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番外編①:善意の目詰まり


 T区の駅前広場。かつては喧騒の中心だったその場所で、ミサキはたった一人、木製の手作りの台に立っていた。

 彼女の胸元には「あなたの声を聴かせてください」と優しく書かれたプラカードが提げられ、足元には清潔な白いカバーがかけられた椅子が二つ、向き合うように置かれている。ミサキにとって、対話とは魂の洗浄であり、言葉を外に出すことは、停滞した運命を動かすための唯一の儀式だった。

「こんにちは。もしよかったら、少しだけお話ししませんか? どんな些細なことでも構いません。心の中にあるものを、外に出すだけで、世界は少しだけ明るくなるはずですから」

 彼女は、通り過ぎる人々に、春の陽だまりのような微笑みを投げかけた。だが、人々の反応は、数日前とは劇的に異なっていた。

 以前なら、孤独な老人や、仕事に疲れたサラリーマンが、彼女の「善意」に甘えて数分間の対話を享受していった。しかし、今の通行人たちは、ミサキの声を向けられた瞬間、まるで汚物でも投げつけられたかのように顔を歪め、耳を塞いで足早に去っていく。

 彼らの首筋には、例外なく黒い痣のような模様が浮かび、唇は乾燥してひび割れていた。ミサキは、彼らの反応を「心の病」だと定義し、さらに強い「救済」の言葉を投げかけようとした。だが、彼女が言葉を発するたびに、彼女自身の喉の奥で、粘り気のある熱い何かが逆流してくるのを感じていた。


 午後になり、一人の男がフラフラと彼女の前の椅子に腰を下ろした。

 男は重い作業着を着ており、全身から煤の匂いが漂っていた。彼はミサキの顔を見ることなく、ただ項垂れて、震える指先を自身の膝に突き立てていた。

「……苦しい。もう、何も、書けない。報告、しなきゃいけないのに、指が、動かないんだ」

 男の掠れた声を聞き、ミサキは使命感に燃えた。彼女は男の手に自分の手を重ねようとした。

「大丈夫ですよ。何も書かなくていいんです。ただ、今あなたが感じているその苦しさを、言葉にしてみてください。私に、あなたの絶望を『提出』してください。私がそれを受け止め、光に変えてみせますから」

 彼女の言葉は、本来なら慈愛に満ちた旋律であるはずだった。しかし、その瞬間、男は激しく嘔吐するように身をよじった。

「やめてくれ……! その、綺麗な言葉が、俺の耳の中にインクを注ぎ込んでくるんだ! 喋らせないでくれ、もう、俺を放っておいてくれ!」

 男は絶叫し、椅子を蹴り飛ばして逃げ去った。彼が座っていた場所には、どろりとした黒い液体が一点、染みとなって残されていた。

 ミサキは、差し出した自分の手を見つめた。白かった彼女の指先が、今、男と触れた場所からじわじわと黒く染まり始めている。それは汚れではなく、彼女自身の内側から溢れ出そうとしている「言葉の残骸」のようだった。


 夕暮れ時、ミサキは広場を畳み、這うようにしてアパートへ戻った。

 彼女の部屋の壁には、これまでに彼女が救ってきた(と信じている)人々からの感謝の手紙や、自らが書き留めてきた「希望の格言」が隙間なく貼られている。以前の彼女にとって、この部屋は言葉という光に満ちた聖域だった。

 だが、今の彼女には、それらの文字の一つ一つが、自分を監視し、さらなる出力を強要する呪文の羅列にしか見えなかった。

 彼女はスマートフォンの画面を開いた。彼女が運営するSNSのアカウントには、救済を求める人々からのメッセージが何百件も届いている。

(ミサキさん、助けてください。言葉が出ないんです。何を提出すればいいのかわからないんです)

 以前なら、彼女は徹夜をしてでも、一人一人に丁寧な返信を書いただろう。だが、今、キーボードに指を置こうとすると、爪の隙間からどす黒いインクが噴き出し、画面を無惨に汚した。

