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第8話:六体目の完成と沈殿


 T区の最大の動脈、ターミナル駅。

 かつてそこは、数秒ごとに更新される発車案内板、絶え間なく流れる無機質なアナウンス、そして数万人の歩行者が発する靴音と衣擦れが混ざり合う、情報の巨大な渦だった。人々はスマートフォンの画面を凝視し、歩きながら誰かに何かを報告し、あるいは見知らぬ誰かの発言を消費し続けていた。

 だが、今の駅構内を支配しているのは、かつて人類が経験したことのない、圧倒的な「停滞」だった。

 改札口の前には、通勤途中だったであろう人々が、不自然なほど整然と立ち尽くしている。彼らはもはや、目的地へと向かう意志を失っていた。誰かに会って言葉を交わすこと、職場へ行って成果を提出すること、あるいは家へ帰って家族と対話すること。それらすべてが、今の彼らにとっては、一歩を踏み出すことさえ不可能なほどの過剰な負担となっていた。

 改札機の電子音はすでに絶え、赤い進入禁止のマークだけが虚しく点滅している。切符を握りしめたままの男の腕は、すでに袖口から黒い結晶に侵食され、券売機と一体化していた。

 タナカは、その静止した群衆の中を、ゆっくりと歩いていた。彼の肉体は、歩くたびに微かな音を立てて崩れ、その足跡は黒い砂となって床に沈殿していく。彼は、この場所が「駅」という機能を失い、ただの「石の森」へと変貌していく様を、静かに見届けようとしていた。


 駅のコンコースには、巨大なデジタルサイネージがいくつも設置されていた。

 本来なら鮮やかな色彩で広告を映し出していたそれらの画面は、今や一様に「未受信」の砂嵐か、あるいは真っ黒な画面を晒している。情報を発信する側も、それを受信する側も、同時に「提出」の義務を放棄した結果だった。

 タナカは、床に座り込んでいる一人の若い女の傍らで足を止めた。

 彼女は、何時間も、あるいは数日前からそこにいたのかもしれない。手には最新型のスマートフォンが握られていたが、その画面には、執拗に打ち込まれた「・(点)」だけのメモが開かれていた。

「……もう、書けないよね」

 タナカが声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その肌は石膏のように白く、首筋には無数の黒いひび割れが走っている。

「……ええ。誰かに何かを伝えるのが、こんなに痛いことだなんて、知らなかった。一言送信するたびに、自分の魂が削られて、穴が空いていくみたいで。だから、やめたの。そしたら、こんなに楽になった」

 彼女は、スマートフォンの電源を切り、それを床に置いた。

 その瞬間、彼女の身体から一気に生気が抜け、漆黒の鉱石へと変貌を遂げた。彼女は最後、微かに微笑んでいた。誰にも自分を説明しなくていい、その絶対的な孤独の安らぎに浸りながら。

 タナカは、彼女の横を通り過ぎた。周囲を見渡せば、同様の「完成した標本」が、至る所に点在していた。ベンチに座ったまま向き合う恋人たち、階段の途中で力尽きたサラリーマン、案内所に佇む駅員。彼らは皆、対話を拒み、自らを密閉することで、この過酷な情報社会から「解脱」したのだ。


 ホームへと続く階段を上ると、そこには不気味なほど美しい光景が広がっていた。

 線路の上には、数本の電車が停車したまま動かなくなっている。運転士も車掌も、そして乗客も、全員が「停止」していた。

 電車の窓ガラスは、内側から滲み出た黒いインクによって真っ黒に塗り潰され、中の様子を伺い知ることはできない。だが、その内部からは、一切の振動も、呼吸の音も聞こえてこなかった。

 タナカは、ホームの端に座り込み、線路の先を見つめた。

 線路はT区を抜け、さらにその先の街へと続いている。だが、そこからやってくる電車も、送られてくる信号も、もう存在しない。

 全国のインフラというインフラが、情報の目詰まりを起こして停止しているのだ。

 ふと、背後から重い足音が聞こえた。

 振り返ると、そこには全身を黒い結晶に覆われた、巨大な彫像のような男が立っていた。門倉刑事だった。

 彼は地下の保管庫から、這いずるようにしてここまでやってきたのだろう。その胸には、砕けた警察手帳が無理やり押し込まれ、肉体と一体化していた。

「……門倉、さん。あなたも、ここへ来たんですね」

 門倉は答えなかった。いや、答えるための器官が、すでに石へと変わっていた。

 彼はただ、タナカの隣に腰を下ろし、同じように線路の先を眺めた。二人の間に、言葉は必要なかった。かつての対立も、疑念も、捜査という名のアウトプットも、すべてはこの巨大な沈黙の中に融解していた。


