めでたしめでたし
この度、帝国ドルツィアでは遷都が行われた。何せ大蛇が動き回ったおかげで、王都の都市機能が完全に停止したからだ。
幸い、遷都は何の問題もなく行われた。次に選ばれたのはギュンター公爵家の領地であった。
その土地は代々公爵家が治め、発展していった土地だ。これまで第二の王都と呼ばれたこともあるくらい。もともとステラが皇帝になった際も、ポロニアのいた王都よりあのイドラ・ギュンターが半生を注いで作ってきた都市の方が良いのではないかという意見もあった。しかし、政治的な判断力が苦手だったはずのステラがこの件は首を振った。
とにかく、ポロニアが散々な有様にした王都を整える方が重要だと主張したのである。田舎の村の生まれの少年であったから、噂に聞く王都に憧れがあったのかもしれないな、とジャン・ジャックなどは微笑ましく思っていたのだけれど、まぁ、それは今はいいとして。
その公爵家の領地。名をルドヴィカ。その大聖堂で、本日は盛大に戴冠式が行われる。
純白と真紅の、やたら形式ばった重たい外套を身にまとい、聖職者の前に膝をつく一人の男性。戴冠式。つまり、新たな皇帝陛下の誕生。
聖職者から冠を頂くのは誰であろうか。
青みがかった珍しい髪色に、目を伏せた状態でもわかる美しい男。
英雄ミルゲ・ホランドだ。
今回の悲劇と苦しみと悲しみの、何もかもの騒動が一息ついて、国民たちは新星のごとく現れて、この国を暗黒時代から救い出してくれたステラが亡くなったことを知らされた。
あの輝く銀の髪の青年は、ポロニアや大蛇、この国の負の部分を全て引き受け、流星のように消えていったのだと、人々は感謝する。夜空に流れる流星が、この国の闇を払い、美しい夜明けを連れてきてくれた。
ステラを失った悲しみを、国民たちは新たな英雄の誕生で喜びへと変えた。
最前線で戦った貴族たちは、ミルゲ・ホランドが幼い子供のためにわが身を顧みず、大蛇に剣を振ったのを見ていた。
彼らは「あれこそ英雄だ」「これぞ伝説の一幕だ」と涙を流して称えた。
と、まぁ、彼らの移り気で不安定な情緒など、戴冠式を終えて執務室に直行させられたミルゲには心底どうでもいいことなのだが。
「……もういやだ。なんだって俺が……」
窓の外からは皇帝陛下万歳、と、一年前にステラを讃えていた連中が今度は同じ調子で叫ぶ。
「至高の玉座の主人となるなど、光栄なことであろう。誠心誠意励むがよい」
「……」
執務室でぐったりしているミルゲを、全く持って感情のこもらない声でイドラ・ギュンターは眺め、全く持って他人事極まりない声で言い切った。
「そう思うならお前がここに座ればよかっただろう。ギュンター。この街はお前が作ったんだぞ。国のために一生働けるぞ」
「なぜ私が。なんの意味があるのか」
「お前はずっとこの国の宰相だっただろ。誰よりこの国の動かし方に詳しい」
「だからなんだ。私はもはやこの国の政に関わる権利を有していない」
淡々とギュンターは答える。
先日まで確かに宰相だったイドラ・ギュンターだが、この度、この戴冠式を持って、正式にその職を辞した。
ついでに言うと公爵ですらない。爵位も返上した。
ミルゲは悔し気に顔を歪める。
これまで何度もイドラ・ギュンターの死を願ったし、この男がいなければこの国はずっと良くなると信じていた。だが、いざ自分がトップになって見て、山積みの問題やこれまでどう処理をされていたのか、その結果がどうだったのか、横ではなく上から見ることが出来るようになって、この国がイドラ・ギュンターがいなければ回らないことを痛感した。
この男1人の頭脳で一体どれほどのことを考えているのか、まさか国の小麦の1つ1つまで頭の中に正確に数の把握がされているのではないか。人の数、その流れや思考までわかってしまっているのではないかとすら、疑いたくなる。
「貴族を辞めてどうするんだ。農夫にでもなるのか」
「卿、陛下の頭の中は人と言えば貴族か農夫かのどちらかか」
「商人がいることくらいわかって」
「身分と職の違い程度、お勉強されてから執務を行うべきだな」
ギュンターはホランド公爵が息子に爵位を継がせられないわけだと頷いた。
