武器をとる意味
亜紀は目を閉じ深呼吸をした。
たった一度の深呼吸。
たったそれだけのことなのに、亜紀が次に目を開けた時に見せた澄んだ迷いのない顔つきに心臓がざわついた。
背筋はピンと伸び、所作に無駄がない。
薙刀を右手に持ち、ゆっくりと前に出ると花園に正対する。
こんな血生臭い現場だというのに、なんて優雅に歩いているのだろうか。
――切先が宙で弧を描き、やがて花園に向けられる。
花園もまた、亜紀同様薙刀を構えた。
こうして対峙することになるなんて、思いもしなかった。
七年前に稽古をつけていた頃が懐かしかった。あの時は互いが相反する立場で手合わせすることになるなんて、誰が予想できただろうか。
――チャンスは、一度きり。
先程はものの見事に懐に入られてしまった。
けれど、今度は負ける気がしなかった。
背後には二人の勝負の行く末を見守る仲間たちがいる。
亜紀が勝つと信じてやまない相棒がいる。
こんなにも心に余裕があるのは初めてだった。
「アアアアアァアァアアァァァアア!!」
「――っ!」
切先同士の探り合いの末、先に動いたのは花園だった。
切先が亜紀の脛を狙い、一歩前に踏み出した初撃は柄で容易に凌いだ。柄で止められるのを分かっていた花園は、これを待っていたとばかりに薙刀を回し、石突で大きく亜紀の首元を狙う。
あっと息を呑む蒼斗たちは、動揺の一遍も見受けられない亜紀をただ見つめた。
迷いのない瞳は石突きをしっかり捉え、一歩下がって捌く。それから亜紀の動きは早く、間合いを詰めて技を重ねていく。
先程までとは違う亜紀に、花園は訳が分からないと言わんばかりに言葉にならない叫びをあげた。
「覚えていないか、花園。お前に薙刀を教えていた頃のことを」
「ウウゥゥ……アア、ァアアウ……ッ」
「俺がお前に言ったことを、覚えていないか?」
テンポの速い衝撃音。止まない金属の衝突音。
血生臭い呼吸と諭すような息遣い。衝撃で飛び散る亜紀の血が宙を舞った。
亜紀は七年前の、あの文字通り血反吐を吐くような訓練の日々を思い出していた。
「忘れているなら、もう一度言ってやる」
お前は強い。
その誰にも負けないという強い思いがある限り、お前は他人にも、自分にも負けたりしない。
「アア……キ、アアアァアアァキサ……ッ」
「花園……?」
花園の動きが止まった。
薙刀を掴む手が震え、痛みを堪えるように表情を歪め、顔を伏せた。
そして――。
「ッ、ワタシハ……」
「花園……っ!」
――俺のところに来い。
――自分のために、生きろ。
「ワ、タシ……は……ッコ、ンナッ……コン、コトヲ……スルタ、メニ……薙刀をえランダンジャァ……ナイ!!」
――応えた!
「馬鹿な!?」
「っ、蒼斗ぉぉぉおおッ!!」
「視えた!」
カラン、と薙刀が花園の手から離れた。
彼女の心に亜紀の想いが『届く』ことを信じて待っていた蒼斗は、亜紀の声を合図にその場を蹴りだし、大鎌を強く握り直した。
狙うはゆらりと浮かび上がる奇跡にも似た、人間と狂魔を分ける境界線。
――ありがとうございます、優しい死神さん。
ブチブチと狂蟲が斬り剥がれる肉々しい音がした。
間髪入れず手足のように動く大鎌は、銀閃を描き狂蟲を切り裂いた。
狂蟲は雄たけびを上げながら、灰へと変貌した。
蒼斗は斬った感触が遠退くと、緊張の糸が切れたかのように、そのまま地面に片膝をついた。
切迫した空気から解放されるために、詰めていた息をぶわりと吐きだし、肩で呼吸を繰り返した。
「やっ……た……!」
蒼斗は拳を握り、目に涙を溜めた。
もう手遅れかと思っていた。しかし、亜紀の想いが大好きな薙刀を通じて伝わり、彼女はそれに応えてくれた。
誰も傷つけずに救うことができた。
蒼斗は嬉しさがこみ上がり、心を落ち着ける術が見つからず困り果てた。
亜紀の方を弾かれたように見れば、亜紀は蒼斗の横で倒れた花園の元に駆けてきていた。
「花園……!!」
亜紀に抱き起され腕の中に収まった花園は蒸気を発しながら静かに眠っていた。
頬に涙が伝っていたが、その表情は穏やかそのもの。
そんな彼女の手には、手放したはずの薙刀が握られていた。
蒼斗と亜紀はお互い顔を見合わせ、やれやれと眉尻を下げ苦笑してしまった。
「蒼斗」
「はい」
「……ありがとう」
「!?」
滅多に聞かない亜紀の言葉。
「お前のおかげで、花園を殺さずに助けることができた。……本当に、ありがとう」
「亜紀さん……っ、いいえ、花園さんを救ったのは、外ならない亜紀さんです」
「俺は何もできない。狂蟲を灰にすることはできても、取り除く力はないからな」
「僕はただ斬り離しただけです。花園さんの心に呼び掛けたのは亜紀さんです。結果、花園さんは亜紀さんの想いに応えた――亜紀さんがいなければ、境界線が浮かばなかった。全部、亜紀さんのおかげです」
「……」
「僕も言わせてください――ありがとうございます、諦めないでくれて……彼女の強さを、信じてくれて」
亜紀は目を見開き、ハッと鼻で笑った。顔を逸らした頬は、ほんの少しだけ、赤い。
「コイツは俺が見込んだ女だぞ。そう簡単に負けるタマじゃない。……でも、よく頑張ったな……」
亜紀の花園の髪を撫でる手つきはひどく優しく、千草と重ねているのか今にも泣きそうな表情をしていた。
全て終わった――そう、思っていた時だった。
「大変です、ボス! 目黒が逃げました!」