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70 重たい仮面

朝日が地平線の端を白ませ始める。


カレンが届けてくれた食事を平らげた後、僕は例の通信兵の牢裏でずっと息を潜めていた。

だが結局、昨晩コイツが本国と通信することはなかった。


「……通信できるのは、一日十分のみ……。何があってもいいように、日が変わる直前に連絡するのが最善か……?クソッ……」


寝に落ちる前、壁越しに聞こえてきた独白。なるほど、追い詰められていても頭は回るらしい。

そして今もまだ、規則的な寝息が聞こえてきている。


これなら今すぐ通信することもないだろう。

この場を離れるなら、今だ。


僕はその場を静かに離れ、牢から大きく距離を取って迂回した。

そして、一晩中見張りの『フリ』をしてくれていたカレンの前へ、今しがた到着したかのように姿を現す。


「おはよう、カレン!」

わざと少し遠い位置から、明るく大きめ声をかけた。


「おはようございます。王様」

カレンが清々しい笑顔で応える。僕たちの声を聞きつけて、何人かの捕虜が牢の隙間からこちらを伺う気配がした。

……それでいい。僕は今ここに来た。そう思わせることが重要だ。


彼女に歩み寄り、声を潜める。

「昨晩はありがとね。もう大丈夫だから、家に帰ってゆっくり休んで」


カレンの頬が、ふわりと緩んだ。

「ううん、全然だよ。いつでも頼って! ……それより、ジン君は大丈夫なの?」

「僕はまだ全く疲れてないよ。このまま明日の朝まで稼働できるくらいにはね」


彼女は少しだけ不安そうに、「そっか」と笑った。


さて、今日はネイトにお願いごとをしないといけない。

そして、この捕虜たちの今後についてガルシアの知恵を借りる必要がある。

うーん、今日も忙しくなりそうだ。


「じゃあカレン、帰る途中でネイトを呼んできてくれるかな。あと、申し訳ないけどガルシアにも声をかけてほしい」

「承知しました。それでは、私はこれで失礼します」


カレンはぺこりと頭を下げて、村の方へと歩き出した。

数歩進んだところで、彼女はチラリとこちらを振り返り、微笑みながら軽く手を振った。それに僕も、手を振りかえす。


……多分、もう怖がられてはいない……かな。


少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。

……けれど。

それと同時に、どろりとした嫌な考えが頭にこびりついて離れなくなる。


心底…億劫だ。


この先、この国に住む全員に対して、こうやって怖がられないように気を使い続けなければならないのか。

僕は自分の意志で人間を皆殺しにした。そしてグルガル族の総意によって、現在王座に押し上げられている。


けれど……何もかもが、死ぬほど面倒臭い。

 

グルガルの民のことは大好きだ。幸せになってほしいと心から願っている。それは本心だ。

でも、僕自身の本音を言えば……もう静かに、何も考えずに消えてしまいたい。

 

黒い衝動に身を任せ、一億人の人間を鏖殺した。

その時点で、僕の人生の正解…『生きる理由』は失われている。


アヤさんと出会うまでは、人間と共存すること。

アヤさんと出会ってからは、彼女と二人で幸せになること。

そしてアヤさんを失ってからは……その原因となった世界へ復讐すること。


復讐を遂げた今、僕には生きる理由の残骸すら見当たらない。

そんな空っぽの僕が、一国の王なんてやっていていいはずがないんだ。

 

カレンのような親しい友人にさえ「怖がられないように振る舞うこと」に疲弊を感じてしまうような僕が、国民を幸せにするなんて……。


……僕にできるのは、降りかかる火の粉を、『人間』を、殺すことだけだ。


そんな考えが過った瞬間、頭の中でパチリと、ピースが噛み合うような感覚がした。

霧が晴れるように、思考がクリアになっていく。



あぁ、そうだ。

それなら、これっぽっちも面倒じゃない。



……それなら、したい。

 


思考が煮え立ち、二十個の牢屋へと振り返る。

一度浮かんだその考えを、形にしたくてたまらなくなる。

一人きりの朝。思考がどんどん黒く、深く、塗り潰されていく。

 


