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目覚めよ薔薇!


 その晩、ギュンター公爵家に仕えるメイドたちは憤慨していた。


 礼儀作法を学ぶために親元から「是非に」と公爵家に寄せられた若い娘たちは平民の中でもそれなりに裕福な家の出であり、貴族社会についても肌で学んで知っている。


 それであるので彼女たちは本日この屋敷を訪れた青い瞳の美丈夫が、皇帝ステラの信頼あつき側近であること、そして国中の令嬢たちから「人でなし!」と涙目で罵られる糞野郎であることを……本日実感させられた。

 客間に通されるホランド公子の姿を覗き見たメイドたちは「あんなに素敵な方がいるなんて!」「あんな方になら遊ばれてもいい!」「きっとあの方を悪く言うのは、あの方の心を掴めなかった女の恨み言なのだわ」などと頬を赤くして夢を見ていたものだが、その浮ついた雰囲気は、その夢のような貴公子が彼女たちの大切な“奥様”に無礼を働くまでだった。


 ミュンゼ夫人と一緒になってホランド公子を追い出したものの、女たちに塩を撒かれながら涼しい顔をしていたあの男はまた性懲りもなくやってくるだろう。


「おかわいそうな奥様……!」

「これでこの公爵家を嫌になって……出て行ってしまわれないかしら」

「やめてよ……そんなことになったら……あのクソ男の顔に馬糞を投げつけるしかないじゃない」


 メイドたちはルーナがこの家に来てくれてから、人に仕える楽しさを知ることが出来た。


 ルーナはころころと表情が変わる明るい性格の持ち主だった。メイドたちのことをよく考え、彼女たちがルーナのために部屋を掃除すると、それが当たり前のことだと思わずに「ありがとう」と感謝を伝える。ただの仕事でも、自分たちの振る舞いを主人に認められると、やりがいというか、喜びというか、ただ仕事をしただけではない満足感を抱えて眠ることが出来る。


 メイドたちはルーナがこの屋敷に来たことで、自分たちの生活がずっと明るく優しい気持ちが続く毎日になると思っていて、そしてそれは今日までその通りになっていた。


 ホランド公子がルーナにちょっかいをかけてきた理由は明白だ。この屋敷の主人であるイドラ・ギュンター公爵とホランド公子の仲が悪いのは誰もが知っている。イドラ・ギュンター公爵への嫌がらせ。気に入らない男の妻を寝取ろうとでもしたのだろう。巻き込まれて気の毒な奥様、とメイドたちは自分たちが一時はホランド公子に憧れてしまった悔しさもあって憤慨する。


「何か……奥様をお慰めする良い方法はないかしら」


 メイドの一人が呟く。

 今夜はきっとおひとりでお辛い思いをして眠るに違いない。せめて寝ずの番を夜勤のメイドたちが仕事を分担し合って一人つけようと思いつき、ミュンゼ夫人の許可を得た。その交代の時間になって、メイドの一人が部屋を出ていき、そして別の一人が帰ってきた。


「奥様は?」

「どんなご様子?」


 部屋に入るや否や同僚たちに詰め寄られたメイドは困った様子だったが、自分が奥様の状況をみんなに共有しなければならないと使命感を帯びた顔で頷く。


「……お休みにはなられてないわ」

「そう……」

「窓の傍の椅子に座られて……きっと公爵様を待っていらっしゃるのよ」

「おかわいそうな奥様……本来なら、頼る相手のはずなのに……」


 仕事のために私生活なんて消し去ることを躊躇わない死神公爵だ。なぜあんなに優しくて花のように柔らかな女性が死神公爵と結婚など承知なさったのか。メイドたちは奥様の一大事にタイミング悪く帰ってこない公爵を恨んだ。


