『Migratory Bards(渡り歩く隠者たち)』
扉は開かれる。
埋もれていた事実が浮き彫りになり始め、ゆりと俊太郎に迫る嵐の時。
眠っていたゆりの『力』が、完全に目覚めようとしている・・・
10
日が沈み、星たちが姿を見せ始めた頃。
そこは公に現れることなく、ひっそりと佇んでいた。
天井高く柱もないその広い部屋は、プラネタリウムのような空間を思わせる。
壁に灯された照明は淡い光を放ち、
ガラスのテーブルと重厚な牛革のソファーが数ヶ所設置されていた。
上を見上げれば、
礼拝堂の天井絵を思わせる神々しい姿が拝める。
その独特な雰囲気を漂わせる空間で、そよ風のように流れるピアノの音色。
旋律の調べは、存在感のあるグランドピアノから奏でられている。
穏やかに打鍵をする女性は、黒く艶やかなヴェネツィアンマスクを着けていた。
所々に散りばめられたスパンコールが煌めく、
黒のスレンダーラインのドレスを身に纏い、
絹糸のような綺麗な黒髪は高く結い上げられていた。
乳白色のうなじが、美しいラインを描いている。
設置されたソファーに座る者、酒を嗜む者など疎らに存在していた。
傍らに、バーカウンターを思わせる空間がある。
そこにはピアノを演奏する女性と同じようなマスクを着け、
清楚な漆黒のスーツを身に纏った男性が
小気味良い音を立ててカクテルシェイカーを振っている。
部屋に入ってくる一人の男がいた。
男の格好は、この空間にふさわしいとは言えなかった。
年季が入ったデニムジャケットと穴空きのジーンズ。
そして右耳に鎮座する大黒天のピアス。
その男は大きな欠伸をしながらカウンターチェアに座った。
「何をお作り致しましょうか?」
物腰柔らかく、マスクの男性はその男に尋ねる。
男は面倒くさそうに受け答えする。
「そうやなぁ・・・いつもテキトーに作ってもろうてるから、
おにいさんのオススメでええわ。
・・・あ、そうや。柑橘系がええなぁ。」
「・・・かしこまりました。」
男はだるそうに頬杖をついて息をつく。
マスクの男性が手際よくナイフで、フレッシュな果物を切っていく。
それを、ぼーっと眺めて、男は再び欠伸をした。
「私も同じものを。」
そう言って男の横に、当然のように着座する一人の若い女。
男はその女の出現に、大きく目を見開いた。
「・・・な、なんや?何か用か?」
戸惑う男に、女はちらりと目を向ける。
女の服装も、男に負けないくらいカジュアルだった。
ノースリーブの深緑色Tシャツに、
カットオフのダメージデニム。
露出した左腕には、黒い蓮のタトゥーが刻まれている。
「一緒に飲もうと思って。」
「・・・お、おお。ええけど・・・」
二人の間に奇妙な空気が生まれる。
男は落ち着かず、ちらちらと女を見る。
女は動じる事なく、静かに居座っていた。
そんな二人の前に、カクテル・グラスが置かれる。
グラスには透明な黄色の液体が注がれていた。
示し合わせたように、二人はそのグラスを手に取って一気に飲み干す。
ぷはっ、と息を吐いて、男はマスクの男性に言葉を投げる。
「おにいさん!これ、ごっつう効くわぁ!目が覚めたで!」
「ありがとうございます。」
マスクの男性は会釈をして応える。
そのカクテルのアルコールが後押ししたのか、男は女に尋ねた。
「・・・で、本当は何かあるんやろ?
あんさんみたいな一流が、俺と飲んでるシチュエーションおかしいで。
気になってしゃーないわ。」
女は静かにグラスをカウンターに置くと、
品定めするような視線を男に送る。
「・・・あんたに興味があってね。」
「・・・へ?
