第三章:BEAST WARS②
エルデニアにある数多くの宿は大都市と言うだけあり外観から高級感を皆漂わせている。その殆どが客層を貴族と言った、俗に言う金持ちを相手に運営をしており一般市民を対象にした宿は少ない。
そんな数多くある宿の一つ、桃源郷。
来訪者のニーズに合わせて貴族だけでなく一般市民にも気軽に宿泊出来るよう環境が整えられている。一般市民向けの格安の部屋も確かにあるがエルデニアの中にあると言うだけあり、小さな村で経営されている宿の数倍以上の値段を張る。
その一室に龍彦はエルトルージェと共に宿を取った。
選んだのは貴族向け、即ち超高級な一室をだ。
貴族向けと言う事もありその内装は正に豪華の一言に尽きる。天幕付きのベッドに始まり赤い絨毯や家具一式は、素人目から見ても一般家庭の大黒柱がどれだけ汗水流せば購入出来るかわからず、使用する事さえ躊躇う程の高級感を漂わせている。
「ね、ねぇアンタさ……本当にこんな高級な宿に泊まって大丈夫なの?」
「はぁ……はぁ……さ、さぁ……なんでだろうな。でも多分大丈夫だろ、うん」
実家が剣術家であっても決して龍彦の家は裕福ではない。
元いた世界では、歩いて移動出来る距離ならば公共交通機関を極力使わず徒歩や自転車で移動し、一人で外食する時はレストランには入らずワンコインの更に半額の値で買える弁当を購入し公園で食事を済ませたりした。
この世界に来てからもカエデから渡された路銀を節約に節約し、不安を感じれば寄る村々で農作業や居酒屋でバイトをして繋ぎながらエルデニアまでやってきた。そんな暮らしをしてきた人間が高級宿に、それも一番最高級の部屋に宿泊するなど普通に考えれば不可能である。
それを可能とする術を、龍彦は持っている。
生まれて初めて魅了の異能を私欲目的で使った事に罪悪感を抱きつつも支配人と受付を口説き落とし、一般の宿より更に安い価格で一室を借りたのだった。
その対価として今晩、独身でそろそろ結婚を考えていると聞いてもいないのにわざと教えるようにいった支配人と酒を飲み交わす予定となっている。
酒に酔わせてその勢いに任せて既成事実を作られる可能性も充分にある為、何があっても絶対に自分のペースを乱さない事を何度も誓いながら龍彦はその条件を呑み、今に至る。
「それよりもいかん……いかんですよこれは」
エルデニア城の受付場にて繰り広げられた修羅場に龍彦は頭を悩ませた。
エルトルージェ達をエルデニア城の外まで引っ張り出した後、直様バトルロワイヤルが行われようとしていた。幾ら仲裁に入っても耳を貸さず、戦闘態勢に入り相手の出方を伺っている彼女達に――龍彦はエルトルージェの手を引きその場から逃走した。双極之太刀と言う異能を以てしても嫉妬と殺意に心を支配された四人の亜人を一度に制止させる自信など既に何処かへと消え去っている。
故にあの修羅場から逃走した。ただし想い人の手は離さなかった。
「まぁ男としては嬉しい訳よ? でもやっぱりこんな事はアニメや漫画の中だけでいいって言うか、なんて言うか……まぁ、そんな感じ」
「アンタ誰に向かって話してるの?」
複数の女性から好意を寄せられ自分を巡って争う……こんなシチュエーションは現実ではまず見られない。だからこそ漫画やアニメで描写される事によって視聴者は萌える。
それをいざ現実に、それも当事者として味わった感想は……胃潰瘍で今にも倒れてしまいそうになる程心身共に多大なストレスに襲われる事を身を以って味わった。
その中で特に注意が必要なのはカエデである。
呪術で意中の相手を虜にしようとする行動は、普通の女性なら絶対にしない。彼女の精神は魅了の異能によって病んでしまった。
ヤンデレ……病んでしまう程相手を愛しているから常識を逸脱した行為をも平気で行う女性の姿は、二次元だからこそ萌えるシチュエーションである。それが三次元で起きれば洒落にならない事を、龍彦はカエデ・クズノハと言う存在を通して理解した。
「はぁ……でも、とりあえずここにいる限り大丈夫だろ、多分」
「で、でもよく考えたらこんな高級な宿に泊まるのって初めてね――そんな事よりどうしてアンタと一緒の部屋なのよ! しかもベ、ベッドは一つだけしか用意されてないし!」
