少女の顔を、見た。

そして——

「……ああ」

微かに、頷いた。

「見上げるよ。——空を、見上げるよ」

その夜、グランは、一人で、訓練場にいた。

大剣を振るう。振るう。振るう。——汗が、飛沫を上げる。呼吸が、荒くなる。それでも、振るい続ける。

「——グラン」

レイが、訓練場に入ってきた。

「……何だ」

「ロランが、お前に、何か言ったな」

グランの手が、止まった。

「……聞いていたのか」

「聞いていた」

「なぜ、止めなかった」

「止める理由が、なかった」

レイは、グランの隣に立った。

「ロランは、お前に、何と言った」

「……『本当に、信じているのか』と」

グランは、大剣を地面に突き立てた。

「『レイ・アルマートを。本当に、正しいことを、していると、信じているのか』と」

「……」

「お前は、どう答えた?」

「信じていると、答えた」

「本当に?」

「本当に、だ」

グランは、レイを見た。

「——だが、間違っていれば、斬る。それが、約束だ」

「ああ」

レイは、微かに笑った。

「約束だ。——忘れないでくれ」

「……忘れない」

二人は、並んで、空を見上げた。

秋の空は、高く澄んでいた。星が、一つ、また一つと、覗いている。

「——ロランは、空を、見上げているだろうか」

グランが、呟いた。

「監獄の中で、空を、見上げているだろうか」

「見上げている」

レイは、即座に答えた。

「東辺境の隔離施設には、窓がある。小さな窓だが、空が、見える。——俺が、設計した」

「……お前が?」

「ああ」

レイは、目を閉じた。

「ロランには、空を見上げる権利を、与えた。——主張を記録する権利を、与えた。千年後の誰かに、届ける権利を、与えた。——それが、俺の、慈悲だ」

「……冷酷な慈悲だ」

「ああ」

レイは、認めた。

「冷酷な慈悲だ。——だが、これしかない」

二人は、長い間、星を見つめていた。

そして——

「——次のテロが、来る」

グランが、言った。

「ロランを捕らえても、『自由の風』は、消えない。次の指導者が、現れる。次のテロが、来る」

「知っている」

「どうする?」

「檻を、強化する」

レイは、冷たく言った。

「監視網を、強化する。戸籍を、精密にする。配給を、徹底する。——反乱の芽が、生じた瞬間、摘む。——それが、『黒鉄の執行秩序』の、規律だ」

「……」

「お前は、まだ、信じているか」

「信じている」

グランは、大剣を握りしめた。

「——だが、檻が、強化されれば、強化されるほど、お前は、孤独になる。——それを、覚えておけ」

「……孤独か」

レイは、呟いた。

「ああ、孤独だ。——だが、孤独は、魔王の、宿命だ」

星が、雲に隠れる。

闇が、再び、世界を包む。

「——行こう、グラン」

レイは、訓練場を出た。

「次のテロに、備える。——檻を、強化する」

「……ああ」

グランは、大剣を肩に担ぎ、後に続いた。

二人の足音が、闇の中に、消えていく。

しかし——

その足音の間に、微かな亀裂の音が、混じっていたことに、誰も、まだ気づいていなかった。

【第十章 大粛清 了】


■第十一章 最後の別れ

冬の訪れは、北大陸にとって試練の季節だった。

雪は、街道を閉ざし、補給線を寸断し、隔離された集落に飢饉をもたらす。魔素は、低温で安定化し、魔術師の力を減じ、魔導オベリスクの効率を落とす。そして、何より——人の心を、閉ざす。

「——東第二十三区画、反乱の兆候」

テルトイアが、報告書を中央執行塔の会議室に放り投げた。三ヶ月前のロラン逮捕以来、彼の頬はさらに痩せ落ち、目の下の影は、いくら睡眠を取っても消えない。

「『自由の風』の残党が、新たな指導者の下に、再結集した。——今回は、ロランの時代より、過激だ」

「新たな指導者は?」

レイは、報告書を一つ拾い上げた。指先が、紙の質感に、微かに震える。

「名は、不明。通称、『灰燼の牙』。——かつて、東第二十三区画の、領主の私兵だった男だ。領主を倒した時、逃亡し、『自由の風』に、加わった」

「……灰燼の牙、か」

「特徴は、徹底した破壊活動。配給所を襲うのではない。——焼き尽くす。民を殺すのではない。——虐殺する。——そして、遺体を、『黒鉄の執行秩序』の施設の前に、積み上げる」

「……」

「心理的戦だ。恐怖を、植え付ける。秩序に対する、不信を、植え付ける。——そして、民を、反乱に、駆り立てる」

レイは、目を閉じた。

「——対応は?」

「徹底的な、鎮圧」

テルトイアは、冷たく言った。

「東第二十三区画を、軍事管制下に、置く。全住民を、戸籍登録所に、集めて、身元を、確認する。反乱の関係者を、即座に、処分する。——関係者の家族も、同様に」

「家族も、か」

「ああ。——『灰燼の牙』は、家族を、人質に、取っている。処分を、免れようとすれば、家族が、殺される。——ならば、家族を、先に、保護する。保護の名の下に、拘束する。——反乱の温床を、根絶する」

