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六話:水到渠成・前 為せば成るか成らないか

 

 正房せいぼうには誰も居なかった。


 これ幸いと、織実は我が家の如く入り込む。


 静まり返る室内は、緊張の糸が張り詰めたように息苦しい。気を紛らわせる為に、盛大な溜息を吐いた。


「はぁぁぁあぁぁー」


 不在でも威圧的とは。本当にやっていられない。ふと動かした視線の先に、受け取りを拒否した刀が一振り、存在感も甚だしく放置されていた。


 鞘は朱色。実用性皆無の宝石や金銀で細工されている。更に垂れ下がる組紐は、真紅に黄色、更に青というケバケバしい組み合わせだ。


 少しならと思って、試しに持ち上げてみる。片手では無理だった。


「重っ!」


 腕が震える。とても刀身を引き抜く勇気はなくて、変わりに重い溜息が出た。


「…………やってらんない」


 依代よりしろというからには、朱鬼には体が無いのだろう。普通に触れるし、食事もするのに。織実は眉をひそめた。怪しい気がする。本当に無いのだろうか?


 ――――今度、服を引っぺがしてみようか。


 それで体が骸骨でした、なんて事になったら、洒落にならないが。


 やはり、余計な事はするまい。


 頭を振って、想像を追い払う。室内を書庫へ曲がると、少し嗅ぎ慣れない匂いが立ち込めていた。部屋奥の香炉から、細く煙が上がっている。


 不用心ではなかろうか。


 棚に横積みされた、紙の束。巻物。璃君の書庫には、背表紙を並べる図書館のような光景は存在しない。


 まるで製本前の資料の山だ。紐で閉じられただけの紙など、何が書いてあるか調べるには、いちいち手に取るしかない。そんな場所に火元とは。


 ともかく、くすぶる香炉を書庫から移動した。


 その後は、腕をまくって気合いを入れる。本棚には、本人と会話をする以上の人間性が詰まっていたりするものだ。普通は親しくもない人間に、本棚なんて見せたくない。


 それを許すあたり、璃君は「甘い」のだろう。あたしに。


 なんて追い打ち。織実は少し遠い目になりながら、紙の山をあさり出した。


 仙人修行とは、本当にたくさんあるらしい。昔から、志願者が多かったのだろう。不老不死という、神の領域。織実には良さが分からなかった。


 前回ひっくり返した逆側から、紙の束を持ち上げる。どうせなら、用途別に分類してしまおう。それで分かった事と言えば、一番よく出てくるのが、僻穀へきこく。知らぬ間に実践していた、穀物を避けるものである。


 次に目にするのは、呼吸法。


 要するに「気」を何とかする為の息づかいだった。お腹の中にいる時の、赤ちゃんがする呼吸、なんて言われても思い出せない。むしろ覚えていたら、仙人確定の人生か。


 なんとも胡散臭い。


 そして運動が三番目だ。


 この関連は流派なのか、ともかく種類も資料も統一感が見当たらない。ラジオ体操でも良いような気さえする。素手と武器で分ければ良いか、年代順か。巻物と木簡、紙で分けるべき?


 机に書物を置いた途端、もわりと埃が舞い上がる。


 慌ててかわやへ手ぬぐいを取りに行き、織実は日の高さに我に返った。


「これじゃあ、掃除してるだけじゃんか!」


 讃岐は何故に、あの部屋の掃除をサボるのか。何気に璃君も、身辺をうろつかれるのが嫌なのかもしれない。何となくイイ気分になって、書庫に戻る。古ぼけた漢字を見ていても、目が疲れてしまうばかりだ。


 織実は、踏み台を奥に動かして、和綴じになった書棚のエリアに行ってみた。適当に引っ張り出したそれは、『洞玄子(どうげんし)』と書かれた四巻目。開いたページには、「交接(こうせつ)()法」と達筆が踊っていた。


「…………なにこれ」


 現代語なら、交接は単なる「引継ぎ」の意味だ。しかし古典に於いては「男女の交わり」を意味する桃色案件となる。


 まさかのエロ本を見つけてしまった。


 興味本位でページをめくる。姿勢が三十種類を超える事はない、なんて至極どうでもいい内容が書かれていた。気まずい。案外、本格的だった。


 こんな所で、漢文のエロ本を拝む事になろうとは。璃君も一応、男らしい。知りたくないよ、そんな事。


「樒」

「っ!」


 低い声に、織実は踏み台の上で、すくみ上がった。慌てて背中に書を隠す。手書きの漢字。それでも丁寧に書かれた文字は、小さくはない。遠目に表紙が見えてしまっただろうか。


「あはは…………」


 乾いた笑いが出てしまう。見てはイケナイ、オトナの本。それをほのめかせば脅しになったが、「お前も見たな」になれば、話は違う。


 共犯者とは、親分に脅され続ける下っ端だ。


「…………樒」


 璃君の声音は咎めるようだった。失敗した。明らかに、本が抜けている棚がある。しかも真横に。残りのシリーズが、答えを教えるようなものだった。


 元々鋭さのある切れ長の瞳が、その場所を捉えてから、こちらに向いた。


 織実は反射的に、距離を取る。白状すべきか。いや、何となく分かっていたけれど、決して完璧に読めた訳じゃない。


偶々(たまたま)か、意図的かは聞かぬが」


 璃君は一直線にやって来た。後ろ暗い織実は、更に後退して、壁際に追い詰められる。狭いんだよ、この部屋!