「し、仕方ないだろ? 武術大会が開かれるシーズンでもあった訳だし、ここしか空き室ないって受付の人も言ってたんだから!」
「だ、だからってなんでアンタなんかと……! そ、添い寝とか絶対にしないわよ!」
「わ、わかってるっつーの! 俺だってその辺の事は弁えてるつもりだ!」
シングルベッドが一つ。好感度が高ければ同じベッドで寝る事も出来ただろうが、エルトルージェとの関係はまだそこまで進んでいない。龍彦はいつか必ず想いを告げて一緒の布団に寝る事を夢見ながら、自前の寝袋を用意した。
「俺は床で寝るからエルトルージェはベッドを使ってくれていいよ。流石に女の子を床で寝させる訳にはいかないからな」
「と、当然じゃない! アンタみたいな奴と同じ部屋に泊まらせられるんだからね! 寝込み襲ってきたら絶対に許さないわよ!?」
「だからわかってるって……!」
「……ねぇ、どうしてアンタはアタシなんかを連れてきたの?」
エルトルージェの質問は最もだ。カエデ、カルナーザ、ライラと言う亜人がいたにも関わらず選ばれたのなら、当然どうして自分が選ばれたのか疑問と不安を抱く。龍彦は口元を小さく緩め、彼女の問いに答える。
「ん? あぁ、それはお前が初恋の相手だからだ……って言ったら、どうする?」
「なっ!? いいいい、いきなり何言い出すのよアンタは!?」
「顔を赤くして照れるエルトルージェキタコレ!」
「やっかましいわ!」
「まぁ可愛いエルトルージェを写真に収められなかったのは残念だけど――ちゃんとした理由を言うとな、一緒に旅して話とかしていて俺は凄く楽しかったんだ」
この言葉に嘘偽りはない。龍彦は真っ直ぐエルトルージェの目を見つめて言葉を紡ぐ。
「だから俺はもっとエルトルージェ・ヴォーダンって言う一人の女性をもっと知りたいって思った。それが理由……だな」
「な、何マジな顔で言ってるのよアンタ! も、もう勝手に言ってなさいよこの馬鹿!」
「あ、おいエルトルージェ!」
「ちょっと外に出掛けてくるわ! ここにいたら調子が狂っちゃうの!」
逃げるように部屋から出て行くエルトルージェ。荒々しく扉が閉められ彼女の足音が遠ざかっていき――完全に聞こえなくなった後龍彦はベッドへと大の字に寝転がった。
「……やれやれ、俺の気持ちが伝わるのはまだまだ先になりそうだな」
「青春をしているようじゃのぉお若い剣士よ」
「ん? ってうわぁぁぁぁぁぁっ!」
頭元に立っていた、クズノハの里で出会った謎の人狼族の老人に龍彦は驚愕の叫び声を上げながら飛び起きた。
「いいい、いつの間に!? って言うかどうして貴方がここいいるんですか!?」
「ホッホッホ。もう直ぐ武術大会が開かれるのじゃ、ならばそれを見にこのエルデニアに訪れるのは当然じゃろうて。しかし隣の部屋から聞き覚えのある声がしたかと思い来てみればまさかお前さんじゃったとはのぉ、それも我が同族の女を連れているとは」
「か、彼女はその……ちょっとした事故で一緒の部屋に泊まる事になっちゃったって言うかなんて言うか」
「ホッホッホ。隠さんでもよいよい。あれだけの美しい娘達に囲まれとる中で唯一あの娘の手を引いたのを見れば気があるのは一目瞭然じゃよ」
「……一体どこから見てたんですか?」
「さぁてどこからかのぉ。それよりお前さん、使わなかったみたいじゃな」
「え? あぁ、これですか。最初から俺には必要ないものでしたからね」
人狼族の老人より渡された参加許可証を龍彦は返した。
「ワシの読み通りの男じゃなお前さんは」
「最初から俺が使わないって……わかってたんですか?」
「さて、ただの老いぼれの勘じゃよ――お前さんなら、あの娘を……」
「え?」
「いやいや、なんでもないわい。さてワシは久しぶりにエルデニアの街を観光してくるかのぉ。明日お前さんが無事本戦へ出場出来る事を期待しておるぞ」
愉快そうに笑いながら退室する人狼族の老人を見送りながら、龍彦は内心首をひねった。何かを思わせるニュアンスの言葉を呟いた彼の瞳は、優しくも何か強い決意を秘めた輝きを宿していた。
龍彦はエルトルージェを探しに桃源郷の外へと出た。
相変わらず多くの人と亜人で賑わう城下町。そして出歩けば亜人の女性達から熱を帯びた視線を向けられる。
(やっぱり、目立つなぁ俺……)
