手繰り寄せられた扉
無為の闇と対峙し、俊太郎との絆を手にしたゆりが手繰り寄せたもの。
それは固く閉ざされていた扉だった。
その扉の鍵を手にした二人は・・・
9
ゆりと俊太郎が廊下でやり取りしているのを、
物陰からこっそり見守る三人の少年たちがいた。
「・・・なぁ。」
小声で、ヒロがタクに尋ねる。
「うん?」
「どう思う?」
「・・・ここからだと話が聞こえんけん分からんけど・・・
感じからして・・・痴情のもつれ?」
ショータがその言葉に“まさかぁ”、と声を上げる。
見つめ合う男女二人を見守りながら、真面目にヒロが言う。
「俺たちがヤジったのがまずかったっちゃない?」
その意見に同意を示し、タクは頷く。
「確かに。・・・とにかく今、話しかけるのは気まずい。」
納得し合うヒロとタクに、ショータが一笑に付す。
「お前ら分かってねーな。
俺たち“モテないず”の言葉で喧嘩する二人やないって。」
ショータの発した聞き慣れない単語に、ヒロとタクは顔を見合わせる。
「・・・“モテないず”?」
「何だ、そのだっせぇネーミングは。」
「俺たち、『カノジョいない歴=人生』の男子が考え込んでも
しょうがないって。」
「おい。それは間違ってないけど、
出会いがないだけであって、“可哀想な男子”みたいな響きやめろよ。」
「抜け駆けするなよ。俺たちは三人いつまでも一緒だ。」
「・・・意味分かんね。」
「モテないのは否定しない・・・くそぉっ」
「ヒロ。真に受けるな。」
物陰で、そんなやり取りを繰り広げる少年たちをよそに、
ゆりと俊太郎は見つめ合っていた。
何も言葉にせず。
ゆりの目に灯った揺らめく炎を窺い、それを俊太郎は把握する。
「・・・とにかく・・・ゆり。今日はもうこのまま帰ろう。」
言葉にこめられた意味を、ゆりは感じ取る。
「・・・うん。そうやね。その方がいいかも。」
「ヒロたちには申し訳ないけどな。」
「・・・うん。」
二人は並んで廊下を歩き出す。
こちらに向かって歩いてくるのに気づき、
三人の少年たちは慌てて引き返そうとする。
「わわっ、押すなっ。」
「いてっ!」
「早く戻れ・・・」
ゆりと俊太郎が、彼らのいる物陰に差し掛かる。
鉢合わせするような形になり、気まずい空気が漂った。
「あ・・・」
「ども~・・・」
少年たちは笑ってごまかす。
ゆりは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。体調が悪くて・・・」
その発言に、少年たちは目を見開く。
「え?そうなんっすか?」
「今日は帰ります。・・・また改めて来てもいいですか?」
ヒロは笑って言葉を返す。
「勿論です!」
タクもそれに続くように言う。
「体調悪いのに無理してたんっすね。また今度是非来てください。」
「はい。」
ショータは何も言葉にせず、気遣うようにゆりを見守っていた。
「悪い。俺も一緒に帰るよ。」
俊太郎の発言に、ヒロは“当然だ”というように言葉を返す。
「何言ってんだ?気にすんなよ。また今度な。」
「ああ。・・・ゆり、先に出ていてくれ。バッグを取ってくる。」
そう言い残して俊太郎は早足で階段に向かい、駆け上がっていく。
「それではまた。」
ゆりはそう言って、再び三人の少年たちに向かって頭を下げる。
「はい!また是非来てくださいね!」
ヒロが代表して、明るく言葉を返す。
ゆりは微笑んで会釈をした。
出入り口に歩いていき、外に出て行く。
それを、静かに見送る三人の少年たち。
ものの数分もせずに、俊太郎がバッグを持って階段を駆け下りてくる。
「また連絡してくれ。」
言いながら歩いていく俊太郎に、
ヒロは、にかっと笑って言葉を掛ける。
