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第六話 初めての言葉

いつも『もう一度、あなたの声を。~音を知らなかった少女の異世界譚~』を読んでいただき、本当にありがとうございます。


おかげさまで少しずつ多くの方に読んでいただけるようになり、とても励みになっています。


第6話では、シルヴィアにとって大きな成長の一歩となる「初めての言葉」を描きました。


前世では当たり前ではなかった「聞くこと」「話すこと」。その一つひとつの喜びを、シルヴィアと一緒に感じていただけたら嬉しいです。


それでは、第6話をお楽しみください。

 季節はゆっくりと巡り、暖かな春は色鮮やかな夏へと姿を変えていた。


 庭に咲いていた花々は力強く咲き誇り、窓の外では蝉にも似た虫たちの鳴き声が賑やかに響いている。


 この世界へ生まれてから、一年。


 私は、一歳の誕生日を迎えていた。


 「よいしょ……。」


 短い足を懸命に前へ出す。


 一歩。


 また一歩。


 体はまだふらつくけれど、転ばずに歩ける距離は少しずつ伸びていた。


「ふふっ、シルヴィア、上手ね。」


 優しい声と共に、お母さんが微笑む。


 私は嬉しくなり、小さく笑い返した。


「えへへ……。」


 まだ上手く話せない。


 それでも、前よりずっと声が出るようになった。


 泣き声だけだった私の口から、少しずつ音が生まれている。


 それだけで胸がいっぱいになる。


(話せる……。)


(私の声が、ちゃんとある。)


 前世では、話すことはできても、自分の声がどんなふうに響いているのか分からなかった。


 家族が笑ってくれた理由も、優しく返事をしてくれた理由も、私は表情から想像するしかなかった。


 でも今は違う。


 自分の声が耳に届く。


 お母さんの返事も聞こえる。


 その当たり前が、何よりも嬉しかった。


 私は再び歩き始める。


 一歩。


 二歩。


 三歩――


「あっ。」


 足がもつれる。


 前へ倒れそうになった、その瞬間。


 ふわり、と温かな腕が私を受け止めた。


「危ない危ない。」


 お母さんが優しく抱きしめてくれる。


 その胸から聞こえる心臓の音は、今日も規則正しく鼓動を刻んでいた。


 トクン。


 トクン。


 私はその音が好きだった。


 命がそこにある証。


 安心できる音。


 前世では、病室で自分の鼓動ばかりを感じていた。


 今は違う。


 大好きな人の鼓動を、こんなにも近くで聞くことができる。


「シルヴィアは本当に頑張り屋さんね。」


 頭を優しく撫でられる。


 その温もりに目を細めながら、私は小さく頷いた。


 すると玄関の扉が開く音が響く。


 ギィ……


「ただいま。」


 聞き慣れた低く優しい声。


 私は勢いよく顔を上げた。


(お父さん!)


 庭仕事を終えたのだろう。


 額には汗が滲み、肩には木剣が担がれている。


 お父さんは私を見ると、柔らかく目を細めた。


「今日は歩けるようになったって?」


「ええ。さっき五歩も歩いたのよ。」


「本当か!」


 お父さんは驚いたように笑い、私の前でしゃがみ込む。


「シルヴィア、こっちへおいで。」


 両手を広げる。


 私はお父さんとお母さんを見比べ、小さく息を吸った。


(行ける。)


 私はゆっくりと足を踏み出した。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 体が揺れる。


 それでも止まらない。


 四歩。


 五歩。


 あと少し。


 もう少しで届く。


 お父さんも優しく笑いながら待っていてくれる。


「ゆっくりでいい。」


「焦らなくていいぞ。」


 二人の声が背中を押してくれる。


 その瞬間だった。


 私は転ぶことなく、お父さんの胸へ飛び込んだ。


「よくできた!」


 大きな手が私の頭を優しく撫でる。


 私は思わず笑顔になった。


 こんなにも嬉しい。


 歩けることが。


 褒めてもらえることが。


 家族が喜んでくれることが。


 全部、全部嬉しかった。


(ありがとう。)