「……」

「やるか、やらないか。——選べ」

レイは、長い間、目を閉じていた。

そして——

「——やる」

「本当に?」

「本当に、だ」

レイは、目を開いた。

「ただし、条件を、付ける」

「何だ」

「『灰燼の牙』を、生け捕りにする。——公開審問を、行う。民の前で、主張を、述べさせる。——そして、矛盾を、示す」

「……ロランと、同じ、手口か」

「同じだ」

レイは、認めた。

「有効な手口は、繰り返す。——それが、『黒鉄の執行秩序』の、規律だ」

軍事管制は、五日で完了した。

東第二十三区画の全住民、三千名が、戸籍登録所に集められた。雪の中で、長時間、待たされる。子供が泣き、老人が倒れ、誰もが、恐怖に顔を歪めている。

「——次、二〇八四号」

役人が、無機質に叫ぶ。

「二〇八四号、身元確認、完了。反乱関係、なし。——解放」

「——次、二〇八五号」

「二〇八五号、身元確認、完了。反乱関係、あり。——拘束」

「——次、二〇八六号」

「二〇八六号、身元確認、完了。反乱関係、不確定。——監視下、解放」

声が、規則正しく響く。

グランは、登録所の外で、剛剣師団を指揮していた。雪が、鎧に積もり、視界を白く染める。

「——師団長」

副官が、駆け寄ってきた。

「『灰燼の牙』の、潜伏先が、判明しました。——東第二十三区画の、廃教会。地下に、隠された、抜け穴の、先に」

「……判明したか」

グランは、大剣を握りしめた。

「総帥に、報告するか」

「報告は、後だ」

グランは、雪を払い、廃教会へ向かった。

「——俺が、先に、行く。総帥に、報告するのは、『灰燼の牙』を、捕らえてからだ」

廃教会は、暗黒時代の初期に、放棄されたものだった。

ステンドグラスは割れ、祭壇は崩れ、長椅子は腐敗している。しかし、地下への階段は、新しく手入れされ、灯りが、点いている。

グランは、一人で、階段を降りた。

「——来たか、グラン・バグット」

地下の広間で、男が待っていた。

身長は、グランより低い。体躯は、細い。しかし、目は——獣のように、鋭い。灰色の瞳が、燭火に照らされて、まるで燃える炭のように、見えた。

「……『灰燼の牙』か」

「ああ」

男は、剣を構えた。

「——元、東第二十三区画領主の、剣術教官。名前は、もう、捨てた。——今は、『灰燼の牙』だけだ」

「……なぜ、反乱を起こす」

「なぜ、って?」

男は、笑った。

「貴殿らが、領主を倒した時、俺は、喜んだ。——自由が、来たと思った。——だが、来たのは、別の領主だった。より完璧な、より冷酷な、『数字の領主』だった」

「……」

「数字の領主は、人を殺さない。——だが、人を、生かしてもいない。番号として、データとして、歯車として、生かしている。——それが、貴殿らの、『救済』か」

「救済だ」

グランは、即座に答えた。

「飢えず、病まず、殺し合わず。——それが、『黒鉄の執行秩序』の、救済だ」

「生きている死体置場、か」

「生きている、ならば、いい」

グランは、大剣を構えた。

「死んでいるよりは、マシだ。——それが、俺の、答えだ」

「……マシか」

『灰燼の牙』は、一歩前に出た。

「では、貴殿は、なぜ、剣を握る。なぜ、戦う。なぜ、殺す。——数字の領主のために、人を斬るのか」

「……」

「貴殿は、元、領主の兵だ。圧政を見て、脱走した。自由を求めて、野に落ちた。——そして、今は、数字の領主の兵だ。——貴殿の、自由は、どこに、行った」

グランの手が、微かに震えた。

「……黙れ」

「黙りはしない」

『灰燼の牙』は、剣を振るった。

一閃。グランが、かろうじて避ける。髪の毛が、一筋、切れて、落ちる。

「——貴殿は、迷っている」

『灰燼の牙』は、攻撃を続けた。

「レイ・アルマートを、信じていると、言いながら、疑っている。——檻を、強化しながら、檻の中の民を、哀れんでいる。——矛盾だ。——貴殿自身が、矛盾だ」

「……黙れ!」

グランが、大剣を振るった。

激しい衝撃音。二人の剣が、交差する。火花が、暗闇に散る。

「——貴殿は、斬るべき者を、間違えている」

『灰燼の牙』は、グランの耳元に、低く呟いた。

「斬るべきは、俺ではない。——檻を、作る者だ。数字の領主だ。——貴殿が、本当に、信じているのなら」

「……信じている」

グランは、大剣を強く押し込んだ。

「レイを、信じている。——だが、間違っていれば、斬る。それが、約束だ」

「では、斬れ」

『灰燼の牙』は、剣を放り投げた。

「今、ここで、レイ・アルマートを、斬れ。——檻を、壊せ。——それが、貴殿の、本当の信頼だ」

「……」

グランは、大剣を、『灰燼の牙』の喉に、突きつけた。

「——お前を、斬る」

冷たく、告げた。

「レイを、斬るのは、まだ、早い。——お前を、斬ってからだ」

「……馬鹿な」

『灰燼の牙』の表情が、変わった。

「貴殿は、まだ、迷っている。——迷っている者に、俺は、斬られない」

「斬る」

グランは、大剣を振るった。

一閃。

『灰燼の牙』の首が、地面に転がった。血が、地下の広間に、飛沫を上げる。

グランは、一人、死体の前に立っていた。

「……迷っているか」

独り言のように、呟いた。

「ああ、迷っている。——だが、迷いながらも、斬る。——それが、俺の、答えだ」

『灰燼の牙』の死は、反乱を沈静化させなかった。

逆に、激化させた。

「——東第二十三区画、全住民、反乱」

テルトイアが、報告した時、レイは、地図の前で眠りについていた。四日四夜、目を閉じていない。

「『灰燼の牙』の処刑を、民は、『殉教』と見た。——檻に対する、最後の抵抗だと、見た。——そして、全員が、檻を、壊そうとした」

「……全員、か」

「ああ。三千名。——老人も、子供も、女も。——全員が、戸籍登録所に、火を放ち、配給所を、襲い、魔導オベリスクに、石を投げた」

「……」

「どうする?」

レイは、目を閉じた。

そして——

「——結界で、閉じ込める」

「結界?」

「ああ」

レイは、目を開いた。

「東第二十三区画を、完全に、結界で包む。——外部からの、一切の出入りを、禁止する。配給を、停止する。——内部で、自給自足を、試みさせる」

「……それは、飢餓を、意味する」

「飢餓を、意味する」

レイは、認めた。

「結界内で、自給自足が、できなければ、飢える。飢えれば、弱る。弱れば——」

「——降伏する」

「ああ」

テルトイアは、長い間、震えていた。

そして——

「——子供も、飢えるぞ」

「飢える」

「老人も、死ぬぞ」

「死ぬ」

「……それが、お前の、正義か」

「正義じゃない」

レイは、即座に答えた。

「計算だ。合理性だ。——東第二十三区画の反乱を、放置すれば、他の区画に、広がる。他の区画に広がれば、全大陸が、混乱する。全大陸が混乱すれば、今まで築いた、全てが、崩壊する」