エルトルージェがいない中一人寂しく客室で休んでいるのも気が引けると出たはいいものの、外には沢山の人で溢れている。当然魅了の異能によって心奪われた亜人の女性達から絶えず声が掛けられ、時折男の亜人から尻を揉まれる。それだけならばまだしも、こうも目立っては今頃必死に探しているだろうカエデ達に位置を自ら知らせているようなものだ。
見つかればカルナーザとライラは兎も角として、カエデは危険しかない。呪符による細工がバレた以上彼女は何がなんでも我が物にせんと挑んでくるだろう。もし彼女を拒もうものなら、最悪貴方を殺して私も死ぬ心中エンドを迎えるか、エルトルージェ達がいるから拒むのだと血濡れた殺戮エンドが待ち構えている――そんな妄想を脳裏に描き、冗談として片付けられないと本能的に感じ取った龍彦は身体を震わせた。
「カエデ達に見つからないようにエルデニアを観光しつつエルトルージェを探す……忙しすぎるだろこれ」
とは言えど愚痴を零していても始まらないのは事実である。龍彦は慎重かつ町中を移動する。その中で真っ先にある店へと足を運んだ。ファンタジー世界ならでは商法が許されているその店は、冒険者達の身を守る為の装備を販売する事を生業としている。
そう、武器屋だ。
「いらっしゃいお兄ちゃん! いい武器があるよ!」
「これが生武器屋……!」
店内に飾られている武器と言う武器に龍彦は幼子のように眼を輝かせた。
それはどれも刀とは違った魅力を放ち男心を擽らせる。一つ手に取り様々な角度からその刃の輝き、鋭さを鑑賞しては軽く振るい重さから扱いやすさを体感していく。
不意に誰かに肩を叩かれ振り返り――
「見つけましたよタツヒコさん」
武器に夢中になり時間の経過と周囲への警戒を怠ってしまった事を悔いた。
一番出会ってはならない相手に龍彦は恐怖に頬を引きつらせる。
「カ、カエデ……」
「もう、探しましたよタツヒコさん。一体どちらへ行かれていたんですか?」
「え、えっと……」
「まぁいいです。さぁ一緒に行きましょうタツヒコさん。ユキ達も待っていますし……それに、今後の明るい幸せ生活について色々とお話したいですしね」
呪符を構えるカエデ。彼女に殺気に当てられ逃げ出す来店者と店主。しんと静まり返った店内に一人残された龍彦は門番の如く出入り口の前に仁王立つ彼女から後退り、振り返り様に抜刀。陰之太刀にて壁を両断し退路を作るとそこから逃走を図った。
命あってこそ謝罪が出来る。逃げ出した店主に心の中で詫びながら龍彦は人混みに紛れる。今まで培ってきた技術を総動員させ間を縫うように素早くかつ無駄のない動きで龍彦は駆け抜けた。
「逃がしませんよタツヒコさん」
距離を大分開けたにも関わらず静かに、それでいて明確な怒りを孕んだカエデの声がハッキリと聞こえた。
「やばいやばいやばいやばいやばい……!」
町中を全力疾走する。こうなってしまっては最早観光どころではない。
明日の予選が始まるまで宿に引き籠る。エルトルージェは帰ってきてくれるのを待つしかない。男として情けない姿ではあるが、ヤンデレ属性を本格的に表してきたカエデに勝てる己の姿が全く想像出来なかった龍彦は保身の為にも逃走する選択肢を取った。
◆◇◆◇◆◇◆
宿を特定されないようにわざと遠回りをし、ようやく戻った桃源郷にて龍彦は大浴場に足を運んだ。
「ふぃ~……生き返る」
日本人にとって風呂とは一日の疲れを癒す布団に継ぐ欠かせない場所である。エルデニアに着いてから立て続けに起きた修羅場により蓄積された疲れを癒す為に一足先に入浴を楽しんだ。
時間帯が時間帯だけに、龍彦を除いて誰一人利用者はいない。完全な貸切状態である。
「誰一人いない中一人静かに入る……最高だな」
その独占時間も、浴場と脱衣所を繋ぐ扉が開かれた音で終わりが告げられた。
音が鳴る方についそちらに意識してしまうのは人の性と言うものだろう。龍彦は何気なく視線を其方に向ける。
湯煙に包まれた浴場の中を歩く一人の……女性。
「え?」
「へ?」
バスタオル一枚身体に巻きつけ銀色の長髪を揺らすエルトルージェに龍彦は目を丸くする。彼女もまた先客が男であり、それが自分であると言う事に気付いた瞬間顔を赤らめバスタオルで身体を包んでいるにも関わらず肩を抱くようにして胸部を隠した。
「ちょ、な、なんでアンタがここにいるのよ!?」
