少年Yの慟哭
――おふくろが死んでから、親父の様子がおかしくなった。
幼いながらに、雪兎は分かっていた。
普段はにこにこ笑顔を浮かべていても、夜一人になると妻のいない寂しさに涙していたことに、何度も気づいていた。
だから、次第に酒に溺れ、ドラッグに手を出し、憂さ晴らしのするかように自分を殴るようになった父に気付かないふりをした。
仕方がない。
今が一番辛い時なのだ。子どもの自分を養って生きて行くだけでもいっぱい、いっぱいなのだから、負担をかけてはいけない。
いつか……いつかきっと、優しかった親父に戻ってくれる。
――しかし、身体中痣だらけになってまでも、父を信じ耐え続けた雪兎の切なる願いを嘲笑うかのように、事件は起きた。
ドラッグの過剰摂取のせいで幻覚を見るようになった父が、雪兎に包丁を向けたのだ。
きっと、父の目には雪兎が形容し難い化け物に見えていたのだろう。
頼りある強かった父の面影など何処にもなく、ただのドラックに依存したジャンキーに成り果ててしまっていた。
雪兎は、初めこそ死にたくないと悲鳴を上げ、逃げ惑った。
大好きだった父親に、確かな殺意の念を持って刃を向けられているのだから、当然だった。
だが、追い詰められ逃げ場がなくなってしまった時、彼の中で寸前のところで保っていた糸がぷつりと切れた。
どれだけ信じても、結局は無駄に終わってしまう。
本当は痛くて、苦しくて……泣きたくて堪らなかった。
けれど、家族だから――たった一人父親だから、と何十何百回と内側に思いをしまい込み続けてきた。
――もうダメだ。
生きることを諦めた瞬間だった。
どう足掻いても、目の前の父だった化け物に殺されるしかない。
鈍色に輝く包丁を一瞥し、壁に背を預け、声を震わせた。
「おや、じ……」
振り被る手は、一度も鈍らなかった。
もう己が一人の人間の父だということも忘れてしまったかのように、目を血走らせていた。
疲れ切ってしまった雪兎は、瞳から光が徐々に消えて行った。
あとは目の前の――化け物にズタズタに切り裂かれて、全てを否定されながら死んでいくのを待つだけだった。
「――まだ、早いよ」
緊張で霞む視界が閉じられようとしたところで、抑揚のない声が意識に割り込んできた。
それからすぐに風を切る音と、断末魔の悲鳴が聞こえた。
何事だと揺らぐ視界の中で様子を伺うと……そこには一人の男が佇んでいた。
「ぁ……」
雪兎に背を向け、一本の剣を手に下を見ていた。
彼に倣うように視線を辿らせていけば、床にこぢんまりと盛られた灰があった。
何故、ここに灰があるのか理解できなかった。
彼はどうしてそれを見下ろしているのかも。
――ふと、雪兎は気づいた。
妙に静かな室内。
そこにあったはずの存在が、何処にも見当たらなかった。
灰の位置を確認し、雪兎は脈がどんどん速くなっていった。
――親父は、一体何処に行った?
雪兎は自他ともに、自分が普通の子どもより賢いのは分かっていた。
だが、今回ばかりは察しの良さを恨んだ。
吹けば飛ぶような灰が、今の今まで自分を殺そうとして父親(化け物)だなんて、考えたくなかった。
「その歳で生きるのを諦めるのは、まだ早いよ」
「え……」
「怪我はないかい?」
呆然とする雪兎を他所に、男は刃に纏わりついた汚れを一振りで払い、慣れたように鞘におさめながら訊ねた。
静、という言葉が怖いくらいに似合う彼を取り巻く空気に圧倒され、雪兎は首を何度か縦に振ることで答えた。それが、精いっぱいだったのだ。
「近所からの通報で急行してきたが、間に合って良かった。……君の浸蝕は、まだ大丈夫そうだ」
「え?」
「いや、こちらの話だ。すぐに他の捜査官も来るから、待っているといい。私はもう用はないから、お暇させてもらうよ」
「っあ……」
綺麗な黒髪を揺らし、男は雪兎に背を向け玄関へと向かった。
ハッとした雪兎は、助けてくれたことにお礼を言おうと口を開きかけ……彼の足元の灰の山を見て身体が瞬間的に熱くなった。
「――どうして親父を殺した?」
男の足が止まった。
振り返った後に見えた表情は、まさに『無』だった。
雪兎は信じることを諦め、殺されることを甘んじて受け入れようとしていた。
それなのに、いざ父が殺されたとなると、心を占めたのは父親を殺した目の前の男へのどうしようもない怒りだった。
対する男は、純黒の瞳を僅かに細め、淡々と答えた。
「君の父親だったはずの男は、もう人間ではなかった。放置すれば君だけでなく第三者の人間の生命や身体に危害が及ぶ恐れがあった。だから、始末した。それに何の問題がある?」
「っ、人間じゃなくなってからって……そんな、簡単に切り捨てていいのかよ!?」
「一人の犯罪者を見逃すだけでリスクは高くなる。一人始末することで多くの人間が救えるのなら、考えるまでもないだろう」
首を小さく傾げ、雪兎の言っていることが理解できないとばかりの男の様子。
命の天秤――双方ともに根本的に考え方が違っていた。
水と油が決して混じらないよう、彼らもまた交じることはなかった。
それが彼の返答で悟った雪兎は、震える拳を爪が掌にめり込むまで握り締めた。
「……さ、ない」
「何だい?」
思い返すのは、父と過ごした楽しかった日々。
あの大好きだった笑顔をもう一度取り戻せるのなら、いくらでも待った。
殺されそうになり、一度は諦めてしまった。
この命を放棄しそうになった。
――だけど、殺す必要はなかった。
止めてくれるだけで良かった。
父の命を簡単に切り捨てて欲しくなかった。
男にとっては取るに足らないものかもしれないが、雪兎にとっては大切な父親だった。
……虫けら以下のようにあしらった。
「っ、アンタだけは……絶対に、許さない……っ!!」
そこで、男の表情が驚きに変わった。
珍しいものを見るかのような、人の神経を逆撫でする表情だった。
「……助けて感謝されることはあっても、君のような目を向けられるのは初めてだよ」
「っ、この……!」
「悪いが私も暇ではないんだ。あとは次に来る捜査官に言ってくれ」
頭に血が上って殴りかかってくる雪兎を片手で捌き、額への指打一発で沈めた男は、サイレンの音が聞こえてくると今度こそ部屋を後にした。
床に倒れ込み、雪兎は少し汚れた天井をぼんやりと眺めた。
近づいてくるサイレンの音と、怒声。
動く気力が湧かず、顔だけ横に向ければ……灰が目の前に飛び込んできた。
ぽつん、と積まれた小さな灰の山。
これが何かと考えていると、鼻で笑いたくなった。
――見てくれよ? これが自分を殺そうとした親父の成れの果てだ。
自分にとって大事な存在であったとしても、他人からすれば歯牙にもかけない存在なのだ。
じわり、じわりと滲み出てくる涙で視界がぼやけた。
「……や、じ……」
――どうした、雪兎?
呼べば嬉しそうに振り返ってくれる父は、もういない……何処にも。
その現実があまりにも唐突で、また大切な家族を失ってしまったのだと、風で舞い上がる灰を見つめながら涙が溢れた。




