表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/27

第6話:絶縁する家族


 T区にある、どこにでもある分譲マンションの一室。

 午後七時。本来であれば、換気扇から漏れる炒め物の匂いや、塾帰りの子供を労う声、テレビから流れるニュース番組の音が、壁を隔てて隣室まで染み出している時間帯だ。

 だが、佐藤家のリビングには、底冷えのするような、それでいて無機質な静寂が充満していた。

 父親の康夫は、ダイニングテーブルの端で、電源の落ちたスマートフォンの画面を指でなぞっていた。画面には、仕事の督促や友人からの何気ない誘いが、未読のまま蓄積されているはずだった。だが、彼はそれらを開くための「スワイプ」という数センチの動作が、今の自分にはあまりに法外なリソースの浪費に感じられ、ただ黒い液晶を見つめることしかできなかった。

 向かい側では、妻の恵子が、一切の音を立てずに皿を並べていた。

 以前の彼女なら、「今日は仕事どうだった?」とか「今月の家計が……」といった、生活という名の情報の断片を、絶え間なく康夫に提出していた。だが、今の彼女の口は、剥製のように固く閉じられている。

 彼女の指先には、洗剤では落ちない漆黒の煤のような汚れがこびりつき、陶器の白い皿に、拭い去れない拒絶の染みを残していた。


「……拓海は?」

 康夫が、重い鉄の扉を開けるような労力を払って、ようやく一言を絞り出した。

 恵子は答えなかった。ただ、廊下の突き当たりにある、固く閉ざされた子供部屋のドアを、顎でしゃくった。

 高校生の息子、拓海は、三日前から一度も部屋から出てきていない。以前なら、康夫は怒鳴り散らしてドアを叩き、親としての責任を「提出」しようとしただろう。だが、今の康夫にとって、反抗する息子と対峙し、説得の言葉を紡ぎ出すことは、自らの命を削り取られるような、激しい疲弊を伴う恐怖だった。

 拓海の部屋からは、以前は深夜まで漏れ聞こえていたゲームのチャット音声も、タイピングの音も、完全に消失していた。

 彼は、ネットワークという広大な海に自分の存在をさらけ出すことを、ある日突然、生理的に嫌悪し始めたのだ。

 康夫は立ち上がり、ゆっくりと廊下へ向かった。

 足音が、不自然に吸い込まれていく。絨毯がインクを含んでいるかのように重く、一歩進むごとに身体が床へと沈み込んでいく感覚があった。

 彼はドアをノックしようとして、拳を空中で止めた。

 ノックという「信号」を送れば、部屋の中から何らかの「応答」が返ってくる。そのやり取りそのものが、今の彼には、耐え難い不快な雑音に感じられた。


 康夫は結局、ノックをせずにリビングへ戻り、無言で夕食を口に運び始めた。

 食卓に並んだのは、スーパーで買ってきた総菜のパックのままだ。恵子はもはや、料理という「愛情の出力」さえも放棄していた。

 二人で同じテーブルに座り、同じものを咀嚼している。だが、そこには共感も、対立も、関心もない。ただ、生命を維持するための最低限の摂取が、機械的に繰り返されているだけだった。

 ふと、恵子の喉元に、小さな黒い結晶が浮き出ているのが目に入った。

 それは、B社の同僚や、街角で見かけた人々と全く同じ、沈黙の証石だった。

「……いつからだ」

 康夫が問うと、恵子はゆっくりと自分の喉に手を当てた。

「……話そうとすると、これが痛むの。誰かに何かをわかってもらおうとすることが、毒を飲むみたいに苦しいのよ」

 恵子の声は、ひび割れた粘土のような、乾燥した音だった。

「康夫さんも、そうでしょ? 会社で、一文字も書けなかったって。私に報告しなきゃって思ってたんでしょ? でも、しなくていいのよ。誰も、あなたに説明なんて求めていないんだから」