(お父さん。)


(お母さん。)


 その二つの言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


 まだ上手く口にはできない。


 でも、その音は少しずつ形になり始めていた。


 もう少し。


 本当に、あと少しだけで――。六話 初めての言葉


 季節はゆっくりと巡り、暖かな春は色鮮やかな夏へと姿を変えていた。


 庭に咲いていた花々は力強く咲き誇り、窓の外では蝉にも似た虫たちの鳴き声が賑やかに響いている。


 この世界へ生まれてから、一年。


 私は、一歳の誕生日を迎えていた。


 「よいしょ……。」


 短い足を懸命に前へ出す。


 一歩。


 また一歩。


 体はまだふらつくけれど、転ばずに歩ける距離は少しずつ伸びていた。


「ふふっ、シルヴィア、上手ね。」


 優しい声と共に、お母さんが微笑む。


 私は嬉しくなり、小さく笑い返した。


「えへへ……。」


 まだ上手く話せない。


 それでも、前よりずっと声が出るようになった。


 泣き声だけだった私の口から、少しずつ音が生まれている。


 それだけで胸がいっぱいになる。


(話せる……。)


(私の声が、ちゃんとある。)


 前世では、話すことはできても、自分の声がどんなふうに響いているのか分からなかった。


 家族が笑ってくれた理由も、優しく返事をしてくれた理由も、私は表情から想像するしかなかった。


 でも今は違う。


 自分の声が耳に届く。


 お母さんの返事も聞こえる。


 その当たり前が、何よりも嬉しかった。


 私は再び歩き始める。


 一歩。


 二歩。


 三歩――


「あっ。」


 足がもつれる。


 前へ倒れそうになった、その瞬間。


 ふわり、と温かな腕が私を受け止めた。


「危ない危ない。」


 お母さんが優しく抱きしめてくれる。


 その胸から聞こえる心臓の音は、今日も規則正しく鼓動を刻んでいた。


 トクン。


 トクン。


 私はその音が好きだった。


 命がそこにある証。


 安心できる音。


 前世では、病室で自分の鼓動ばかりを感じていた。


 今は違う。


 大好きな人の鼓動を、こんなにも近くで聞くことができる。


「シルヴィアは本当に頑張り屋さんね。」


 頭を優しく撫でられる。


 その温もりに目を細めながら、私は小さく頷いた。


 すると玄関の扉が開く音が響く。


 ギィ……


「ただいま。」


 聞き慣れた低く優しい声。


 私は勢いよく顔を上げた。


(お父さん!)


 庭仕事を終えたのだろう。


 額には汗が滲み、肩には木剣が担がれている。


 お父さんは私を見ると、柔らかく目を細めた。


「今日は歩けるようになったって?」


「ええ。さっき五歩も歩いたのよ。」


「本当か!」


 お父さんは驚いたように笑い、私の前でしゃがみ込む。


「シルヴィア、こっちへおいで。」


 両手を広げる。


 私はお父さんとお母さんを見比べ、小さく息を吸った。


(行ける。)


 私はゆっくりと足を踏み出した。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 体が揺れる。


 それでも止まらない。


 四歩。


 五歩。


 あと少し。


 もう少しで届く。


 お父さんも優しく笑いながら待っていてくれる。


「ゆっくりでいい。」


「焦らなくていいぞ。」


 二人の声が背中を押してくれる。


 その瞬間だった。


 私は転ぶことなく、お父さんの胸へ飛び込んだ。


「よくできた!」


 大きな手が私の頭を優しく撫でる。


 私は思わず笑顔になった。


 こんなにも嬉しい。


 歩けることが。


 褒めてもらえることが。


 家族が喜んでくれることが。


 全部、全部嬉しかった。


(ありがとう。)


(お父さん。)


(お母さん。)