「……」

「三千名の飢餓と、三百万名の飢餓。——どちらを、選ぶか」

テルトイアは、目を閉じた。

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

テルトイアは、目を開いた。

「——ただし、一つだけ、条件がある」

「何だ」

「結界内に、治癒術師を、送り込む。——飢餓は、止められない。だが、病気は、防げる。——それが、俺の、条件だ」

「……」

「お前が、合理性を、選ぶなら。——俺は、人間性を、選ぶ。——飢えさせても、病ませない。——それが、 compromiseだ」

レイは、目を閉じた。

「……分かった」

「承知するか」

「承知する」

結界は、三日で完成した。

エランナが、自ら設計した。東第二十三区画の周囲に、巨大な魔力結界を張り、一切の出入りを禁止する。結界の内側では、魔素の安定化装置が停止し、魔術が使えなくなる。

「——完成よ」

エランナは、結界の制御塔で、告げた。

「七十二時間以内に、内部の魔素が、枯渇する。——魔術は、使えなくなる。魔導器具は、機能しなくなる。——ただの、物理的な檻になる」

「……」

「お前は、何か、言いたそうね」

レイは、結界の光を見つめていた。

青白い光が、区画を包む。光の中で、民の姿が、ぼんやりと見える。子供が、母親の手を握っている。老人が、地面に座っている。男が、結界を叩いている。

「——グランは、どこだ」

「グラン?」

「ああ。三日間、姿を、見せない」

エランナは、目を伏せた。

「……東第二十三区画に、入ったわ」

「何?」

「『灰燼の牙』を、斬った後、一人で、入ったわ。——『灰燼の牙』の、最期の言葉を、民に、伝えるため。——そして、今は——」

「今は?」

「——結界の、内側に、いる」

レイの表情が、変わった。

「……なぜ、出てこない」

「出られないわ」

エランナは、冷たく言った。

「結界は、完成した。——完成した結界は、内部からも、外部からも、開けられない。——それが、完璧な檻の、定義よ」

「……馬鹿め」

レイは、結界の制御塔を飛び出した。

「——開けろ! 結界を、開けろ!」

「開けられないわ」

エランナが、背後から追ってきた。

「完璧な結界は、開けられない。——開ければ、不完全になる。——不完全な檻は、機能しない」

「グランを、出せ!」

「出せないわ」

エランナは、静かに言った。

「グランは、自ら、入った。自ら、檻に、入った。——それが、彼の、選んだ道だ」

「……」

「お前は、何を、望んでいるの? グランを、救いたいの? それとも——檻を、完璧に、保ちたいの?」

レイは、答えられなかった。

ただ、結界の光を、叩き続けた。

「——グラン!」

叫んだ。

「出てこい! 生きて、出てこい!」

結界の内側で、誰かが、振り返った。

巨漢の剣士が、子供を抱え、老人を支え、民の中に立っている。

「——レイか」

グランの声が、結界を通して、微かに聞こえる。

「……来たのか」

「出てこい! 今なら、まだ——」

「出られない」

グランは、微かに笑った。

「結界は、完璧だ。——お前が、作った、完璧な檻だ。——俺は、自ら、入った。——出る権利は、ない」

「……なぜ、入った」

「『灰燼の牙』の、最期の言葉を、伝えるためだ」

グランは、子供を、隣の女に預けた。

「あいつは、こう言った。——『檻の中の民を、見ろ。彼らは、人間だ。数字じゃない。——それを、忘れるな』と」

「……」

「俺は、忘れていた。——檻を、強化しながら、檻の中の民を、見ていなかった。——数字として、見ていた。——人間として、見ていなかった」

グランは、結界に近づいた。

「——だから、入った。檻の中に、入った。——人間として、民と共に、生きるため。——人間として、民と共に、死ぬため」

「死ぬ、とは」

「結界は、飢餓を、生む。飢餓は、死を、生む。——俺は、飢える。——だが、民と共に、飢える。——それが、俺の、選んだ道だ」

レイは、結界を叩く手を、止めた。

「……出てこい」

「出られない」

「出てこいと、言っている!」

「——お前は、何を、望んでいる」

グランが、問い返した。

「俺を、救いたいのか。それとも——檻を、完璧に、保ちたいのか。——どちらを、選ぶ」

レイは、答えられなかった。

「……」

「分かっている。——お前は、両方を、望んでいる。——だが、両方は、選べない。——それが、『完璧』の、定義だ」

グランは、振り返った。

「——行け、レイ。——お前の戦いは、まだ、続く。——北大陸は、統一した。——だが、世界は、まだ、広い。——南大陸、西大陸、東大陸。——まだ、救うべき者が、いる」

「……」

「俺は、ここで、民と共に、生きる。——そして、死ぬ。——その記録を、残してくれ。——『グラン・バグットは、檻の中で、民と共に、生きた。——そして、死んだ』と」

レイは、目を閉じた。

「……記録する」

「ああ、記録してくれ」

グランは、最後に笑った。

「——そして、千年後、誰かが、その記録を読んで、判断する。——『グラン・バグットは、英雄だったか、馬鹿だったか』と。——それで、いい」

「……」

「さらばだ、レイ・アルマート」

グランは、民の中へ、戻っていった。

「——お前を、信じていた。——間違っていれば、斬る、と、言ったが——もう、斬れない。——代わりに、千年後の誰かが、斬ってくれるだろう。——それで、いい」

結界の光が、強くなる。

グランの姿が、光に溶けていく。

「——さらばだ、魔王よ」

最後の声が、風に紛れる。

レイは、結界の前に、跪いた。

「……さらばだ、グラン」

呟いた。

「——お前を、信じていた。——そして、今も、信じている。——それが、俺の、答えだ」

結界は、三ヶ月後に解除された。

東第二十三区画の民は、三分の一を失った。飢餓と、病気と、絶望で、死んだ。

生き残った者は、痩せ細り、目は空虚に開いていた。——しかし、誰も、反乱を起こさなかった。

「——戸籍登録を、完了させた」

テルトイアが、報告した。

「全員、配給を受け、規律に従う。——反乱の意思は、消えた」

「……消えたか」

レイは、東第二十三区画を見下ろしていた。

かつての廃教会が、目に入る。地下に、『灰燼の牙』を斬った広間がある。——そして、グランが、民と共に、生きた場所がある。

「グランは、どうなった」

「死んだ」

テルトイアは、冷たく答えた。

「飢餓の、二ヶ月目。——最後まで、民に、配給を、分け与えていた。——自分は、何も、食べずに」

「……」

「遺体は、民によって、埋葬された。——中央広場の、風車の下に。——『風車の村』の、老婆と、同じ場所に」

レイは、目を閉じた。

「……感謝する」

「感謝は、いらない」

テルトイアは、一歩前に出た。

「——ただ、一つだけ、聞きたい」

「何だ」

「グランを、救えたか」

レイは、目を開いた。

「……救えた」

「なぜ、救わなかった」

「救うと、檻が、壊れる」

レイは、静かに答えた。

「完璧な檻を、保つためには、完璧な規律が、必要だ。——規律を、破れば、檻は、不完全になる。——不完全な檻は、機能しない。——機能しなければ、より多くの人が、死ぬ」