 彼女は、半分ほど残った食事をゴミ箱へと捨てた。もったいない、という感情さえもが、外界への不要な提出物として、彼女の中から削ぎ落とされていた。


 その時、マンション全体が、微かな振動に包まれた。

 地震ではない。それは、何百もの家庭から「言葉」が同時に消失し、空間の密度が急激に変化したことによる、沈黙の衝撃波のようなものだった。

 康夫は窓の外を見た。

 隣の棟の明かりが、一つ、また一つと消えていく。故障ではない。人々が、夜という闇に自分を密閉し、光という「自己主張」さえも拒絶し始めたのだ。

 ベランダに出てみると、T区の住宅街からは、いつも聞こえていたはずの、遠くの騒音や風の音さえもが、厚いインクの膜に覆われたように死に絶えていた。

「……みんな、石になるんだな」

 康夫の呟きは、冬の冷たい空気に溶けることなく、そのまま黒い霧となって足元に沈殿した。

 彼は、かつて自分が家族のために必死に働いていた理由を思い出そうとした。

 豊かな生活。子供の将来。妻の笑顔。

 それらすべては、結局のところ、他者との情報のやり取りを円滑にするための、虚飾に過ぎなかったのではないか。

 一人で、何も言わず、何も望まず、ただそこに存在すること。

 その圧倒的な簡潔さが、今の彼には、どんな救済よりも甘美な誘惑として感じられた。


 リビングに戻ると、恵子はソファーに座ったまま、彫像のように動かなくなっていた。

 彼女の指先は、すでにソファーの布地と一体化を始め、黒い結晶が彼女の肉体を徐々に、だが確実に侵食している。

 康夫は、彼女の隣に座ろうとしたが、身体が思うように動かなかった。

 背中から足先にかけて、冷たい重みが広がり、皮膚が急速に硬質化していく。

 彼は、ポケットの中に残っていた家の鍵を取り出し、テーブルの上に置いた。

 それは、彼がこの家というコミュニティに属していた、最後の証明書だった。

(もう、父親でいなくていいんだな。夫で、いなくていいんだな)

 その思いが脳裏をかすめた瞬間、喉の奥にあった激痛が、驚くほどの快感へと変わった。

 彼は、自らの中にある「自分を定義する言葉」を、一つずつ丁寧に塗り潰していった。

 康夫、会社員、父、夫、佐藤。

 記号が消えるたびに、意識は純粋な沈黙へと研ぎ澄まされ、世界のノイズが遠ざかっていく。

 彼は、恵子の肩に手を置こうとしたが、その手はすでに、愛を伝えるための道具ではなく、冷たい石の塊へと完成していた。


 深夜。拓海の部屋のドアが、内側からゆっくりと、音もなく開いた。

 部屋から出てきた拓海は、もはやかつての少年の面影を失い、全身が艶やかな黒い鉱石に変貌していた。

 彼はリビングへと歩き、そこに座る二体の大きな彫像を見つめた。

 かつて彼を束縛し、期待し、失望させた「両親」という名の存在。

 今、そこにあるのは、互いに干渉し合うことをやめた、完璧に静謐な二つの物質だった。

 拓海は、かつて自分が大好きだった母親の、石化した掌に自分の手を重ねた。

 言葉も、涙も、謝罪も、感謝も、そこには必要なかった。

 ただ、沈黙だけが、家族という名の壊れた関係を、より強固な、永遠の「一つ」へと繋ぎ直していた。

 佐藤家の窓からは、一切の光が漏れることはなかった。

 翌朝、新聞配達員がドアの隙間に差し込もうとした朝刊は、漆黒の壁に阻まれて地面に落ちた。

 世界からの「提出」は、もはやこの家には届かない。

 T区の住宅街には、こうして一世帯ずつ、完璧な沈黙の聖域が築き上げられていった。

 世帯機能、完全消滅。

 六体目、七体目の標本、家庭内にて完成。

 情報の円環、最小単位から解体。

問題は、無かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