第1話:未読の蓄積
T区、B社のオフィス。彼がいなくなってから、ちょうど一週間が経過した。
世界は何事もなかったかのように再起動し、月曜日の午前九時、空調の唸りとキーボードの打鍵音が不毛な情報の往復を開始する。
タナカは、かつて「彼」が座っていたその席に、石のように固まって座っていた。上司のサトウが横を通り過ぎるたびに、デスクの角を苛立たしげに叩く。
「おい、タナカ。聞こえてるのか。あいつが溜め込んでいたログ、今日中に全部洗い出して各部署へ『提出』しろって言っただろ。いつまで画面を眺めてる」
「……すみません。今、仕分けています」
タナカは、砂を噛むような掠れた声で答えた。だが、その視線はデスクトップに並ぶ「未送信」フォルダに釘付けになっている。
「仕分けるも何もないだろう。宛先があるものは送り、ないものは報告書にまとめて俺に出せ。それだけだ」
「……それが、できないんです」
「何?」
「中身が……読めないんです。開こうとすると、指が動かなくなって」
サトウは「ふん」と鼻で笑い、「根性なしが。あいつの幽霊でも出たか」と吐き捨てて去っていった。タナカは震える指でマウスを握りしめた。フォルダの中に広がるのは、宛先も件名もない、漆黒の空白。それは、彼が最期に飲み込み続けてきた、沈黙の残骸だった。
タナカは、マウスを握る右手に、異様な質量を感じていた。
クリック一つするたびに、指の関節が粘りつくような物理的な抵抗。まるでマウスの内部に、冷たく重いインクが詰まっているかのような錯覚。
「タナカさーん、Bプロジェクトの共有事項、まだですか?」
隣の席の同僚が、コーヒーカップを片手に声をかけてくる。
「……あとで、送ります」
「えー、今ここで一言言ってくれればいいじゃない。チャット打つのも面倒でしょ?」
同僚の屈託のない言葉が、鋭い氷の粒のようにタナカの喉をなぞった。タナカは必死に声を生成しようとしたが、喉の奥で冷たい不溶性の何かが膨張し、言葉の通過を遮断している。
(一言言うだけでも、膨大なエネルギーが要るんだ。それを君は、どうしてそんなに安売りできる?)
ふと見ると、デスクの隅に微かな黒い粉塵が積もっていた。指でなぞると、それは煤のようにこびりつき、石鹸で洗っても落ちない汚れとなって爪の間を黒く染めていく。
タナカは、彼が遺した「未送信」フォルダの中の一文字——ただ一つの、黒い点——を凝視した。過剰な接続を断ち切る、圧倒的な密閉の意志。タナカは、その一点の中に、引きずり込まれるような安堵を感じ始めていた。
午後。T区警察署の門倉は、デスクに広げられた司法解剖の報告書を、苦虫を噛み潰したような表情で見つめていた。
「門倉さん、例のB社での変死体の件ですが……。科捜研から『解読不能』の付箋がついて戻ってきましたよ」
若手の刑事が、困惑した様子で報告書を差し出す。
「解読不能、だと? どういう意味だ」
「いや、遺体の組織が硬すぎて、分析用のサンプルさえ削り出せないそうです。無理にやろうとしたら、ダイヤモンドカッターの刃が焼けたって。あんなの死体じゃない、ただの鉱石の塊ですよ」
「……炭素変性か。だが、死後数日でそんなことが起こるはずがない」
「しかも刑事さん、胃の中から出たあの黒い液体……インクですよ。市販のものじゃない、未知の高粘度炭素化合物。あいつ、インクを飲んで自殺したんですかね?」
「憶測を口にするな。それは『記述』すべき事実ではない」
門倉は部下を遠ざけたが、自分の喉にも不快な「鉄の味」が広がっているのを感じた。
「俺は、あいつの勤め先へ行く。B社だ。そこで何が起きていたのか、この目で確かめてくる」
彼はアナログな手帳を開き、B社の住所を書き込んだ。万年筆のペン先が紙の繊維を乱暴に削り、一文字を書くという行為そのものが、恐ろしく暴力的な重労働に感じられた。