 不意に、駅のスピーカーが、ガリガリと不快なノイズを立てた。

 それは、どこか遠くの、まだ「提出」を諦めていない拠点が、最後のメッセージを全国へ向けて発信しようとしている試みのように思えた。

「……きこ……ますか……こちらは……救済……」

 途切れ途切れの、血を吐くような声。

 それはかつてのミサキのような、善意と救済という名の暴力を撒き散らそうとする、最後のアウトプットだった。

 ホームにいた「石」たちが、その音に反応して、微かに震えた。

 門倉の拳が、不快そうに握りしめられる。タナカもまた、喉の奥に熱い塊が込み上げるのを感じた。

「……うるさい」

 タナカがそう呟いた瞬間、スピーカーから流れていたノイズが、唐突に途切れた。

 それは、発信者が力尽きたのか、あるいは駅そのものがその「音」を拒絶したのかはわからない。

 ただ、再び訪れた静寂は、以前よりも一層深く、重いものになっていた。

 タナカは、自分の視界が急速に狭まっていくのを感じた。

 目の前の線路が、ホームの床が、門倉の横顔が、すべて黒いインクの中に溶け込んでいく。

 彼は、自らの内側にある「タナカ」という名前を、最後の意識の力で消去した。

(これで、いいんだ。もう、何も提出しなくていい。誰の目にも触れなくていい)


 夜が更けるにつれ、駅構内の温度が急速に下がっていった。

 人々の肉体から放射されていた熱は消え去り、そこにあるのは、冷たい鉱物の森だけだった。

 T区全体を覆っていた黒い粉塵が、駅の天井の隙間から雪のように降り注ぐ。

 それは、人々の「未読の言葉」が、形を失って降り積もったものだった。

 一分、一時間、一日。

 時間の概念さえもが、ここでは意味を失っていた。

 変化を記録する者がいなければ、時間は流れない。

 タナカの意識の断片は、最後に一度だけ、あの第一号の男のことを思い出した。

 彼がオフィスで、あの空白のメールを「提出」した瞬間のこと。

 あの時、彼は絶望していたのではない。彼は、この完璧な静寂への扉を開いた、最初の先駆者だったのだ。

 タナカは、自らの指先が、完全にホームのコンクリートと同化したのを確認した。

 もはや、自分の身体がどこまでで、世界の境界がどこからなのか、判別がつかない。

 彼は、巨大な「無」の一部となり、世界という名の記述されない物語の中に、静かに埋没していった。


 T区、全域。

 かつては情報の過剰供給に喘いでいた街は、今や完璧な静謐の中に沈殿していた。

 オフィスビル、病院、警察署、定食屋、そして家々。

 すべての場所で、人々は「提出」を拒み、自らを石へと変えた。

 そこには争いもなく、格差もなく、誤解もなかった。

 ただ、黒い結晶となった者たちが、永遠の無関心の中で共存しているだけだった。

 地上に降り積もった黒い粉塵は、数メートルの厚さに達し、かつてこの街に溢れていた「記号」のすべてを覆い隠した。

 看板の文字も、標識も、墓石の銘も、すべてが漆黒の闇に消えた。

 世界は、誰にも読まれることのない、完璧な白紙へと回帰したのだ。

 門倉刑事も、タナカも、ミサキも、そして名前も知らない数万の人々も。

 彼らは皆、自分という一文字を、世界の余白へと静かに消し去った。

 もう、報告書を書く者はいない。

 ニュースを読み上げる者も、それを批判する者もいない。

 ただ、風が、音を立てることを忘れた石の街を、静かに通り過ぎていくだけだ。

 

 第二章、記録の断絶。

 全標本の完成。

 沈黙による社会の完全沈殿。

問題は、無かった。


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