「当たり前やろ。ヴォーカルはお前だ。来てもらわないと困るけんな。」
その言葉に、俊太郎は笑って応えた後
吹き抜ける風のように去っていく。
二人の男女を見送った三人の少年たちは、出入り口を見つめる。
「・・・何かさ。」
「・・・ああ。」
「あの二人、いいよな。」
少年たちは、深く頷き合う。
「高城の歌声が聴けなかったのは残念だけど・・・」
「今度のお楽しみやな。」
「うんうん。」
「さ、戻ろーぜ。
ヴォーカルが気持ちよく歌えるように、練習だーっ!」
少年たちは笑い合い、部屋に戻ろうと歩き出す。
その一部始終を、モニターで見守る女がいた。
監視をするような眼差しで、その瞳には何の光も灯る事はなかった。
スタジオのビルから出た後、ゆりは深く息をついた。
ぎらつく太陽の暑い光が、容赦なく降り注ぐ。
しかし、今のゆりにはその強い陽光に何の障害も感じなかった。
数分後、遅れて出入り口から現れた俊太郎に、ゆりは声を掛ける。
「・・・ありがとう、俊。察してくれて。」
俊太郎はゆりに目を向けず、言葉を返す。
「あの場所で話す内容じゃなかった。あいつが見ていたし。
多分、話も聞かれるところだった。」
俊太郎との微妙な距離を感じ、ゆりは胸にちくりと刺さる痛みを覚える。
「・・・ごめんなさい。隠して。」
「それはいい。責めないって言ったろ。
・・・俺の為を思って隠してくれたのは分かってる。」
街路地のコンクリートから熱波を感じる中、二人は並んで歩いていく。
その二人の間に、見えない壁が生じていた。
「・・・どっかに入ろう。そこで話を聞く。」
「・・・うん。安心して話せる場所があるけん、そこで話すね。」
やり取りにも、それは表れている。
ゆりはそれを受け止め、心の中で必死に奮い立たせていた。
*
ゆりと俊太郎が訪れたのは、中央区天神にあるカフェ・『SHALLYA』。
この店に移動する途中、二人は何も言葉を交わさなかった。
外は額に汗を浮かべるくらいに暑いが、
熱が一気に引く程カフェ内の冷房は効いていた。
珍しく、テーブル席はランチタイムの客で埋まっている。
「いらっしゃいませ。」
優雅に頭を垂れるウェイターに、ゆりは小さく会釈をする。
「申し訳ありません。只今テーブルは満席でございます。
もし、カウンターでもよろしければすぐにご案内致しますが・・・」
「・・・はい。カウンターで構いません。」
「ありがとうございます。ご案内致します。」
店内のテーブル席を見渡せる所に、バーカウンターが佇む。
そこに客の姿はない。
この場所は、夕方5時に開放されるもう一つの姿である。
物腰柔らかいウェイターに促され、
ゆりと俊太郎は、落ち着いたルビー色のカウンターチェアに腰を下ろす。
「アイスコーヒーでお願いします。」
「俺もそれで。」
「かしこまりました。」
注文を受け、静かにウェイターはバックヤードに消えていった。
店の客人たちは、思い思いの世界を語り合っている。
そんな中、二人の間に会話はない。
目線も合わせる事なく、
棚に並ぶ各銘柄のウイスキーボトルを見つめていた。
ウェイターは数分後に、
二人が注文したアイスコーヒーと一式を銀色のトレーに乗せて持ってくる。
二人の空間を邪魔しないようにそれをテーブルに置くと、
丁寧に頭を垂れて去っていった。
置かれたアイスコーヒーに手を伸ばし、ガムシロップもクリームも入れず
俊太郎はストローの紙袋を開けてグラスに差し込む。
それを一口含むと、言葉を漏らした。
「・・・前、ゆりが俺の為に身体を張ってくれた事あったよな。
それから俺は、考えてきた事がある。」
ゆりは、目の前に置かれたアイスコーヒーに手を出さず、
俊太郎の言葉を聞き入れる。
