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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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番外編②:ノイズの微かな変質


 金曜日の午後二時。T区にあるテレビ局のスタッフルームでは、数台のモニターが、無機質な電子音と共に昼のワイドショーを映し出していた。画面の中では、派手なテロップが踊り、コメンテーターたちが、どこかで見たような正義感と安っぽい共感を振りかざして、マイクに言葉を「提出」し続けている。

「……続いてのニュースです。T区のマンションで発見された『黒い彫像』を巡る怪死事件について、新たな事実が判明しました」

 アナウンサーが、訓練された落ち着きのある声で原稿を読み上げる。

 モニターに映し出されたのは、あのマンションの外観と、警察が公開した遺体の想像図だった。実際の結晶体はあまりに異様であり、公共の電波に乗せるには不適切だと判断されたため、それは巧みに抽象化されたグラフィックに置き換えられている。

 番組のデスクであるサカモトは、手元のタブレットでリアルタイムの視聴率推移を確認した。数字は、このトピックに入った瞬間から、目に見えて上昇を開始している。

 大衆は、理解不能な異形を好む。自分たちの安全な日常を脅かす、だが自分たちには決して降りかからないと信じている遠くの悲劇を、娯楽として消費することを求めているのだ。彼らは画面に向かって、安価な驚きと無責任な感想を際限なく放流し続けている。その騒々しいエネルギーの放出こそが、彼らをまだ「こちら側」に繋ぎ止めていた。


 番組では、専門家と称する大学教授が、深刻そうな表情で解説を加えていた。

「これは、現代社会における孤立の物理化とも言える現象ではないでしょうか。SNSによる過剰な接続の反動として、自己の中に閉じこもり、内圧を高めすぎた結果、タンパク質が変性し、炭素化……」

 もっともらしい理論。だが、その言葉の背後には、真実を究明しようという意志はない。ただ、放送時間を埋めるための、整合性の取れた説明を提出しているに過ぎない。

 サカモトは、その解説を聞きながら、奇妙な違和感を覚えていた。

 視聴率は高い。SNS上でも、この事件をネタにした無数の書き込みが溢れている。だが、それらを発信しているのは、常に「声の大きい、提出に躊躇のない層」ばかりだった。

 一方で、普段から思慮深く、言葉を選び、あるいは沈黙を守りがちだった知的なアカウントや、静かな生活を好む層の反応が、不自然なほどに消失していた。

 騒がしいノイズの裏側で、特定の層だけが、情報の海から静かに、かつ急速に脱落ドロップアウトしている。

 サカモトは、自分の指先が、キーボードを叩くのをためらっていることに気づいた。情報の最前線にいるはずの自分が、情報を出力することに、かつてないほどの疲弊を感じている。彼の喉の奥にある異物感は、先ほどから彼が言葉を呑み込むたびに、その密度を増しているようだった。


 場所は変わり、B社のオフィス。かつて「彼」が座っていた席は、既に私物が撤去され、無機質なデスクの表面だけが虚空を映し出していた。

 サトウは、その後任に充てられた新人に、執拗な指導を行っていた。

「いいか、報告書は事実を正確に、かつ迅速に提出しろ。あいつみたいに溜め込んで、最終的に職場放棄するような無責任な奴になるなよ」

 彼の言葉は、いつになく荒々しく、攻撃的だった。それは、自分がかつて黒い彫像となった部下を追い詰めていたのではないか、という周囲の疑念を、先制攻撃によって打ち消そうとする防衛本能の現れだった。サトウのように、絶え間なく怒りを外部へ放射し続ける人間は、内面にインクが溜まる隙がない。皮肉にも、その卑俗な騒々しさが、彼の肉体の変異を遅らせていた。

 だが、彼の怒鳴り声に反応する部下たちの質が変わっていた。

 タナカは、作成途中のエクセルシートを眺めながら、マウスを動かすのをやめた。彼は普段から無口で、事務的な仕事に没頭するタイプだった。

 なぜ、自分はこんな数値を整理しているのか。なぜ、このデータを誰かに送らなければならないのか。

 一度生じたその疑問は、インクのように彼の思考を塗り潰し、指先の自由を奪っていく。タナカの指先は、誰にも気づかれない速度で、硬質な黒い輝きを帯び始めていた。


 T区の駅前。大型ビジョンには、依然として黒い彫像のニュースが繰り返し流されている。

 通行人たちは、一瞬だけ足を止め、その映像を見上げる。多くの者は「気持ち悪いね」と一言、隣の誰かに感想を提出して去っていく。彼らの喉はまだ、軽薄な言葉を吐き出すための流動性を保っていた。

