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第2話:二体目の標本


 T区、古びた木造アパートの一室。

 踏み込んだ瞬間に、門倉は鼻を突く「炭素の匂い」を感じた。それはB社のオフィスで漂っていた、あの不吉な粉塵の気配と同じものだった。

 狭い部屋の床は、溢れんばかりの原稿用紙で埋め尽くされている。だが、その一枚一枚には、文字が一行も記されていない。ただ、万年筆の先を押し付けたような黒い点が、紙の中央に一つだけ打たれている。

「……今回の件も、同じか」

 同行した若手刑事が、窓際を指差した。

 そこには、小さな机に向かってペンを握ったまま、彫像へと変貌した男がいた。

 作家、イヌイ。

 かつては叙情的な文体で知られ、多くのファンを抱えていた男。だが、ここ数年は新作の発表も途絶え、完全な隠遁生活を送っていたという。

 イヌイの背中は、窓から差し込む冬の光を鈍く跳ね返している。その肌は漆黒に染まり、首筋からは鋭利な黒い結晶が、まるで書き損じた言葉の残骸のように突き出していた。

 門倉は、イヌイが握っているペンを見つめた。ペンの先は原稿用紙を貫き、机の木材にまで深く食い込んでいる。まるで、自分の命をすべてその一点に注ぎ込み、提出することを拒絶したかのような執念が、そこには宿っていた。


「刑事さん、管理人の話だと、彼は最近『もう、書くべき言葉がない』と漏らしていたそうです」

 部下がタブレットを操作しながら報告する。

「読者からの期待、編集者からの督促。それらすべてが、自分を削り取るノイズにしか聞こえないって……。近隣住民も、一ヶ月前から彼の部屋から物音がしなくなったと言っています」

 門倉は、イヌイの顔——だった場所を覗き込んだ。

 目蓋は固く閉じられ、唇は黒いインクで接着されたように一文字に結ばれている。

 言葉を産むプロであった彼にとって、世界への「提出」は生存そのものであったはずだ。だが、彼はその機能を自ら停止させた。

 門倉は、足元に散らばる白紙の原稿用紙を一枚拾い上げた。

 中央に打たれた黒い点は、インクが滲んで少しだけ広がっている。

 それはまるで、肥大化した「拒絶」の瞳が、自分を凝視しているかのように感じられた。

「門倉さん、あ、あの……。これ、見てください」

 部下が震える指でスマートフォンを差し出した。

 そこには、ある閉鎖的なネット掲示板の書き込みが映し出されていた。

(T区だけじゃないらしい。地方でも、人間が石になる事件が起きてるって噂だ。全員、独りきりで、何も話さずに死んでたらしいぜ……)


「噂だと? 警察のデータベースにはそんな記録はない。デマだ」

 門倉は冷たく言い放ったが、その喉の奥には、再びあの「鉄の味」が込み上げていた。

「でも、書き込みの日時を見てください。T区の第一件目よりも前ですよ。S県、H道、K県……。本当だとしたら、これは単なる流行病じゃありません」

 部下の声には、隠しきれない恐怖が混じっている。

 門倉は部下のスマートフォンを奪うようにして眺めた。

 公式な記録(提出された事実)には存在しないが、街の底流には「未提出の怪異」が既に広く、静かに浸透している。

 門倉は、イヌイの彫像に触れてみた。

 氷のように冷たく、そして圧倒的な質量。

 これは、一人の人間の絶望が作り出せる重さではない。もっと巨大な、社会全体が抱える「沈黙の重圧」が、この作家という繊細な回路を通じて具現化したのではないか。

 門倉は、自らの手帳を取り出し、イヌイの名前を書き加えようとした。

 だが、ペンを持つ手が、異常に重い。

 一文字を書くために必要な動作が、何千もの手続きを伴う巨大な事業のように思え、激しい疲弊感が彼を襲った。


 門倉がアパートを後にしようとした時、一人の女が野次馬の影から現れた。

 ミサキだった。

 彼女は、かつてB社の男を救おうとし、破綻した「救済者」だ。

「刑事さん、また会いましたね。彼……イヌイ先生も、やっぱりそうなったんですか」

 ミサキの声は、以前よりも熱を失い、どこか平坦だった。

「……一般人は立ち入り禁止だ。離れなさい」

「隠しても無駄ですよ。私にはわかります。あそこに置いてあるのは、もう『人間』じゃない。完成した沈黙です」

 ミサキは、自分の右手の甲を門倉に見せた。

 そこには、昨日のタナカと同じ、落ちない黒いインクの染みが、蜘蛛の巣のように広がっていた。

「私も、最近はSNSを見るのをやめました。誰かに何かを伝えるたびに、喉に砂が詰まるような気がして……。でも、そうすると、不思議と身体が軽くなるんです」

 彼女の瞳には、かつての「善意」という名の輝きはなく、代わりに深い不透明な闇が宿っていた。

 門倉は彼女を無視して警察車両に乗り込んだ。だが、バックミラーに映る彼女の立ち姿は、まるで意志を持つ彫像が、次の仲間を待っているかのように見えた。


 署に戻る車中、門倉は助手席の部下が、何度も自分の喉をさすっていることに気づいた。

「……どうした、風邪か」

「いえ、なんでもありません。ただ、さっきからうまく唾が飲み込めなくて」

 部下は窓の外を見つめたまま、力なく答えた。

「刑事さん。僕たち、何を追いかけてるんでしょうね。犯人がいない、動機もない、ただ沈黙だけが残る現場……。これを『捜査報告書』にどう書けばいいんですか?」

「事実だけを書けと言ったはずだ」

「事実って何ですか? 人間が石になったことが事実ですか? それとも、僕たちがそれを怖がっていることが事実ですか?」

 部下の問いに、門倉は答えることができなかった。

 報告書を作成し、上層部へ提出する。それが警察というシステムの根幹だ。

 だが、そのシステムそのものが、この「黒いインク」というウイルスによって、急速に目詰まりを起こし始めている。

 門倉は、車内の無機質な電子音さえもが、自分の精神を削り取るノイズに感じられ、ステレオのスイッチを切った。

 車内に、冷たい静寂が満ちる。

 それは、アパートの一室で見た、あの原稿用紙の空白と同じ色をしていた。


 深夜の警察署。門倉は、独りデータベースの前に座っていた。

 部下が言っていた掲示板の噂。彼は非公式なルートで、他県の問題ある事案を個人的に照合し始めた。

 公式には「心不全」や「不詳」と処理されているが、現場写真の中に、一つだけ共通するものを見つける。

 遺体の傍らにある、一文字も書かれていない「提出されるはずだった何か」。

 日記帳、申請書、あるいは恋人への手紙。

 それらすべてが、白紙のまま、中央に黒い点が一つだけ打たれている。

「……二体どころじゃない。これは、選別だ」

 門倉は、自らの中にあるインクの澱みが、心臓の拍動に合わせて波打つのを感じた。

 彼は、今夜の報告書を作成しようとして、キーボードに指を置いた。

 だが、一秒が過ぎ、一分が過ぎても、一文字も入力することができない。

 モニターの青白い光が、彼の顔を無機質に照らし出す。

 彼はふと、イヌイの部屋にあった原稿用紙を思い出した。

 自分も、あの一点を打てば、この苦痛から解放されるのだろうか。

 門倉は、入力を諦め、モニターの電源を落とした。

 闇の中で、彼の喉から、微かな「鉄の味」が溢れ出した。

 二体目の完成、確認。

 市井における噂の拡散、予兆。

 記述の断絶、進行中。

問題は、無かった。


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