 その二つの言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


 まだ上手く口にはできない。


 でも、その音は少しずつ形になり始めていた。


 もう少し。


 本当に、あと少しだけで――。


 お父さんの胸に飛び込むと、大きな手が私の背中を優しく叩いた。


「ははっ、本当に歩けるようになったな。」


「あなた、今日はずっとその話ばかりね。」


「当然だろう。シルヴィアの成長だぞ?」


 お父さんは少し照れくさそうに笑いながらも、嬉しそうに私を高く抱き上げた。


 ふわり、と体が宙へ浮く。


「きゃっ……!」


 驚きながらも、不思議と怖くはなかった。


 むしろ楽しくて、自然と笑みがこぼれる。


「ふふっ、笑ってる。」


「気に入ったみたいだな。」


 もう一度。


 そして、もう一度。


 お父さんは私を優しく抱き上げる。


 そのたびに笑い声が部屋いっぱいに響いた。


(この時間が好き。)


 家族が笑っている。


 私も笑っている。


 それだけで胸が温かくなる。


 前世では、こんな時間を当たり前のように過ごすことはできなかった。


 だからこそ、一瞬一瞬を大切にしたかった。


 その日の午後。


 お母さんは私を膝の上へ座らせ、一冊の絵本を開いた。


 厚手の紙でできた、小さな子ども向けの本。


 色鮮やかな挿絵がたくさん描かれている。


「これは、お花。」


 お母さんは赤い花を指差す。


 私はじっと見つめる。


(おはな……。)


「これは、鳥。」


 青い羽を広げた小鳥。


「とり……。」


 小さく口を動かしてみる。


 まだ上手く言えない。


 でも、お母さんは嬉しそうに笑った。


「そう、鳥よ。」


 褒めてもらえるだけで嬉しかった。


 私は何度も絵本を見つめる。


 一つ一つの絵に、名前がある。


 一つ一つの音に、意味がある。


(すごい……。)


 音は、ただ聞こえるだけじゃない。


 気持ちを伝えたり、物の名前を知ったり、人と人を繋いだり。


 言葉には、そんな力があった。


 前世では知らなかった。


 知らなかったからこそ、今、その一つ一つが宝物のように思える。


「これは、お父さん。」


 お母さんは笑いながら、部屋へ入ってきたお父さんを指差した。


 私はお父さんを見る。


 お父さんも優しく微笑みながら手を振ってくれた。


「おとうさん。」


 お母さんがゆっくり発音する。


(お……とう……さん。)


 口の中で何度も繰り返す。


 難しい。


 でも、覚えたい。


 大好きな人の呼び方だから。


 続いて、お母さんは自分の胸へ手を当てた。


「お母さん。」


 優しい笑顔。


 温かい声。


 私はその顔をじっと見つめる。


(おかあ……さん。)


 心の中で何度も繰り返した。


 すると、お母さんは私の頭を優しく撫でながら微笑む。


「焦らなくていいのよ、シルヴィア。」


「ゆっくり覚えていきましょう。」


 その言葉に、私は小さく頷いた。


(うん。)


(急がなくていい。)


(私は、この世界で生きていくんだから。)


 窓の外では、柔らかな風が庭の花々を揺らしていた。


 その風に乗るように、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。


 私は静かに耳を澄ませる。


 一年前なら、決して知ることのできなかった音。


 今では、そのどれもが私の世界を彩る大切な存在だった。


 それからというもの、私は毎日のようにお母さんと絵本を開くようになった。


 一冊。


 また一冊。


 少しずつ、少しずつ。


 この世界の言葉を覚えていく。


 お母さんは決して焦らせなかった。


 私が一つ覚えるたびに、「すごいわ」と笑ってくれる。


 その笑顔を見るたびに、もっと覚えたいと思えた。


 夕暮れになる頃、お父さんも仕事を終えて帰ってきた。


「シルヴィア、今日は何を覚えたんだ?」


 お父さんが私の前にしゃがみ込む。


 私はじっとその顔を見つめた。


(お父さん……。)


