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第5話:三体目、四体目


 T区立病院、北病棟の最上階。そこは「原因不明の変性疾患」として運び込まれた、あの彫像たちの終着駅だった。

 無機質な消毒液の匂いと、精密機器が刻む微かなビープ音だけが、死んだような廊下に響いている。

 若き医師、ササキは、重厚な防護扉の前に立ち、深く溜息をついた。彼の喉の奥には、数日前から居座り続けている、冷たくて不快な鉄の味がこびりついている。

「……ササキ先生、回診の時間です」

 後ろから声をかけてきた看護師の声には、一切の抑揚がなかった。彼女の瞳は、数日前よりも明らかに輝きを失い、焦点が合っていない。

 二人は無言で隔離病室へ入った。

 そこには、互いに向き合うようにして配置された二つのベッドがあり、その上には、もはや「患者」とは呼べない二つの物体が鎮座していた。

 第3号、自室で固まっていた不登校の中学生。

 第4号、異国の地で孤立を深めていた外国人労働者。

 彼らはすでに、人間としての柔らかさを一切失い、漆黒の結晶体へと変貌を遂げていた。ササキがライトを向けても、その瞳であった場所は光を反射せず、ただ深淵のような暗闇で外界を拒絶している。

 ササキは震える手でタブレットを取り出した。今日の容態を記録し、上層部へ「提出」しなければならない。だが、画面に触れようとした瞬間、指先が凍りついたように動かなくなった。


「ササキ先生、血圧、脈拍、体温……すべて測定不能です。いいえ、『存在しない』と書くべきでしょうか」

 看護師が、独り言のように呟いた。彼女の手にある記録票は、すでに真っ黒なインクで塗り潰されており、一文字のデータも残されていない。

「……測定できないのではない。彼らが、情報を出すことを拒んでいるんだ」

 ササキは、第3号の少年の腕に触れてみた。それは氷のように冷たく、ダイヤモンドのように硬かった。かつて、この少年が最期に発しようとした言葉は何だったのか。誰にも届かなかった叫びが、この黒い石の中に永遠に閉じ込められている。

 隣のベッドに座る第4号の男もまた、母国への送金依頼書を握りしめた形のまま固まっている。その依頼書さえもが、今や男の肉体と一体化し、硬質な石の塊へと変わっていた。

 ササキは、自らの喉をさすった。

 診断を下す。病名をつける。それは、複雑な生命現象を記号へと単純化し、社会へ提出する行為だ。

 だが、この目の前にある「沈黙」に対して、どのような記号を与えればいいというのか。

 彼がカルテに一文字書き込むたびに、彼の内側にある「言葉のリソース」が、凄まじい勢いで枯渇していくような感覚があった。

 書けば書くほど、自分が中身のない抜け殻になっていく。そんな恐怖が、彼のペンを物理的に押し止めていた。


 ナースステーションに戻ったササキは、信じられない光景を目にした。

 年配の主任看護師が、デスクに山積みになった患者のカルテを、大きなシュレッダーにかけていた。

「……主任、何を、しているんですか」

 ササキの問いに、彼女はゆっくりと振り返った。その顔は、慈愛に満ちた看護師のそれではなく、すべての感情を削ぎ落とした彫像の予兆そのものだった。

「先生。記録なんて、もう意味がないわ。誰がこれを読むの? 読んだところで、誰を救えるの? 私たちは、ただ『生きています』『死にました』という報告を繰り返すだけの機械だったのよ」

 シュレッダーが、ガガガと不快な音を立てて、数千人分の人生の記録を紙屑に変えていく。

「書くのをやめたら、すごく肩が軽くなったわ。先生も、試してみたら? 誰かに何かを伝えるのをやめるだけで、この世界の重力から解放されるのよ」

 主任看護師の手の甲には、浮き出た血管に沿って、黒いインクが血管を這うように広がっていた。

 病院という、情報の正確さが生命線であるはずの場所で、情報の自己消滅が始まっていた。

 ササキは逃げるように廊下へ出た。

 ナースコールのボタンは押されることなく、あちこちの病室から、不自然なほどの静寂が漏れ出していた。


 ササキは、院内の図書室へと向かった。

 そこには、歴代の医師たちが残した膨大な医学論文や症例報告が収められている。

 彼は棚から「原因不明の変性疾患」に関する古いファイルを抜き出した。だが、ページを開いた瞬間、彼は目を見開いた。

 真っ白だ。

 いや、最初は文字が書いてあったはずの痕跡がある。だが、今この瞬間も、文字が紙の裏側へ吸い込まれるようにして、次々と消えていくのだ。

 インクが紙から離脱し、ただの黒い粉塵となって床に落ちる。

 過去の知見、他者への伝達、文明の蓄積。それらすべてが、沈黙という圧倒的な質量に耐えかねて、崩壊し始めている。

「……僕たちが積み上げてきたものは、こんなにも脆かったのか」

 ササキは、自らの中にある「語りたい」という欲求が、急速に冷めていくのを感じた。

 新種の病を発見したという功名心。患者を救いたいという使命感。それらすべてが、外界へ提出するための安っぽい飾り物に思えてきた。

 彼は、手に持っていたタブレットを床に叩きつけた。

 ガラスが砕ける音さえも、この静まり返った図書室では、不快なノイズでしかなかった。


 隔離病室に戻ると、二体の彫像は、さらにその黒さを増していた。

 第3号と第4号。

 彼らの間には、もはや言葉を介する必要のない、純粋な共鳴が生まれていた。

 ササキは、その二つのベッドの間に椅子を置き、静かに座った。

 彼の耳には、もうビープ音は聞こえない。心電図のモニターは真っ黒に塗り潰され、ただ沈黙という名の旋律だけが、部屋の中に満ちていた。

 ササキは自分の白衣を脱ぎ捨てた。

 医師という記号。ササキという名前。それらを自分から剥ぎ取っていくたびに、喉の奥にあった鉄の味が、甘美な静寂へと変わっていく。

 ふと、病室の窓の外を見た。

 T区の空からは、黒い雪のような粉塵が、音もなく降り注いでいる。

 それは、世界中で「提出」を拒んだ人々が放出した、情報の残骸なのかもしれなかった。

 ササキは、ゆっくりと目を閉じた。

 もう、誰かに診断を伝える必要はない。

 自分の状態を、誰かにわかってもらう必要もない。

 彼は、自分自身の内側に、深くて暗い沈黙の杭を打ち込んだ。


 翌朝。病院の回診が始まる時間になっても、北病棟の最上階から連絡が来ることはなかった。

 隔離病室の扉を、恐る恐る開けた若い実習生が見たのは、向き合う二体の彫像に寄り添うようにして完成した、三体目の黒い石像だった。

 それは、かつてササキと呼ばれていた医師の成れの果てだった。

 彼の手には、一通の診断書が握られていたが、そこにはただ一点、真っ黒なインクの染みが打たれているだけだった。

 それは、医学という名の言語を使い果たした男が、最後に世界へと提出した、拒絶のサインだった。

 病院内の廊下では、他の医師や看護師たちも、壁に寄りかかったまま、あるいはデスクに突っ伏したまま、静かに沈黙の石へと変わっていった。

 「死」を管理するシステムが崩壊し、病院は、ただの静かな石造りの墓標へと変貌を遂げた。

 T区の街角で、救急車のサイレンがまた一つ、力なく途絶えた。

 もはや、運ばれるべき人間も、それを受け入れる言葉も、この街には残されていなかった。

 医療システム、沈殿。

 五体目(医師)の標本、完成。

 記述なき死、一般化。

問題は、無かった。


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