グラスに映る彼女の表情は、褐色の液体に溶け込んでいる。
「危険な目に遭うゆりを見たくない。それがどんな理由であろうと、
俺はそれを阻止できるなら『力』を解放する。
そう考えてきた。
・・・だから、
俺の知らないところで、ゆりがそんな目に遭っていたとしたら・・・
それは本当に怖い。
もし、それでゆりが命を落とす事になってしまったら・・・
俺は悔やんでも悔やみきれない。」
アイスコーヒーを持つ俊太郎の手に、力が入る。
「もう、失いたくないんだ。大切な人を。」
想いが深く乗せられた言霊。
それは、ゆりの心にしっかり届いた。
目を伏せて言葉を漏らす。
「・・・ごめんなさい。」
「謝るな。」
今度は強い憤りが彩る。
「ゆりが俺の将来を考えてくれているのは分かる。
だが、俺の人生は俺自身のものだ。俺が考えて決める。
ゆりの目にどんな道が見えていても、
それを無理矢理変えようとしないでくれ。だから・・・」
「うん・・・」
ゆりは伏せていた目を上げ、口を開く。
「私が隠していた事、全部話すから。」
時刻は13時を過ぎようとしていた。
ランチタイムの客人たちの姿が、ちらほら消えていく。
その中、ゆりが話す事柄を俊太郎は黙って耳を傾けていた。
ゆりの前に置かれたグラス内の氷が溶け、
褐色の液体の上に透明の水が乗っている。
話終えると、ゆりはそのグラスに手を伸ばす。
紙袋からストローを取り出し、マドラーのようにして液体をかき混ぜる。
俊太郎のグラスにはコーヒーが残っておらず、氷が溶けた水が残されていた。
「・・・私は・・・」
ゆりは優しく言葉を紡ぐ。
「俊太郎がいた『あちら側』を知りたかったんだと思う。
だから・・・今回は無茶をしたのかもしれない。」
ようやく俊太郎はゆりに目を向けた。
その表情は、複雑な色が絡み合っている。
アイスコーヒーを少し飲み、ゆりは言葉を続けた。
「私の『力』が発動しなかったのは・・・
無理矢理、道を探そうとしていたからなんやろうね。
あなたの考えや気持ちを無視して、流れを感じ取れなくなっていた。」
ゆりは俊太郎に目を向ける。
その瞳に宿る炎は、強く燃え盛っている。
その炎の揺らめきに、俊太郎の心は囚われた。
「あなたの事をもっと知りたくて、
そう考えれば考える程周りが見えなくなって・・・
想いが強くなるばかりで。どうしようもなくて・・・」
ゆりは微笑むと、俊太郎から目を逸らす。
「怖いんよ。俊太郎となら・・・どこまでも行けそうな気がして。
身体も、心も・・・繋がる事をいつも求めていて。
自分が自分じゃなくなる気がして。
溶けて、無くなりそうで。
こんなに弱かったのか、不安になって。」
ゆりが言葉を紡げば紡ぐほど、俊太郎の眼差しが強くなる。
「・・・でもね、分かったんよ。
それは自分可愛さに、保とうとしていただけだって。
好きで好きでたまらなくていいやん。
もっともっと溶け込んでいいやん。
俊の色に染まればいいやんって。」
再び、ゆりは俊太郎に目を向ける。
互いの見つめ合う空間に、一片の曇りもなかった。
「俊。私はおばあちゃんを助けたい。
おばあちゃんは、おじいちゃんの影をずっと追って生きてる事が分かったんよ。
些細な手掛かりを探して、ずっと長年追ってる。
・・・私は、『ある事件』の事を知る必要がある。
この前は教えてくれなかったけど・・・今なら。
今なら教えてくれると思う。
『私と俊太郎』。
私たちが、おばあちゃんを助ける鍵になってる。」
「・・・・・・」
ゆりに灯った強い炎の光。
俊太郎は、その光の意味を把握する。
「・・・分かった。」
短く相槌を打つと、俊太郎は求めるように問いかけた。
「ゆり。それで、俺に言いたい事は?」