 頭の中では言える。


 でも、口にすると難しい。


「お……。」


 二人が息を呑む。


 私はもう一度、ゆっくりと口を動かした。


「お、と……。」


 あと少し。


 もう少しなのに、上手く続かない。


 悔しくて唇を噛む。


 そんな私の頭を、お父さんは優しく撫でた。


「十分だ。」


「焦らなくていい。」


「シルヴィアのペースで覚えていけばいい。」


 その言葉に、お母さんも微笑みながら頷く。


「ええ。この子はちゃんと頑張ってるもの。」


 二人は失敗した私を責めることはなかった。


 それどころか、少し話せただけで心から喜んでくれる。


(温かい……。)


 胸の奥がじんわりと熱くなる。


 前世でも家族は優しかった。


 だけど、私はその優しさに応えられたのだろうか。


 ありがとう。


 大好き。


 そんな言葉さえ、一度も自分の声で伝えられなかった。


 だから今度こそ。


 この人生では、自分の口でちゃんと伝えたい。


 そう強く思った。


 その日の夜。


 ベッドに横になりながら、私は今日覚えた言葉を心の中で何度も繰り返していた。


(お父さん。)


(お母さん。)


(花。)


(鳥。)


(空。)


 一つ覚えるたびに、この世界が少しずつ広がっていく。


 音しかなかった世界に意味が生まれ、その意味が私の人生を鮮やかに彩っていく。


 私は目を閉じ、小さく微笑んだ。


(明日は、どんな言葉を覚えられるんだろう。)


 その期待を胸に抱きながら、私は静かに眠りへと落ちていった。


 翌朝。


 窓から差し込む柔らかな朝日が、私の瞼を優しく照らしていた。


 鳥たちのさえずり。


 木々を揺らす風の音。


 遠くから聞こえる馬車の車輪。


 この世界には、今日もたくさんの音が溢れている。


 私はゆっくりと身体を起こし、小さく伸びをした。


「おはよう、シルヴィア。」


 お母さんがカーテンを開けながら優しく微笑む。


 その笑顔を見た瞬間、昨日のことを思い出した。


(今日は……。)


(言えるかな。)


 私はベッドから降りると、よちよちと歩いてお母さんのところへ向かう。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 もう転ぶことはほとんどない。


 歩くことにも少しずつ慣れてきた。


 お母さんは私を抱き上げ、いつものように優しく頬を寄せる。


「今日もいい子ね。」


 その温もりに包まれながら、私は口を開いた。


「……お。」


 昨日よりも、少しだけ自然に声が出た。


 お母さんは気付いたように私を見つめる。


「どうしたの?」


 私は小さく息を吸い込んだ。


(言いたい。)


(ちゃんと伝えたい。)