殺したい。憎い。ころしたい。



……少しなら、いいよね。数人だけ間引いても、誰も怒らないはずだ。

今なら誰も見ていない。脱走しようとしたとか、僕を侮辱したとか、適当な理由を並べれば、ガルシアたちだって納得してくれるはずだ。

 

自分の意思とは無関係に、気づけば口角が吊り上がっていた。


表情を直そうともせず、一歩、一番近くの牢へと足を踏み出した、その時。


「おーい! 王様ー! きたよー!」

 

遠くから響いたネイトの能天気な呼び声に、心臓を直接掴まれたような衝撃が走り、ハッと我に返った。

 

……何を、考えていたんだ。僕は。

 

今、しっかり理解した。

今の僕は、自分だけの考えと感情で物事を決めていい状態じゃない。


激しい動悸を抑えながら、頭を左右に振って冷えた空気を取り込む。

とりあえず、ガルシアと二人で物事を決めていこう。今の僕に必要なのは、冷静な思考を持つ人からの助言だ。


……でも、少しだけ残念だったなぁ。


「……ははっ」

本当に……救いようがないな、僕は。


こぼれ落ちた自身への嘲笑は、朝日の中に冷たく消えていった。




煮え立ちかけていた闇を心の奥底へ押し込み、僕は貼り付けたような笑顔を作ってネイトに向き直った。


「おはよう、ネイト。朝早くから悪かったね」

「全然良いよー。なんたって王命だしね!」


ネイトはいつもの調子で冗談を飛ばしてくる。その屈託のなさに、少しだけ救われた気がした。


僕は彼を少し離れた場所へ連れ出し、今後担ってもらいたい「役割」について説明を始めた。彼の野球の腕、その天賦の才を存分に振るえる役目だ。具体的な使い道、そしてそれを行使してほしい時、僕がどのような合図を送るか――。


……説明を終えた瞬間。

ネイトの表情から活気が消え、なんとも言えない、心底嫌そうな顔がそこにはあった。


「……それって、やっぱり俺にしかできないことかな?」

低く、拒絶の色の混じった声だった。


ネイトは昔から、争いや暴力というものを心底嫌っていた。

かつて僕たちが人間の『暇つぶし』に遭い、同族が傷つけられるたび、彼は必ず苦しそうに顔を背けていた。そんな心優しい彼にとって、僕が提示した「役割」は、あまりに重く、残酷なものに映ったに違いない。

……その苦悩を思うと、僕の胸にも微かな申し訳なさが過る。


「僕の知る限りは、ネイトにしか無理かな。……嫌な役目なのは分かってる。でも、実際にそれが必要になる可能性は低いし、あくまで最悪の事態を防ぐための保険だよ。だから、お願い!」

「…………。分かったよ。王命、だもんね」


それは、ここに来た時に冗談で言った『王命』ではなく、本心からの言葉だった。


諦めたように吐き出されたその一言が、僕が抱いていたはずの申し訳なさを瞬時に消し去り、代わりに出口のない鋭い棘となって心に突き刺さった。


……なんだよ、それ。僕が間違ってるっていうのか?


ふつふつと、理不尽な怒りが込み上げてくる。

僕は自分勝手に言っているんじゃない。この国と、500万人の民全員のためを思って提案しているんだ。それなのに、どうしてそんな被害者のような顔をされるんだ。


僕だけで、守れって言うのか? 僕一人で、この国のすべての命を背負い続けなきゃいけないのか?

しかも……『王命』だから、僕に従うのか。僕はまだ、君の親友でいられていると思っていたのに。君の中では、僕はもう「友達」ですらなくなったのか?


