第2話 邂逅
流石に僕も馬鹿じゃない。
寝て起きるを五回も経験した時点で、否が応でも理解した。
妖狐と人間の時間感覚は違うのだ。
僕らが一瞬だと感じても、それは人間で言う十年になる。
…
正直言って舐めていた。
たかが百年。
一瞬で過ぎ去るのだろうと思っていた。
しかし現実は違ったのだ。
僕は人間のことを全くと言っていいほど理解していなかった。
一瞬だと思っていた時間が、無限の長さに思えてきたときの絶望感は半端じゃない。
「おはようございます浅葱様」
どうやら浅葱とは僕のことらしい。
人間はお互いの区別がつかないのか、それぞれに個体名を付けるみたいだ。
妖狐は名前などなくとも、魂で識別できるというのに。
しかし、浅葱という響き…。
まぁ悪い気はしない。
「今日も絵本の読み聞かせをします」
この女児と会うのは何回目だろう?
少なくとも三十回は超えているだろうか?
人間の時間感覚は慣れないものだ。
僕が人間に生まれて、どのぐらい時間が経ったのか、既にわからなくなっていた。
数年?あるいは数十年?
僕の寿命はあとどれほど残っているのだろうか?
「今日も陰陽師の絵本を読んでいきましょうねー」
「あうあぁうぁ」
因みにこれは僕の声だ。
人間の稚児の喉は脆弱で、まだ喋ることはできない。
しかし、彼女の言っていることは理解できた。
「はいはい。そう急かさないでください。浅葱様」
僕はそんなつもりで声を発したわけではないのだが、この女児は勝手にそう解釈した。
「今日はこの本を読み聞かせしてあげましょう」
彼女が持ってきたのは子供向けの絵柄で書かれた本だった。
女児は僕のことを両手で持ち上げると、地面に座らせる。
これは定期的に行われる読み聞かせだ。
どういう意図だかは分からないが、陰陽師に関する絵本を毎回持ってきては、まるで言い聞かせるように朗読する。
イヌとサルとキジを家来にした陰陽師が悪鬼を討伐する話だとか。
人助けをし続けた陰陽師が最後の最後で報われる話だとか。
如何に陰陽師が素晴らしい仕事で、人の役に立てるのかを何度も何度も解説してくる。
確かに、教育の一環として絵本を読み聞かせする理由は分かる。
幼いころから活字に触れさせておくことで、言語能力が向上するからだろう。
人間にしては合理的な考えだ。
しかし、なぜ陰陽師が題材の絵本ばかりを朗読するというのだろう?
そもそも僕は妖怪なんだぞ?
この世界のだれもが知っているように、陰陽師は悪い妖怪から人間を守るために組織された集団だ。
一応僕は善良な妖怪なので、おそらく対象外ではあると思うのだが、それでも敵は敵だ。
敵対勢力である陰陽師の話を聞かせられるのはあまり良い気分ではない
「あれ?ちゃんと聞いていますか浅葱様?」
物思いに更けていたせいで、絵本の内容の大半を聞き逃してしまった。
女児もなんだかご立腹の様子だ。
「しっかり聞いてくださいね。貴方には立派な陰陽師になってもらわないといけませんから」
…え?
何それ初耳なんだけど?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
言葉が喋れるようになった。
僕が初めて発した言葉は「おもえ」だ。
正確には「巴」であり。
巴とは僕に絵本の読み聞かせをしてくれている人間の女児の名前だ。
初めが一番重要だと言うのに僕は噛んでしまったのだ。
僕はとても落ち込んだのだが、巴は「わ、私の名前を呼んでくれた!?」とか言って滅茶苦茶喜んでくれたので、良しとした。
あぁ、それと、人間世界の時間感覚も段々と分かってきた。
僕が初めて意味のある言葉を発することができるようになってから、おおよそ120回日が沈み、121回太陽が昇った日。
僕は立ち上がって歩くことができた。
人間の体は実に不便だ。
生まれたばかりでは喋ることもできないし、歩くこともできない。
一発で歩くことに成功したわけではなく、初めは何かに掴まっていないと立つことはできなかった。
それに何度も何度も転んだ。
痛覚。
僕にとって、凄まじい経験だった。
人間の間では、『痛み』と呼ばれるもの。
上位妖怪である僕とは無縁のものかと思っていた。
手のひらから伝わる衝撃。
体を貫くような鋭い感覚。
初めて痛みを味わったその瞬間、僕の目からは生暖かい水滴が溢れんばかりに流れ出てきた。
目から水滴が出てくる体験はこれが初めてではない。
お腹が空いたときにも出てきたし、紙の下着が蒸れて、気持ち悪かった時も目から溢れ出てきた。
その時、決まって僕の感情は苛立ちに塗れており、次第に僕は、人間が目から水滴を出す行為を、不満の表れだと解釈した。
しかし違ったのだ。
痛いときも涙は出てくるのだ!