それで会話が終わるかと思えば、意外にもギュンターは話をつづけた。
彼は今後、この土地を離れるそうだ。
温泉地に屋敷を買ったそうで、王都にいたころの使用人たちの大半をそこに移動させ、望まぬものは退職金を渡してやったらしい。
しばらくはそこで静かに暮らすという。
「本気で隠居するつもりか?」
ミルゲはこれっぽっちも、イドラ・ギュンターが今後二度と、表舞台に戻らないと信じていない。そもそもイドラ・ギュンターほどの者が簡単に引退できると思うのか。ミルゲですらそう思うのだから、自分の能力や実績を最も理解しているギュンターがその夢物語になんの疑いも持っていないのがまずおかしい。
どうせその温泉地であれこれと、この国を裏から操るんじゃないだろうか。そのつもりがあるのなら、ミルゲは自分が玉座にいてもそれほどこの国の今後を憂う必要はないと安堵もあった。そうしてそう感じる自分が嫌になる。
「俺はお前が嫌いだよ」
「分かり切ったことをなぜ言うのか」
「大事なことは口に出しておかないとな」
「ふむ、そうか」
なぜかギュンターは、これまでミルゲの言葉などその辺の野良猫が発情する声と変わらない自分にとって無意味なものと扱っていたはずなのに、その言葉には妙に納得した。
「そうか」
繰り返し頷く。ミルゲはギュンターが何を考えているのか、いつも全くわからないし理解したくなかったが、この神妙な頷きの理由はわかった。
「……お前の可憐な奥方は、お前の似合わない愛のセリフをどう受け止めていいか悩むんだろうな。気の毒に」
「彼女は私がどんな言葉を口にしても、それを私の好意だと微笑む女性だが?」
あっさり言うギュンターに、ミルゲは認めたくないが、心底この男がうらやましくなった。
理解できないことだが、この男は愛というものを手に入れたらしい。なんだってこいつなんだと、ミルゲは思う。
人としてこのイドラ・ギュンターが自分より秀でている箇所が……無いわけではないが、そもそも、女が選ぶ男としての魅力が、ミルゲとギュンターなら、絶対に自分が圧勝だろうと信じている。
イドラ・ギュンターは仕事はできる、それを認めてやってもいいが、だが、足りないものが多すぎる男だ。
しかし、その男でも手に入ることができた。
これがミルゲには驚きだった。
そうして彼はふと、自分の思い違いに気付く。
つまり、人は、もしかすると人は、それほど完璧でなくても愛されてよいのではないか。
良い子でいなくても。
美しい容姿をしてなくても。
母の自慢できる息子でなくとも。
もしかすると、それは、資格などないのではないだろうか。
そしてそれは、ミルゲが考えたよりずっと、当たり前の顔をして貰ってよかったのかもしれない。
*
「……幽霊?」
「失礼だなぁ。これでも皇帝だったんだから、敬ってくれないか?」
元皇帝。
今は死者のリストに入って哀悼の意を捧げられているリスト最上位の青年を前にして、私は眉をひそめた。
「公爵様……じゃなかった。えぇっと、旦那様は、まだお帰りになっていませんけど」
「うん、知ってるよ。今日はミルゲの戴冠式だから、終わったらこっちの屋敷に帰ってくるんだろう」
突然、私の私室にいて、ソファで寛いでいる銀髪の青年。元皇帝。今はただのステラ。彼はソファに横たわり、全身をのびのびと伸ばした。
「あぁ、やっと。楽になった」
「……」
「俺はさ。別にもともと、王さまになりたかったわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。この国がこのままじゃダメだって。姉さんのこともあって……国同士の喧嘩に、なんで国の名まえもロクに知らない俺たちが巻き込まれなきゃならないんだって思ってたけど。ポロニアを殺せればそれでよかったんだ。まぁ、王宮での暮らしは楽だったし、悪くなかったけど」
けれどステラは「メリーはそうじゃなかったし」と目を伏せてゆっくりと息を吐いた。
ステラの幼馴染。村の惨劇に、たまたま街の親戚の結婚式に呼ばれて難を逃れた牛飼いの娘。ステラが「俺が皇帝なら、メリーは皇后様だ」と彼女に王冠を載せ、きれいなドレスや大きな宝石を贈ってはしゃいでいたのを私も知っている。
