雪降る砦の温もりと、愚者たちの末路
アイゼングラードに本格的な冬が到来した。
空は分厚い灰色の雲に覆われ、絶え間なく白い雪が舞い落ちている。王都の雪とは比べ物にならないほど冷たく、そして重い雪だ。城壁の外はすでに深い銀世界に沈み、魔獣たちも息を潜める厳しい季節の始まりである。
しかし、アルジェント城の厨房は、外の酷寒が嘘のように活気と温気に満ち溢れていた。
「セレスティア様! ひっくり返しますよ、せーのっ!」
「わぁっ、上手! さすがニナね、完璧な焼き色だわ!」
大きな鉄板の上でジュージューと音を立てているのは、すりおろした『大地の林檎(芋)』に少しの塩とチーズを混ぜ、多めのバターでカリッと焼き上げたもの。私が前世の……いや、神殿の書物庫で読んだ知識を元に考案した『ガレット』と呼ばれる料理だ。
初雪の前に全領地で一斉に収穫された大地の林檎は、巨大な地下貯蔵庫に山のように積まれている。
バルトロ様が綿密な配給計画を立ててくれたおかげで、領民たちは毎日お腹いっぱい芋を食べることができていた。茹でる、焼く、灰に埋める……調理法は様々だが、毎日同じでは飽きてしまうだろうと、私は厨房の料理長にお願いして、いくつか新しいレシピの試作を行っていたのだ。
「外側はサクサクで、中はもっちり……! これはお子様たちも絶対に大喜びしますよ!」
ニナが目を輝かせながら、焼き上がったガレットをナイフで切り分けていく。
ふわりと立ち上るバターとチーズの焦げた香ばしい匂いに、厨房にいた料理人たちも生唾を飲み込んでいた。
「よし、ちょうどいい焼き加減ね。さっそく辺境伯様とギルさんにも試食していただきましょう」
私は出来立てのガレットを温かいお皿に乗せ、急いでルキウス様の執務室へと向かった。
分厚い絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、私はふと窓の外を見た。
吹き荒れる吹雪。かつてのアルジェント領であれば、この雪は「死の足音」そのものだったはずだ。備蓄の底が見え始め、人々が寒さと飢えに震えていた季節。
だが今の街には、雪かきをしながら笑い合う人々の声があり、煙突からは温かな食事の準備を示す煙が途切れることなく上っている。私がもたらした知識と、それを信じてくれた彼らの努力が、確かにこの領地の運命を変えたのだ。
執務室の前に着き、ノックをしてから扉を開ける。
「ルキウス様、ギルさん。休憩にしませんか? 新しい芋料理の試作ができたんです!」
「おお、セレスティアか。いい匂いがするな」
机に向かって大量の書類と格闘していたルキウス様が、ホッとしたように顔を上げ、羽ペンを置いた。その目元には少し疲労の色が浮かんでいるが、私を見るとスッと険が取れ、柔らかな光が宿る。
部屋の隅のソファで、ナイフの手入れをしていたギルも、鼻をひくつかせて無言で立ち上がった。
「すりおろした芋を焼いた『ガレット』です。熱いうちにどうぞ」
私が二人の前に皿を置くと、ルキウス様は早速フォークを手に取り、一口大に切って口に運んだ。
サクッ、という小気味良い音が響く。
「……美味い」
ルキウス様の氷河のような瞳が、驚きに大きく見開かれた。
「ただ焼いただけの芋とは全く違う食感だ。外側の香ばしさと、内側の芋の甘みが、チーズの塩気と完璧に調和している。これなら腹持ちもいいし、保存食の干し肉を添えれば立派な主菜になるな」
「俺も同感だ。兵士たちの野戦食にも応用できそうだな」
ギルも、相変わらず無表情ではあるが、食べるスピードが異常に速い。あっという間に彼のお皿は空になってしまった。
「ふふっ、お口に合って良かったです」
二人が美味しそうに食べてくれる姿を見るのが、今の私の一番の喜びだった。