 イドラ・ギュンター公爵が家に帰ってこれないほど多忙であるということは、それだけ、彼の権限や頭脳が必要な急務があるということ。具体的に言ってしまえば、公爵は今夜、皇帝ステラとその皇后候補であるメリーを襲った女神教の信者たちをとらえ、彼らの目的を聞き出していた。驚くべきことにその内容というのは『奪うだけの男が玉座につき、この国は神の怒りを買った。このままでは滅びるぞ!我々は間違いを正しに来たのだ!』という狂人のたわごとであったのだけれど、ここ最近続く地震と各地の天候不良にイドラ・ギュンターは旧王朝の過去の記録をひっくり返すことになっていたのである。


 しかしそんなことをただのメイドたちは知りもしない。いや、知っていても「国がなんです。それよりも奥様でしょう!」と怒鳴ったかもしれないが。



 さて、そんなメイドたちの憤怒と愛情を知らないルーナはその頃、一人きりの寝室でぼんやりと外を眺めていた。


 うじうじと泣き続けるような性質ではなかったけれど、今日のことはそれなりに彼女の考え方に影響があった。


 一晩中起き続けて目が腫れたルーナの目をミュンゼ夫人が濡れた布で懸命に冷やす。準備の良いミュンゼ夫人はきっと朝に氷と濡れたタオルが必要だろうと心得ていた。


「公爵様は?」

「……お帰りにはなられていません」

「そう」

「夜にはお戻りになるかと……あ、いえ」

「なんです」

「……今夜はご予定が」


 執事のボルドはギュンターの予定を把握している。主人が今夜は皇帝の名代として、とある伯爵家で生まれた子供のお披露目会に出ることを、ルーナの耳に入れるべきか躊躇った。


 昨日のルーナとホランド公子のやりとりはまだギュンターの耳には入っていない。屋敷で起きたこと。国の大事を任されるギュンターからすれば些細なことだ。それも、皇帝の側近との、醜聞ともとられかねないもの。どう報告したものか。もちろんボルドはギュンター公爵に忠誠心を持っている。


 けれどボルドとて、可憐でか弱い公爵夫人の身に起きたことをすぐさま報告した場合、何かルーナ公爵夫人の身に不利な決定をギュンター公爵が、世に死神公爵と恐れられるご主人様が下すのではないかと、そんなことを考えてしまった。何より公爵夫人に落ち着く時間が必要だった。すぐさま公爵が帰ってこれないのであれば、その時間を公爵夫人が冷静になる時間に使ってもよいのではないか。主人への忠誠心と、か弱い女性への紳士としての配慮からボルドはギュンター公爵が屋敷に戻るまで、あえて自分から屋敷の中で起きたことを、外のギュンター公爵に伝えに行く選択をしなかった。


 普段以上に気合の入ったメイドたちに丁寧に朝の支度をされながら、公爵夫人はぼんやりとしている。その黄金の目が何を考えているのか、ボルドにはわからない。


「……」


 男に乱暴され心を病んでしまわれたのではないか。

 

 医者を呼ぶべきか、昨日、本当なら早く呼ぶべきだったのではないか。公爵夫人の名誉とはかりにかけるべきではなかったと悔やむボルドの耳に、公爵夫人の声がかかった。





 ノールト伯爵夫人は周囲が自分に向ける視線にじっと耐えるしかなかった。


 同情。憐憫。失望。嘲笑。

 様々な意味を持つ視線が「おめでとうございます」「可愛らしいご令嬢ですね」と祝いの言葉とともに向けられる。


 豪華絢爛、煌びやかで華やかで、麗しい夜のパーティー。それなりに懐の温かい伯爵家が主催する、それなりに規模の大きな夜会。


 聞こえてくるのは今日のために伯爵夫人があちこちに声をかけ何とか日程を合わせてもらった一流の音楽家たちの演奏。


 聞こえてくるのは並べられた料理の説明を淀みなく行う、教育された給仕たちの声。


 男女の囁きに、男たちの政治的な話。社交辞令。女たちの香水はいささか濃いけれど、十分に換気がされているのでそれほど気にはならない。その分室温が下がるので、暖炉の火はこうこうと燃え続けていた。


 ノールト伯爵家。

 

