採るべき選択
「あの方が守ろうとしているものは、私たちが思う以上に大きくて、とても尊いもの。それは、あの方の背中を見ていれば分かります。あの方のお役に立てることなんて、たかが知れている」
……それでも。
「少しでも……あの方の背負う荷を肩代わりできるのであれば、私はどんなことでもしたいです」
揺るぎない決意。そして亜紀への慕情。
花園の本音と亜紀が他人に与える影響力の凄さを改めて知った。
「今、亜紀さんに近いのは間違いなく工藤さんです」
「……でも、僕は亜紀さんに拒絶されています。亜紀さんの力になりたいのに、亜紀さんはそれを良しとしません」
「それで、工藤さんはいいんですか?」
「いいわけがないです! でも、僕は……」
「……亜紀さんは、施設に来るたびにこんな話をしてくれます」
――俺の隣にはな、望んでもいないのに理不尽な役割を押し付けられた奴がいる。
何故コイツがこんなに苦しめられないといけないんだって、思っちまうくらいにな。
足掻き苦しみながらも懸命に生きても誰にも認められず、誰にも受け入れられない。
挙句命まで狙われる環境で生きてきたんだ。
だがそいつはな、虐げられてきたにもかかわらず、人を憎まず、ずっとひとり耐えて生きてきたんだ。
へなちょこで、ヘタレで、大事なところで抜けている奴なんだが、正義感が強くて、芯があって、しつこくて……何より、諦めが悪い。
一人でいいと俺は今まで思っていたんだが……いなければいないで、不便なところもあるんだなと、少しだがすっかり思うようになっちまった。
「亜紀さんが、そんなことを……」
「あの方を変えたのは、間違いなく工藤さんです。……どうか、諦めないでください」
――あの方を、早くあの事件から解放してあげてください。
「解放……?」
――亜紀を解放することが、本当に自分にできるのだろうか?
まず蒼斗は否定の言葉を口にしかけた。
そんなのは無理だ。亜紀の視界に自分の姿は何処にもない。
同じ道に進んでいたとしても、途中躓いて転んでも、今の亜紀は絶対に待ってなどくれない。下手すれば捨て置かれるかもしれない。
相棒としてもう必要ないと言われるのが怖くて――自分がこれ以上傷つくのが嫌で、もう何も亜紀に言葉を投げかけられなくなってしまっていた。
「あの方はずっと剣崎さんが亡くなってから、ずっと苦しんでいます。私はこれ以上辛そうな姿を見ていたくないんです」
「……」
「それに……剣崎さんも嫌に決まっています」
「……随分、彼のことを知っているようですね」
「剣崎さんは、亜紀さんと一緒に来た時からずっと、時間を見つけては来てくれていたんです。みんな、よく懐いていました」
「そうだったんですね」
「あのユキも、よく剣崎さんの傍にいました。勉強も、彼から教わっていたこともあるんです。院の中で、一番彼に懐いていたと思います」
あの雪兎がかつて剣崎に懐いていた。
そんなこと、先程の花園とのやり取りを見ても想像などつくはずがなかった。
あの時の雪兎の表情は、嫌悪と絶望、そして……。
「ユキはゼロ・トランスで母親を亡くし、父親と二人で暮らしていました。――けれど、日々の疲れと先の見えない未来に疲弊しきった父親はドラッグに手を出し、凶暴化し、ユキに虐待を働くようになりました」
ついにはドラッグの禁断症状で幻覚を見るようになり、雪兎を恐ろしい何かと認識し、殺られる前にやらなければ、と包丁を手に取り自分の息子を手にかけようとした。
そこに通報で急行したAPOCの捜査官に救われ、雪兎は保護された。
父親は息子に対する殺人未遂により摘発され、身寄りのない雪兎は星霜院に預けられることになった。
「初めて来た頃、あの子は本当に手が付けられないくらい他人を拒絶していました。誰かと関わることで、いつか裏切られることを恐れていました」
「まだ小さい子どもにとって、肉親に殺意を向けられてしまえば心はズタズタでしょう」
蒼斗も、血は繋がっていないとはいえ、義父に死神だということが知られてから総力を挙げて殺されかけた。
裏切られた気持ちは、痛いくらいに分かった。
「そんな時、亜紀さんに連れられてきた剣崎さんと出会いました」
日当たりのいい笑みで話しかける剣崎に対し、雪兎は真っ向から拒絶した。
お前など信用するわけがない、と。
そんな雪兎に対し、剣崎は何度も何度も声を掛け続けた。
来る日も来る日も雪兎に会い、仕事の合間の少しの時間ですら、タクシー飛ばして星霜院にやって来ていた。
「……本当に、馬鹿じゃないのか、アンタ」
――最終的に、折れたのは雪兎だった。