「……」

「グランを、救えば、三千名の民が、救われる。——グランを、見捨てれば、三百万名の民が、救われる。——どちらを、選ぶか」

「……それが、お前の、計算か」

「ああ」

レイは、頷いた。

「冷酷な計算だ。——だが、これしかない」

テルトイアは、長い間、震えていた。

そして——

「……俺は、去らない」

「なぜだ」

「お前が、まだ、計算を、悔やんでいるからだ」

テルトイアは、東第二十三区画を見た。

「グランを、救えたと、言った。——救わなかった理由を、説明した。——だが、目は、悔やんでいる。——それが、お前の、人間性だ」

「……」

「その人間性が、死ぬまで——俺は、去らない」

レイは、目を閉じた。

風が、吹いた。

遠くで、風車が、軋む音が聞こえる。——止まったままの、風車が。

「……感謝する」

「感謝は、いらない」

テルトイアは、去っていった。

「——ただ、次は、もう、誰も、見捨てないでくれ。——それが、俺にできる、唯一の願いだ」

夜深く。

レイは、一人で、中央執行塔の最上階で、記録を追っていた。

「——東第二十三区画、結界封鎖、三ヶ月。死者、一千名。生存者、二千名。——反乱、鎮圧。秩序、回復」

ペンが、紙を走る。

「——グラン・バグット、死亡。死因、飢餓。最期の行動、民への配給分与。——遺体埋葬場所、中央広場風車下。——記録する」

数字は、冷たかった。

「——『灰燼の牙』、死亡。死因、斬首。処刑者、グラン・バグット。——最期の言葉、『檻の中の民を、見ろ。彼らは、人間だ』。——記録する」

手が、止まる。

「……人間だ」

呟いた。

「檻の中の民は、人間だ。——数字じゃない。——人間だ」

窓の外では、東第二十三区画の方向に、結界の跡が見える。

かつて青白く光っていた場所は、今は、ただの闇だ。

「……グラン」

レイは、名前を呟いた。

「お前は、最後まで、人間だった。——俺は、最後まで、数字だった。——どちらが、正しかったか」

答えは、出ない。

ただ、風車の軋む音が、闇の中で、響き続ける。

「——千年後、誰かが、この記録を読む」

レイは、再びペンを握った。

「『グラン・バグットは、檻の中で、民と共に、生きた。——そして、死んだ』と。——そして、判断する。——英雄だったか、馬鹿だったか」

ペンが、紙を走る。

「——判断は、保留する。——記録は、続ける。——『黒鉄の執行秩序』は、続ける。——千年後の世界のために」

星が、一つ、覗いた。

煤の色の雲の隙間から、微かに、青白い光を放つ。

「……続ける」

レイは、呟いた。

「誰もいなくなっても、続ける。——グランが、いなくなっても。——誰も、残らなくなっても。——続ける」

星が、雲に隠れる。

闇が、再び、世界を包む。

「——かくも残酷な栄光を望む者は、魔王と呼ばれる」

レイは、独り言のように、告げた。

「だが、誰かが、やらねばならなかった。——誰かが、やらねばならなかったのだから」

風車の軋む音が、いつまでも、耳に残っていた。

【第十一章 最後の別れ 了】


■第十二章 魔王の玉座

グランの死から一年。

北大陸は、奇妙な平穏に包まれていた。反乱の芽は、結界封鎖の記憶によって、根絶されたように見えた。民は、黙って配給を受け、番号を呼ばれ、規律に従う。誰も、異論を唱えなかった。誰も、希望を語らなかった。

生きている死体置場——かつてエランナがそう呼んだ世界が、実現していた。

「——南大陸進軍の準備、完了」

テルトイアが、報告書を中央執行塔の会議室に置いた。音が、石の床に響く。部屋は、以前より広くなっている。グランの席が、空いている。