人間の体で体験することで、少しは人間に対する理解が深まるかと思っていた。
しかし、生きていれば生きているほど分からなくなる。知りたいことも沢山増えてきた。
僕の行動範囲は八畳ほどの和室。そして生まれてこのかた、巴以外の人間とは出会ったことすらない。
こんな状況では知りたいことも知り得ない。
だがしかし、そんな僕にとって格好の機会が訪れる。
直立二足歩行で生活できるようになってから100回ほど日が昇ったある日の朝…。
巴から渡された積み木を組んで遊んでいる僕の元に、とある訪問者が現れた。
「紙乃 浅葱。初等教育の受講を許可する。」
和服に身を包んだ男。
二の腕から窺える筋肉がその男の体格の良さを表している。
僕は生まれて初めて人間の男と対面したのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ちょ、ちょっと!?浅葱様はまだ幼いんです!もう少し優しく…」
皆まで言い終わらぬ内に、巴は口を閉ざした。
腕を掴まれている僕は、男のほうへと視線を流す。
奴は、巴のことを冷たく睨んでいた。
一言も発することなく、圧倒的な威圧感で巴を黙らせた。
「ついてこい」
僕に向かって短くそう言った和服の男は、僕を部屋の外へと連れ出した。
「おい。お前はそこで何をしている?」
男は部屋のほうへと振り返る。
「わ、私もご一緒してよろしいのでしょうか?」
外は薄暗い廊下だった。
今まで僕が生活していた部屋からは淡い光が漏れ出ている。
もうこの部屋に戻ってくることはないのだろう。
不思議とそんな気がした。
「自分で考えろ。お前の身分はあくまでも紙乃家が買い取った下女だ」
「すみませんでした…」
巴は唇を固く結びそれ以上何かを言おうとはしなかった。
しかし、拳が震えているのを僕は見逃さなかった。
「チッ。早く行くぞ」
男は腕に取り付いている、二本の針が交互に動く機械のようなものを一瞥すると、苛立ったようにそう言った。
僕の後方には、足音を完全に消した巴が付いてきている。
廊下は長く。途中、いくつもの部屋が存在していた。
どれも全く見覚えのある造りだ。
子供用ベッドに機械の腕が配置された部屋。
一瞬、同じ場所を何度もループしているのかと疑ってしまった。
それほどまでに、全ての部屋が酷似していたのだ。
「ここだ」
数分後、僕たちは目的の場所までやってきた。
目の前には、おそらく僕と同年代であろう子供の姿があった。
稚児の数は僕を含めて五人。
床に寝転がっている奴もいれば、絵本を眺めている奴もいた。
奴らの真横には決まって巴と同じような服を着た五人の給仕が集まっている。
しかし、他の四人は巴よりも大分年齢が上のように見えた。
一体何なんだここは?
これは人間にとって当たり前の光景なのか?
それとも僕が生まれた場所が異質なだけなのか?
悲しいことに、判断する材料を持ち合わせていない。
今僕にできることは、ほかの人間と同じように、その場で大人しく待機しておくことだけであった。
「大和様。お戻りになられたんですか?」
突然、見知らぬ女の声が聞こえてきた。
これは女児のものではない…大人の声質だ…。
僕は声がした方向へと視線を送る。
たった今、扉から部屋へと入ってきた人物。
この声の主であろう女は、年老いた見た目をしていた。
「あぁ。まさかこんな餓鬼を案内する為にこき使われるとはな。あの関白亭主め…」
なるほど、和服を着たこの男の名前は大和というのか…。
大和と呼ばれた男は、苛立った様子で自分の肩を揉んでいた。
「どうしますか?このまま見学でもしていきますか?」
「まぁ、そうだな…当主にあいさつしに行くよりはマシか…」
大和はそう言った後、部屋の隅まで歩いて行くと、その場で胡坐をかいた。
「茶でも用意させましょうか?」
「いや。いい」
よく分からないが、いけ好かない野郎だ。
僕と此奴は家族なのだろうか?
そもそもここにいる子供たちは一体どういう関係で集まっているんだ?
「そうですか…それじゃあ話を始めますか…」
初老の女は僕たちの前までやってくると、その場にいる全ての子供を一瞥した。
もちろん僕を含めてだ。
「あなた達五人は紙乃家の子孫。そしていずれは陰陽師となる者たちです。今日から基本的な訓練を施していくつもりですのでどうぞよろしく」
初老の女はそう言うと、僕たちを見るや否や、不敵にほほ笑んだのだった。