私が公爵様のお屋敷で使用人の人たちと幸せに暮らしている中、王宮の噂は耳に入ってきていた。
「メリーはあぁいう暮らしは、多分、変わってしまう」
手遅れでは?とは、私はさすがに口にしなかった。
素朴な牛飼いの娘だった彼女は、多くの侍女に傅かれ、恭しく扱われ、ステラがメリーを大切にしていると知った貴族たちにすり寄られ、自分自身に価値があると思い込んでしまった。
確かそもそも、ミルゲ・ホランドが原作小説で他国の外交官に選ばれたのも、メリーの方からミルゲ・ホランドを誘い、ステラの幼馴染の豹変にうんざりしたミルゲが自ら志願したからだった。
ステラはメリーと再び田舎の山奥でひっそり暮らせば、彼女が以前の通りの素朴で人柄の良い乙女に戻ると思っているようだった。
まぁ、人間は一度上がった生活レベルを、なかなか落とせないとは思うのだが……。
「ところでステラ。私は結局、旦那様を殺せなかったんだけど」
「え、君……ギュンターを殺す気だったのか?」
「え?」
「え?」
は?と、私はステラを顔を見合わせる。
「え?何、どういうこと?」
「君、ちゃんと俺の命令通りにやったじゃないか」
「何を?」
なんの話だ、と私は首を傾げた。
「だって、あなた。言ったじゃない。イドラ・ギュンター公爵を殺せって」
「言ってないな。なんで俺がイドラを?兄のように思ってるのに」
いや、言ったって絶対!
私は目の前の青年が何をいっているのか理解できない。だが私よりステラの方が、私に対して不審な目を向ける。
「え……君、自分の夫を殺そうとして結婚したわけ?うわ、怖……これだから王族は」
え、えぇええ……。
いや、言ったって。絶対。私は自分の記憶を頑張って掘り起こす。
言っていたよね、確かに……。
私は自分の記憶は間違っていないと頭を抱える。けれどステラは美しい顔で微笑んで「君の勘違いだ」と言い放つ。
しかしまぁ、彼が私の任務完了を認めて、お兄様は……そういえば、王城が崩壊したときに一緒に犠牲になったのだったっけ。
……あれはしょうがない。あれはまぁ、仕方ない。
あの騒動で、公爵家のお屋敷のみんなが無事だったのは奇跡なのだ。私は……よく考えたら、私へのいじめを止めさせたわけじゃなく、適度に甘い顔をして私への好感度を操作していた気のするお兄様より、私に本心から親切にしてくれたお屋敷のみんなの無事を喜ぶとしよう。
皇帝ステラを讃えた口で、ミルゲを皇帝陛下と崇める国民たちがいるのだから、私のこの思考も許されるだろう。
*
「それじゃあ、いつまでも。おとぎ話のように幸せに。これでめでたしめでたしで」
ひょいっと、ステラは窓から軽やかに飛び降りて、ギュンター邸を後にした。
これで何もかも、彼にとっては大団円。めでたしめでたし、だ。
ステラにとって、何よりも大切だったイドラ・ギュンターは、これでやっと、生き延びられる。
もう彼は、国のために自分の命すらも薪として国の炎にくべてしまえるような死神公爵ではなくなった。
新しい王都で陰からこっそり見たイドラ・ギュンターは、ミルゲのために反貴族たちを束ねて共倒れするような忠誠心はないだろう。
ステラが生まれたのは、山奥の小さな貧しい村。
生まれたときから貧しかったので、それは気にならなかった。自分には心優しい姉がいて、笑顔の眩しい幼馴染がいた。
村は小さく、誰もが家族のような存在。
顔も見たことない王族や貴族が勝手に始めた戦争で村が巻き込まれ滅んだ時、焼ける姉の匂いを嗅ぎながら、腐る村人たちが鳥につつかれるのを眺めながら、一人一人墓を作って、ステラは思った。
「この墓を全部作り終えたら死のう」
それで自分の人生は終わり。これが役目だったんだ。そのために生き残ったのだと思って、死んでしまおうとしたところ、餓死するのを待っていたステラを助けたのがギュンターだった。
何か慈悲のようなものがあってのことではないことはステラにもすぐ分かった。 イドラ・ギュンターが倒れて凍傷になりかけるステラを助けたのは、目の前で行き倒れている人間を見て、義務として水や食料を与え、治療をしてやる人間性を持っていたというだけだった。