 貴族同士が殺しあう恐ろしいあの大戦を生き残った幸運な家に、子供が生まれた。血塗られた時代から、新しい時代への子供。皇帝陛下の名代として側近の方が二人使わされるくらい、新しい国に、新しい子供は歓迎された。


 と、いうのは建前だ。


 何しろ生まれたのはもう1年前のこと。けれど時代が時代であったので、盛大に祝うことができなかった。なので、今日はお披露目パーティー。夜なのに子供が参加させられている。

 まあ、赤ん坊なので寝ていればいいだろうと、父親である伯爵はのんびりと言った。泣き出さないのは大したものだ。 もちろん乳母が控えている。


 伯爵夫人は夫の呑気さは、これが息子であったのなら違ったのだろうとわかっていた。


 産後でややつれた顔を必死で化粧で繕い、笑顔を浮かべて人々の祝辞を受ける。


 彼女にとって今夜はあまり楽しい会ではない。


 なぜ男ではなかったのかと、実家や義父義母に言われた言葉が胸に刺さる。


 伯爵家は今回の血の争いに生き残った家だった。


 早くにステラ側に着いたわけではない。

 ノールト伯爵はあまり物事がよく分からない人物だった。 人がいいと言えばそれまでの、けれど大局を見れる男ではない。

 あれよあれよという間に、皇帝陛下への忠誠心か、それとも苦しむ国民を救おうとする正義の心かと周囲が選択していくのを眺めて、狼狽えて、けれど何をできるわけでもなかった。


 それでも粛清される貴族のリストに名前が載らなかったのは、領地の人間からの評判が良かったからだ。


 毒にも薬にもならない凡男。人がいいだけで、これからの時代を生きていけるのか。伯爵夫人だけではなく、先代の伯爵も不安だったようだ。


 せめて男の子でも生まれれば、ステラが結婚し、その子供の側近になる可能性を見出せるのではないか。同じ学年ではなくとも、同じ時代に生まれれば多少なりとも、出世の目もあるのではないかと、血の時代を生きた先代伯爵は考えた。


 そんな周囲の下心という期待に反して、伯爵夫人が生んだのは女の子だった。


 たまのような女の子、でもない。見た目は夫に似ていて、それほど美しいとは思えないけれど、伯爵夫人にとっては愛しい我が子…………


 ……ではなかった。


 なぜ男の子ではなかったのだろうと、わずかでも。伯爵夫人は生まれた子を抱いて思ってしまった。その沸き上がる心と、同時に罪悪感。自分だけはこの子の誕生を喜び純粋に愛してやる存在でなければならないと頭で理解していたのに、心根が、自分も周囲のように醜かったとそう気づかされた。


 伯爵家が金をかけて開く今日の夜会いらっしゃる面々は、付き合いがある方ばかりではない。


 夜会であれば何でもいいとばかりに参加する貴族は多い。


 集まりの口実にされる。


 血の戦いが終わり、社交界はやっと落ち着いて結婚相手を探す若者たちに溢れていた。戦争で夫を亡くした未亡人も顔を出す。

 

 初めまして。あるいはお久しぶり。ごきげんよう。


 決まった言葉を口にする。


 美しい音楽の合間に人々の囁き声。 それがずっと続くと思われたが……



 ぴたり、と止んだ。


 

「……?」


 演奏の途中であったのに、音楽家たちが思わず演奏することを辞めてしまった。一流と自負する連中が、あり得ないことである。


 伯爵夫人は女主人として、それを咎めなければならないし状況を把握しなければならない。


 夫はただおろおろとしている。


 人々の視線注意。

 その先は?