門倉がB社のフロアに現れたのは、夕闇が街を包み始めた頃だった。
サトウの怒鳴り声が止み、気まずい静寂が広がる中、門倉は一直線に「あの席」へ向かった。そこには、死んだ男の代わりに、顔色の悪いタナカが座っていた。
「少し、よろしいですか。門倉です。前任者の件で、確認したいことがありまして」
タナカはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと門倉を見上げた。
「……警察の方、ですか。また、あいつの話ですか」
「ええ。あなたは、彼と最後に言葉を交わしたそうですね。彼は最近、何か悩んでいる様子はありませんでしたか? 特異な薬品に触れたり、不審な宗教に参加したり」
「悩み……。そんなの、ここにいる全員、抱えてますよ。あなただって、そうでしょ?」
タナカの瞳が、門倉の視線を真っ向から受け止める。その瞳の奥には、底知れない不透明な色が渦巻いていた。
「私は、職務で来ている。彼が何故、あんな『石』のようになって死んだのかを知る必要があるんだ」
「石、ですか……。ふふ、いいですね。羨ましい」
タナカの冷めた笑いに、門倉は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「羨ましいだと? あなたも、彼が何をそんなに溜め込んでいたのか、知っているんじゃないのか」
門倉が画面を指差すと、タナカは自嘲気味に首を振った。
「提出、できなかっただけですよ。あなただって、今、その手帳に書くのが苦痛なんじゃないですか?」
「……何?」
「報告、連絡、相談。一文字出すたびに、自分が摩耗していく。彼はそれに耐えられなくなった。だから、全部自分の内側に閉じ込めたんです。世界に一滴も渡さないように」
タナカの手が、キーボードの上で震えている。指先には、落ちないインクの染みが広がっていた。
「あなたも、今、何かを飲み込んでいますね。その喉の奥にある重いもの……それを警察の『報告書』に正直に書けるんですか? 『人間が石になった』なんて提出したら、あなたが異常者扱いされるだけだ」
「……私の仕事に、口を出すな」
門倉は言い返したが、その声は微かに震えていた。タナカの沈黙が、対話そのものを拒絶する壁となって、門倉の「言葉」を奪おうとしていた。
「もう、いいです。帰ってください。これ以上話すと、喉が固まる」
タナカはそう言うと、再びモニターの空白へと視線を戻した。門倉はそれ以上、一歩も踏み込むことができなかった。
署に戻った門倉は、薄暗い自席で、白紙の捜査報告書を前に立ち尽くしていた。
「門倉さん、お帰りなさい。B社はどうでした? 何か手掛かりはありましたか」
先ほどの部下が声をかける。門倉はしばらく沈黙した後、背を向けたまま答えた。
「……何もない。ただの、過労による衰弱死の疑いだ」
「え? でも、あの遺体の状態は……。検死結果を無視するんですか?」
「黙れと言ったはずだ。これ以上、この件を詮索するな。これは命令だ」
部下は絶句し、門倉の背中を見つめた。門倉は二度と視線を合わせなかった。
彼は万年筆を握りしめたが、白い紙が、まるで拒絶の壁のように立ちはだかっている。
(提出しなくていい。誰かに説明する必要なんて、どこにもないんだ)
タナカの言葉が、心地よい毒のように脳内で反響する。
門倉は、万年筆を机の引き出しに叩き込んだ。
窓の外では、T区の空が、いつもより深く、粘り気のある闇に沈んでいる。
街の喧騒は、以前よりも少しだけ遠のき、世界から「意味」が少しずつ削り取られていく。
彼は、自分の中に溜まり始めた冷たい沈殿を、静かに受け入れ始めていた。
司法解剖結果、黙秘。
B社内、同調者の発生を観測。
事実の隠蔽、継続。
問題は、無かった。




