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少年、罪過を喰む -弐ノ章-  作者: 藤崎湊
FILE1 青の鋼
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咲き誇る花園





 花園香織――その名は彼女が生まれた時に得たものではなかった。


 オリエンスで生活していた頃、彼女は陸上の長距離選手として活躍していた。

 企業団からも一目置かれ、将来は約束されたようなものだった。

 大好きな両親と三人で暮らし、幸せだった。

 だが、彼女はゼロ・トランスで母親を喪い、父親とともにペンタグラムに命からがら流れついた。

 そして生き残っていた父方の親戚の家に世話になることとなった。


 そこでの生活は今までとは雲泥の差で、地獄のようだった。

 当時ゼロ・トランスの影響で誰もが辛い生活を強いられたいた故、家計に余計な負担が、と居候の形でいた彼女らは快く受け入れられていなかった。

 彼女は掃除、洗濯、炊事など下人のように扱われ、少しの不満も持たぬよう努め、精一杯認められるよう働き続けた。


 ――それからひと月もしない内に、父親が出先で愛人を作って逃げ出した。


 裏切られたような絶望感が彼女に襲い掛かった。

 親戚たちのあたりは日を追うごとに辛いものになった。

 何かにつけては文句を言い、罰と称して食事を与えず、朝から晩まで働かせた。

 核が皇帝を就任させたことで次第に経済が安定し、個々の家庭の生活が安定してきたとしても、彼女は『家』という名の冷たい檻の中に閉じ込められていた。



 ――私は何のために、ここにいるのだろうか?



 そう疑問に思い始めた頃。

 ゴロゴロと嵐が近い気配を漂わせる悪天の夜のことだった。

 冷水を使いすぎて手が赤ぎれてしまい、その手当てをしていた彼女を呼び出した家主が、下種めいた表情で言った。


「今度客人を招くから、もてなしてくれよ。その身体で」


 初めは何を言われているのか分からなかった。

 でも、傍らにいる家族たちの心底馬鹿にした笑みを見て悟った。

 彼らは余興として、何処の知らない男と寝ろと言っているのだ、と。

 そこで彼女は堪えていた堰が崩壊する音がした。



 自分が何をしたというのだ。


 どうして父親は自分を捨てて女を作って一人出て行ってしまった?


 どうして、自分も連れて行ってくれなかったのか?




 ――雷鳴が、彼女の心を掻き立てた。



「ぇ……?」


 気が付けば、家は雷が落ちていたのか停電していた。

 息が妙に荒い。

 それに、顔が所々濡れている気がする。


 雷が再び落ちた時、一瞬部屋が照らされた。

 床には血塗れの彼らの()()が転がっていた。咄嗟に恐怖で悲鳴が上がった。

 どうして、彼らが死んでいるのか分からなかった。



「生存者か」

「はい、まだ堕ちきってはいないようですが……」

「っ!?」


 冷めた声が鼓膜に届いた。

 ハッと見れば、部屋の中にはいつの間にか武装した集団がおり、窓はガラスが割れてあちらこちらに散らばっていた。

 考え事をしすぎて、全く気づけなかった。

 彼が一体何者なのか、というよりも、彼女はここから逃げなければという生存本能が警報を鳴らしていた。

 怯えきっていた彼女に完全に油断していた彼らは、彼女が脱兎のごとく家から飛び出し逃げたことにすぐに反応できなかった。


「逃げたぞ!」

「追え!」


 顔の見えない武装集団。

 強盗? 殺し屋?

 何にせよ、殺されるのはまっぴらごめんだった。

 直ぐに捕まらないよう、近くの森へと走りだした。


「ひっ……! た、助け……っ、誰、か……!」


 虫けらのように彼らを撃ち殺した。

 死にたくないという一心で走った。


 だが、その反面、ふと頭にもう一人の自分の、冷や水を浴びせるような言葉がよぎった。


「助けて? ――誰が、助けてくれるというの?」


 天候は次第に雷雨に変わり、足場が緩くなってきた。

 一瞬怯んだ足を叱咤し、それでも彼女は走ることを辞めなかった。



 ――あぁ、体力落ちたな……。



 あっという間に目の前の景色が変わっていたはずなのに、今ではまったりと眺められる速さにまですっかり落ちてしまった。

 風を切るのが大好きだった。

 一心不乱に、ただ前を走ることが生き甲斐だった。

 それなのに、それなのに、どうして……。



 ――そもそも、助けてくれる人なんて何処にもいないのに……どうして私は死にたくないなんて、思ったのだろうか?



 彼女の足がピタリと止まった。

 前に障害物があるわけでもなく、彼女の心が走ることを拒んだのだ。

 こんなボロボロで、汚い身なりの女を誰が助けてくれる?