「艦隊は、東港に集結。兵員は、五千名。——北大陸の守備は、自動人形ゴーレムの軍勢に、任せる」

「自動人形、か」

レイは、窓の外を見た。

執行塔の広場に、黒鉄の自動人形が、列をなしている。エランナが、グランの剛剣師団の代わりに開発したもの。人間の兵士とは異なり、感情がない。恐怖がない。疲労がない。ただ、命令通りに動く。

「——グランの、剛剣師団は?」

「解散した」

テルトイアは、冷たく答えた。

「グラン死後、士気が低下。反乱の芽が、内部に生じた。——危険と判断し、解散させ、人材は、他の師団に、配属した」

「……」

「問題があるか」

「ない」

レイは、振り返った。

「自動人形は、優秀だ。感情がない。恐怖がない。疲労がない。——完璧な歯車だ」

「完璧な歯車、か」

テルトイアは、ペンを置いた。

「——だが、歯車は、自ら動かない。命令を待つ。命令がなければ、停止する。——命令を出す者が、いなくなれば——」

「俺が、出す」

レイは、即座に答えた。

「千年後まで、出す。——命令を、出し続ける。——それが、俺の、責任だ」

南大陸進軍は、三ヶ月後に開始された。

艦隊は、東港を出発し、南洋を横断する。航程は、七日。間に、三度の嵐が襲い、二隻の輸送船が沈没した。兵員二百名が、海に消えた。

「——損耗、予測内」

テルトイアが、報告した。

「残りの艦隊は、予定通り、南大陸に到達。——上陸地点は、『緑の湾』。——暗黒時代以前は、貿易港だった場所だ」

「貿易港、か」

レイは、艦橋から、南大陸の海岸線を見た。

緑に覆われた、美しい土地。北大陸の煤色とは異なり、空は青く、海は透き通っている。——しかし、岸辺には、沈没船の残骸が、無数に転がっている。

「——南大陸は、北大陸とは、異なる」

テルトイアが、付け加えた。

「領主制度は、崩壊している。代わりに、『商会連合』が、実権を握っている。——商業の自由を、掲げ、武力を、傭兵に、委託する。——北大陸のような、中央集権的な支配者は、いない」

「商会連合、か」

「ああ。——『自由な商売』を、信条とする。——俺たちの『管理』とは、根本的に、相容れない」

レイは、目を閉じた。

「……戦闘は、避けられないか」

「避けられない」

テルトイアは、認めた。

「商会連合は、交渉を拒否した。——『緑の湾』に、上陸すれば、迎撃すると。——『自由な商売』の敵は、排除すると」

「……分かった」

レイは、目を開いた。

「——上陸する。迎撃する。——そして、制圧する」

『緑の湾』の戦闘は、半日で終わった。

商会連合の傭兵は、個々の武力は高かったが、統率がなかった。自動人形の軍勢は、規則正しく、無機質に、傭兵を押し潰していった。感情がないため、恐怖による動揺がない。損耗があっても、撤退しない。

「——傭兵、壊滅。商会連合の代表、降伏を、申し出ている」

「……会う」

レイは、上陸用の艇を降りた。

砂浜には、血と、死体と、折れた剣が、転がっている。海鳥が、死体の目玉を、啄んでいる。

「——レイ・アルマート殿」

降伏した代表は、中年の女だった。豪奢な衣服に、大量の宝石を身につけている。——しかし、宝石は、血で汚れている。

「貴殿の、『黒鉄の執行秩序』——聞いていました。——北大陸の、話は、届いていました」

「ならば、なぜ、抵抗した」

「抵抗したのではないわ」

女は、微かに笑った。

「——『自由な商売』を、守るためよ。——貴殿の『管理』には、商売の余地が、ない。——価格の決定も、在庫の管理も、取引の相手も、全部、国が決める。——それでは、商売にならない」