ほんの少しの譲歩から、二人の関係はどんどんいい方へと変化していった。
引きこもりだった雪兎に勉強を教えるようになった。
見識を広げるべきだ、と剣崎は世の中のこと、APOCのこと、亜紀のことを何でも話してくれた。
そして、自分の思い描く未来をも。
「剣崎さんの理想は、罪もない人たちが安心して暮らせるような……大人の身勝手な理由で傷つく子どもがいなくなる社会をつくることでした」
ゼロ・トランスで、人々は忘れられない深い深い傷を負った。
これ以上、誰かが傷ついていいわけがない。
全ての人間を守ろうだなんて、そんな大それたことなど言わない。
でも、この腕が届く範囲の人々なら、全力で守ることはできる。
「今はああやって荒れてしまっていますが、いつかきっと彼の死を乗り越えられると信じています」
――そうやって笑う花園の表情は、今にも泣きそうだった。
そこで蒼斗は気づいた。
きっと、彼女は……。
蒼斗は口にしかけた言葉をぐっと飲んだ。
「だからお願いします、工藤さん。亜紀さんを……助けてください」
「……ぅ」
まともに会話をすることもなくなってしまった今。
自分が傷つくのが嫌という心の奥底にある思いは、確かにある。
しかし、こうして自分よりも付き合いの長い花園に背中を押されてしまえば、優柔不断の蒼斗は頷くしかなかった。
――それに、花園を信じてみようとも思った。
花園がここまで話をしてくれたのは、少なからず信頼をしてくれているという証拠。
「……本当に、大丈夫でしょうか」
「そう何度も言っているじゃないですか」
「僕は……亜紀さんがいてくれたから、今の生活ができています。亜紀さんに見限られてしまったら、僕は何処にも居場所がありません。……それが、情けなくも怖くて、必要以上に亜紀さんのテリトリーに入るのを無意識に避けていました」
蒼魔と謳われ、相棒として一緒に摘発をしてきた。
けれど、蒼斗は亜紀のことを何も知らなかった。
――いや、知ろうとしなかった。
踏み込むことで拒絶され、捨てられてしまうかもしれないと恐れたのだ。
対する亜紀は、主従契約を結んでいることもあり、蒼斗の恩人であることから、蒼斗のことをよく知っていた。
相棒というのは対等な関係であるはずなのに、現実、蒼斗と亜紀は対等ではなかった。
「本当に……僕は、ダメですね。蚊帳の外にされたら、腸が煮えくり返りそうなくらい悔しくて、腹立たしくなるのに、首を突っ込んで嫌われたらどうしようだなんて考える小心者なんですから」
「それだけ、工藤さんが亜紀さんのことを大切にしているということですよ」
「……」
亜紀が大切。それは間違いない。
アバドンの鎖で亜紀がバチカルと共に奈落の底に引きずり落とされた時、その身一つで迷うことなく飛び込んだのが記憶に新しい。
「……あなたは本当に、馬鹿がつくくらいお人好しなんですね」
――あの人にそっくりで、放っておけなくなるじゃない。
「今、何か……?」
「いいえ、何も」
「そう、ですか……」
「こればかりは、あなたがちゃんと決めなければいけないことです。現状維持を選ぶのか――、それとも、新たな変化を求めるのかを」
全ては蒼斗の御心のまま。
誰が何を言おうと、蒼斗が決めて、答えを示さなければならない。
蒼斗はテーブルに置かれたグラスを、徐に見つめた。汗をかき、水滴がグラスの形をなぞるように伝っていた。
――俺はな、お前に信頼を置かれるような人間じゃないんだ。
そう言い放った時の亜紀の表情が脳裏に甦った。
そんな顔をさせたいわけじゃなかった。
あんな苦しそうな亜紀を、見たくなかった。
決して後ろ向きなことを口にできない立場な亜紀は、いつだって、どんな時だって強くあらなねばならなかった。
それに加え、過去の事件が亜紀の足枷となって苦しめている。
――なら、今の蒼斗に出来ることは、亜紀のために、その足枷を外してやることだった。
当然、亜紀は他人の手を望んでいない。
自己満足でも構わなかった。
「……ありがとうございました、花園さん。僕……頑張ってみます」
「工藤さんなら、きっと大丈夫です」
蒼斗は会計を済ませ、前もって呼んでおいたタクシーに花園を乗せた。
笑顔で手を振り、星霜院に向かっていく後ろ姿を見送り、大きく深呼吸をした。
「……さて、気合入れるか」
吉と出るか凶と出るか、なんて予想のつく賭けは野暮だった。
蒼斗がしたいように、やるだけ。
結果を考えるのではなく、現状取り除かなければならない問題を『摘発』する――これが、蒼斗の出した答えだった。
――そんな蒼斗を見ている影など、気づくものは誰もいなかった。