その投げ掛けに、ゆりは力強く応える。
「力を貸して。お願い。」
その言葉に、俊太郎はようやく顔を綻ばせた。
「勿論。ゆりの思うままに動け。」
空気が変わる。
互いに張り詰めていた糸が緩んで、解けていく。
それと共に、しっかりとした絆が生まれた瞬間だった。
「・・・ははっ。」
「え?」
「何だか・・・ものすげー熱い告白された気分。」
その発言に、ゆりは一瞬にして顔を真っ赤にする。
「・・・しましたけど!悪い?!」
「いーや。すげー嬉しい。今すぐ抱きしめたい。」
「・・・私もだけど、今は我慢して。」
二人は笑顔になる。
「『力』の副作用は、一日経てば大丈夫ってのが分かってる。」
俊太郎の言い分に、ゆりは小さく頷く。
「分かっていたとしても、その『力』を使ってほしくなかった。
絶望から生まれた『力』だったから。
・・・でも、それはもう俊自身が受け入れて乗り越えていたんよね。
私が勝手に、あなたの『力』を否定してた。
あなたの存在を否定する事になっていた。」
ゆりに向ける俊太郎の視線は、限りなく優しく、熱い。
「・・・本当にごめんなさい。」
「今度謝ったら、ここでキスするからな。」
言いようのない迫力に、ゆりは慌てて身を引く。
「はい。これに関してはもう謝りません。」
「・・・本当に引くなよ。傷つくなぁ・・・」
「だって、本気やろうもん。」
「ああ。俺はいつだって本気だ。」
「・・・ふふっ」
堪らずにゆりは噴き出して笑う。
それを、とても幸せそうに微笑んで俊太郎は見守る。
気づけば、店内には数組の客人しか残っていなかった。
いつもの雰囲気に戻り、ようやく店内に流れるピアノ曲が耳に届く。
ゆりは、アイスコーヒーを全部飲み干して言う。
「お腹空いたね。ここで食べていく?」
「・・・場所を変えよう。食べるなら定食みたいなのがいい。」
「・・・そうね。場所を変えよっか。」
ハンドバッグを手に取り、ゆりはカウンターチェアから腰を上げる。
「岸本君たちには、悪いことしちゃったね。」
俊太郎もそれに倣って腰を上げた。
少し背伸びをしながら言う。
「また今度行けばいいよ。」
「・・・うん。」
カウンターのテーブルに置かれていたキャッシュトレーを手に取り、
ゆりはバッグから赤色の長財布を取り出す。
「ここは私が払うけん。」
「俺が払うよ。」
「いいの。払わせて。」
「・・・じゃあ昼飯は俺が払う。・・・?
ゆり。何か落ちたけど。」
財布を取り出した拍子に、白い紙切れが床に落ちたようだった。
それを俊太郎が拾い、ゆりに手渡す。
「・・・なにこれ。こんなの私、入れた憶えないけど・・・」
首を傾げながら、手渡された紙切れを見つめる。
それは二つ折りにされていたので、恐る恐る開いてみた。
そこには、黒いマジックペンで書かれた文字。
英語で記された言葉だった。
「・・・・・・」
「・・・何やろう、これ。」
二人はその紙切れに書かれている文字を見つめる。
『September 11 Migratory Bards』
「・・・・・・」
「9月11日・・・よね。」
「これ・・・あいつが入れたんだな。」
『あいつ』の単語に、ゆりは目を見開く。
― 私にバッグを手渡してくれた時だ。
・・・あの人が入れたのか。
「・・・どういうつもりなんだ、あいつは。」
「・・・俊?」
俊太郎は文字に目を奪われながら呟く。
「・・・これは場所の名前だ。俺はこれがどこにあるかを知ってる。」
そう言葉を紡いで、考え込む。
ゆりはその邪魔をしないように見守った。
「・・・ゆり。今度は俺が話す番かもしれない。
昼飯は弁当買っていこう。家で話したい。」
「・・・うん、分かった。」