「商売にならなくても、生きられる」

レイは、冷たく答えた。

「配給を受け、規律に従えば、飢えず、病まず、殺し合わず。——それが、『黒鉄の執行秩序』の、救済だ」

「生きている死体置場、ね」

女は、奇妙な笑みを浮かべた。

「——まあ、いいわ。——負けたのだから、従いましょう。——ただし、一つだけ、条件がある」

「何だ」

「宝石を、持たせて」

女は、身につけた宝石を、指さした。

「これらは、『自由な商売』の、証よ。——価値は、国が決めない。市場が決める。——買い手と売り手が、交渉して、決める。——それが、『自由』の、形よ」

「……」

「貴殿の『管理』の中で、これらは、無価値になる。——国が決めた価格で、没収される。——ただの、石になる」

「ただの石になっても、生きられる」

「生きられないわ」

女は、目を見開いた。

「——私は、宝石商よ。宝石が、無価値なら、私は、誰でもない。——名前も、歴史も、意味を、失う。——それは、死と、同じ」

レイは、長い間、女を見つめていた。

そして——

「——宝石を、持たせる」

「本当に?」

「本当に、だ」

レイは、頷いた。

「ただし、戸籍に、『宝石商』として、登録する。職能として、認める。——宝石の取引は、国の管理下で、行う。価格は、国が決定する。——それが、条件だ」

「……国が、価格を、決める?」

「ああ」

「それでは、『自由な商売』では、ない」

「自由ではない」

レイは、認めた。

「だが——生きる。——自由な商売で、死ぬよりは、マシだ」

女は、長い間、震えていた。

そして——

「……分かったわ」

「承知するか」

「承知する」

女は、宝石を、身につけたまま、跪いた。

「——『黒鉄の執行秩序』に、忠誠を、誓います。——ただし、私の名前は、『宝石商』として、残してください。——それが、私の、最後の願い」

「……分かった」

レイは、女の名前を、戸籍簿に、記録した。

「——『宝石商』、職能、宝石商。特記事項、身につけた宝石の管理を、許可。——登録、完了」

南大陸の制圧は、一年で完了した。

商会連合は解体され、全商人は戸籍に登録され、職能として「商人」が認められた。ただし、取引は国の管理下で行われ、価格は国が決定し、在庫は国が統制する。

「——『自由な商売』は、消えた」

テルトイアが、報告した時、レイは南大陸の中央執行塔——新しく建てられた黒い石の塔——の最上階にいた。

「商人は、残った。だが、『自由』は、消えた。——全部が、数字になった。——在庫量、取引量、利益率。——全部が、国の、管理下」

「……」

「お前は、何か、言いたそうだ」

レイは、窓の外を見た。

南大陸の街は、北大陸と同じように、整然と区画されていた。居住区、商工区、行政區。各区画は、高い壁で隔てられ、通行には許可証が必要だった。

「——エランナは、どこだ」

「北大陸に、残っている」

テルトイアは、冷たく答えた。

「魔素統制網の、完全自動化を、進めている。——人間のオペレーターを、不要にする。——『完璧な監視網』を、完成させるため」

「……北大陸に、一人で、か」

「ああ。——南大陸の魔素統制網は、遥制御で、管理する。——エランナは、北大陸の中央執行塔に、籠もり、全大陸の魔素を、監視する」

レイは、目を閉じた。

「……一人で、か」

「一人で、だ」

テルトイアは、一歩前に出た。

「——お前も、一人だ。グランは、死んだ。エランナは、北大陸に、残った。——南大陸では、お前だけだ」

「……」

「孤独か」

「ああ、孤独だ」

レイは、目を開いた。

「だが——孤独は、魔王の、宿命だ」

南大陸制圧から二年後、西大陸と東大陸も、制圧された。

西大陸は、「騎士団連合」の支配下にあった。個々の武力は高かったが、統率がなく、自動人形の軍勢に、次々と押し潰された。

東大陸は、「学術都市」の集合体だった。知識は豊かだったが、武力がなく、魔素統制網の遮断によって、魔術を封じられ、降伏した。

「——全世界、制圧」

テルトイアが、地図を広げた。

四つの大陸が、黒く塗りつぶされている。中央には、巨大な中央執行塔のマーク。全大陸を、結ぶ魔素統制網の線。

「——『黒鉄の執行秩序』の支配下に、全世界が、入った」

「……」

「お前は、何を、望んでいた」

レイは、目を閉じた。

「……千年後の世界」

呟いた。

「世界から、戦争が、消える。飢餓が、消える。犯罪が、消える。——その世界を、作る。——それが、俺の、望みだ」

「望み、か」

テルトイアは、ペンを置いた。

「——だが、お前の目は、望みを、映していない。——疲労を、映している。——絶望を、映している」

「……」

「千年後の世界は、見られない。——お前は、知っている。——それでも、続けるのか」

レイは、目を開いた。

「——続ける」

「本当に?」

「本当に、だ」

レイは、立ち上がった。

「千年後の世界は、見られない。——だが、記録は、残る。数字は、残る。——誰かが、読む。——誰かが、判断する。——それで、十分だ」

「……」

「テルトイア。お前は、去るか」

「……」

「去るなら、今だ。——全世界が、制圧された。——お前の役割は、終わった」

テルトイアは、長い間、震えていた。

そして——

「——去らない」

「なぜだ」

「お前が、まだ、人間性を、失っていないからだ」

テルトイアは、レイの目を見た。

「お前の目は、疲労と絶望を、映している。——だが、まだ、望みを、映している。——千年後の世界への、望みを。——それが、お前の、人間性だ」

「……」

「その人間性が、死ぬまで——俺は、去らない」

レイは、目を閉じた。

長い——長い間、目を閉じていた。

そして——

「……感謝する」

「感謝は、いらない」

テルトイアは、会議室を出た。