気づかないうちに、僕の表情から笑顔が剥がれ落ちていた。

その無表情に気づいたのか、ネイトが「あ……」と息を呑んで後退りする。


……クソ。その反応すらも、見ていて気分が悪い。本当に、すべてが億劫だ。


「ご、ごめん……! そんなつもりじゃ……」

怯えたような彼の声に、少しだけ冷静さを取り戻す。

大きく一つ深呼吸をし、強張った顔の筋肉を無理やり解く。そして今度は、悲しげな「友人の顔」を作ってみせた。


「……いや、僕の方こそごめん。現状まだこの国に軍隊はないし、これからも不測の事態が起こるかもしれない。僕以外にも、国を守れる人がいればいいなって思っただけなんだ。……本当に、ごめんなさい」

 

僕は静かに頭を下げる。

……面倒だ。


「ううん、謝るのは俺のほうだよ。王様が一番大変なことなんて、分かりきってるのに……。本当にごめんね」


顔を上げると、ネイトは僕と同じように、重い罪悪感に顔を歪めていた。

……これも、面倒だ。


「いいんだ。難しいなら、また別の方法を考えるから」

「いや! やるよ! 国のみんなのためだし、何より……親友からのお願いだしね!」


ネイトは笑顔を取り戻し、僕に拳を向けてきた。

……最初から、そう言えばいいのに。


「ありがとう。本当に助かるよ。……まだ、友達だって言ってくれるんだね」

「当たり前だよー!」

僕も精一杯の笑顔を作り、自分の拳を彼のそれにコツンとぶつける。


わずか十数分の出来事だというのに、夜通しの監視よりもずっと疲弊してしまった。もう、一刻も早く戻ってほしい。

笑顔の裏側で、自分自身を嫌いになりそうな思考に染まりきっていたその時――砂を踏む、違う足音が聞こえてきた。


「お呼びですか、王よ」

 ガルシアだ。


……よかった。今はこんなダルい演技を続けるよりも、実務的な議論がしたい。


「あ、ガルシア。来てくれてありがとう。……じゃあネイト、さっき話したこと、お願いね。あと、今夜の見張りでまたここに来てほしいな」

「りょうかーい、頑張るよ! じゃあ、また夜にねー!」

ネイトは元気よく手を振り、走り去っていった。


「……王よ。『さっき話したこと』とは、一体?」

「……うーん。また後で説明するよ」


怪訝そうに尋ねるガルシアに、僕は曖昧な笑みを返してその話題を切り上げた。今はネイトのことなんかより、これからの話をしたい気分だ。


「それよりガルシア。実務の話をしよう」


僕が声を落とすと、ガルシアは即座に直立不動の姿勢をとり、鋭い眼光を僕に向けた。


「はっ。なんなりとお申し付けください」

「ありがとう。最初に、アイツらにいろいろ聞きたいことがあるんだけど、尋問するならいつ始めるのが一番効果的だと思う?」


ガルシアは冷徹な目で二十個の牢屋を見据え、淀みなく答えた。

「今すぐに、でございます。慣れない土地で捕らえられ、母艦を失い、一晩を不安の中で過ごした。彼らが絶望し、精神的に最も磨り減っている今こそ、最も口が軽くなる時かと推察いたします」

「なるほど、そういうものなんだね。……じゃあ、今日から始めよう」


……ああ、気分が良い。


昨晩から続いていた、相手の感情を世話し、顔色を窺うような会話じゃない。

益と効率、それだけを追求する対話。今の僕には、この乾いた空気の方がずっと馴染む。


ガルシアはさらに具体的な尋問の手法を進言してきた。


「では、まずは捕虜の中から五人ほどを選別し、一人ずつ別個に牢から引き出して、全く同じ質問をぶつけるのがよろしいかと。回答を照合すれば、情報の精度を格段に高めることができます」

「いいね、それでいこう。……ああ、そうだ。質問を始める前に、こう付け加えるのはどうかな?」


僕は笑顔を貼り付けたまま、ガルシアに提案する。

「『全員に同じことを聞く。一人でも違う回答をしたら、全員に良くないことが起こるよ』……って」


ガルシアの眉間が、一瞬だけピクリと動いた。

「連帯責任による心理的圧力……ですね。承知いたしました。王の思慮、その通りに執行いたします」


ガルシアは深く頭を下げた。察しが良くて助かる。


「次に見張りのシフトについてね。カレンに言われたんだけど、やっぱり僕一人よりも、もう一人はいた方が盗聴するのに効率的だと思う。四班三直でシフトを組んでほしい。昨晩はカレンにそのままお願いしたけど……彼女は外してほしいかな。女性には負担が大きいと思う。あと、ネイトは基本、夜のシフトに入れるようにして」