そして、それはただの状況把握、事情聴、取情報収集という理由もあった。
ステラはギュンターが望むように情報を答えた。
相手の装備、人数まで正確に覚えてるステラをギュンターは意外に思った。ただの平民の子供がそこまで注意していたのか。
ステラにはそうした才能があるらしかった。物事を俯瞰してみることができている。
それっきり、ギュンターとは別れた。ステラは傭兵になり、金を稼ぎ、気づけば周囲に慕われていた。 自分の性格が人を惹きつけるらしい。特に演じてるわけではない。その自分が人に好かれる。これは姉の育てた結果だ。
ステラは自分の中に姉の善意が生きてると思っていた。自分が自分で振る舞うように。 姉の優しさが自分の中に染みついていた。つまり自分が好かれるが好かれるほど周囲に人が集まれば集まるほど。それは姉の人間性の証明になった。 ステラはそれが嬉しかった。
公爵と再会したのはそのずっとすぐ後10年ほど経ったからだろうか。
その頃国はもっと荒れていた。
王族や貴族たちが私腹を肥やし、民に対して絞り取るための道具としか思っていないようだった。貧困に喘ぐ平民たちに、貴族は代わりにもしない。
ステラは初めて見た貴族がイドラ・ギュンターだったので、貴族というのは冷静で理性的で、そして物事を理論的に考えている生き物だと思っていた。
だからなぜ、自分の周りの人間たちがやたら貴族を憎むのか、そしてなぜ、イドラ・ギュンター以外の貴族たちはみな、平民を面白半分に殺そうとするのだろうか。
今の王家を潰す。と、再会したイドラ・ギュンターに話すと、公爵は笑った。この笑い方は、ほかの連中とは違った。ステラを慕う人間たちは、ステラが王家を潰すというと、希望を目で見たような眩しそうな顔をして、目を輝かせて、そして「無理だ」と勝手に決めて、顔を陰らせた。
けれどギュンターは「そうか」と頷いて「では」と、必要な手順を説明してくれた。
これは、ほかの誰もしてくれなかったことだ。
みんな、ステラの後を歩いていれば問題がないと思っていた。ステラが輝き、流星のように移動して、その軌跡をたどることが最も正しいことだと誰もが考えていた。
だからステラは間違えないようにしなければならなかった。
けれどギュンターは、ステラが知らないことを多く知っていて、ステラが考える必要のないことは何かを教えてくれた。それらはギュンターや、そのほかの人間が考えれば問題がないことで、なるほど、と、ステラは自分ひとりで何もかも行わなくてもよかったのだと知った。
村の墓は、自分ひとりで作らなくても、誰かに手伝ってもらっても、よかったのだと気づいた。
ステラはポロニアを処刑台に送った。
今か今かと玉座にステラがつくのを待つ人々の笑顔。それらを眺めて、ふと路地裏に老婆が立っているのに気付いた。
この祝いの日にみすぼらしい姿。
今日ばかりは誰もが晴れ着を着ている中で、精一杯清潔にしていようと心がける中でみすぼらしい老婆 。
老婆はステラが近づくと、ひりつくような声で笑い、しわがれた手を伸ばした。
ああ、おめでとうございます。
皇帝陛下素晴らしい方でございますね。
喜ばしいことでございますね。
今後五年、あなた様の頭上には一番星が輝いていることでございましょう。
老婆の声はしわがれていたが、ところどころ、昔は美しかったのではないかと思わせるふしがあった。言葉遣いも、年老いているがどこか貴族的な品があった。
老婆はステラの時代を五年、と言った。
「なぜ五年なんだ」
思わずむっとして、ステラは聞いた。
ギュンターが自分を玉座に送ってくれた。自分は足りないところも多いが、ギュンターの期待に応えられるように努力するつもりだ。その意気込みにいきなり泥水をかけられたような気がした。
老婆は笑う。
あなた様は玉座の重みをご存じない。
「俺が何を知らないというんだ」
なぜ頭のいい貴族たちがあれほど愚かな振る舞いをしたのでしょう。いいえ、いいえ中には愚か者もいたでしょうか。それにしたって、お前のような愚か者に倒されるとは。
老婆は何を知っているのだろう?