「——ただ、次は、もう、大陸は、ない。——残るは、『千年後の世界』だけだ。——それを、見届けさせてくれ」

夜深く。

レイは、一人で、中央執行塔の最上階で、数字を追っていた。

「——全世界、戸籍登録者数、五百七十二万四千六百八十一名。配給受給者数、五百七十二万四千六百八十一名。魔素統制網保護下、五百七十二万四千六百八十一名」

ペンが、紙を走る。

「——自動人形軍勢、十万基。魔導オベリスク、四千基。監視塔、二千基。——全て、正常稼働」

数字は、完璧だった。

「——反乱の兆候、ゼロ。飢餓の兆候、ゼロ。疫病の兆候、ゼロ。——完璧な、平和」

手が、止まる。

「……完璧な、平和」

呟いた。

「だが——誰も、笑わない。誰も、歌わない。誰も、望まない。——生きているだけ。——呼吸しているだけ」

窓の外では、四つの大陸が、闇の中に、広がっている。

それぞれの大陸に、中央執行塔が、建っている。青白い光が、夜空を照らしている。

「——エランナ」

ふと、名前を呟いた。

「お前は、北大陸で、何をしている。——完璧な監視網を、完成させたか。——人間性を、捨てたか」

風が、吹く。

窓が、微かに揺れる。

「……グラン」

次に、名前を呟いた。

「お前は、空を、見上げているか。——風車の下で、民と共に、眠っているか」

風が、再び吹く。

「……ロラン」

最後に、名前を呟いた。

「お前は、監獄で、主張を、書き続けているか。——千年後の誰かに、届くまで、書き続けているか」

誰も、答えない。

ただ、風が、吹き続ける。

「——魔王の玉座」

レイは、自分の座る椅子を見下ろした。

高く、冷たく、孤独な椅子。——玉座。

「かくも残酷な栄光を望む者は、魔王と呼ばれる。——だが、誰かが、やらねばならなかった」

手を、玉座の腕に置く。

石の冷たさが、指先に伝わる。

「——誰かが、やらねばならなかった。——ならば、俺が、やる。——魔王として。——数字として。——孤独として」

星が、一つ、覗いた。

四つの大陸を、見下ろす、高い空から。

「……千年後の世界」

レイは、呟いた。

「今、この星を見ている者は、千年後には、もういない。——だが、千年後の誰かが、この星を見ている。——安全に、穏やかに、毎日を生きながら」

星が、雲に隠れる。

闇が、再び、世界を包む。

「——続ける」

レイは、ペンを握った。

「誰もいなくなっても、続ける。——エランナが、いなくなっても。テルトイアが、去っても。——一人で、続ける」

ペンが、紙を走る。

「——全世界、制圧。——次の目標、『千年後の世界』の、基盤完成。——予測期間、あと、十年」

数字が、闇の中で、光を放つ。

しかし——

その光の中に、微かな亀裂が、既に生じていたことに、レイは、まだ気づいていなかった。

【第十二章 魔王の玉座 了】


■第十三章 三つの戦線

全世界制圧から五年。

「黒鉄の執行秩序」は、完璧な機構へと変貌していた。自動人形が街道を巡回し、魔導オベリスクが空を照らし、戸籍データが全人類の呼吸を記録する。誰も飢えず、誰も病まず、誰も殺し合わない——しかし、誰も望まず、誰も歌わず、誰も愛さない。

その静寂を破ったのは、三つの報告が同時に届いた日だった。

「——北大陸、魔導オベリスク第七十二号、破壊」

エランナの緊急通信が、南大陸の中央執行塔に届いた時、レイは玉座で眠りについていた。七日間、目を閉じていない。

「破壊方法は、内部からの魔力過載。——オペレーターの裏切り、と思われる」

「オペレーターの裏切り?」

「ああ。——五年間、完璧を追求しすぎた。——人間は、完璧になれない。——ならば、壊れる」

エランナの声に、かつての狂気はなかった。ただ、徹底した疲労があった。

「——破壊されたオベリスクの周辺、監視網に空白が生じた。——七十二時間以内に、修復する。——だが、その間——」

「——その間、何があった」

「『自由の風』の残党が、集結した」

通信の向こうで、紙がめくれる音。

「指導者は、不明。——だが、組織名は、確認済み。『自由のリベルタス』——かつてロラン・ヴェスティアが率いた、テロ組織の、再結集」

「……ロランは、監獄にいるはずだ」

「ロランは、いないわ」

エランナの声が、微かに震えた。

「——三年前に、病死した。——終身監禁の、隔離施設で。——主張を、書き続けながら、病死した」

「……」

「ロランの死後、『自由の風』は、沈静化したかに見えた。——だが、地下で、再編していた。——新たな指導者の下に」

「新たな指導者は?」

「不明。——ただ、魔力パターンから、ある人物を、推定している」

「誰だ」

「——エランナ・フィムス」

通信が、一瞬、途切れた。

「——私の、魔力パターンの、模倣者よ」

エランナが、続けた。

「私が作った監視網を、私の魔力パターンで、ハッキングする。——皮肉ね。——完璧な監視網の、制御者自身が、弱点だと、五年前に、言われたことを、思い出すわ」

「……五年前」

「ああ。——『灰燼の牙』を、斬った男に、言われたわ。——『あなたは、壊れている』と」

レイは、目を閉じた。

「——対応は?」

「修復と、追跡。——空白地帯を、修復し、模倣者を、追跡する。——ただし——」

「ただし?」

「——模倣者の、正体が、判明した場合——」

エランナは、一瞬、言葉を詰まらせた。

「——私が、対処する。——それが、私の、責任だ」

第二の報告は、テルトイアから届いた。

「——東大陸、地下抵抗政府『人道同盟ヒューマニア』、確認」

テルトイアは、南大陸の会議室で、地図を広げた。顔色は青ざめ、手は震えている。

「旧学術都市の、学者たちを中心に、結成された。——主張は、『人道的な優しさ』の復権。——戸籍法の撤廃。選別制度の廃止。——そして、『黒鉄の執行秩序』の、非人道的な統治の、告発」