神妙な面持ちの俊太郎に、ゆりは付け加えるように言う。
「今夜、おばあちゃんに話をしようと思う。
『ある事件』の事を、もう一回聞いてみる。
この間は話してくれなかったけど・・・今ならきっと話してくれると思う。
今の、『私たち』になら。」
ゆりの提案に、俊太郎は同意するように頷いた。
その同時刻。
警視庁内にある資料室のデスクで、
分厚いバインダーファイルに目を通す男がいた。
その資料室は一般公開されておらず、関係者以外立ち入る事を禁じられている。
内部の人間でさえ、上部の許可がないと入れない。
その中にある、無機質で膨大なバインダーファイルの量。
それは、棚にびっしり綺麗に並べられている。
タイトルはなく、ただ年号と月日だけが見出しに記されている。
その男以外誰もおらず、静寂な空間が支配していた。
男の髪は無造作に流れている。
体格の良さが、Yシャツの上からも窺えた。
こんこんこんこん。
資料室の出入り口ドアをノックする音が響く。
男は閲覧を止めて、デスクチェアから立ち上がるとドアに向かう。
ドアを開け、ノックの主を見るなり言葉を投げる。
「上の許可は取ったか?」
ノックの主― 橋口は短く“はい”、と答えた。
男―長田は、橋口を部屋の中に招き入れる。
資料室の中を見渡し、橋口は目を見開いて言葉を漏らす。
「・・・すごい量ですね。」
「お前はここに入るのは初めてだったな。
その棚から全部未解決のやつだ。・・・そこに座れ。」
再び長田はデスクチェアに腰を下ろす。
促された場所は、
その長田の向かい側にあるもう一つの同じチェア。
「・・・失礼します。」
断りを入れて、橋口は腰を下ろした。
デスクに一つのバインダーファイルが広げてあるのを見て、尋ねる。
「・・・何か事件を調べていたのですか?」
「お前はここに就いてどのくらいだ?」
尋ねた事柄とは全く関係ない内容で、橋口は少し面食らう。
「・・・一年になります。」
「もうすぐしたら俺と同じ警部だな。」
「あの・・・一体何でしょうか?
ここに呼ばれた意味も分かりませんが・・・」
長田はまるで父親のような眼差しで橋口を見る。
「一年間俺の元でよく働いてくれた。
キャリアのお前からしたら、
俺みたいなたたき上げの奴を理解するには難しいかもしれないが・・・
これから警部になって上に立つ前に、俺の我儘に付き合ってもらえるか?」
真摯な眼差しを受け、橋口は窺うように視線を返す。
「・・・長田警部。私はあなたの元で御指導を受け、
経験を積めた事に何の不満もありません。
警部には深く感謝しています。その恩返しをさせてください。」
橋口の裏表無い正直な言葉に、長田は笑みを浮かべた。
「ありがとう。俺もお前に感謝している。」
そう告げた後、
長田は視線をデスクに置かれたバインダーファイルに落とす。
その表情には陰りが彩られていた。
「俺にもかつて御指導、御指南をして頂いた方がいる。
その方が追っていた事件なのだが・・・手掛かりをつかめていない。
しかもその方の消息も絶たれている。」
「今、その方は消息不明という事ですか?」
「・・・亡くなったとされている。」
「・・・?」
「遺体は見つかっている。だが、その方の妻は承諾しなかった。」
橋口はそれを聞いて、表情を曇らせる。
長田と共にバインダーファイルに目を通していく。
「表向きは承諾せざるを得なかった。
遺体は焼死体で発見され、見た目は本人と確認できない程酷い状態だった。
解剖とDNA鑑定を進めた結果、本人と合致している。」
「・・・それなのになぜ、承諾しなかったのですか?」
「遺体は別人だと、彼女は判断している。この結果は偽装されていると。」
「・・・その言い分を信じているのですか?