いやいや、告白もおかしいで。俺にモテる要素なんもない。」
「あんたの『力』にね。」
男は目を丸くする。
「俺の・・・『力』?」
「そ。」
「・・・こんな格ゲーみたいな『力』にか?」
「あんたの『力』は役に立つ。・・・実際助けられた。」
「助けられた・・・?」
「あんたの『力』のお陰で仕事を完遂できた。」
男はしばらく考えた後、噴き出して笑う。
「別にあんさんのサポートした覚えはないで。
俺自身の為に使っただけやし。・・・お礼を言いにわざわざ来たんか?」
「まさか。」
女は、ふっ、と笑った。
「私が相手したあの綺麗な年寄りの女。
伝説の『護り屋』だって知ってた?」
「・・・知らんなぁ。」
「そしてあんたが相手した女。その女の後継者。」
「・・・へぇ。」
「まともにやり合って、勝てる相手じゃないと思ったわけ。」
「・・・それは思ったで。正攻法では勝つ気せぇへん。」
「私らの仕事は、正攻法では完遂は難しい。」
「分かるで。」
「あんたの『力』は、あの女たちを脅かすのに充分発揮される。」
「・・・」
「私は手引きをしに来た。」
二人が会話をしている間にカクテル・グラスは下げられ、
ウイスキーが注がれたオールド・ファッションド・グラスが置かれている。
男はそれに手を伸ばすと、少し口に含ませた。
眉間にしわを寄せながら尋ねる。
「・・・手引きって何や?」
「あんた、金が要るんでしょ?」
「・・・・・・」
「仕事せずとも一定の金を手に出来て、住む所も用意してくれる。
あんたの弟の費用も全額負担する。」
男はがたん、と席を立ち、女に詰め寄る。
その形相は今までの雰囲気を絶ち、殺気を纏っていた。
「・・・調べたんか?何のつもりや?」
「・・・悪いけど、他の選択肢は与えない。」
女はその殺気に怯む事無く、男を見据える。
「あんたに拒否権はない。『組織』はあんたの『力』を必要としている。」
「・・・断れば?」
「従わせる。選択肢は与えない。」
互いの間に、目には見えない殺意の火花が散った。
それと共鳴するように、ピアノの展開も激しく繰り広げられる。
緊張の糸が張り詰める中、
マスクの男性は静かにグラスを拭いていた。
男は舌打ちをして、どかっ、とカウンターチェアに座る。
「・・・なんや、強引やな。そんなに俺の『力』が欲しいんか?」
女はグラスに注がれたウイスキーを、軽く飲み干して言う。
「そうだね。」
「えらい必死やな。『力』を借りてまで、
お姐さん方の邪魔をしたいんか?個人的な恨みでもあるんか?」
「・・・さぁねぇ。」
「・・・見返りは金だけか?」
「・・・まだ何か欲しいの?」
「弟の治療。全力で治してくれたら、考える。」
「・・・あのね、話聞いてた?あんたに選択肢は・・・」
「俺は強要されるのが大嫌いや。ましてや束縛も。
何であれ抵抗する。」
「抵抗することも許されないのに?」
「何様や?あんたは神様か?
俺は誰の言いなりにもならん。俺が選択して、俺が決める。
あんたが俺よりも強いかもしれへんけど、どんな手を使っても生きてみせるで。
こう見えても悪知恵は人一倍ある。」
「・・・・・・」
女はじっと男を窺う。
男はその眼差しを、ものともせず受け止める。
しばらく見つめ合った後、女は呆れが入り混じった表情で微笑する。
「おめでたいね。
あんたが考えるよりも、世の中は非情だよ。
絶望を味わった事、ある?」
「ある。」
「・・・ふふ。」
男は真面目に言う。
「知っとるから、ここにいるんやで。」
「・・・あ、そう。」
女は静かに立ち上がる。
「・・・やめた。見込みがあるかと思ったけど・・・
この話は無かったことにして。」
「・・・へ?な、ちょっと!」
男の引き止める声に反応せず、女は歩いていく。
立ち去ろうとするのを、男は慌てて女の片腕を掴んで引き止めた。
女は冷たい目で男を見る。
「・・・何?もう用は済んだけど。」
「ちょっと待ちぃや。そんな簡単に引き下がるんか?
『組織』っちゅーやつは俺が欲しいんやろ?」
「それは言った通りだけど。」
「嫌な予感しかせぇへん。」
その男の言葉に、女の表情は変わる。
「・・・へぇ。どんな?」
「俺に選択肢がないって、どういう意味や?」
「・・・気づいた?」
「気づいたわ。」
「そう。良かった。それならあんたは命拾いしたね。
私がここを去ってしまっていたら・・・あんたの命も弟の命もない。」
「・・・」
「私がこの話を持ちかけた時点で、情報を漏らさない為にも・・・
跡形もなく消し去る。あんたに選択肢はない。」
「・・・絶望やな。」
「そう。絶望。」
男は項垂れる。
「・・・なんや、えらいもんに目をつけられてしもうたな。」
「それくらい、あんたは魅力的よ。」
「俺の『力』が、やろ?」
「ええ。」
「・・・・・・」
女は、片腕を掴む男の手を握る。
「望みなら、抱かれてやってもいいけど。」
握られた手を、男は払った。
「そんなの、いらん。
・・・面倒な事はせんでええ。身体を大事にしぃや。」
「ふふ。紳士気取り?」
「・・・あんさん、ほんまもんの死神やな。」
女はその言葉に、口の端を上げる。
「これでも慈悲深い方だと思うよ。」
「・・・話を詳しく聞くで。」
女は一笑して、テーブルのあるソファー席に向かう。
男の顔に笑みは浮かんでいない。
何の感情も出さずに、女の後を追った。
まるで、死にいざなわれる者のように。
空間には、ピアノの音霊が充満していた。
*
佐川家の居間にある時計の針は9時を指していた。
ちゃぶ台を囲んで向かい合っている三人。
ときが語るのを、ゆりと俊太郎は静かに聞いていた。
「あの時お前に話したように、
その『事件』はじいさんと出逢うきっかけになった。
その当時、私の名は『あちら側』で知れ渡っていて、
私を雇う依頼主の層も広くなっていた。
その中で私を雇った人物が、『佐倉井 要』。
バイオテクノロジーに関する研究所の所長だ。
じいさんはその時、『幼児失踪事件』を調べていた。」
「『幼児失踪事件』・・・?」
「『神隠し』という言葉を知っているだろう?