だが、食後の温かいハーブティーを淹れ終わった直後。
部屋の空気が、ふっと変わった。
ギルが、懐から黒い封筒に入った一通の手紙を取り出したのだ。
それは、彼が束ねる辺境伯直属の密偵——『影』たちからの定期報告書だった。
「閣下。王都に潜伏させている三番から、最新の報告が届きました」
ギルの平坦な声に、ルキウス様の表情が、先ほどまでの穏やかなものから、冷酷な北の軍神の顔へと一瞬で切り替わった。
「……読め」
「はっ」
私も片付けようとしていた手を止め、思わず息を呑んだ。
王都。
私を魔女と罵り、火あぶりにしようとしたあの場所。私が消えてから、もう二ヶ月近くが経とうとしている。
「結論から申し上げますと」
ギルは報告書に目を通し、淡々とした声で紡ぎ出した。
「王都は現在、地獄と化しています」
その言葉の重みに、私はティーカップを握る手に力を込めた。
「教会の奴らは、セレスティア様が『火刑の前に自ら地獄の業火を呼び出して消滅した』と発表しました。そして、『魔女が消えたことで、呪いは解けた。神の勝利だ』と民衆に触れ回った。……最初は、それで民衆も安心したようです」
「だが、奇病は治まらなかったのだろう?」
ルキウス様が冷ややかに問うと、ギルは短く頷いた。
「ええ。当然です。奇病の原因は魔女の呪いなどではなく、彼らが毎日ありがたがって食っている『カビの生えたライ麦』なのですから。魔女討伐の祝宴と称して、教会が備蓄していた汚染麦を大量に配給した結果……感染は爆発的に拡大しました」
ギルの口から語られる惨状は、私の想像を遥かに超える凄惨なものだった。
魔女が死んだはずなのに、一向に治まらない「悪魔の呪い」。
手足の先が黒く変色し、焼け焦げるような激痛と共に腐り落ちていく『麦角中毒』の症状は、貧民街から平民街へと燃え広がり、王都の医療院は悲鳴を上げる暇もなく機能不全に陥った。
四肢を失い、地面を這いずり回る者。
毒素によって脳の神経を侵され、恐ろしい幻覚を見て発狂し、自らの家族に刃を向ける者。
王都の美しい石畳は、狂乱の血と、腐乱した死体の臭いで埋め尽くされているという。
「教会は『まだ魔女の瘴気が残っている』と言い訳を重ね、祈りを捧げさせましたが、無駄なことは誰の目にも明らかでした。物理的な毒素に、神への祈りなど通じるはずがない」
ギルはそこで言葉を区切り、少しだけ嘲笑するような、冷たい笑みを浮かべた。
「そして、ついに『身分ある者』たちにも被害が出始めました」
「貴族や、教会の幹部たちにか」
ルキウス様が腕を組み、深く椅子に背中を預ける。
「はい。彼らは平民の食う麦とは違う、上質な『備蓄穀物』を独占していました。だから自分たちは安全だと思い込んでいた。しかし、今年の異常な長雨と湿気は、地下の備蓄庫にまで忍び込んでいたのです。換気の悪い地下室で保管されていた高級ライ麦は、見事に黒カビに浸食されていました。……皮肉なことに、平民に配られた麦よりも、重度な麦角菌の温床になっていたそうです」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
王族や聖職者たちは、自分たちだけは助かろうと、安全な(はずだった)食糧を溜め込んでいた。だが、その強欲さゆえに密閉された空間で保管された麦は、より致命的な毒を生成してしまったのだ。
「王弟殿下をはじめ、多数の有力貴族が発症。幻覚を見て城の窓から身を投げた者もいるそうです。そして、あんたを魔女として糾弾した、あの憎き大司教も……」
ギルは私の方へ視線を向けた。
「あの男も、自ら溜め込んでいた麦を食い、発症しました。右手の指が三本、真っ黒に腐って崩れ落ちたそうです。激痛と幻覚に苛まれ、『魔女が来た! 許してくれ!』と叫びながら、教会の奥深くに閉じこもって震えているとのことです」