 入り口だった。


 今まさに入ってきた人物に、誰もが今まで自分たちがしていた行動を思わず止めてしまった。


「ごきげんよう。伯爵夫人。お久しぶりですね」


 大広間にゆっくりと、誰のエスコートもなく入ってきた貴婦人に、伯爵夫人は自分が呼ばれたのも理解できないくらい、驚いた。


「……まぁ……」


 けれどいつまでも口をぽかん、と開けているわけにはいかない。やっとのことでそう声を発する。呼吸が一瞬、止まった。瞬きすることすらもできずに立ち尽くしてしまった。


 ……目の前に、女神様が降臨されたのではないかしら。


 一瞬そんな疑問が浮かんだ。


 いや、確信だ。

 女神が降臨されたと、その驚きで動くことを忘れてしまっていた。


 けれど、その女神だと思った、貴婦人が口を開き、それが音になり、言葉として頭の中に入ってくると、これは女神ではなくて人間なのだと分かってくる。


 シャンデリアの明かりを受けてキラキラと輝く美しい。黄金の髪真っ白い肌にバラ色の頬。


 人間というものはこれほど美しい形で生きることができるのかと、わが目を疑う姿かたち。


 伯爵夫人はこの世に神が存在するのだと理解した。でなければ、こんなにも優れた容姿のいきものを神以外の誰がお造りになれるというのだろうか。


 金の睫毛が伏し目がちになれば白い頬に影を落とす。まるで金細工の奥に黄金の塊がそっと隠されているようだった。


「ごきげんよう。伯爵夫人」


 もう一度その女神は口を開いた。


 女神、ではなくて。

 ルーナ皇女、いや、今はギュンター公爵夫人と呼ばれるべき、その人だ。


「まあ公爵夫人、覚えていてくださったのですか」


 伯爵夫人は自分より二つ年下の美しい貴人と面識があった。


 ルーナ皇女が身を寄せていた伯爵家はノールト伯爵家と交流があった。同じ伯爵家同士ということもあり、お茶会が開かれれば招待状を送りあう。そこで何度か顔を合わせたことはある。


 けれどルーナ皇女はいつも人と口を利くことはなく、いつも座って黙っていた。


 そういうお人なのだろうと伯爵夫人は思っていた。


 高貴なお方だから、伯爵家程度の貴族では口をきこうとなさらないのだろうと、周囲の人々にも影で言われていた。


 ギュンター公爵夫人に微笑みかけられて伯爵夫人はハッと我に返る。


 彼女は長女の祝いの場に来てくださったようだ。


 伯爵夫人の記憶が確かであれば、ルーナ皇女はご結婚されてから、今夜が初めて……公式の場のに姿を現すのではないだろうか。


 あの恐ろしい、おぞましいほどに残酷な死神公爵とご結婚されたという話は伯爵夫人も知っている。

 もちろん結婚式には参列した。末席であったけれど、光と花の妖精のように麗しいルーナ皇女の花嫁姿は見ることが出来た。

 その美しさはすぐさま吟遊詩人たちの歌になり、今も各地で歌われているほどだったが、隣に立っていたギュンター公爵については良くて「冥府の王のような威厳」という表現が精いっぱいだった。


 と、まぁ、それはいいとして。


 ルーナ・ギュンター公爵夫人の登場に人々が我に返り、そうすると、あちこちでひそひそとささやく声が起こるのが社交界だった。


 すでにギュンター公爵は皇帝ステラの名代としてやってきている。それなのにルーナ・ギュンター公爵夫人はおひとりでいらっしゃった。これがどういう意味なのか、彼ら彼女たちは身勝手に考えて、あれこれと楽しむ玩具にするのだ。