人が忽然と姿を消す現象。
痕跡も残さず消えた子どもたちは、
『神隠し』に遭ったと、当時騒がれていた。
勿論、警察は『事件』として捜査を進めていた。
じいさんは軌跡を辿り、アリバイ、動機、あらゆる原因を調べた結果、
『佐倉井 要』に辿りついた。
・・・彼は、幼児を使って人体実験をしていた事が判明してね。」
ときが語るにつれて、ゆりと俊太郎の表情は曇っていく。
湯飲みに注がれたお茶は完全に冷え切っていた。
それを一口含み、ときは語りを続ける。
「・・・『あちら側』という、非合法な所だが・・・
その世界にもきちんとルールがある。
正当化は決して出来ないが、『こちら側』が平和でいられるのは
『あちら側』の存在が関係している事も多い。
その事実を、じいさんは知っていた。
自分の道理に反する事は拒絶できる。
『佐倉井 要』のやっていた事は非道だった。
私は『佐倉井 要』から離れ、
じいさんと協力して『佐倉井 要』を追い詰めた。
無事逮捕し、終息を迎えたかに見えた。
・・・だが、それが事の始まりだった。
『佐倉井 要』は逮捕された後、自ら命を絶ってしまったらしい。
止める事が出来なかったのを、じいさんは悔やんでいた。
なぜなら、彼が逮捕された後も『幼児失踪事件』は続いた。
『佐倉井 要』は“窓口”に過ぎなかった事に気づいた。
それからじいさんと長年秘密裏で捜査を続け、
ようやく有力な情報を手に入れた。
『佐倉井 要』が身を置いていた研究所を支援していた財団。
それが『幼児失踪事件』と深く関わっている事が分かった。」
「・・・じゃあ『組織』というのは・・・その財団の事?」
ゆりの問い掛けに、ときは頷く。
「財団の名は『Lotus』。
じいさんは亡くなる直前、
その財団と繋がる児童養護施設を突き止めていたらしい。
長田警部から聞いて知った事実だ。
・・・現在その児童養護施設は、放火に遭って焼き払われている。
じいさんはその中で焼死体として発見された。」
「・・・ちょっと待て。」
俊太郎は片手で口を覆い、低い声をさらに低く響かせる。
「ばあさんは、じいさんの遺体がすり替えられていたと言ったな。
その遺体は一体誰で、何の為に改ざんされた?
しかも改ざんしたのは・・・」
「そう。当時『Lotus』に買収された一部の警察幹部だ。」
ゆりの顔が青ざめる。
「・・・じゃあ今もまだ、その買収された幹部がいるって事?」
「そうだ。国の政界にも。」
「じゃあ、世界にも・・・だな。」
「ああ。」
ゆりと俊太郎は顔を見合わせた。
互いの視線に、計り知れない思いがぶつかり合う。
「それだけこの財団に関する闇の根は深い。
表の活動内容は、医療に関する支援・・・
その頃から今に至っては、
身寄りのない子どもを支援する活動に力を入れているようだ。
世界でもその評価は高い。
『Lotus』は『あちら側』にもその根を深めようとしている。
・・・しかし、それを良く思わない者たちもいてね。
私はその者たちと手を取り合って『Lotus』を調べている。
・・・これだけの年月かけて調べても、
事件の手掛かりが掴めなかった。
と、いうよりも痕跡を残さず、用意周到に事を進めているのだろう。
『Lotus』の目的も見えない。
・・・ようやく手掛かりが掴めると思ったが、
今回の標的も命を奪われた。」
「・・・多岐川の事?」
「彼は『Lotus』に買収されていたと思われる。
今回多岐川の『護り』に就いたのは情報を得るためだ。
・・・彼はある計画の主導者だった。
その計画は現在失墜を導いている。
『Lotus』から命を狙われると考えた私と長田警部は、
協力して多岐川を泳がせた。
その計画とは・・・俊太郎。
お前が斡旋の現場を目の当たりにした『臓器売買』だ。」
「・・・!」
「・・・しかし、それも一環に過ぎない。
『臓器売買』は『Lotus』が手引きをしていた。」
「・・・本城は多岐川と同じように買収されていたのか?」
「いや、恐らく違う。
それは長田警部と裏を取った。
『Lotus』の事を伏せ、多岐川は本城を巧みに動かしていたようだ。」
「・・・一体その『Lotus』は何がしたいんやろう?」
ぽつりと呟く、ゆりの声音は震えている。
「・・・怖い。そこまで命を弄んで・・・何を考えているんやろう?」
その呟きに付け加えるように、俊太郎はときに告げる。
「ばあさん。
俺たちはその『Lotus』が雇っている女とコンタクトを取ろうと思う。
・・・情報が引き出せればいいが。」
ときは二人を見据えて、忠告するように言葉を紡ぐ。
「その女に会って感じたんだが・・・
雇われているというより、『Lotus』に属する者ではないかと。
・・・しかし、どうやって会うのかい?」
「偶然にも、その女が博多にあるスタジオの管理人をしていてさ。