「ネイトを夜に、でございますか。……恐れながら進言させていただきます。彼はまだ若くございます。何故、最も警戒を要する夜の時間に彼を充てるのでございましょうか」


当然の疑問だ。夜は、最も脱走の誘惑に駆られる時間帯だろう。

……だからこそ、ネイトを置くことに意味がある。


「彼には、特別な役割を与えたからね」

「…………。御心のままに」

ガルシアはそれ以上踏み込んでこなかった。


……気分が良い。


そして話題は、捕虜たちの処遇……食事へと移る。

「最後に……あいつらの食事だけど、極力、惨めなものにしてくれ。死なれちゃったら困るけど、人間なんかにいいものを食べさせても意味がないからね」


僕が淡々と言い放つと、ガルシアの額に微かな汗が滲んだ。これまでの会話で、彼は僕の中に、かつてないほど冷酷な「何か」を見出しているのかもしれない。

……まあ、いい。ガルシアは友人ではない。どちらかといえば、有能な「仕事仲間」だ。なんなら、今の僕のすべてを知ってもらっても構わないとすら思っている。


「……承知いたしました。では、黒パン一切れと、具の少ない薄いスープ程度にいたしましょう」

「え?」


僕は思わず、素で聞き返してしまった。


「ガルシア。僕たちが人間に支配されていた頃の朝食より豪華なのは、おかしいんじゃないかな。……せめてパン一枚か、ゆで卵一個。それだけで十分だよ」


僕にとっては、あまりに当然の、公平な判断だった。支配されていた頃の僕らは、それだけの食事で過酷な労働を強いられていたのだから。

しかし、ガルシアは今度は、隠しきれない恐怖の色をその眼に浮かべた。


「……王よ。人間という種族は我らグルガル族とは違い、あまりに虚弱にございます。それほどまでの減食となれば、数日で衰弱死する可能性が極めて高くございます」


……死ぬ? パン一枚貰えるのに?


……あぁ、そうだった。あいつらは、あんなに傲慢な癖に、生命体としては僕らの足元にも及ばない「弱者」なのだ。

心底不服だったが、それを顔に出すのは控えた。ガルシアをこれ以上萎縮させたら、業務の効率が落ちてしまうかもしれない。


「……そうなんだ。じゃあ、ガルシアの言う通りにしてよ。死なれたら困るからね」

「はっ。賢明な御判断、恐れ入ります」


賢明……か。そんなんじゃないと思うけど。


「……まあ、いいや。後のことは任せるよ。僕はまた通信兵のとこに戻るから。……あ、人間に尋問をする時は僕も遠目に見てるね。おかしなことしたらすぐ取り押さえるよ」

「御意のままに」


ガルシアの硬い声を聞き届け、僕は気分よくその場を後にした。足取りは軽く、通信兵の牢の裏手に向かう。

だが歩き始めてから、ふと思い出す。


あ、具体的にどういう情報を聞き出してほしいか、ガルシアに伝えるのを忘れていたな。


一番知りたいのは、魔法についてだ。

僕……いや、グルガル族の全員、魔法に関する知識はほとんど持ち合わせていない。


どんな種類の魔法が存在するのか。僕の魔法は、人間たちの基準ではどれほどの強さなのか。十分以上も魔法を維持できる個体は存在するのか……。挙げ始めれば切りがない。


他にも、アータバルの正確な兵力や位置、この島を狙った真の理由、戦争になる可能性等、聞きたいことは山ほどあったはずだ。

けれど、不思議と焦りはなかった。


……まあ、いいや。尋問が始まる時にまたここへ来るし、その時に指示しよっと。




心底憎んでいる人間の今後を、面倒な感情のやり取りを一切排した会話で決定づけていく。

その冷徹な手応えは、乾ききった僕の心にはこの上なく心地よかった。


雲ひとつない空から、透き通った光が降り注ぐ。

気持ちの良い朝日に全身を照らされながら、僕は、泥のようにどす黒い自分自身の影を踏みつけるようにして、歩き続けた。

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