 何しろギュンター公爵はご結婚されてからも、ご結婚される前と同じく、公式の場にはおひとりで姿を現してきた。

 特に誰か女性を伴ったことはない。それが死神公爵だった。


 なので誰もイドラ・ギュンターが一人でいても違和感を唱えなかった。まあ、あのルーナ皇女を妻に迎えたのも何かしらの政治的な意味なのだろう。

 表に出す気はないのだろうと思われていた。


 ので、ここに一人でやってきた、もはや公式の場に姿を現すことがないのでは、もしやとうに殺されているのではないかとすら思われた公爵夫人のご登場。


「すでに夫が来ていると思うのですが。 遅くなり申し訳ありません」


 公爵夫人は静かに微笑み、伯爵夫人に挨拶をする。


 伯爵夫人はそれを受けて。 こちらも決まったように頭礼儀を返す。


 伯爵夫人が公爵夫人を迎えた。それで人々は落ち着きを取り戻す。


 何事もなかったように、音楽家たちは自分たちの仕事を思い出したように音楽をかなり始め給仕たちも歩き出す。


 カーテンの裏で淑女はソファーに座り、あちこちと噂を話すけれど、その内容はもちろん、結婚しても衰えることのない美貌の皇女のことだ。


 喫煙ルームにいたジャン・ジャックは人々の話声で、誰がやってきたのかを知り、一緒にいるミルゲ・ホランドに声をかけた。


「おい、ミルゲ。ルーナ皇女殿下だと!」


 葉巻を右手に持ち替えて、左の肘でミルゲ・ホランドをつついた。


「……は?」


 聞き間違いかと、ミルゲ・ホランドは驚いた。


 自分が昨日、散々脅かした女が来ている?


 夜会に出てきたのか。

 しかも、初めての夜会ではないのか。


「……ギュンターと一緒なのか?」

「何言ってるんだ、あいつは俺たちと一緒に来ただろう。嫌そうな顔をして。そろそろ帰るつもりなんじゃないか。一番奥の部屋で伯爵……は、物事をよくわかってないやつだから、その父親にステラの意向を伝えてるはずだ」


 今後の伯爵家の命運を、先代伯爵は死神から伝えられるのか。それは何とも気の毒な事、と、いつものミルゲであれば思ったが、今はそんなことはどうでもいい。


 驚いてフロアに出て、人々の視線の注目を浴びている金髪の貴婦人がすぐに目に入る。


「…………」


 フロアを優雅に移動するルーナ皇女。その手は伯爵夫人がエスコートしている。彼女はこの夜会の主催の一人であるので、同性であってもこのエスコートはマナーとして正しい。


 身分が高いルーナに誰かが気軽に声をかけられるわけがない。

 なので、公爵夫人と話したい男たちはまず伯爵夫人に声をかけてから紹介していただけないかと期待をする。


 伯爵夫人の顔は優越感で光り輝いていた。


 先ほどまで女を産んだハズレだと、失敗したと陰口を叩かれていた女が、今や注目の的である。誰もかれもが、訪れたルーナ皇女と口をききたくて、伯爵夫人にお伺いを立てる。


 先ほどの挨拶から、間違いなく公爵夫人が今日この場に来たのは伯爵夫人が目的だと、伯爵夫人と彼女の間には友情があるのだと周囲に思わせた。


 何にしろ結婚してから初めての公式の場だ。それも一人きりでわざわざやってきた。大胆な行動だ。


 伯爵夫人は毅然とした態度で公爵夫人をもてなした。


 我が子を紹介し、静かに眠る赤ん坊にルーナが微笑みかける。


「何て可愛らしい子でしょう。きっと優しくて素敵な伯爵令嬢になるのでしょうね」


 ルーナが周囲にも聞こえるように呟く。


 これでこの伯爵令嬢は安泰だ。


 ルーナ公爵夫人がこの子を愛らしいと認めた。


 伯爵夫人はそっと目頭を押さえ涙を耐えているようだった。


 そんなお芝居の一幕のような光景を眺めてから、ミルゲは二人の女性の元に近づく。この場でただ一人、公爵夫人に口を聞ける同等、あるいはそれより高い身分であるミルゲ・ホランドは、伯爵夫人を介さずにルーナに声をかけた。