「そ、それはこっちの台詞だ! なんでエルトルージェがこっちの浴場に来てるんだよ! 俺と一緒に入りたかったのか!?」
「そ、そんな訳ないでしょこの変態! アンタ女湯に堂々と入ってんじゃないわよ!」
「そんなベタな間違いする訳ないだろ! 入る前にちゃんと確認したぞ俺は!」
「ア、アタシだって確認したわよ! と、兎に角さっさと出て行ってよ変態!」
「わ、わかった! わかったから桶を投げるな!」
機関銃の如く桶を投げてくるエルトルージェから逃れようと龍彦は湯船から上がり出入り口へと向かって駆け出す。
――もし、戦闘時のように冷静でいたのなら床が石鹸で滑りやすくなっていたとしても対処出来ていた。しかしエルトルージェと言う予想外の利用者かつラッキースケベが起きた事に気が動転していた龍彦はその事に気付いていなかった。
「あら!?」
足を滑らせ大きく体制を崩す。
転倒を防ぐ為に何かに捕まろうと咄嗟に手を伸ばし掴んだのは――エルトルージェのバスタオル。身体に巻き付けている程度にしか固定されていないバスタオルでは当然転倒する身体を支える事も出来ず。
「へっ……?」
「イッテェ!」
バスタオルをエルトルージェから剥ぎ取る形で龍彦は床に倒れた。
「イテテ……風呂場で足を滑らせて転ぶとか子供の時以来だ……――ん? このバスタオルって……まさか」
恐る恐る、視線を上へと向ける。
放心状態で佇むエルトルージェ。隠されていた彼女の裸体が、コンプレックスである美乳が目の前で曝け出されている。
静寂が大浴場に流れてから数秒後――ようやく裸を見られた事を理解したエルトルージェは小刻みに身体を震わせ、目頭に大粒の涙を浮かべ出す。
「あ……」
「き……きゃぁ……ッ!」
「シーッ! シーッ!」
叫び声が上げられるよりも迅く龍彦はその手でエルトルージェの口を塞いだ。事故とは言え何も知らない人間がこの現状を見れば、女湯に忍び込んだ男が女性のバスタオルを剥ぎ取り強姦しようとしている風にしか見えない。
武術大会出場の前に犯罪者として逮捕されるなどあってはならないことだ。それだけではなんとしてでも防がなくてはならない。しかしエルトルージェの裸体を拝む事が出来た……これは龍彦にとっては人生で一番の幸福でもあった。
エルトルージェとしても自分が叫ぶ事によって他の人間にも裸体を見せる羽目になる事を恐れたのか抵抗する意思を失くし――代わりに力なくその場に座り込み啜り泣き始めた。
「も、もう本当になんなのよぉ……変な亜人には操られるし、助けてもらったと思ったら裸を見られるし……最悪な事だらけじゃない」
「うっ……本当に悪かった! でもわざとじゃないって事だけはわかってくれエルトルージェ!」
バスタオルを返しその場で龍彦は土下座をした。事故とは言え嫁入り前の女性の裸体を見てしまったのは事実。謝罪だけでは到底足りない、だが深く謝罪するのは当然の行為である。
「グスッ……うっさいわよ変態」
「許してくれエルトルージェ。この埋め合わせは必ずする! 俺が出来る範囲でならなんだってやるから!」
「ん? 今なんでもするって言ったわよね?」
「え? あ、あぁ。人殺しとかブラックな事じゃない限りの話だけど……」
「……それなら」
「お、おいエルトルージェいきなり何を……!」
突然自分の指を噛み切ると言う自傷行為を行ったエルトルージェに龍彦は困惑する。
皮膚が噛み切られた指先から滴り落ちる紅い雫。その指をそっと差し出し静かに見つめてくる彼女の瞳は、魅了の異能に当てられた亜人達のように熱を帯びている。
「ほ、本当に悪いって思うなら……アタシの血を舐めなさいよ」
「血を? えっと……一応聞くけどさ、なんで血なんだ?」
「う、うるさいわね。なんでもするって言ったしそれにこれぐらいの事だったら簡単に出来るでしょ!? それともここで大声出してもいい訳!?」
「わ、わかった! わかったからそれだけは勘弁してくれ!」
血濡れた指先を見つめ、龍彦は沈思する。
訳もなくエルトルージェが血を舐めろと言ったとは考えにくい。即ちこの行為は彼女にとって何かしら特別な意味がある。ただ血を舐める行為が何を意味するのかと言う疑問よりも、龍彦の心中では不安が渦巻いていた。
(……感染症とか、持ってないよな?)