 どうせ、奴らのように道具のようにしか扱ってくれない。

 大好きだった母親は死んでしまった。

 父親は裏切って、自分を生贄としてあの家に差し出した。

 それならいっそのこと……。


「全く、手間を掛けさせてくれる」

「!?」


 慌てて俯いた顔を上げれば、その先から黒い髪、黒いブーツ、黒コート姿が歩いてきた。

 ちょっと待って。その先は私が行こうとしていた……。


「先回りなんて、できない方がおかしいだろう」

「そんな……っ」


 いくら体力が落ちたとはいえ、先回りされるほどではなかった。

 息切れ一つしていない姿に、なけなしのプライドが打ち砕かれる気分だった。

 すっかり逃げる気力を削がれてしまい、その場に座り込んだ。


「お前、あの家の人間じゃないな? リストに載っていなかった」

「え……?」

「あの家は身寄りのない女を拾っては娼婦のように扱って裏で稼ぎを得ていた。その様子だと……まだ被害には遭ってないようだな」

「あ、あなたは一体……?」

「俺はアポカリプス――通称APOCの総帥、東崎亜紀。核の命令であの家を摘発しにきた」


 これが、亜紀との最初の出会いだった。

 亜紀は彼女を水魔鏡で見つめ、渋い表情を見せた。


「浸蝕ギリギリといったところか」

「え?」

「お前、そろそろあの家の奴らを殺してやろうと思っていただろう?」

「っ!」


 亜紀たちが乗り込む直前まで、確かに彼女は目の前で嘲笑する奴らの息の根を止めてやろうと思った。……思って、いた。


「どうしてって顔をしているな。俺たちにはそれが分かるんだ。心に巣食う、醜い獣をな」

「わ、私も……殺すんですか?」

「殺して欲しいのか?」


 娼婦なんて真似をするくらいなら、いっそのこと死んだ方がましだ。

 けれど、奴らはもういない。

 先程みたいに心が掻き乱れることは、今のところもうない。

 殺して欲しいのか、なんて……そんなの……。


「……本当に、殺してくれるんですか?」


 これで何処にも帰る場所がなくなってしまった。


「それなら、この先の開けた場所で、殺してくれませんか?」


 生きる意味も、もうない。

 それならここで終わらせてしまってもいいのかもしれない。

 凛とした、死に場所を選ばせてくれる、まるで悪魔のような亜紀の手にかかって殺されてしまおうか。


「本当に、死にたいのか」

「っ、えぇ」

「ならどうして、そんな顔をして泣いてる?」

「泣いて、なんて……」


 見えない未来なんて、夢見たところで苦しくなるだけ。

 もう考えることすら、疲れてしまった。

 タカが一気に外れてしまったせいか、全てがどうでもよく感じてしまった。



 ――そう、思っているのに……どうし、て……?



 どうして、こんなにも涙が溢れてくるんだ?

 生きることを諦めたんだ。今更どうにかできる状況じゃない。

 弱くて、取るに足らない命で、何の価値もない。

 そう、諦めた。――諦めたんだ。


「……どうして……どうして、あきら、め……れない……の……っ」


 心の何処かで叫んでいた。

 まだやりたいことがいっぱいある。

 美味しいものを食べて、溢れんばかりの買い物をしたい。

 たくさんの友達を作って、素敵な男性と出会って、恋をして……結婚をして子供を産んで、温かい家庭を築きたい。

 子供がすくすくと大人になるのを見守って、孫ができるのを楽しみにして……それから、大好きな人たちに囲まれて安らかに眠りたい。



 ――こんな、何処にでもあるような、誰でも思い描く夢を叶えることすらも許されないのか?



「――ふぅん。まだ、そんな目ができるのか」

「え……?」


 小雨になった森を抜けた先に、彼女のお気に入りの小さな花畑が見えた。

 ここでなら、死んでも構わない。

 そう思い始めたのに、亜紀は彼女を真っ直ぐ見つめた後、顎に手を当てて笑みを浮かべた。


「俺のところに来い」


 がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。

 殺してくれると言ったばかりなのに、来いだなんて。


「ボス!」

「そいつも狂蟲レベルが危険です! 早く……!」


 武装集団――APOCの捜査官らが追い付き、彼女の狂蟲レベルを水魔鏡で確認したのか、警戒を強めた。

 そんな彼らを亜紀はすかさず片手で制した。


「いい。お前たちは手を出すな」

「しかし……!」

「同じことを、二度も言わせるな」


 周囲が警戒する中、亜紀は戦闘意思を解き、手を差し伸べた。


「お前は十分苦しんだ。汚らわしい大人たちの理不尽さに、よく今まで耐えてきた。――今度は、自分のために生きろ」


 よく頑張った。


 力強いその一言だけで、彼女は心の底から救われた。

 決して上辺だけのものではなく、亜紀の瞳は、彼女の気持ちをよく知った苦しげな瞳をしていた。

 そこでやっと、彼女は声を上げて泣いた。

 不安定の状態で、怖くて、どうしていいのか分からなくなった彼女を、亜紀は受け入れたのだ。

 彼女は縋るように亜紀の手を取った。

 悪魔のような笑みを浮かべながら狩りをするその、冷たい手を。


 この人なら、きっと。


「そういえばお前、名前は?」

「あ……っ、香織……です」

「姓は?」

「……あんな家の姓なんて、名乗りたくないです」

「そうか……そうだな」



 ――嵐は去ったようだ。


 ぶわりと吹き荒れる生暖かい風。花弁が天に舞い上がる様を見つめ、亜紀はしばし考えたのち、うんと一つ頷き示指を彼女に向けた。


「花園、だ」

「え?」

「お前の名前だ。――お前は今から花園香織だ」

「花園香織……それが、私の……」


 生まれ変わったような気分だった。

 新たに名を与えられ保護された後、ペンタグラムの大まかな内情、自分の身体の事情を事細かに説明を受けた彼女は、狂蟲が暴走しないようカウンセリングもしっかり受けた。

 全ては、亜紀の恩恵だった。

 そして狂蟲レベルが安定し、任せられると判断した亜紀の紹介で第一皇帝が建てた、あの星霜院の長の責を担った。

 自分と同じように親を亡くした子供を、亜紀に助けられたように自分も助けたいと心に誓って。





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