「ルーナ殿」


 ギュンター公爵夫人、ではなくて、名前であえて呼ぶ。


 あらと、女たちが面白そうに扇の内側で微笑んだ。男も「おい、もう手を付けたのかよ」とがっかりしたような、それでこそミルゲ・ホランドだな、と、認めるような目をする。


 ただそう。ミルゲ・ホランドが親しげに名前呼んだだけで、この2人の間に何かあるんじゃないかと妄想することができる。 その妄想がよからぬ噂になるのは早い。


 けれど声をかけられたルーナは明らさまにミルゲを無視した。


 ここで「どなたかしら」とでも小首を傾げれば、ミルゲが「あなたをエスコートしなかったので怒っているのですか」とでも言って、周囲に「ミルゲ・ホランドがエスコートを断ったから、わざわざ一人で乗り込んできたのか」「なんだ、いつものミルゲに捨てられた女の奇行か」と、伯爵夫人との友情の想像よりも、そちらを現実だと思われる。


 けれどルーナは存在をすっかりないものとして、ミルゲとは反対の方向へ歩き出した。


 それをミルゲが追いかける。


「そのようにつれない態度は傷つきますね。 俺とあなたの仲ではありませんか」


 まぁ、まぁ、と、淑女たちが黄色い声を上げる。聞きまして?聞きました?というような。


 ルーナが歩くと人はそれを邪魔してはならないと道を開ける。その後ろをミルゲがついていく。男と女の駆け引きの、痴話げんか、のようなお芝居を観客は面白そうに眺めた。


 と、そこへ、奥の扉から誰かが入ってきた。

 げっそりとやつれ、青白い顔をしている先代ノールト伯爵と、その男より顔色は悪いが別段疲労感はなさそうな、歩みのしっかりとした黒と銀の軍服姿の偉丈夫。


「……」


 ただの夜会の雰囲気とは異なる会場の様子に、現れたイドラ・ギュンターはすぐさま気が付いた。


 そしてその暗い瞳が、自分に向かって笑顔で近づいてくる妻の姿を見つけると、イドラ・ギュンターはあからさまに顔を顰めた。


「なぜ君がいるのか」


 その不機嫌極まりない声と、人を射殺すことが出来るのではないかと思うほど冷たい視線。それを視界に入れてしまった観客は背筋が凍る思いがしたし、何なら「申し訳ございません!」と自分が責められたわけでもないのに反射的に叫んだほど。しかし、その視線と声をまっすぐに受けたはずのルーナはむしろ嬉しそうに微笑んだ。

 その微笑みは、男なら誰でも向けられて幸福感でいっぱいになり、自分がこの世で最も幸運な男だと信じただろう威力。それを受けたイドラ・ギュンターは周囲の男たちがギュンターに嫉妬の籠った目を向けるのを無視し、ため息をついた。

 

「なぜ君がいるのか」


もう一度、イドラ・ギュンターは妻に問いかけた。


「彼女は俺のパートナーなんだ」


 ルーナが答える前に、ぐいっと、ルーナの腰を引き寄せたミルゲ・ホランドが堂々と答える。


 なんと仲睦まじい姿に見える。

 

 この国一番の美男と美女2人が身を寄せ合うと、腕の良い芸術家が神か悪魔に魂を捧げて描いた絵画のようだった。


 ミルゲ・ホランドはこの場にいるそのほかの軍人たち、当然イドラ・ギュンターとも同じ黒と銀の軍服姿であるのだけれど、ミルゲはこの場の誰よりも軍服が似合っていた。

 

 その軍人の中の軍人の腕の中にいる女性。可憐な花が彼女を前にすれば恥じらってつぼみのまま咲かずに終わることを選ぶほどに美しい。


 まあ、これは面白いことになったと、誰もが興味津々だ。 修羅場だ。誰がどう見ても、これは修羅場だろう。


 ミルゲ・ホランドとイドラ・ギュンターの仲の悪さは貴族なら誰でも知っている。

 その二人の間に、麗しい曰くつきの美女。

 男の仲を拗らせて面白くさせるのはいつだって美女だろうと、わくわくと周囲は今後の修羅場を想像して興奮した。きっと実際は自分たちの想像よりも面白いことになるのだろうと確信しながら。