会うなんて思わなかったから、びっくりしたよ。
実は女の方から、ゆりにコンタクトを取ってきた。」
そう言いながら、ちゃぶ台に小さな紙切れを差し出す。
それを見つめて、ときは考え込みながら言う。
「・・・そうか。メイクを見破られたのか。
・・・危険だね。」
居間の暗い空気を吹き飛ばすように、ゆりは断言する。
「私と俊が、この負の連鎖を断ち切る鍵になる。」
「・・・・・・」
しばらく沈黙し、ときは小さく息をつく。
揺るぎない真摯な瞳を向けるゆりに、応えるように告げた。
「・・・私も全力で協力するよ。
そして、私の協力者たちとともに。
これは私の全てだ。お前さんたちだけに背負わせはしない。」
「・・・なぁ、ばあさん。」
二人が見つめ合う中、俊太郎が控えめに尋ねる。
「遺体の身元って・・・誰か分かったのか?」
「・・・それはずっと、長田警部と調べている。」
「・・・何で、『幼児』なんやろう?」
ゆりの疑問に、俊太郎が反応する。
「・・・そうだな。そこが引っかかる。」
「・・・?おばあちゃん、電話が鳴ってる。」
微かに遠くの方から聞こえる携帯電話の着信音。
それはときの部屋から発せられている。
「ちょいと失礼するよ。」
ときはその電話に応対しようと立ち上がり、居間から出て行く。
それを二人は見送った後、互いに目を合わせた。
「・・・驚いたな。」
「・・・うん。」
「・・・本城は・・・本当に可哀そうな奴だったのかもな。」
そう言葉を漏らした俊太郎の表情は、複雑な感情が入り混じっていた。
ゆりは静かに頷き、頭の中である記憶を蘇らせる。
― ・・・おじいちゃん。
温かくて、とても優しい笑顔を浮かべる人だった。
ここに来る度に、遊んでもらった覚えがある。
・・・もし、生きているとしたら・・・
どこで何をしているんやろう?
不思議な感覚。
行方を見通す事が出来ない。
これはおばあちゃんも、もどかしいだろう。
ときは通話を終えたのか、居間に戻ってくる。
その表情は、少し明るく見えた。
再び定位置にゆっくり腰を下ろし、言葉を発する。
「・・・電話は長田警部からだったよ。
どうやら有望な協力者を得たようだ。
遺体の手掛かりを掴む糸口を見つけられたらしい。」
ゆりと俊太郎はそれを聞いて、安堵の息をつく。
「じゃあ・・・分かるのも時間の問題だな。」
「そうだね。」
「おばあちゃん。『Lotus』を良く思わない人たちと協力してるんよね?
その人たちってまさか、『アヤメ』さんと『オウル』さん?」
「ああ。そうだ。・・・そして、もう一人。
『Migratory Bards』の『管理人』だ。」
俊太郎はその名前を耳にして、驚愕する。
「『管理人』が?」
「俊太郎は知っているね。そう。この上ない協力者だ。
私たちがこうして、何事もなく調査を進められるのは
その『管理人』のお陰でもある。」
ときはゆりに、真っ直ぐな眼差しを向ける。
見つめ返してくるその、瞳に灯る炎の光を窺いながら告げた。
「いいかい、ゆり。
『赴くままに時を迎え入れ、道を見極めよ。』
私からはこの言葉が浮かび上がった。
・・・今のお前には光の兆しが見える。
お前の中に眠る『力』が、完全に目覚めようとしている。
だが、油断は決してしない事。
必ず俊太郎と行動を共にするように。いいね?」
気遣う祖母の忠告と言葉を、
ゆりは心身に染み込ませるように頷いた。
「その女に会う前に・・・顔合わせした方がいいだろうね。
長田警部とも、『管理人』とも。
日時は私が取り決めよう。」
*
9月2日、月曜日の朝。
雲一つない快晴を迎える。
暑さは続いており、蝉の声が街中に響き渡っている。
少し汗ばむのを感じながら、俊太郎はアスファルトの上を歩いていた。
周りには、自分と同じように海星高校の制服を着た学生たちが登校している。
夏休みが終わり、今日から二学期が始まる。
「高城!」
後ろからの元気な呼び掛けに、俊太郎は振り向く。
その人物を目にして、笑顔を浮かべた。
「おはよう。ヒロ。」
声の主―ヒロは俊太郎の横に並ぶと、嬉しそうに満面の笑みで話し出す。
「おおっ。何かばり嬉しいっちゃけど!
普通にお前と挨拶してるっ!」
「・・・」
「しかも笑顔で!」
「・・・あのなぁ。俺は何なんだ一体。」
「俺のアイドル!」
「・・・言ってて恥ずかしくないか?」
俊太郎は呆れた様子でヒロに目を向ける。
よく見ると、ヒロの髪の毛が黒色に染まっていた。
「あれ以来連絡してなかったやろ?ばり寂しかったとよ。」
「・・・・・・」
「引くなよ。」
「・・・あの時はすまん。ゆりも悪かったって言っててさ。
今度また必ず行くって伝えておいてくれって。」
「謝らなくていいのに。俺たちまだまだ下手っくそやし。
楽しみが先に延びただけやん?