揺るがない証拠があるのに?」
「彼女は特殊でな。
・・・ここから話さないといけないが、俺はその能力を認めている。
そして俺の師匠である・・・この渦中の人も。
最初はその能力を疑っていたが、
彼女に接していくにつれてそれも消えていった。」
長田は橋口に目を向けた後、深く頭を下げる。
「無茶を言っているのは分かっている。
・・・どんな事でもいい。何か違和感を覚える事、気づいた点・・・
頭脳明晰なお前なら、俺とは違う見方をしてくれると思って。
ここに書かれている事が正しいと言ってしまえば終わりだが・・・
今の今まで調べてきて、ようやく掴めた手掛かりがある。
それを知って、偽装されている事の可能性が強いと感じた。」
「・・・長田警部。頭を上げてください。」
その言葉に従い、長田はゆっくり頭を上げる。
橋口はその青年を、じっと見据えて告げた。
「・・・それがもし本当だとしたら、
大変恐ろしい事ですよ。正気ですか?」
長田はその目にたじろぐ事はなかった。
「正気だ。俺がやっている事は正気の沙汰ではないが、な。
偽装が正しいと証明されたら・・・国を揺るがす事になる。」
「・・・そうですね。」
「お前を巻き込むつもりはない。この場だけの話にしても構わない。」
言葉に籠る信念は、強く紡がれる。
「・・・俺は可能性がある以上、見極めなければならない。
いや、見極めたい。
もし、その人が生きていて苦しんでいるとしたら・・・
これは許される事じゃない。」
それと共に、目に宿る光は橋口の心を刺す。
しばらく考え込んだ後、言葉を返した。
「・・・分かりました。何もお役に立てないかもしれませんが・・・
出来る限り調べてみます。」
15時頃。
ゆりと俊太郎は佐川家に帰り着いた。
互いに、テイクアウトの牛丼が入った手提げ袋を手に持っている。
「たまにはお弁当買って、家で食べるのもいいかもね。」
えんじ色のパンプスを脱ぎながら、ゆりは言葉を漏らす。
「せっかく休み合わせて出掛けたのに・・・悪いな。」
申し訳なさそうに、紺色のスリッポンを脱ぎながら俊太郎は言う。
ゆりは首を横に振って、微笑んだ。
「互いに謝ってばかりやね。」
「・・・ああ。そうだな。」
笑って相槌を打ち、俊太郎は廊下を歩いていくと居間に入っていく。
ゆりもその後に続き、手に持っていた手提げ袋をちゃぶ台に置いた。
俊太郎もそれに倣い、手持ちのバッグを畳に置いて言う。
「とにかく、食べてから話をしよう。腹減った。」
「うん。手を洗ってこよっか。」
「その前に・・・心の補充をする。」
俊太郎の目がゆりを捉える。
その瞳と目が合うだけで、心が湧いた。
返答を待たずに、ゆりの細い腕を取って引き寄せる。
身体に回された腕の力は強かったが、同時に気遣う温かさも感じた。
ゆりはまぶたを静かに閉じ、俊太郎に腕を回す。
「・・・駄目だ。」
「・・・?」
「毎日一回は必要かも。」
「・・・ふふ。うん。」
「これからどんな時も、一日一回はこうしよう。」
「・・・うーん。」
「・・・え?駄目か?」
「駄目とかじゃなくて・・・日課にするのはどうかと・・・」
「・・・」
「・・・ごめん。悲しまないで。はい。そうしようね。」
「・・・子ども扱いだな。」
二人はしばらくの間、抱擁して心を満たしていく。
その後、洗面台で手を洗い、テレビも点けずに食事を始める。
互いに相当空腹だったのか、無心で牛丼を頬張った。
あっという間に腹ごしらえを完了し、
俊太郎は向かい合わせて座るゆりに言葉を紡いでいく。
「『Migratory Bards』は、
『あちら側』の人間が依頼を請け負ったり情報を交換したりできる場所だ。
『何者』かを登録し、自分を雇ってくれる依頼主を待つ事ができる所でもある。
そして、実力を見てもらう場としても設けられている。