「……」
私は言葉を失っていた。
感情は湧かなかった。ただ、あまりにも愚かで、あまりにも無惨な彼らの末路に、胸の奥に冷たい虚無感が広がるだけだった。
私が神殿の書物庫で必死に訴え、あの手この手で「カビの生えた麦を食べてはいけない」と警告したのに。彼らは既得権益を守るため、その忠告を嘲笑い、私を殺そうとした。
その結果が、これだ。
「……民衆は、どうしているのですか?」
震える声で私が尋ねると、ギルは報告書の最後のページをめくった。
「暴動が起きています。もはや王都の治安は完全に崩壊しました」
「暴動……」
「ええ。『魔女が死んでも呪いが終わらないのはおかしい』。ついに民衆も、教会の嘘に気づき始めたのです。そして、数少ない生き残りの中で、かつてあんたが貧民街でこっそり教えて回った言葉を思い出した者がいた」
『黒いカビの生えた麦は絶対に食べてはいけない。それが病の原因だ』
私が泥まみれになりながら、必死に説いて回ったあの言葉。
当時は「魔女の戯言」と石を投げられたその言葉が、地獄の底でようやく真実として人々の心に届いたのだ。
「民衆は武器を手に取り、教会と貴族の館を襲撃し始めました。『お前たちが腐った麦を食わせたからだ!』『本当は聖女様が正しかったのだ!』と。大司教が引きこもる大聖堂は、今や数万の暴徒に包囲され、投石と放火の標的になっています。王家の近衛兵も半数が奇病に倒れており、暴動を鎮圧する力は残っていません」
「……自業自得、という言葉すら生ぬるいな」
ルキウス様が、氷のように冷たく、一切の容赦がない声で吐き捨てた。
「自分たちの無能を隠すために一人の少女に罪を擦り付け、真実から目を背けた結果が、国の滅亡とは。オルディス王国は、もう終わりだ」
「ちなみに」と、ギルが思い出したように付け加えた。
「あんたの芋を毒入りだと偽証して、あんたを陥れるきっかけを作ったあのパン屋の一家。彼らは暴動の標的にすらならず、真っ先に奇病で全滅したそうです。教会から褒美として与えられた『最も汚染された高級小麦』を、嬉々として腹一杯食った結果だとか」
因果応報。
その言葉が、これほどまでに重く、そして残酷に響くことがあるだろうか。
私が愛し、救おうとした国は、自らがついた嘘と、強欲という名の毒によって、今まさに自壊しようとしているのだ。
「……セレスティア」
不意に、温かく大きな手が、テーブルの上で固く握りしめられていた私の両手を包み込んだ。
ハッとして顔を上げると、ルキウス様が、痛ましいものを見るような、それでいてどこまでも優しい瞳で私を見つめていた。
「同情しているのか? 自分を殺そうとした者たちに」
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「悲しいです。私の力が足りなかったから、分かってもらえなかったから、こんなことになってしまったのかと……。でも、同時に、もうどうでもいいとも思ってしまう自分がいます。あんなに酷いことをされたのだから、当然の報いだと。そんな冷たいことを考える自分に、少し戸惑っているんです」
私の本音を聞いて、ルキウス様はフッと短く息を吐き、私の手をさらに強く握りしめた。
「君は優しすぎる。だが、冷たいなどと自分を責める必要はない。君は彼らを救うために、命を懸けて警告した。行動もした。それを拒絶し、火刑台に送ったのは彼ら自身の選択だ。君には、これ以上彼らの罪を背負う義務など、微塵もない」
彼の力強い言葉が、王都への未練という名の、心の底にこびりついていた最後の重りを断ち切ってくれた気がした。
「王都の連中は、自ら毒を食らい、自ら滅びへの道を歩んでいる。我々が干渉することではない。我々が守るべきは……」