「告発?」

「国際社会へ、と言っているが——」

テルトイアは、苦笑した。

「——全世界が、『黒鉄の執行秩序』の、支配下だ。——国際社会など、存在しない。——だが、彼らは、『国際社会』を、作ろうとしている」

「どうやって」

「——未制圧の、島々に、使者を、送っている。——『黒鉄の執行秩序』の、実態を、伝えている。——そして、『自由な連合』の、結成を、呼びかけている」

「……島々か」

「ああ。——南洋に、散らばる、数百の島々。——『黒鉄の執行秩序』の、管理が、及んでいない、唯一の地域だ」

レイは、目を閉じた。

「——対応は?」

「島々への、進軍準備。——艦隊の、再編成。——ただし——」

「ただし?」

「——時間が、かかる。——島々は、数百ある。——一つずつ、制圧するには、十年は、かかる」

「十年、か」

「ああ。——十年の間、『人道同盟』は、活動を続ける。——そして、『自由な連合』が、実現すれば——」

「——全世界に、再び、戦乱が、戻る」

「そうだ」

テルトイアは、ペンを置いた。

「——お前は、どうする?」

レイは、目を開いた。

「——追跡する。——『人道同盟』の、指導者を。——そして、公開審問を、行う。——ロランと、同じように」

「公開審問、か」

「ああ」

レイは、立ち上がった。

「——ただし、今回は、条件を、変える。——指導者を、生け捕りにする。——そして、『黒鉄の執行秩序』に、加える。——協力すれば、配給を、与える。——職能を、与える。——生きる権利を、与える」

「……懐柔か」

「懐柔だ」

レイは、認めた。

「——檻の中に、引き入れる。——それが、最も、効率的な、鎮圧だ」

第三の報告は、西大陸から届いた。

「——西大陸、武力反乱軍『不滅の牙』、確認」

報告者は、若い軍官だった。グランの剛剣師団の、後継者の一人。——しかし、目には、グランとは異なる、獣のような光があった。

「元騎士団連合の、武人たちを中心に、結成された。——主張は、『誇り高き死』。——管理された生より、自由な死を、選ぶ、という」

「……『不滅の牙』」

レイは、名前を呟いた。

「——かつて、『灰燼の牙』が、使っていた、名前に、似ている」

「ああ。——『灰燼の牙』を、継承している、と思われる。——指導者は、不明。——だが、戦術は、『灰燼の牙』と、同じだ。——徹底的な、破壊活動。——遺体を、積み上げる。——恐怖を、植え付ける」

「……」

「——対応は?」

レイは、目を閉じた。

「——自動人形軍勢を、投入する。——感情がない。——恐怖を、感じない。——『不滅の牙』の、戦術は、通用しない」

「自動人形、か」

「ああ」

レイは、目を開いた。

「——ただし、指導者は、生け捕りにする。——公開審問を、行う。——そして——」

言葉が、詰まる。

「——そして?」

「——斬る」

冷たく、告げた。

「——『不滅の牙』の指導者は、斬る。——公開の場で、斬る。——民に、『反抗の絶望』を、見せつける。——それが、最も、効率的な、抑止だ」

軍官は、一瞬、目を見開いた。

そして——

「——承知した」

深く頷いた。

「——『不滅の牙』の指導者を、生け捕りにし、公開の場で、斬る。——それが、『黒鉄の執行秩序』の、規律だ」

三つの報告を受け、レイは、中央執行塔の最上階で、一人、地図を見つめた。

四つの大陸。五百七十二万の民。そして、三つの戦線。

「——『自由の風』。『人道同盟』。『不滅の牙』」

独り言のように、呟いた。

「——かつて、四人で、誓った時、グランは、こう言った。——『お前が間違えば、斬る』と。——エランナは、こう言った。——『檻を壊す』と。——テルトイアは、こう言った。——『去る』と」

手を、地図に置く。

「——今、三つの組織が、同じことを、言っている。——『檻を壊す』。——『去る』。——『斬る』。——かつての仲間たちの、言葉を、継いでいる」

窓の外では、四つの大陸が、闇の中に、広がっている。

それぞれの大陸で、何かが、動き始めている。

「——三つの戦線」

レイは、目を閉じた。

「——同時に、動き出した。——偶然か。——計画か。——どちらにせよ、対応は、必要だ」

目を開けると、そこには、冷たい決意があった。

「——エランナは、『自由の風』を、追跡する。——テルトイアは、『人道同盟』を、追跡する。——俺は、『不滅の牙』を、追跡する。——三人で、三つの戦線を、同時に、制圧する」

ペンが、紙を走る。

「——作戦名、『三面鎮圧』。——開始時期、即日。——目標、三組織の、完全壊滅」

数字が、闇の中で、光を放つ。

しかし——

その光の中に、微かな亀裂が、確実に広がっていることに、レイは、やっと気づき始めていた。

【第十三章 三つの戦線 了】



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