今度集まる時には、さらに上手くなってるはずやしな。
別のスタジオで予約するから、その時また呼ぶよ。」
“スタジオ”の単語に、俊太郎は内心で反応する。
ヒロは残念そうに言う。
「あのスタジオ良かったのになぁ。結局あのお姐さんとも話せなかったし。」
「・・・」
二人は海星高校の校門に差し掛かる。
残暑の朝日が、登校する生徒たちを照り付けるように降り注ぐ。
俊太郎は眩しそうに目を細めた。
― ・・・あいつは、一体何を考えている?
俊太郎とヒロが教室に行くと、
クラスメイトたちは賑やかに思い思いの話をしていた。
教室の雰囲気に、俊太郎は妙な懐かしさを感じる。
「おっはよ~!」
ヒロはそのクラスメイトたちに向かって挨拶をした。
彼と親しくしている男子生徒たちの一人が、にやにやしながら言い放つ。
「来た!問題児!」
「何だよいきなり?」
「お前髪染めてたやろ~?センセーに見られてたらしいぞ。
さっき担任が生徒指導のセンセーと話しとるの聞いたっちゃんね。」
「なにぃ?!」
「夏休みに羽目を外す奴の典型だな!」
「後で呼び出しくらうぞ。」
「・・・うへぇ~っ」
「ばーか。」
いろいろ言われながらも、
ヒロは男子生徒たちから慕われているようだった。
その様子が見て取れて、俊太郎は小さく笑う。
自分の席に着こうと歩いていくと、ふと視線に気づいた。
その方向に目を向けると、見覚えのある女子生徒と目が合う。
俊太郎は目を見開いた。
その女子生徒は微笑み、口を動かす。
“おはよう”
そう言っているようだった。
それに応えるように、俊太郎は微笑む。
女子生徒― 本城茜はそれを見届け、さらに微笑んだ。
茜は俊太郎から目線を外し、近くの女子クラスメイトと話し出す。
俊太郎は学生鞄を机の上に置き、
その茜の後ろ姿を見つめながら席に着いた。
― ・・・茜、少し痩せたな。
数か月ぶりに会う少女の背中は、とても細く小さく見えた。
しかし、その凛とした表情を目にして俊太郎は安堵する。
― ・・・あいつなりに、けじめをつけたんだろうな。
学生鞄の口を開けながら、
心の奥底に宿るものを改めて感じた。
― あいつは、やっと自分の足で歩き出した。
もう、頼りないあの頃とは違う。
一方、ゆりは中央区天神にある、ときの店・『八卦』にいた。
ときから代理を頼まれていたのだ。
今まで土曜日しか務めた事がなく、平日に就くのは初めてだった。
事前に本屋の仕事は休みを取っていた。
店長の蔵野恵吾は休日の都合にとても寛大で、
アルバイトたちからも慕われている。
その分、蔵野に無理をさせているので、ゆりとしては心が痛い。
自分の事情を、あの食事会の時に包み隠さず話した為だと感じた。
それ以来、蔵野は特に気にかけてくれているのが分かる
― ・・・いつか、彼に恩返しをしたい。
俊との事も、背中を押してくれて・・・
彼のお陰で、今の私がいる。
土曜日だけの易者。
代理をするようになって、ゆりにはわずかだが顧客がついた。
それが大きな心の支えと自信に繋がっている。
ゆりは改めて、ときに詳しく『あちら側』の『易者』について話を聞いた。
一般的にいる易者は勿論、『あちら側』に無関係である。
『あちら側』で『易者』と名乗る者は、
主に『あちら側』で仕事をする者たちに、導きの占術を施す。
仕事に加担する事なく、贔屓をするわけでなく、
ただ、未来を見通して言葉を紡ぐ。
ときはそれと共に、『護り屋』としての顔も持っている。
複数の『名前』を持つのは可能で、仕事の幅も増える為名乗る者は多いが、
それに伴う働きをする者はほんの一握りだという。
― おばあちゃんのように、
私は幾つもの顔を持つような器用な事は出来ないと思う。
秘術を身に付けるのは、自分の護身の為と伝承する為だ。
静かな空間の中、ゆりは椅子に腰を下ろして思いふける。
― ・・・この世の中・・・
“真理とは何か、見極めが難しくなっている。
自分勝手な善悪の判断を下して行動するのは、どうだろうか。
・・・かといって、動かなければ何も始まらない。
自分の『力』を信じて、貫く。
そこには・・・きっと。
こんこんこん。
店の出入り口ドアから、控えめにノック音が響く。
ゆりは息を整え、それに応えた。
「どうぞ。」
出入り口ドアがゆっくり開き、
そこから顔を覗かせたのは制服を身に纏った少女。
その制服の紋章と記憶に新しいその人物に、ゆりは笑顔で迎えた。
「お久しぶりですね、本城さん。」
「・・・あれ?ゆりさんだ!嬉しい!