血液から感染する病気がこの世には存在している。B及びC型肝炎ウィルス、そしてHIVも挙げられる。この世界の文明レベルは平成の日本に比べれば遥かに劣っている。それを補う為に魔法と言う文明こそあるが、それは決して万能ではない。
かつてスカアハにどんな病をも治せる万能の薬を精製する事は可能かと尋ねた事があった。
別段深い意味はなく、龍彦としてはただの好奇心からくる質問だった。
その問いに彼女は首を横に振り存在しないと答えた。いかに魔法に優れていようとも万能ではない――つまりこの世界で万が一にでも感染してしまった場合、治す術がないと言う事である。
「ど、どうしたの? さっさとしなさいよ!」
「わ、わかったよ!」
涙目で催促するエルトルージェを見て、龍彦は覚悟を決めた。
こうなってしまった以上もう後戻りは出来ない。どうにでもなれ、と龍彦はエルトルージェの手を取りその人差し指にそっと口を近付け――
「ふふふ、タツヒコ様~お背中をお流しに……ってど、どうしてお連れの方が!? ちゃんと清掃中の看板を出しておいたのに!」
扉が開き、バスタオル一枚に身を包みながら現れた桃源郷の支配人がエルトルージェに激しく狼狽した。
「……ちょっと支配人さん、どう言う事か説明してもらってもいいですか?」
「えっ? あ、いえ、その……私にはなんの事かさっぱり」
「今の台詞から無関係と思える人はいないでしょう――正直に言わないと今晩の約束取り消しにしますよ?」
「そ、それだけはお許しを! じ、実は……夜まで待てなくなって、それでお風呂に入ると言われたものですから私も一緒に入ってその……タツヒコ様と親密な関係になれたらいいなぁ……と」
「それで、まさかとは思いますけど男湯と女の湯の立札を取り替えた……って訳ですか? 清掃中の看板を出して人払いまでして……」
明後日の方向を向く支配人。そして直ぐに視線を戻したかと思うと舌を出しながら両手を合わせてた。可愛らしく謝罪する彼女に、可愛いと思ってしまった龍彦は許しつつも胸の前で十字を切り両手を合わせる。その横で怒りのオーラを放つエルトルージェがこれから何をしようとするのか、そして支配人にこれから何が訪れようとしているのか知っての行動であった。
「こ……こんのクソ支配人がぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ぶべらっ!」
怒りの鉄拳が支配人の右頬を穿った。
「うわぁ痛そうだな今の……」
大きく吹き飛び某犬神家の如く足を湯船から出した状態で沈んだ支配人に、龍彦は改めて手を合わせてから彼女を引っ張り上げる。その横をエルトルージェが乱暴に湯船の中へと浸かった。
「あ、えっと、エルトルージェ……それで、さっきの続きだけど」
「……もういいわよ――ア、アンタのをアタシもその、見ちゃった訳だし……」
視線を落ち着きなく泳がせるエルトルージェの言葉に龍彦は慌てて手で股間を隠す。視線を降ろせばしっかりと巻いていた筈のタオルが床に落ちていた。