ステラは老婆を見つめた。老婆もステラを見上げる。
死にますよ。
「誰が死ぬんだ」
あなたが本当に大切な人が死にます。
大切な人。
それはステラには思い浮かばなかった。
大切な姉は昔に死んでいる。殺されている。
姉と同じくらい大切な存在はいるだろうか? メリーは大切だったが、けれど、ステラは自分のできることが増えるにつれ、メリーが変わっていくのを感じた。彼女の笑い方がどんどん、嫌になってきていて、昔のように「最愛の」と思えなくなっていた。
いるでしょう。あなた。あなたにとって大切な。死神ですよ。
「イドラか?」
確かに、それはそうだった。
すぐに思い浮かばなかったのは、大切なものと言われて、守りたい存在だと考えたからだ。イドラはステラにとって「守る存在」ではない。兄のような存在で、そして、自分が守れるような存在ではないという尊敬があった。
老婆は続ける。
あの男、死にますよ。
あなたのために死にますよ。
「そんなことがあるはずがないだろう。 イドラ・ギュンターはそういう男じゃない。理論的な男だ。合理的な男だ。俺に味方したのだって。何かしらのあの男の中の計算があるからだ」
ステラは反論した。
例えば俺に味方した方が今後、民が死なないとか。
あいつはそういう男だ。
「国を生かすための計算をし続けている男だ。そんなあいつが、なんだって俺のために死ぬんだ」
ええ、そうでしょうね。
だからです。だってあなた間違えているんですからね。
間違えてる。
何を出す老婆は笑う。
間違えているという言葉に近いものを誰かが言った。
誰だったか?
そうだ。
ポロニアだ。あの男。
ステラが玉座から引きずり降ろす際に笑いながら叫んでいた。
『間違えている。お前たちは後悔するぞ』
……何を、間違えたのか。
殺したでしょう。
王族を誰も彼ももはや必要ないと、これからの時代には不要だと。
ポロニア、それに連なる者たちを殺した。
だから間に合わないのですよ。 もう手遅れなのですよ。
老婆は言った。
「わたくしは未来から参りました。ここまでは、えぇ、見事にその通り。これから変わらなければ、イドラ・ギュンターは死にます。あなたが皇帝だから、あなたが皇后をお迎えになられて、これで何もかも、幸福が約束されるはずだからと。最後の仕上げをなさいます」
これまで頭の中に響いていた老婆の声が、やっと、空気を震わせて耳に入ってきた。
「死神公爵はなさいます。ご自分の命を持って、最後の仕上げをなさいます」
黄金の瞳のその女。
縮れた髪は元は豊かな金髪だったのかもしれない。
「死神公爵はあなたを殺そうとするでしょう。そうしてあなたに反発する貴族たちをまとめ上げ、あなたに殺されます」
死神公爵は、この国を守るために死神になったのだ。自分の命もただの数としか考えていない。自分を容易く犠牲にするだろう。
この国のための薪にできる男だ。 それが死神公爵だ。
だから死神公爵を殺すため、ステラは自分が美しい暗殺者を贈った。
別段、その暗殺者こそが死神公爵が死神になった理由だと、そこまでは誰も、老婆ですら知らなくとも。それは、その結果。
王都の騒動、混乱を遠くに聞きながら、温泉地で鉄面皮の新郎と、花のような新婦がいつまでもいつまでも、幸せに暮らしていけるのである。