時間が出来たのでおばあさんに伝言してもらおうと
寄ったのですが・・・会えると思わなかった!」
制服の少女― 本城茜はゆりの顔を見て、とても嬉しそうに笑う。
「不思議ですね!ゆりさんの顔を見たらなぜか安心する・・・」
「ふふ。そんな風に思って頂けて嬉しいです。
さぁ、どうぞお座りください。」
白いテーブルクロスを被せた机を挟んで、
ゆりと向かい合うように茜は椅子に腰を下ろした。
きらきらした瞳で見つめてくる少女を、ゆりは優しい眼差しで見守る。
「あの、どうしてもゆりさんにご報告したかったんです。
・・・私、実は幼い頃に決められたお相手の方がいて・・・
その方と先月婚約致しました。」
事実を知っていたが、ゆりは驚いたように目を見開く。
「そうでしたか・・・!おめでとうございます!」
「うふふ。ありがとうございます。
・・・ゆりさんに相談した男の子への気持ちは・・・
きちんと自分なりに決別しました。
苦しかったけど・・・その苦しみも、その方が優しく包んでくれて。
これから少しずつ、その方の事を見つめていこうと思っています。」
よどまず発言する茜の一言一句は、
ゆりの心に染み込んでいく。
「・・・そのご報告がいただけて、とても嬉しいです。」
「はい!私もご報告できて嬉しい!」
曇りのない満面の笑みだった。
そのお陰で、よどんでいた心が綺麗に澄んでいく。
ずっと無為の闇に睨まれているような感覚だった為、
ゆりにとってこの茜との再会は、大きな励みになった。
「・・・末永くお幸せに。」
「はい・・・!」
お互いに笑う。
二人の笑顔は、終始絶える事はなかった。
夕方の午後5時頃。
佐川家には俊太郎だけが居た。
学校は始業式だった為、午前中で終了し真っ直ぐ帰宅していた。
“家事は率先して行う”という夏休みの習慣が残っていて、
昼御飯を食べ終えた後すぐに洗濯、掃除に取り掛かった。
それが終わると部屋で少し昼寝をして、二時間程勉強をする。
今は台所に立って、夕御飯の用意をしていた。
まな板を引き、小振りのサツマイモを三徳包丁で賽の目に切っている。
「ただいま~。」
玄関の方からゆりの声が響いた。
俊太郎はそれに反応し、
一旦切るのを中断して軽く手を洗うと居間に歩いていく。
「おかえり。」
居間に現れたゆりを、俊太郎は笑顔で迎える。
ゆりはエプロン姿の俊太郎を見て、思わず微笑んだ。
「・・・ん?どうした?」
「・・・ううん。家事してくれてありがとう。
でも、これからは学校があるんやから無理しなくていいっちゃけんね。」
「無理はしていない。結構好きだな、家事するの。」
「ふふ。そうやね。全然嫌がっていないよね。」
「今夜はサツマイモの炊き込み御飯にしようと思ってさ。」
「わっ。美味しそう。」
「美味しいぞ。
・・・ほら、手を洗って着替えて来いよ。
ゆっくりくつろいでいてくれ。」
「は~い。」
ゆりは嬉しそうに居間から出て行く。
それを優しい眼差しで見送ると、俊太郎は台所に戻ろうとした。
トゥルルル・・・
居間に置いてある固定電話が鳴り響く。
ディスプレイに表示された電話番号の羅列を見て、
俊太郎は受話器を取る。
「・・・ばあさんか?お疲れさん。」
《ゆりは帰ってきているかい?》
「ああ。今帰ってきたところだ。」
《・・・今から支度をしておくれ。『管理人』が会ってくれるそうだ。》
『管理人』の言葉に、俊太郎は背筋を伸ばす。
「・・・そうか。分かった。ゆりに伝えておく。」
《どのくらいで来れそうかい?》
「・・・逆に時間を指定してくれると助かる。
支度が終わり次第、俺の『力』ですぐに行けるから。
場所は把握している。」
《・・・そうか。それでは19時でお願いするよ。》
「・・・ばあさんは、今そっちにいるんだな?」
《ああ。こちらに着いたら、『番人』に話し掛けておくれ。
会合する部屋を案内してくれる。》
「りょーかい。」
通話が切れるのを待ち、俊太郎は受話器を置いた。
エプロンを脱いで折りたたみ、それをちゃぶ台に乗せると
居間から顔を出してゆりに呼び掛ける。
「ゆりー。ちょっと来てくれ。」
しばらくしてから、ゆりは二階から下りてくる。
「・・・電話、おばあちゃんから?」
「ああ。今、ばあさんは『Migratory Bards』にいる。
・・・『管理人』が会ってくれるそうだ。支度をしたらすぐに行くぞ。」
「・・・うん。分かった。」
ゆりの表情が引き締まる。
その様子を、俊太郎は静かに見つめた。
「・・・ゆり。
『あちら側』の住人じゃない者が、
『Migratory Bards』の場所を知る事は禁じられている。
俺の『力』を使って、一気に行く。」
「・・・うん。」
「・・・『管理人』とは久しぶりに会うな・・・」
「・・・どんな人?」
「・・・難しいな。何て言ったらいいのか・・・
ただ、その人には逆らえない雰囲気がある。
威圧するわけじゃなく、支配するわけでもない、
その人に取り巻く雰囲気がそうさせるような・・・
とにかく、不思議な人だ。
『結女衣』とは真逆かもしれない。」
ゆりは、俊太郎が紡ぐ人物像を思い浮かべながら頷く。
「いろいろ話を聞いてくれそうやね。」
「・・・俺は少し苦手だ。」
俊太郎は頭にその人物との記憶を思い浮かべながら呟く。
「出来れば関わりたくないというか。
この一件がなかったらずっと会わなかったと思うし。