俺はそこに身を置いていた。
俺みたいに、身寄りのない存在が食っていくにはここしかないと思った。
・・・今思えば、『力』の副作用で食う必要もなかったんだが。
『存在を肯定できる世界』。それにただ惹かれた。」
「・・・じゃあ、あの人とはそこで出会ったんやね。」
「ああ。」
ちゃぶ台に置かれた、麦茶が注がれたグラスを手に取って、
俊太郎は一口含む。
「『結女衣』と初めて会ったのは、
俺が『Migratory Bards』に身を置くようになって七年経った頃だ。
急に現れたと思ったら、実力を見せつけ、あっという間に名前が知れ渡った。
俺みたいに野良ではなく、最初から雇われの身だったようだ。
・・・その雇われている所を、ばあさんは知りたがっているみたいだな。」
「そう。だからまたあの人と接触する必要があるんよ。
・・・俊はその彼女を雇っている所を知ってる?」
「・・・いや、それは禁止事項だ。
『あちら側』のルール上、それを聞く事は出来なかった。
分かると思うが、『殺し屋』と『護り屋』は因果関係だ。
一回仕事がかち合うことがあって。
その時、俺があいつの仕事を阻止した。
・・・阻止してなかったら俺はここにいないんだが。
とにかく変な奴だ。食えないというか・・・
その阻止したのがきっかけで話すようになった。
頭が良いのか悪いのか、何を考えているか分からない。」
ゆりはスタジオでの出来事を、ふと思い出す。
― ・・・確かに、俊の言う通りの人だった。
気が抜けないというか・・・とても不気味だった。
でも、悪意を感じなかった。
自然体。
・・・無為の闇。
「・・・これは、接触できるチャンスだと思う。」
英語で書かれた、一枚の紙切れに目を向ける。
それは、ちゃぶ台の真ん中に置かれていた。
「・・・『Migratory Bards』に入る事は可能だ。
俺に付き添えばいいだけだから。同伴なら何も聞かれない。
ただ・・・これは危険だというのは分かるな?
さっきも言ったように雇い主を聞くのは禁止事項だ。
・・・あいつから情報を引き出すしかない。」
「・・・禁止事項を破ってしまったら?」
「・・・永久追放。『あちら側』の記憶と共に消される。」
予想通りの答えに、ゆりは息を整えた。
俊太郎は真剣な表情で再度告げる。
「ただ日付と場所だけ書かれただけの紙切れだ。
待ち合わせの時間も分からなければ、真意も掴めない。
挑発ともとれるし、罠かもしれない。
そんな状態で・・・その場所にあえて飛び込む必要はあるのか?」
ゆりは、真っ直ぐに向けられる言葉と眼差しを受け止めて答える。
「これはあの人が開けてくれた扉。
この大事な機会を、逃すわけにはいかない。」
― ・・・そう。これは扉。
絡み合っているものを解放できる、大事な扉だ。
「恐らく・・・普通にスタジオ行っても話してくれないと思う。
それに・・・今回無茶はしていない。俊がいる。
思う通りに動いていいっちゃんね?」
「・・・」
一瞬の沈黙。
その時間は深く刻み込んだ。
「・・・ああ。全力で護る。
でも、最終的な決断はばあさんと話してから決めよう。」
夜の7時を過ぎた頃。
居間のちゃぶ台は、夕御飯の準備が整えられていた。
器のように並ぶレタスの中に、
薄く刻んだ胡瓜、玉葱、ロースハムと林檎が入ったポテトサラダ。
ざく切りにしたトマト。
豚の生姜焼きを盛り付けた皿が並んでいる。
箸と箸置きを水屋の引き出しから取り出し、
それを俊太郎がちゃぶ台に並べていく。
「さっきヒロから連絡が来てたんだが・・・
ゆりの言った通りかもしれない。」
3人分のグラスを持って、それをちゃぶ台に置くと
ゆりは首を傾げる。
「どうしたん?」
「あのスタジオは、今日で閉鎖したらしい。」
それを聞いて、ゆりは目を見開く。