 前世では、一度も言えなかった。


 聞こえなかったから。


 でも今は違う。


 私は、この声で伝えられる。


「……おか。」


 お母さんの目が少し大きくなる。


 私は勇気を振り絞った。


「……おかあ……。」


 あと少し。


 あと一言。


 胸がどきどきする。


 失敗するかもしれない。


 それでも伝えたい。


 私はお母さんの顔をまっすぐ見つめながら、小さく微笑んだ。


「……おかあさん。」


 部屋の空気が、ぴたりと止まった。


 お母さんは言葉を失い、目を見開いたまま動かない。


 やがて、その瞳には大粒の涙がゆっくりと浮かび始めた。


「……シルヴィア。」


 震える声で私の名前を呼ぶ。


 その声を聞いた私は、少し照れくさくなって笑った。


 ちゃんと届いた。


 私の声が。


 私の想いが。


 その瞬間、廊下から足音が響く。


「どうした?」


 お父さんが慌てて部屋へ入ってくる。


 泣いているお母さんを見て驚いたように立ち止まる。


「何かあったのか?」


 お母さんは涙を拭いながら、嬉しそうに笑った。


「あなた……。」


「今、この子が……。」


「私を『おかあさん』って呼んでくれたの。」


 お父さんは一瞬だけ目を丸くし、それからゆっくりと笑みを浮かべた。


 その笑顔は、今まで見た中で一番優しかった。


 お父さんはゆっくりと私の前まで歩み寄ると、そっと膝をついた。


 その瞳は少し潤んでいるように見えた。


「シルヴィア……。」


 優しく名前を呼ばれる。


 私はお父さんを見上げ、小さく笑った。


 お父さんは大きな手で私の頭をそっと撫でる。


「ありがとう。」


 その一言には、たくさんの想いが込められていた。


 私はその意味をすべて理解できるわけではない。


 それでも、その声がとても温かいことだけは分かった。


 お母さんは私をぎゅっと抱きしめる。


「初めて呼んでくれたわね……。」


「ずっと、この日を楽しみにしていたの。」


 その言葉を聞きながら、私は胸がいっぱいになった。


(こんなにも……。)


(こんなにも喜んでくれるんだ。)


 前世では、何度も「ありがとう」と伝えたいと思った。


 「お父さん」「お母さん」と呼びたいと思った。


 だけど、その機会はもう訪れなかった。


 だからこそ、この瞬間は私にとって何よりも大切な宝物だった。


 その日の昼食。


 食卓では、お父さんもお母さんも、何度も朝の出来事を思い返していた。


「本当に驚いたな。」


「ええ。あんなにはっきり話せるなんて思わなかったわ。」


「次は、お父さんって呼んでもらえるように頑張らないとな。」


 そう言ってお父さんは笑う。


 お母さんも思わず吹き出した。


「競争することじゃないでしょう?」


「いや、大事なことだ。」


 二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い合う。


 その笑い声につられて、私も笑った。


「えへへ。」


 すると、お父さんが少し身を乗り出してくる。


「シルヴィア。」


「言ってみるか?」


 お父さんは自分を指差しながら、ゆっくりと口を動かした。


「お・と・う・さ・ん。」


 私は真剣な表情でその口の動きを見つめる。


(おとうさん。)


(おとうさん……。)


 何度も心の中で繰り返す。


 そして、小さく口を開いた。


「……お。」


 惜しい。


 でも続かない。


 私は少しだけ悔しくなって俯いた。


 そんな私の肩に、お父さんは優しく手を置いた。


「大丈夫。」


「シルヴィアは十分頑張ってる。」


「急がなくていい。」


「いつか呼んでくれたら、それだけで嬉しい。」


 その優しい言葉に、私は小さく頷く。


(うん。)


(絶対に呼ぶ。)


(今度は、お父さんって。)


 心の中で静かに約束した。


 その約束が叶う日は、きっともう遠くない。



 夕暮れが近づき、窓から差し込む光が少しずつ橙色へと変わっていく。


 家の中には、夕食の支度をする音が響いていた。


 野菜を刻む音。


 鍋が煮える音。


 木べらが鍋をかき混ぜる音。


 どれも私が大好きな音だった。


 お母さんは慣れた手つきで薪を暖炉へと並べると、小さく息を吸い込んだ。


 私は自然とその様子に目を向ける。


(魔法……。)


 お母さんは静かに目を閉じる。


 以前聞いた詠唱とは少し違う。


 火を起こすだけではなく、炎の強さを調整するための魔法なのだろう。


「――燃え盛る炎よ。我が願いに応え、その力を穏やかな熱へと変えよ。


 紅蓮の息吹よ、この場所を温もりで満たし、命を育む火となれ。


 《フレイム》」


 詠唱が終わると同時に、小さな炎が薪へと灯る。


 パチッ。


 パチパチ……。


 炎は勢いよく燃え上がることなく、料理にちょうどいい穏やかな火加減で暖炉を包んだ。


(やっぱり綺麗……。)


 炎は怖いものではなく、温かなものだった。


 家族の食卓を照らし、美味しい料理を作り、寒い夜には身体を温めてくれる。


 そんな魔法を見ていると、胸の奥がくすぐられる。


(私も……。)