「そうか」


 ギュンター公爵は静かに頷いた。


 己の妻がこの国で最も美しい男と共にいることを、この死神公爵はどう思っているのだろうか。


「疑わないのか?それに、怒らないのか?お前の妻と、この俺が一緒にいるんだぞ」

「彼女には自分の望むことを選ぶ権利があり、選ぶことのできる意思がある。彼女が卿と夜会で踊ることを望むのであれば、それは叶うだろう」


 淡々と語るイドラ・ギュンター。


 その声音も表情も、普段と何も変わらない。


 むしろミルゲ・ホランドの方がいら立っていた。


 ただでさえミルゲはギュンターのことを嫌っているが、この男の淡々とした態度にますます、彼はギュンターが嫌いになった。


 ミルゲはルーナが自分の体の下で震えていたことを知っている。そして、何もできない無力な女であったことを知っている。必死の抵抗を見せたが、ミルゲがあの時、あの場で本気で彼女を征服しようとすれば、それはとても簡単に可能だった。


 彼女がどれほど意思をはっきりと持っていようと、主張することが出来ていようと、彼女は守らなければならないか弱い存在だと、ミルゲは知った。そして、その彼女を守る義務がある男は、目の前で彼女が何を選択しようと尊重すると言いながら、彼女を放棄している男であることに、腹が立った。

 

 ギュンターはミルゲが昨日自分の屋敷に来たことを知らないらしい、ということは、ミルゲの股間を蹴り上げる勇ましい女は、ギュンターに助けを求めることができなかったのだ。

 

 夫に自分の身に起きたことも言えず、ただ、部屋の中で閉じこもって震えていたのではないか。


 ミルゲは自分が最低なことをしたという罪悪感を初めて抱く。

 これまでミルゲが遊んできた女たちには、慰める相手がいた。家族であったり、恋人だったり、友人だったり。彼女たちはミルゲに傷つけられた、遊ばれたと泣いて縋って、慰められたから、ミルゲは自分が悪いと思ったことは一度もなかった。


 けれどルーナは、ギュンターに言えなかったのだ。


 言えないほど自分が傷つけた、だけではない。ギュンターが彼女にその時間を与えていなかった。たとえギュンターが死神のように冷たい男であっても、ルーナと顔を合わせる時間を作っていれば、ルーナはギュンターにミルゲの仕打ちを打ち明けることができただろう。それすらも、していなかった。


 ミルゲはルーナを自分の背に隠すように後ろに追いやり、ギュンターを睨みつける。


「お前に彼女はもったいない」

「それは卿が決めることではないと思うが」

「お前は彼女がどんな人間か知る気もないんだろう」

「卿が私を理解しようとなさるとは」


 男二人は互いに互いが嫌いなので、会話が全く成り立たない。けれどいつもよりミルゲの言葉には悪意と敵意があり、それを向けられ、イドラ・ギュンターも不快感を普段よりあらわにする。はたしてギュンターが普段よりミルゲへの敵意を隠さないのはそれだけが原因だろうか。


 さすがに誰か、皇帝陛下の側近二人の醜態をこれ以上さらさないようにしなければならないのではないかと、観客たちも心配になってきた。


「ていっ」


 その二人の男に、ぱしん、ぱしん、と、何かが投げつけられる。


「……」

「……ルーナ殿?」


 投げつけられた何かは、重力に従ってぱさり、と大理石の床に落ちた。


 ミルゲとギュンターは揃ってその落下物に視線を落とす。


 手袋だ。

 真っ白い。女物のレースの手袋。


「……」


 なんのつもりだろうかと、ミルゲは首を傾げたが、この国で最も頭の良い宰相閣下、イドラ・ギュンターは瞳に理解の色を浮かべ、そして顔を顰めた。


「わたくしの名誉のために、お二人に決闘を申し込みたいのです」


 男二人を前にして、麗しい黄金の公爵夫人は微笑んで告げた。

 


メイドたち「私たちが奥様を完璧に仕上げました!」

ミュンゼ夫人「レースの手袋は結婚式にご使用されたものをあえてお選びになられましたのよ」


ボルド「あぁああぁああぁあああぁあ……(頭を抱える)」

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