ルキウス様は視線を窓の外へ移した。
雪が舞う中、街の広場では、子供たちが大きな雪だるまを作りながら笑い声を上げている。
「我々を信じ、共にこの凍てつく大地を耕してくれた、この領民たちの命だ」
「はい……!」
私は強く頷いた。
そうだ。私が救えなかった命を嘆くよりも、今、私の目の前で笑ってくれているこの命を守り抜くことの方が、何千倍も大切だ。
「ギル、王都への監視は引き続き怠るな。暴動の波が北に及ぶようなら、即座に街道を封鎖する。難民が押し寄せてきても、麦角菌の保菌者や暴徒をこの領地に入れるわけにはいかない」
「承知しました。国境警備隊にはすでに通達を出してあります」
ギルは短く一礼すると、音もなく執務室から消えていった。
部屋に、私とルキウス様の二人だけが残された。
彼は私の手を握ったまま、ふと、声のトーンを落として語りかけた。
「セレスティア。一つだけ、確認しておきたい」
「なんでしょうか?」
「王都の連中が、遅まきながら君の正しさに気づいた。もし仮に、王族や教会が自らの非を認め、君に土下座して『どうか王都へ戻って、我々を救ってほしい』と懇願してきたら……君は、帰るか?」
その問いの奥に、ほんのわずかな、彼らしくない『焦り』のようなものが滲んでいるのを、私は聞き逃さなかった。
氷雪の軍神と呼ばれる彼が、私が去ってしまうかもしれないという可能性に、怯えているように見えた。
私は、一切の迷いなく、彼の氷河の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「帰りません。絶対に」
キッパリと言い切った私に、ルキウス様はわずかに目を見張った。
「私が聖女として祈っていた場所は、とうの昔に灰になりました。今の私は、アルジェント辺境領の農業顧問であり、ルキウス様の臣下です。それに……」
私は、彼に握られていない方の手——土仕事で荒れ、新しいマメがいくつもできた手——をそっと持ち上げ、彼に見せた。
「この美しい街と、この手を『美しい』と言ってくれた貴方のことを、私が手放すとお思いですか?」
少しだけ悪戯っぽく微笑んでみせると、ルキウス様は数秒間呆けたように私を見つめた後、耐えきれないというように、大きな手で自分の顔を覆い、深い、深い溜息をついた。
「……君という女性は。本当に、私を狂わせる魔法でも使っているのではないか?」
「ふふ、魔女ですから」
顔を覆っていた手を退けたルキウス様の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
彼は立ち上がり、私の隣に立つと、そのままそっと、私を広い胸の中に引き寄せた。
「っ……ルキウス、様……」
「帰さない。王都が金銀財宝を積もうが、国王が直々に頭を下げようが、絶対に君を渡すものか」
頭上から降ってくる低く熱い声。私を抱きしめる腕の力強さに、彼の切実な思いが痛いほど伝わってくる。
軍服越しの彼の体温は、暖炉の火よりもずっと温かかった。
「……はい。ずっと、ここにいます。辺境伯様のお傍に」
私が彼の背中に腕を回し、そっとしがみつくと、彼は満足そうに私の髪に唇を落とした。
窓の外では、吹雪がさらに勢いを増していた。
王都は今頃、寒さと飢え、そして絶望の中で血を流し合っているのだろう。彼らが自ら選んだ滅びの運命は、もう誰にも止められない。
けれど、この北の砦の中だけは、春の陽だまりのように温かい。
私は、過去の自分を縛り付けていた鎖が完全に砕け散るのを感じながら、大好きな人の胸の温もりの中で、静かに目を閉じた。
私たちは、この厳しい冬を必ず乗り越えてみせる。希望という名の林檎で、お腹と心を満たしながら。