・・・決して悪い奴だからとかじゃなくて、何となく、な。
ただ、俺が『あちら側』を知り、生きてこられたのは
『管理人』のお陰だ。恩を感じている。」
― ・・・どんな人だろう・・・
それを聞いてゆりが考え込んでいると、
俊太郎はそれを遮るように言う。
「何か食べてから行った方がいいかもな。長くなりそうだ。」
「・・・うーん。緊張してあまり食欲ないかも。」
「少しだけでも入れておいた方がいい。
・・・ミニクリームパンあるぞ。」
「・・・ありがと。」
俊太郎が水屋から、市販の5個入りミニクリームパンの袋を持ってくる。
袋を開け、互いに一個ずつ取って口に頬張った。
優しい甘さが口いっぱいに広がる。
緊張していた糸が、少しほぐれるような気がした。
*
温もりを感じていた俊太郎の手は、その温度を下げていく。
自分の手からそれを感じ、ゆりは閉じていたまぶたをゆっくり上げた。
いつもの赤縁眼鏡はしておらず、コンタクトにしている。
服装は白いシャツワンピース。
その下にはジーンズを履いている。
左右耳元の髪を後ろでまとめ、後ろの髪は背中辺りにさらりと流れる。
俊太郎の服装は、七分袖の淡い青のシャツに黒のテーパードパンツ。
二人が目を向ける先には、大きな両開きの扉。
扉枠には銀細工が施され、厳かさを醸し出している。
その扉の先に建つのは、近代的な施設。
周りにまとわりつく鬱蒼とした森は、アンバランスで違和感を覚える。
ここがどこにあるのか、全く見当がつかない。
異世界のような彩りを放つ景色に、ゆりは圧倒された。
その施設の入り口ともいえる厳かな両開きの扉の前に、
一つの影が佇んでいた。
その影は、ゆりよりも一回り小さい。
顔には、アシンメトリーのヴェネツィアンマスク。
闇夜に溶けそうな漆黒の髪はセミロングで、
黒いフード付きのパーカーには骸骨の顔が浮かんでいる。
そのパーカーはかなり大きなサイズで、
影の指先まで覆い被さっていた。
真っ赤なラインが入ったスニーカーを履き、
細く白い足が棒のように見える。
― ・・・子ども・・・?
その影を観察し、ゆりはそう思った。
俊太郎は、まるで旧友に会ったかのように声を掛ける。
「よお、『烏』。久しぶりだな。」
『烏』と呼ばれたその影は、しばらく沈黙して俊太郎に顔を向ける。
記憶を手繰り寄せる時間が過ぎた後、
『烏』は思い出したように声を上げた。
「・・・まさか『瞬』か?
やけにでかくなったな!何だお前、その無駄な身長は。
しばらく見なかったから、くたばったのかと思っていたぞ。」
「ははっ、相変わらずひどい言い草だな。」
「声まで無駄に低くなりやがって・・・」
「声変わりしたんだよ。」
― ・・・女の子、かな・・・?
ゆりがそう思いながら行方を見守っていると、
『烏』はゆりの方に顔を向ける。
「お前は誰だ?」
その問い掛けに、ゆりは内心戸惑う。
俊太郎が助け舟を出すように告げた。
「俺の連れだ。訳あって同伴で『管理人』に会いに来た。」
「『管理人』に?・・・もしかして、お前たちか?
『劉 玉玲』の言っていた奴等とは。」
「・・・そうだ。」
「ふむふむ・・・それならば儂は何も言えんな。許可する。入れ。」
『烏』は右腕を高く上げる。
それでもパーカーの袖からは指先さえ出ない。
それを合図に、厳かな扉が古びた音を立てて開いていく。
完全に扉が開くと、俊太郎はその先に向かって歩き出した。
ゆりもその後を追うようについていく。
眺めるように見送りながら、『烏』は名残惜しそうに言う。
「おい、『瞬』。遊んでいけよ。」
俊太郎は立ち止まり、『烏』の方に目を向けて小さく笑った。
「悪いな。また今度にする。」
「・・・つまらん。無駄に身長だけでかくなりやがって。」
「・・・お前は、口の悪さも見た目も全然変わらないなぁ。」
「うるさい。」
ぶつぶつ呟きながら、『烏』はそっぽを向く。
扉が再びその口を固く閉ざした後、俊太郎はゆりに声を掛けた。
「あの『烏』って奴、口は悪いけど良い奴なんだ。
この、『Migratory Bards』の『番人』。
俺がここに初めて訪れた時に、先代の『番人』と世代交代した。
よく暇つぶしに、あいつと森で遊んでいたな。
・・・遊ぶといっても命がけの、な。
あいつはああ見えて強い。『番人』の名は伊達じゃない。
遊びがてら、格闘術を教えてもらっていた。
・・・だから実は俺も格闘できる。」
「そうなんやね・・・知らなかった。」
「ばあさんやゆりみたいに鍛錬してないから、及ばないけど。
格闘術は『力』と組み合わせて活用していた。」
新事実のオンパレードに、ゆりは驚きを隠せなかった。
― ・・・俊が『護り屋』として名高い理由が、やっと分かった気がする。
「・・・行こうか。」
「・・・うん。」
俊太郎は立ち止まっていた足を動かす。
促されるままに、ゆりも並んで歩き出した。
二人の前には、広い廊下が真っ直ぐに続いている。
等間隔に灯された淡い照明は、丸い透明の硝子に覆われている。
しばらく歩いていると壁に突き当たり、
右と左に行く先が分かれている。
「左に進めば、“ゲストルーム”と呼ばれる場所に行ける。
情報交換や仕事の依頼を受ける場としても使われる。
ラウンジみたいな所だな。」
【同伴者に必要ない情報を漏らすな。】
がつんと、頭の中に響く声。
直接脳に語り掛けられたような感覚に、ゆりは驚愕した。
― ・・・えっ?何、これ・・・?
