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43:薔薇の嫉妬(1)

 


 庭園を離れ自室に戻り、シャロンは一人で本を読んでいた。

 だがどうにも集中力が続かず、文章を目で追っても頭の中に入ってこない。綴られる文字はまるで手で掬った水のようにスルスルと意識から擦りぬけていき、読み終わったのか否かも分からないままページを捲る。

 時折マルクの顔や薔薇のイヤリングがふっと脳裏に浮かび、それを消し、集中しなくてはと改めて本に向かってはすぐに意識が他所へと向かう。先程からその繰り返しだ。


「駄目ね、疲れているのかしら。最近忙しかったから……」


 ふぅと溜息を吐き、わざとらしく言い訳を口にして本を閉じた。だがその直後にも考えは他所へと移り、脳裏に薔薇のイヤリングが浮かぶ。

 集中出来ない理由が疲れではないことは分かっている。

 確かにここ最近、それどころかデリック没後からはアルドリッジ家の家業を担い仕事は格段に増えた。疲れていないと言えば嘘になる。


 だが今心ここにあらずなのはそんな疲れからではない。

 分かっている。

 それでも己の意志の弱さを認めたくないのだ。マルクに、そして今になって二つ揃ったイヤリングに、自分の心が揺さぶられているという事実を受け入れたくない。


 往生際が悪いと自分自身で溜息を吐き、本を戻すために立ち上がりかける。だがその直前、扉がノックされた。

 入室の許可を出せばゆっくりと開かれ、現れたのはエドワードだ。


「……エドワード、どうしたの?」

「紅茶とパイをお持ちしました。入ってもよろしいですか?」

「えぇ、お願いするわ」


 入室の許可を出せば、エドワードがティートロリーを押してゆっくりと部屋に入ってくる。

 珍しい、とシャロンが心の中で呟いた。


 日頃から燕尾服を纏い優雅に振る舞い、薔薇の一角では給仕の仕事や時には御者の仕事もこなすが、エドワードの本職は庭師だ。

 勤めはアルドリッジ家の庭を美しく保つこと。ゆえに一日の大半を庭で過ごし、屋内で過ごすのも給仕やメイドが使う部屋だけだ。屋敷の表立った場所には滅多に現れない。

 シャロンの自室に至っては、彼が足を踏み込むのは今この瞬間が初めてではなかろうか。

 だがその姿は様になっており、まるで長年シャロンに仕えていた敏腕執事そのものである。


「レイラやフィルは?」

「先程、皆さま庭園を出ていかれました。レイラ様はメイドを連れて市街地へ、ルーシー様はロイド様が来られたので彼と別室でお茶を。フィル様とイザベラ様はそれぞれ自室へと」

「そう……。大丈夫だった?」

「えぇ、何ら問題はありません。アップルパイも好評でしたよ」


 紅茶とパイの用意をしつつエドワードが冗談めかして話す。

 そうしてテーブルにティーセットとアップルパイを並べ、「どうぞ」と促すと共に穏やかに笑った。いつもの笑みだ。白々しいと思う反面、いつも通りだと安心もする。

 彼に促されるまま席に着けば、目の前には温かな湯気をあげる紅茶と綺麗に盛られた一切れのアップルパイ。

 ……そして横を見れば、立ち去るでもなく佇むエドワード。


 何か話があるのだろう。そんなことは彼が部屋に来た時点で分かっていたが。

 だからこそシャロンはチラと彼を見上げ、


「一人で食べるのは退屈だわ。何か話してちょうだい」


 と、先を促した。

 シャロンが己の意図を察したと気付き、エドワードが笑みを浮かべる。否、浮かべていた笑みを変えたと言うべきか。いつもの白々しいものとは違う、底意地の悪さを感じさせる笑みだ。

 庭師らしくも敏腕執事らしくもない笑みだが、これもまた彼らしい。


「アスタル家の事を調べていたらとある噂を耳にしまして、先程フィル様達にその噂をお話したところ真偽を確かめることになりました。庭師の仕事ではありませんが、こういった手合いの仕事も精が出ます」

「噂? イヤリングの技術者も調べてもらうし、忙しくなるのね」

「えぇ。ですので、その間は庭での給仕が間に合わなくなるかもしれません」


 エドワードが給仕をするのは常ではない。シャロン達が薔薇の一角でお茶をするときだけ、他者を己のテリトリーに――そしてシャロンの為の薔薇の籠に――入れたくないという拘りからだ。

 だがそれすらも間に合わなくなるというのだから、よほど忙しくなるのだろう。

 その話を聞き、シャロンが小さく「そうなのね」と呟いた。

 先程から落ち着かず心ここにあらずだった胸中が、また一つ新たなざわつきを覚える。


 寂しい……のだろうか。

 明確ではないが、それに似た感情だ。


 もっとも、シャロンとエドワードは常に共に過ごしているわけではない。シャロンは主に屋敷の中で過ごす夫人、対してエドワードは庭で仕事をする庭師だ。アルドリッジ家の敷地内にいるとはいえ、日々を過ごす領域は微妙にずれている。

 一日に顔を合わせるのはたった数分、という日もざらだ。雨が降った日は互いに顔を見ることもなく、そんな日が続くことだってある。

 だというのに、こうやって前もって伝えられると胸がざわつく。

 エドワードのいない薔薇の一角を想像すれば、なんとも言えない気持ちになる。


 まるで喪失感のようだ……と考え、何を馬鹿なと小さく首を横に振った。

 エドワードの気持ちを知ってなお応えずにいるのに、喪失感とは驕りにも程がある。


「もちろん薔薇の手入れはきちんと行います。ですがどうしても手の回らない部分が出た場合は、カミーユに頼もうと思っております」

「あら、カミーユが来てくれるの?」

「はい。不慣れとは思いますが、お茶の給仕も彼に任せようかと」


 覚えのある名前に、シャロンの顔がパッと明るくなる。

 カミーユはレイラの恋人だ。市街地にある花屋の店長として勤め、最近は毎朝アルドリッジ家に花を届けてくれるようになった。

 その際に時間があるとレイラとお茶をしており、時にはシャロンも共に過ごしている。

 いまだ緊張しているものの少しずつだが打ち解け、先日は季節の花と花言葉について教えてくれた。優しく爽やかで誠実な好青年だ。

 なにより、彼と話しているレイラが幸せそうで、見ているとシャロンの胸まで幸せで満ちていく。


 きっとそこまでエドワードは知っていて、自分の不在時を彼に託すと決めたのだろう。

 彼は薔薇の一角に強い拘りを見せ、手入れも徹底して自分一人で行っている。それでも託さざるを得ないとなれば、きっと自分に匹敵する腕の庭師を選ぶはずだ。

 だがあえてカミーユを呼んだ。彼も花に詳しいが、あくまで花屋。同じ草花を扱うとはいえ仕事の種類は違う。給仕に至ってはまさに門外漢だ。

 だがカミーユが来れば当然レイラも共に過ごし、そしてシャロンは彼等と穏やかな時間を過ごせる。

 給仕に不手際があったとしても、それどころか仮に紅茶を服に零されたとしても、シャロンの胸は暖かくなる一方だ。


 だというのに、シャロンの明るい表情を見たエドワードはコホンと咳払いをし、それどころか盛大な溜息を吐いた。


「シャロン様がお喜びになると思いカミーユを呼ぶことにしましたが、さすがにそこまで嬉しそうにされると複雑ですね」


 少し拗ねたような彼の声色に、シャロンは「あら」と呟いて彼を見上げた。



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