俊太郎は同意するように頷いた。
「あいつとコンタクトを取るには、あの日しかない。」
玄関の戸を開ける音が、かすかに聞こえる。
ゆりと俊太郎は、ときを迎えようと居間から出ていった。
「おかえり、おばあちゃん。」
「ばあさん、おかえり。」
揃って迎えに出た二人を見て、ときは微笑んだ。
「ただいま。二人揃ってお出迎えなんて、嬉しいねぇ。」
そう言いながらローヒールパンプスを脱ぎ、ゆっくり廊下に上がる。
「今日は豚の生姜焼きとポテトサラダにしたよ。」
「ほほっ。それは楽しみだねぇ。二人で作ったのかい?」
お見通しのように言われ、ゆりと俊太郎は照れ笑いをする。
「豚の生姜焼きを伝授しようと思って。」
「夏休みの間いろんな料理を覚えたくってさ。」
「これは早いうちに、ひ孫の顔が拝めるかもしれないねぇ。」
「おばあちゃん!」
「ほほっ。」
顔を赤らめて、ゆりは逃げるように居間へ消えていく。
ときは微笑みながらそれを温かく見送る。
「何を恥ずかしがっているんだろうねぇ。私の孫は。」
俊太郎は相槌を打つように笑うと、言葉を紡いだ。
「・・・ばあさん。後でゆりと三人で話がしたい。」
「・・・・・・」
ときは俊太郎に目を向け、見据える。
その双眸に映るものは、深く、色濃い漆黒の闇。
その瞳を見て、ときの雰囲気が変わったのを俊太郎は感じ取った。
「・・・私の素性を、ゆりから聞いたんだね。」
俊太郎は何も言葉にせず、頷く。
ときは息をつくように、言葉を漏らした。
「・・・思ったよりも早く時が来たようだ。
それほどに・・・お前さんたちの絆は強かったのか。」
その表情には、複雑でさまざまな色が浮かんでいた。
その色の交差を、俊太郎は目に焼き付ける。
「・・・俊太郎。これからあの子を支えてやっておくれ。
あの子の『力』は私よりも遥かに超えるが、未熟で向こう見ずだ。」
想いが込められた言霊。
それを受け止め、俊太郎はしっかりと力強く頷いた。
夕御飯の時間は、とても和やかに過ぎていく。
いつも過ごしている時間だったが、
三人の心の中にはそれぞれの想いが揺らめいていた。
その中で、このかけがえのない時間に浸る。
食事が終わると、率先してゆりが台所に立って食器を洗う。
俊太郎は料理を食べ終えた皿を重ねて、ゆりのいる台所に持って行く。
ときは小さな湯のみに注がれた熱いお茶を、
少しずつすすりながら飲んでいる。
居間にあるテレビが、BGMのように流れていた。
食事の片付けが終わると、ゆりと俊太郎は居間に戻り、
ちゃぶ台を囲んで定位置に座る。
テレビは消されており、静寂がしばらく三人を包んだ。
ときは二人の表情を確かめ、口を開く。
「おじいさんと出逢ったのは、ある事件がきっかけだと言ったね。
・・・その事件の事を話す前に、
お前にもまりにも詳しく伝えていない事実がある。
そこから話すべきだろうね。」
ゆりは真剣な表情を浮かべ、ときに尋ねる。
「・・・事実って?」
「おじいさんの亡くなったとされる原因だ。」
「・・・病気じゃないの?」
「すまないね。お前たちを心配させないのと同時に、
巻き込まない為に事実を伏せたんだ。
・・・おじいさんは焼死体で発見されている。」
その事実に、二人は目を見開いた。
ときは驚愕する二人を見据えながら告げる。
「だが、この事実は真実ではない。その焼死体は別人だった。」
「・・・え?」
「二人とも。心して聞いておくれ。
この事件は、かなり深い闇が隠されている。
そしておじいさんはそれに巻き込まれた。
消息も分からない。
私の『力』でさえ及ばない、深い闇だ。」
扉は開かれる。
・・・To be continued
第9話まで読んで頂いた事、深く感謝いたします。
これから数話を経て、最終話へと向かいます。
お時間の許す限り、お楽しみいただけたら幸いです。