俊太郎は慣れているのか、普通に受け答えをする。
「すまん。悪かった。
同伴してここに来るのは初めてで、知らなかった。」
【分かればいい。
『管理人』と『劉 玉玲』は“Sanctuary(サンクチュアリ―)”にいる。
行き方分かるよな?】
「ああ。」
【もし迷ったら話し掛けろ。
廊下なら、儂の『力』を使用できる権限を与えられている。】
声が途絶えると、ゆりは驚きの色を隠せず俊太郎を見つめる。
俊太郎はその様子を、予想していたかのように笑う。
「・・・驚いたみたいだな。」
ゆりは喋っていいかも分からず、無言で何度も頷く。
「あいつは『力』で、
この『Migratory Bards』に訪れた者たちの動向を監視している。
『番人』と呼ばれる本当の所以だ。
・・・『烏』の『力』の事を知っている者は少ないけどな。」
【おい、『瞬』。喋りすぎだぞ。】
「お前の素晴らしい『力』があるから、
この場所のルールが成り立っているんだろ。褒めているんだ。」
【・・・無駄に丸くなりやがって・・・】
声の主は悪態をついているが、
褒められて嬉しい気持ちが伝わってくるのが不思議だった。
【いいか。もうそれ以上余計な事を喋ったら許さんからな。
いくら『管理人』の客でも、ここから追い出す。】
「ああ。すまない。もう言わないから許してくれ。」
【・・・無駄に大人になりやがって・・・】
俊太郎と『烏』のやり取りに、ゆりは少しながら気が緩んで小さく笑う。
俊太郎はゆりに目を向け、片目を瞑る。
“行くぞ。”
そう言っているような気がした。
俊太郎は再び廊下を歩き出す。
その後ろをついていくように、
ゆりは周りの様子を窺いながら歩いていった。
迷路のような廊下をしばらく歩いた。
所々ドアが目に入ったが、
俊太郎はそれに目もくれず、廊下をひたすら歩いていく。
長い道のりに、ゆりは少し不安を覚えながらも黙って後ろをついていった。
とあるドアに差し掛かると、俊太郎はようやく足を止める。
そのドアは、先程見た数あるドアと何ら変わりはない。
俊太郎は軽く拳を作って、ドアをノックする。
しばらくして、部屋の中から応答の声が聞こえた。
《・・・入りなさい。》
その声は、落ち着いた優しい響きを持っている。
ゆりはそれを聞き入れた時、記憶に引っかかるものを感じた。
俊太郎はドアのレバーハンドルに手を掛け、ゆっくり開ける。
その部屋には窓がない。
50畳程ある広い空間で、床は黒の大理石で敷き詰められている。
家具もなく生活感のない、その部屋の真ん中に置かれた
コの字の重厚な本革ソファーとガラスのテーブル。
そのソファーに腰を下ろしていた二人の男女は、
ゆりと俊太郎を迎えるように立ち上がる。
見事な装飾が施されたチャイナドレスに身を包んだ綺麗な淑女と、
真っ白なスーツを身に纏う男性。
顔の上半分を覆うヴェネツィアンマスクは、鷹が羽ばたいているように見える。
「よく来てくれた。」
口元を緩ませ歓迎の言葉を発するその声音に、
ゆりは再び記憶の引っかかりを強く感じ、首を傾げた。
― ・・・この声。
何だろう、どこかで聞いた覚えがある。
それに、顔はマスクで隠れているけど・・・身体の輪郭が・・・
「さぁ、こちらに座りなさい。」
優雅に手をソファーに向けて促す男性。
俊太郎は素直にソファーに歩いていき、軽く会釈をして腰を下ろす。
ゆりもそれに従い、俊太郎の隣に座る。
それを見届けると、男性と淑女はガラスのテーブルを挟んで
俊太郎とゆりに向かい合うように腰を下ろした。
「『瞬』。君と会うのは、しばらくだね。」
「・・・ご無沙汰してたな。」
ゆりは、はっとする。
記憶の引っかかりが確信に変わった。
― ・・・嘘。
まさか、この『管理人』って・・・!
夜空に浮かぶ、儚い夢のような瞬き。
星たちは無限の可能性を秘め、暗闇に佇む。
To be continued・・・