 だが、駅のベンチに座り、ただ無表情にビジョンを見つめる一部の者たちは違った。

 彼らはスマートフォンをポケットに仕舞い、誰とも話さず、ただ自分の内側の沈殿に耳を澄ませている。彼らの瞳は、ビジョンの光を反射することをやめ、深い闇を湛え始めていた。

 清掃員の老人は、路上に落ちている黒い石を拾い上げた。それは、かつてマンションの屋上で吐き出され、風に煽られてここまで転がってきた、あの結晶の欠片だった。

「……なんだい、これは」

 老人は、その重みに驚いた。見た目からは想像できないほどの質量。光を一切反射しない、完璧な不透明。老人は、それを自分の所有物として登録すること、あるいはどこかへ提出することの煩わしさを、直感的に理解した。

 老人は、その石を元の場所にそっと置いた。その瞬間、彼の背後を通り過ぎた一人の若者が、立ち止まったまま動かなくなった。若者は、SNSで繋がった「友人」たちへの返信を打とうとして、その工程のあまりの無意味さに、全システムが停止フリーズしたのだ。


 深夜。テレビ局のサカモトは、誰もいなくなった編集室で、独りモニターと向き合っていた。

 明日の朝のニュース番組に向けた、VTRの最終チェック。画面には、T区の保健所が発表した、一見すると些細な統計データが映し出されていた。

(不登校、無断欠勤、音信不通。これらに該当する件数が、静かな住宅街を中心に、緩やかに上昇傾向)

 騒々しい繁華街ではまだ異変は見られない。だが、独りで思考し、言葉を溜め込む傾向のある人々が住むエリアから、確実に「応答レスポンス」が消えていた。

 サカモトは、そのデータを補足するためのナレーション原稿を書き直そうとした。だが、キーボードを叩く指が、石のように重い。

 彼は、鏡を覗き込んだ。瞳の端に、小さな黒い点が現れていた。サトウのように怒鳴り散らすことも、大衆のように軽薄な言葉を放流することもできない性質が、彼を「結晶化の適格者」として選別していた。

「……ああ、そういうことか」

 サカモトは、恐怖ではなく、深い納得を覚えた。

 自分たちは、提出することに疲れていたのだ。意味のない情報のやり取りに、自分という存在を削り取られることに。

 彼は、編集機の手を止め、電源を落とした。

 室内を、心地よい、完璧な沈黙が支配した。


 午前六時。世界が再び提出を強要する朝が訪れた。

 ワイドショーは相変わらず、T区の事件を「奇妙なエンターテインメント」として騒々しく報じ続けている。視聴者たちはそれを見て、SNSに無数の、しかし空虚な言葉を提出し、自分の「健常さ」を確認し合う。

 だが、その騒乱の裏側で、街のあちこちに「静かな空白」が生まれていた。

 普段から誰にも心を開かず、言葉を自分の中に閉じ込めてきた者たちから順に、彼らの肉体は内側から黒く塗り潰され、不動の結晶体へと変貌しつつある。

 T区のマンションの屋上。かつて置かれたあの黒い結晶は、朝日を浴びて、鈍く輝いている。そこから発せられた目に見えない胞子は、空気中を漂いながら、次の宛先を探している。

 それは、騒々しいノイズには目もくれず、静寂を抱えた人間たちの喉元に、そっと着床する。

 社会を構成する歯車は、まだ回り続けているように見える。だが、その中核となる精密な部品から、次々と不溶性のインクという絶縁体によって沈黙させられていく。

 これは、一気に世界を滅ぼすような劇的な崩壊ではない。

 提出を愛する者たちの騒音だけが取り残され、沈黙を愛する者たちが、一人、また一人と「黒い彫像」へ昇華していく、極めて贅沢で閉鎖的な選別なのだ。

 サカモトも、タナカも、鏡の中の自分を見つめ、静かに、そして誰よりも速く、完成へと向かっていった。

 騒乱の継続、表面化。

 沈黙の選別、進行中。

 内部結晶の速度差、確認。

問題は、無かった。


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