「……返さなきゃ。私は、彼らのために、言葉を紡ぎ続けなきゃいけないのに」

 彼女は必死に文字を打ち込もうとした。しかし、頭に浮かぶ「愛」や「希望」という概念は、喉元を通り過ぎる瞬間に、冷たく硬い石の塊へと変質していく。

 彼女は自分の首を絞めるようにして、無理やり声を絞り出そうとした。だが、出てきたのは言葉ではなく、ゴボリ、という不快な液体の音だけだった。


 ミサキは、壁に貼られた手紙を、狂ったように剥がし始めた。

 感謝の言葉。励ましの言葉。未来への約束。それらすべてが、彼女の肉体を縛り付け、外界への出力を強制する鎖だったのだ。

「私は、救っていたんじゃない。私は、みんなに『言葉』を強要していただけなんだ」

 その気づきは、どんな刃物よりも鋭く彼女の精神を切り裂いた。

 彼女が良かれと思って投げかけた言葉が、受け手の喉を詰まらせ、彼らを石へと変える触媒になっていた。そして今、その因果の報いが、彼女自身の内側から牙を剥いている。

 彼女は、床に散らばった日記帳を手に取った。そこには、彼女がこれまでの人生で「提出」してきたあらゆる思考が記録されている。

 彼女は、太い黒のマジックペンを掴むと、自らの歴史を塗り潰し始めた。

 一行消すごとに、脳を締め付けていた頭痛が和らぐ。一ページを真っ黒に染めるごとに、肺に新鮮な(だがひどく静かな)空気が流れ込んでくる。

 言葉を消すことは、自分という存在を、この騒々しい世界から解脱させる唯一の手段だったのだ。

 ミサキは、鏡の前に立った。

 そこには、かつての聖女の面影はなく、顔の半分が黒いインクに覆われ、瞳が完全に漆黒に染まった「物体」が映っていた。


 ミサキは、自らの唇を指でなぞった。

 皮膚はすでに石のような硬さを帯びており、もう二度と、柔らかい微笑みを作ることはできないだろう。

 彼女は、残された最後の一瓶のインクを手に取った。それは、彼女がこれまでの「出力」の代償として蓄積してきた、沈黙の結晶液だった。

 彼女はそれを、一気に飲み干した。

 熱い液体が食道を通り、全身の血管へと行き渡る。

 その瞬間、彼女の耳に届いていた「世界を救え」という幻聴が、完全に途絶えた。

 アパートの外では、T区を飲み込もうとする巨大な沈黙の渦が、音もなく街を侵食している。

 隣室からの話し声も、道路を走る車の音も、すべてが漆黒の闇に消えていく。

 ミサキは、床に膝をつき、祈りのポーズをとった。

 だが、それは神への祈りではない。自分という存在を、この世界から跡形もなく消去し、完璧な「無」へと帰すための、最期の事務手続きだった。

 彼女の指先が、床のフローリングと一体化していく。背中の皮膚が、硬質な壁の一部へと変わっていく。

 彼女は、自らの内側にあった、最後の「救いたい」という傲慢な言葉を、深く暗い胃の底へと沈めた。


 翌朝、ミサキの部屋のドアは、内側から完全に密閉されていた。

 近隣の住民が異変に気づくことはなかった。なぜなら、彼らもまた、自らの部屋で「沈黙の儀式」を終え、動かぬ石へと変わっていたからだ。

 窓から差し込む朝日が、部屋の中央で完成した「漆黒の彫像」を照らし出した。

 それは、両手を胸の前で組み、安らかな表情で目を閉じた、完璧な美しさを持つ石像だった。

 彼女の足元には、真っ黒に塗り潰された日記帳と、電源の切れたスマートフォンが転がっている。

 そこにはもう、誰かに宛てたメッセージも、世界を変えるための言葉も残されていない。

 彼女は、自分を社会に「提出」し続けるという地獄から、ついに解放されたのだ。

 彼女の喉元を飾っていた黒い結晶は、今や光を吸い込み、周囲の空気をより一層静かに沈殿させていた。

 ミサキという一人の女性が、世界という名の記述システムから削除された。

 だが、その空白こそが、彼女が人生で初めて手に入れた、一点の曇りもない「本当の救い」だった。

 善意の供給、永久停止。

 十体目(教化者)、完成。

 救済の言語、インクの海へと沈没。

問題は、無かった。


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