 両側は書棚だ。前の璃君をどうにかする以外に、逃げ道はない。


 長い影に包まれても、白状する訳にいかなかった。織実は笑顔を貼り付ける。


「おかえりなさい?」

「返しなさい。女人には向かぬぞ」

「たまたま出しやすい位置にあって、ですね。字体も結構綺麗だったから…………文字の練習に、どうかなぁ、なんて…………」

「分かりやすい嘘は、付かぬ事だ」


 伸ばされた璃君の手に、ぎゃーっ、と内心で絶叫だ。この本を素直に差し出すなんて、嫌だ、絶対に!


「無理無理!!」


 手渡し返却とは、すなわち公開処刑である。なのに璃君の手は、ぽんと、肩に乗ってきた。


「…………四巻まで、読み進めたのか?」

「んな訳あるかぁー!」


 とうとう叫んだ織実に、男の口角が吊り上がる。その高い位置の顔が近づくのは、彼がかがんでくるからだ。ぱらりと、白髪が肩から滑って落ちてきた。


琥琥ここに渡したら、相手になれと言われるぞ?」


 織実は問題の書を、璃君の顔に押し付けた。ゴツン、と存外いい音がする。


「他意は無かったんですよっ!!」

「あっても困るが」


 肩は掴まれたままだ。逃げ道も塞がれている。出来た事は、視線から逃れただけだった。


「そこ、退いて下さい」


 くくっ、と璃君は低く笑う。織実はイライラしながら本を押し続けた。動かせる見込みは、欠片も無が。なんてヤツ!


「ちょっと、いい加減に…………」

「養生術の一種だ。性生活における技法で、和合の道を模索したに過ぎぬ」


 璃君は本を取り上げた。おでこが赤い。しかし茶化す間はなく、青い瞳に笑みが浮く。獲物を捕えた猛禽もうきん類の、鋭く無慈悲な微笑みが。


「陰陽が一つになり、万物が生まれ出るという思想を、知っているな?」

「だったら、何なんです!?」


 織実は負けじと言い返した。ちなみに、そんな思想は欠片も知らない。


「男女で気を巡らす術は、体を接触させる事を絶対とする訳ではない、という事だ」

「じゃあ、放して下さいよ!」

「離せば逃げるだろう?」

「う…………」


 逃げるに決まってる。エロ本の持ち主が開き直ったのだ。いい事なんて一つもない。


「男女が肉体的に気を循環させる益は、思った程に無いものだ。片方の身を害す程に奪えば、また話は変わろうが」

「ミカンが悪用するとでも?」


 手のり狐相手に、貞操の危機は想像出来ない。璃君は何故か、口元にも笑みを浮かべた。不穏な空気が倍になる。


「対して、体の接触を行わない交法がある。意識だけで、男女が気の循環を行うが…………其方は、自身の気を理解しておらぬゆえ

「だ、だから、何です!」

「其方の気を揺らしたとして、自衛出来まい」

「璃君は! 修行する必要、ありませんよね!?」

「さてな」


 織実は身構えた。空気でさえ、使っていても見えない物だ。気なんて眉唾ものが、見える訳ない。


「何でもかんでも、持ってくなって事ですか!」

「それもあるが」


 璃君は眉をひそめて、やっと織実から離れてくれた。雑な手付きで書を棚に置き「来なさい」と、視線だけで言ってくる。せっかく留守だと思ったのに、見つかるたびに叱られるとは、これ如何に。


「天仙とは、気の原石とでもいうべき存在だ」

「じゃあ、磨かないと光りませんね」


 揚げ足取りのつもりだったが、振り返った璃君の顔を見て、失敗に気付く。磨いていない原石とは、ミカンや朱鬼の事ではない。


「ねじ曲がっている其方に、拳法は向こう」

「イ、イヤですよ、格闘技なんて!」

「振る舞いの美しさを演舞で、身体の美しさを養い、殺傷力を持つ事で心を強める。総じて気を練り上げ、これを高めるえきとするもの――――最優先で、其方を磨く必要があるようだ」