(いつか、お母さんみたいに魔法を使いたい。)


 その想いは、日に日に大きくなっていく。


 お母さんは私が炎を見つめていることに気付くと、優しく微笑んだ。


「シルヴィアも、魔法が好きなの?」


 私は小さく頷く。


 まだ言葉では伝えられない。


 でも、その気持ちは本物だった。


 お母さんはそんな私の頭を優しく撫でる。


「きっと、あなたも使えるようになるわ。」


「焦らなくても大丈夫。」


「少しずつ、大きくなってからね。」


 その言葉を聞き、私は暖炉の炎をもう一度見つめた。


 炎は静かに揺れている。


 まるで未来を照らす灯火のように。


 私は心の中で、小さく誓う。


(もっと話せるようになる。)


(もっと歩けるようになる。)


(そして……。)


(いつか、お母さんみたいに、誰かを笑顔にできる魔法を使えるようになりたい。)


 その小さな夢は、まだ誰にも聞こえない。


 けれど確かに、シルヴィアという少女の胸の中で、大きく育ち始めていた。


 夕食を終えた私は、お父さんの膝の上に座っていた。


 暖炉では、先ほどお母さんが灯した炎が静かに揺れている。


 部屋全体を包み込む温かな空気に、自然と瞼が重くなっていく。


「今日は本当に驚いたな。」


 お父さんが優しく私の頭を撫でる。


「初めて『おかあさん』って言ったんだもの。」


 お母さんは嬉しそうに笑いながら食器を片付けていた。


「何度聞いても嬉しくなっちゃう。」


 その横顔は、今まで見た中で一番幸せそうだった。


(そんなに……。)


(そんなに嬉しかったんだ。)


 たった一言。


 『おかあさん』。


 それだけで二人は笑顔になってくれた。


 私は胸の奥が温かくなるのを感じながら、小さくお父さんの服を握る。


「ん?」


 お父さんが首を傾げる。


 私はじっとその顔を見つめた。


(まだ……。)


(まだ言えない。)


 心の中では何度も呼べる。


 でも口に出そうとすると、あと一歩届かない。


「ふふっ。」


 お母さんはそんな私を見て優しく笑う。


「きっと、お父さんもすぐ呼んでもらえるわ。」


「焦る必要なんてないもの。」


「そうだな。」


 お父さんも穏やかに頷いた。


「シルヴィアが元気に笑ってくれているだけで十分だ。」


 その言葉に、私は思わず笑みを浮かべた。


(優しい……。)


(私は、本当に幸せ者だ。)


 前世では叶えられなかった日々。


 家族の声を聞き、笑い合い、同じ食卓を囲む。


 そんな当たり前が、今の私には何よりも大切だった。


 私は眠気に身を任せながら、お父さんの胸にもたれかかる。


 トクン。


 トクン。


 鼓動が聞こえる。


 安心する音。


 大好きな音。


(次は……。)


(絶対に『おとうさん』って呼ぶ。)


 そう心の中で静かに誓いながら、私はゆっくりと瞳を閉じた。


 暖炉の炎は静かに揺れ続け、アルテリア家の穏やかな夜は、更けていくのだった。



第6話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


今回は大きな戦闘や派手な展開ではなく、家族との何気ない日常と、シルヴィアの小さな成長を中心に描きました。


「おかあさん」というたった一言ですが、シルヴィアにとっては前世では叶えられなかった大切な願いの一つです。皆様にも、その想いが少しでも伝わっていたら嬉しく思います。


ここから先は、少しずつ世界も広がり、魔法や新たな出会い、そしてシルヴィアの成長がさらに描かれていきます。ゆっくりではありますが、一歩ずつ歩んでいく彼女を温かく見守っていただけたら幸いです。


もし「面白かった」「続きが気になる」と感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると今後の執筆の大きな励みになります。


次回、第7話もよろしくお願いいたします。


――藤田慎二

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