 あらぬ方向に飛び火をした。璃君の武術指南なんて、スパルタ以外に思い付かない。


「あたしは良いんですよ、このままでも!」

「親を見返すのだろう?」

「そうですけどっ」


 水泳以外に、得意な運動が無いのだ。両親が学者のせいか、体まで文系なのである。武術なんてとんでもない。


「師に甘えがあるのは、良くない」


 どの口が言うか。反論したいが、今度そこ下手に出ないとマズい気がする。結局は小心者なのだ。長いものには巻かれたい。


「あなたは、あたしの歳を知ってますよね? どうして絡んで来るんです?」

「其方が大人しくせぬからだ」


 解せぬ。そもそも暴れてなど、いないのに。織実は文句を我慢した。


「天仙とは、成った時よりおのれの事を知る者だ。悪食あくじきも居るが、空腹で食を求めるなど有り得ぬぞ」

「やっぱりあたし、仙人じゃないんじゃ…………」

「天籍の徒人ただびとなどらぬ」


 ぴしゃりと言い返される。気にしてくれて、いるのだろう。彼は声を荒立てたりはしなかった。仙境の主として、思うところもあるハズだ。


「璃君が困る事はしませんよ。あたしだって、別に、困らせたいワケじゃ…………」

「そこに座りなさい」

「はい」


 示された乳白色の丸いつくえは、椅子が陶器で極彩色。正房前室の中央に置かれる、優雅なテーブルセットだ。そには既に、茶器の用意がされていた。


 すぐには帰れない、ようである。


 有耶無耶な内に逃げ出したい。璃君の武術指南なんて、絶対に楽じゃ無さそうだ。


「お茶、入れましょうか?」

「ああ」


 織実はお茶を濁したかった。急須に茶葉を入れてから、火鉢の鉄瓶を持ってくる。湯を注ぎつつ、朱鬼に話題をずらすしかないな、と諦め半分に思案した。素行の悪さはネタに最適だ。


 人とは残酷にも、裏切る生き物である。


「それを持って、内院にわに来なさい」

「え」


 璃君の声が遠のいた。慌てて振り向くと、扉を開け放ち、外に出て行く後姿が目に入る。片手には盆。湯呑が乗っていた。このままでは、即実地になりかねない。


 ――――忙しいんじゃないの!? あの男!


 完全に笑えなくなった織実は、湯で満たされた急須を持って璃君を追った。真っ白に明るく、昼の光に照らされる庭へと。


 淡い桃のピンク色。足元に広がる苔の緑と、白い玉砂利は磨いたように艶やかだ。青い光を透かす、ガラスのような若木の側に、石の円卓と腰かけがある。


 ステンドグラスを思わせる木漏れ日が、璃君の白髪に落ちていた。


 年老いた髪とは思えない、雪と見紛う白い髪。まるで濡れているような、しっとりとした質感に、ゆらゆらと光の粒が風を描いている。目が離せない。


 織実は、胸がつかえたように苦しくなった。


 ――――綺麗だと。


 言ったら多分、負けである。呼吸を止めて瞳を閉じる。どうにか逃げねばならない。ざわざわとした風の音に、手元の急須から甘い香りが立ち昇る。瞼の向こうのまばゆい光。計られた。そうとしか思えなかった。


 璃君を睨むが、彼はぼんやり空を見ているだけだ。


 釣られて見上げると、花びらが一斉に青に向かって吸い寄せられていく。白や桃色。黄色は多分、菜の花だろう。舞い上がった色のある雪。ふわりと優しく、光となって消えながら、庭一面に降ってくる。


「…………綺麗」

「皆、そう言う」


 璃君の抑揚のない声が、そう言った。まるで思ってすら、いないように。織実は横顔を盗み見る。


「どのへんが?」

「荒れてはおらぬ。綺麗なのは当然だ」


 なんとも屁理屈である。人のやる気を削いでおいて、自分は無関心とは、どういう事だ。だからついつい、藪を突付いてみたくなった。


「この仙境の名所って、どこです?」

「…………」

「…………」


 しばしの沈黙。織実は璃君に近づいた。満開の桃木は、桜よりもピンク色。枝にモコモコ花が付く様は、綺麗というよりは面白い。それが群生すると、霞みよりもけぶって見えて、桃色の雲のようである。


「桃って、桜とは違うんですね。儚さがない」

「其方は桜が恋しかろうな」

「そうでもないですよ。桜は散るから良いんです。ここに生えても、きっと散らない桜でしょう?」

「そうだな」


 ふわりと甘い風が吹く。桃の香りは甘かった。織実は重い溜息を吐く。お腹が減った。そろそろ昼にしなくては。


「この仙境の見どころは…………」


 璃君を見ると、彼は静かに視線を寄越した。期待はなくとも興味はある、そんな顔だ。織実は急須を盆に置いてから、ニコリと笑顔をつくった。ひとつ、笑いを提供してあげよう。


「畑ですね」

「畑か」


 彼は無表情のまま反芻はんすうすると、黙って急須を傾けた。湯呑が茶色に満たされる。


「其方は、ほとほと仙に向かぬな」


 織実の反骨精神に火がついたのは、言うまでも無い。




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